大洗喜びの集い


野口修兄

(大洗喜びの集い、2002/03/02)

引用聖句:ルカの福音書2章25節-32節
25そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。
26また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。
27彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。
28すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
29「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
30私の目があなたの御救いを見たからです。
31御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
32異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」

先程インターネットの話が出ましたけども、最近兄弟方のメッセージテープからの聞き起こしが投稿されてるんですね。その中で、「この地上におけるクリスチャンの立場」っていうお話があり、私も読ませていただいて、本当に恵まれたんですけども、要するに、「私たちクリスチャンは、この地上にあっては寄留者であります。旅人でありますから、本当にそのことをはっきり自覚してないといけない。」というメッセージです。

「旅人であるということは、その地にあってはよそ者である。絶対に居心地がいいはずがない。」そういう主旨なんですよね。
「だからクリスチャンが、この世の中に『クリスチャン』として生きていてですね、あっちこっちぶつかったり、のけ者にされたり阻害されたり、居心地の悪い思いをするのは当然だ。それはあなたがクリスチャンである証拠だ。」っていうことで、それを読みまして、本当にもう恵まれましてですね、さすがに天国に目を向けてる兄弟の言われることは違うなあと思って、私自身の「この世の中で居心地を良くしよう、良くしよう。」という努力を、日々一生懸命している者にとっては、とっても心新たにさせられるメッセ―ジでした。

本当に私たちは、天国に向けて毎日毎日一歩一歩の歩みを続けてるんだと思うんですね。で、その旅人がどこに向かって行くか旅をしているのか、それを知るということは旅人にとって、ものすごく大切なことですよね。それを私たちは聖書から知ることができました。
最近私がとっても気がつかされた問題っていうのは、「いつたどり着くか」っていう問題なんですね。特に昨年の夏以来『同時多発テロ』とか、いろんなことがあって以来、多くの兄弟たちが『再臨』についてのメッセージをされるようになりましたけども、私もそういう点から見ると、「私たち旅人は天国に行く。行き先は分かった!でもいつ行くのか。旅の終わりはいったい、いつのなるのか?」
それが実は非常にさし迫っている・・・。ということを気がつかされるようになったというわけなんですよね。

数年前の元旦に、ベック兄が「再臨を待ち望む生活」というメッセージをされたことがあるんですけども、私そのメッセージを聞いた時、本当にもう、目からうろこが落ちる思いがしました。
「なるほど!今年もしかしたらイエス様来るかもしれない。」・・・そのような思いで生きなくちゃいけないんだ、ということを本当に思わされたんですけども、私たち日々、「いつイエス様が来られるのか」っていうことを待ち望んでいるかどうか、すなわち私たちが「いったい、いつ目的地・旅の終点にたどり着くのか」ということに、興味を持っているということが、旅人の大きな一つの特徴ではないかと思うんですね。
もしそれがなくなったらですね、それは「旅人」ではなくて「放浪者」になってしまいます。

今読んでいただいた箇所は、とても不思議な箇所です。もう一度一緒にお読みしたいんですけども・・・

ルカの福音書2:25-26
25そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。
26また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。

というふうに書かれています。シメオンっていう方は、イエス様が生まれたこの時に、もうかなりなご高齢の方だったということが分かりますけども、この方は人類の史上、歴史の中で非常に特別な方だっていうことが、この短い文章で分かります。イエス様が十字架にかかったのを見た人っていうのは、たくさんいるんですよ。当時のイスラエルでですね。
でもイエス様がお生まれになったことに立ち会った、もしくは気がついた人っていうのはごく一握りです。「荒野にいた羊飼い」「三人の博士たち」ね。この「シメオン」と、後に出てくる「アンナ」っていう預言者も、この二人もそうですけども、本当に少ない、ごく限られた一握りの、そのうちの一人だったんですね。しかもこの人は「あなたは、生きている間にイエス様に会う」という預言をもらっていたって言うんですよ。

そんな人、人類の中にこの人しかいないんです。この人はこの預言を、いったいいつ主から受けたのか全然分かりません。若い頃だったのかも知れませんよね。でも老年になるまで待ち続けていた、ということが分かりますでしょう?で、この人はもう、「『イエス様を見る』と、私は神から告げられたから、それまでは絶対に死ねないんだ」と、もうそれだけが最後の最後の望みとして生きてきました。ですから彼はイエス様に出会った時に、「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり安らかに去らせてくださいます。」というふうに告白したんですよね。

私たちも、自分の様々な問題や、いろいろな試練や、人生の経験を通して、イエス様に出会った時に、おそらくこのシメオンと似たような思いを持ったのではないでしょうか。
「とうとうイエス様に出会うことができたから、本当に心から感謝である。」というふうに言うことができたのではないかと思うんです。

ただこの箇所が、もう一つ私たちに教えてることっていうのは、シメオンが「あなたは生きてるうちにイエス様に会う」という、特別な個人的な預言をいただいたのと同じように、私たちも、別な預言を実は与えられてるんですね。それは『再臨』についての預言です。
聖書の中には、イエス様が2度来る。1度目は2,000年前。そしてもう1度。この世の終わりにもう1度来る。ということについてはっきり書かれています。

イエス様が2,000年前に来られたことについての預言っていうのは、旧約聖書の中にたくさん、100箇所以上出てくるというふうに言われていますけれども、イエス様がこの世の終わりに、もう1度いらっしゃることについては、その3倍以上の量の預言が聖書の中にあると言われています。
イエス様がお生まれになったこと・・・

(テープ切)

・・・メシヤが早く来るように、イスラエルの人たちは何千年も待ち続けて来たのだけれども、それを知らされたのはこのシメオン一人だけだったんですよね。でもシメオンは、イエス様にお会いになった時にこう言ってるんです。
「御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」

このイエス様は「イスラエルの救い主」だけではなくて、「異邦人のための救い主でもある」というふうに、ユダヤ人であるシメオンが自ら言ったんですよね。旧約聖書の中にはどこにも、「異邦人が救われる」ということについての約束はないんですよね。だからイスラエルの人たちは、「世の中のユダヤ人以外の人は、みんな神様に滅ぼされちゃうけども、ユダヤ人だけは『特別な民』だから神様に救われる。」、そう信じてるんです。
でもその中にあってシメオンは、「異邦人を照らす啓示の光」だって、イエス様のことを言いました。

どうしてシメオンはそのように言うことができたのか、誰にも分かりません。けどもそれこそ主が言わせたこと、他ならないと思います。本当にイエス様は決して、人類一人と言えどもえこひいきをしないで、そのご自分の救いの中に入れてくださっておられるんです。

最近『同時多発テロ』以降、もう世界情勢は非常に、大変な激動の時をくぐってきましたね。アフガニスタン情勢はちょっと落ち着いたかのように見えました。そしたら次は何始まりそうかって言ったら、ブッシュ大統領は、今度はいくつかの、イラクとか幾つかの国を名指しして、「悪の枢軸」と決め付けましたでしょ?
要するにもう徹底的に対決をする・・・そういう姿勢を明らかにしちゃってます。なんでなのでしょうか。アメリカという国は。実は本当はユダヤの国なんですね。アメリカを動かしてるのは、実はユダヤ人です。

キッシンジャーっていう昔の大統領補佐官がいましたけれども、この人は世界情勢を3分で語れるというふうに言った、非常に外交の天才だった人ですけども、この人が数週間前に読売新聞のインタビューの中で、長い記事が載ってたんですけどもね、その中で「湾岸戦争でアメリカが、イラクが白旗を挙げた時に撤退しちゃったのは失敗だった」と。
「もう完全に滅ぼし尽くすまで攻めておかなかったのが、今のあの混乱に結びついてるんだ」みたいなことを言ってますよね。
その中ではブッシュ大統領が「悪の枢軸」と決めつけた国々は、その時代には「ならず者国家」というふうに言われていましたね、言い方を変えただけで、悪く言ってるだけですね。もとからアメリカはそういう姿勢なんです。

でもこのキッシンジャーさんはユダヤ人ですよ。アメリカを動かしてるのはユダヤ人たちなんです。『同時多発テロ』の事件で世界貿易センターに旅客機が突っ込みましたでしょ。私、兄弟のお話からはじめて知りましたけども、別にあれはニューヨークの富の象徴だからあそこにぶつけたんじゃないんです。
あの貿易センターを持ってるのは、ロックフェラー財団ですけども、彼はユダヤ人ですよね。要するに「ユダヤの象徴」にぶつけた、そういうことなんです。
したがって、もうこの戦いはアメリカ対アフガニスタンやテロリストではなくって、もうはっきりユダヤ対アラブの戦いなんですよね。その戦いの場を世界に移したというだけの話なんです。
「世界の動き」っていうのは、全て見えないところで、実はイスラエルとその他の国々との戦いの中に巻き込まれてしまっています。そのことがこのところ急激に、世界史の表に現われてきているっていうのが現代の現実なんですよね。

マタイの福音書24:1-3
1イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。
2そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」
3イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

イエス様はここで、これからどんなことがこの世の終わりに向かって起こるのか、ということについてお話されているんです。
ちょっと長いから読みませんけども、ここの24章全部読みますと、本当に恐ろしいことがたくさん出てきます。けれども、これらのことは現実になりかかっているんです。

「戦争が起こる」っていうようなことが書いてありますけども、私たちアフガニスタンで戦争しようが、イラクで戦争しようが、なんかちょっと遠い世界の話のように思いますよね。
「日本人は、いったいいくら出すんだ」とかね、「自衛隊は行くのか行かないのか」せいぜいそのくらいでしょ?
でもイスラエルの今の国は、どうなってるかって言ったら、毎週のように爆弾事件ですよね。つい数週間前も、結婚式場で爆弾が爆発したって、もう考えられないですよ。東京のホテルのどっかで、結婚式のまっ最中に爆弾が爆発したって言ったらね、それトップ記事になりますよね。
そんなのが日常茶飯事に今起こっている状態ですから、おそらくイスラエル人たちは、マタイの福音書24章読めばですね、「ああ今、もうこの時だ」。きっと思うに違いないんですよね。

そういうふうな思いを持っていた時に、ちょうど一冊の本を読ませていただきまして、ますますびっくりしました。それはこのイエス様の、マタイの福音書24章を中心とした「この世の終わりについての聖書の預言」についての本だったんですけれども、それは先ほどご紹介あった方が、アメリカから何年か前に、ある兄弟に持ってきてくださった本が、御代田にあったのを見つけて、ちょっと貸してほしいって、夢中になって読んでしまったんですけども。
『私たちは終わりの時代に生きているのだろうか』という題名の本なんですね。この世の終わりの時代っていうのは、いったいどういうしるしを持っているのかっていうことについて、本当に聖書の中をよく調べて書かれています。

聖書は、イスラエルの国で書かれた本ですから、当然イスラエルが中心になる、というふうな予想ができますけども、でも現実に今世界がイスラエル・ユダヤを中心として、ユダヤ関連問題で揺れ動いてるっていうことからしても、聖書の持つ預言の力っていうものについて、本当に恐ろしさを感じます。
イエス様をエルサレムにお連れした弟子たちは、宮を見せて、イエス様がどんなにか「まあ素晴らしいソロモンの建てた宮ですね!」っていうふうにおっしゃるかと思って、お連れしたんじゃないかと思うんですね。

私たちも観光旅行とか行くと、立派な建物見れば感激して見せますでしょ。でもイエス様はなんておっしゃたかといいますと、「立派な建て物ですね」とはおっしゃらないで、「ここでは石が崩されずに積まれたまま残ることは決してありません。」とおっしゃったんですね。「もうこれ、バラバラになります」というふうに言ったのです。

イスラエルの民族が何十年もかけて、ダビデとソロモンが一所懸命建てた立派な神殿を指して、そんなことを言ったもんですから、人々はびっくりしてしまいました。でもこれは現実のことになったんですね。西暦70年にですね、ローマ軍が攻めて来た時に神殿はバラバラにされてしまったんです。
その時にですね、神殿の地下に黄金や財宝がたくさんあることが分かったんですけども、それを全部回収するためにローマ軍が何をやったかって言ったら、「石を全部、取り除けた」んです。そして宝物を回収したんですよね、

「ここでは石が崩されずに積まれたまま残ることは決してありません。」イエス様の言った言葉の通りに、なっちゃったんです。

マタイの福音書24:4-14
4そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
5わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。
6また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
7民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。
8しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。
9そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。
10また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。
11また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。
12不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。
13しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
14この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。

「にせ預言者が来る」あるいは「惑わしが起こる」っていうことが言われましたけども、この2,000年間の「キリスト教の歩み」を見てきますと、もう完全に「惑わされちゃった歩み」としか言えませんよね。
「キリスト教会」って名のもとに、様々のだれもが見て明らかな悪を、たくさん行なってきましたし、クリスチャンたちの世界は、もう多くの細かい宗派やなんかに分断されちゃって、お互いに話をすることすら困難なくらいに混乱させられてしまっています。

本当に、この「惑わし」がこの世界を支配しています。クリスチャンの世界であっても、惑わそうというふうに働いてることがよく分かります。
戦争もこれまで15,000以上の戦争が、歴史の中に記録されているんけれども、おそらく記録されていない戦争や紛争を合わせれば、ものすごい数になるんではないかと思います。
でもイエス様がおっしゃってるのは、「そういうこと聞いても あわてないようにしなさい。」というふうに言われていることなんですね。「まだ終わりではないからだ」っていうことなんです。

ここで7節に、「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」っていうふうに書かれているんですけども、私たちはこれを読んでも「そういう戦争が起こるのかな」ぐらいにしか思えませんけども、どうもユダヤの人たちにとっては、この「民族は民族に、国は国に敵対し」っていう言い回しは、特別な意味を持っているんですって。
歴代誌とか、旧約聖書の中に何箇所かこの表現が出てくるんですけども、これはある特別な戦争を意味していて、「ある小さな民族紛争が、あっという間に世界大戦争に広がる」というものであるということが、はっきりこの表現を見たら、そういう戦争だということが分かるんだそうです。

今までのこの人類の歴史の中で、それに当てはまる戦争っていうのは、今のところ一つしかないんです。『第一次世界大戦』なんですよね。
オーストリアの皇太子がセルビア人の過激派に殺されて、暗殺されて、オーストリア対セルビアの民族紛争があっという間に世界を巻き込む大戦争になってしまったんですね、
ですからその第一次世界大戦が始まったときに、多くのクリスチャンたちは、「この時が来た」っていうふうに思ったんだそうです。

聖書の中には、「イエス様が来られる前に、全ての地上における預言が成就されなければならない。」、そして長い間多くの預言は、成就されたんですけども、成就されずに残っていた大きな預言が一つあったんですね。
それは「イスラエルが復国されること、建て直されること」だったんです。

今私たちは、『イスラエル』という国があるのを知っていますけれども、このイスラエルという国ができたのは1948年のことです。したがって1947年までは『イスラエル』という国は、この世には存在しなかったんです。
イエス様が生まれてから、その時にはユダヤの国はあったんです。その後、イスラエルの国は滅ぼされてしまったんです。
西暦135年に、ローマ軍が「イスラエルの中で起きた氾濫を鎮圧する」という名目で攻め寄せてきて、イスラエルの国を完全にバラバラにしてしまいました。
そして「もしこのユダヤの地に、ユダヤ人がいるのを見たら、裁判なしに殺していい」という法律を作ったんですね。そしたらもう逃げ出す以外ないでしょ。

それでその時以来ユダヤの地には、ユダヤ人は一人もいなくなってしまった。それが、1948年にイスラエルの国が再建されたんですよね。
1,800年間その民族は言葉を失わず、文化を失わず、希望を失わなかったんですよね。とても信じ難いことです。
私、高校生の時にアメリカにいたのですけども、アメリカで高校に通って、タイプライターのクラスっていうのがあったんですね。毎日、朝1時間タイプライターを練習するコースがあったんですけども、ある時自分が仕上げたタイプの提出物を、先生の机の上にポンと置こうとしたら、その下に1枚のもうすでに出されたレポートがあたんですけども、見たらそこの名前の所に、日本人の名前が書いてあったんですよね。

このクラスに来て何ヶ月かたってましたけども、このクラスに日本人がいると、僕、一回も思ったことがなかったんですよ。
ですから先生に「これ誰ですか?」って聞いたら、「あの女の子だよ」っていうんですね。日本人に見えないんです!全然髪の毛もブロンドですし、目も緑ですし。その人のところに行って挨拶して、いろいろ話を聞いたら、日系3世だったんですよ。

そのことから親しくなって、お呼ばれしていったりしたことがあるんですけれど、お父さんはどこから見ても日本人の格好してます。
でも2世です。日本語はちょっとおぼつかないですね。単語は幾つかわかります。でも僕と日本語でしゃべることはできないんですよね。おじいさんという方は、もう当時亡くなられてる方ですけれど、おじいさん・おばあさんは日系1世です。日本から新天地を求めて、アメリカに渡って行って、苦労に苦労を重ねた第一世代ですよね。ですから彼らはもう純粋な日本人。
でも2世のお父さんという方は、もう日本語が危なくなってて、奥様はスウェーデン系の白人でしたから、3世は混血です。3世代目にしてもうすでに言葉を失い文化を失い、見た目形も失っている。たぶん日本人が日本から追い出されたら、もう3世代で『日本』っていう文化はなくなってしまいます。

1,800年間!1世代20〜30年として、90世代の間、言葉も文化も希望も失なわなかった。そんな民族他にないんですよ。
聖書の時代に大活躍した文明っていうのは、たくさんあります。『バビロン』なんていうのは、旧約聖書の中でイスラエル人を苦しめる民族ですよね。『バビロン帝国』っていうのがありますけども、今は存在しないですよね。
「私は、バビロン人の末えいです」なんていう人はいないんですよ。『ヒッタイト文明』とかね、『アッシリヤ文明』とかね。
『ヒッタイト文明』なんてのは、その存在すらも疑われていますよね。「ヒッタイト文明が存在した」っていう唯一の根拠は、聖書だけですからね。他に何の痕跡も残っていない。

『ユダヤ文化』だけは残ったんです。なぜですか?もうこれはユダヤ人の「特別」なせいとかじゃないですね。「主が守られた」としか言えないでしょう。
それが1948年に国を再建したんですよね。でもその国が再建されたきっかけっていうのは、どうも第一次世界大戦の中にあったんですって。
1917年に、第一次世界大戦の終わり頃、イギリス軍は、最新兵器を持って来るドイツ軍の猛攻に、たじたじの状態だったんですよね。もうロケット砲とか、マシンガンとか持ってどんどん攻めて来るんですけども、対するイギリス軍は火縄銃に毛が生えたような鉄砲しか持ってなくって、一発打つと煙がひどく出るんで、引き金を引く時に、目をつぶらなくちゃいけないんですって。
とても勝てないので、「煙の出ない火薬」を開発しなくちゃいけない。それからダイナマイトを、大量に急いで作らなくちゃいけない。その技術がどうしても必要だった。

この問題を解決したのがですね、ヴァイツマンっていうユダヤ人だったんですね。この人はロシアで生まれて、スイスで勉強されて、科学者になられた方なんですけども、この人がこの技術的な解決をすることによって、イギリスはちょっと盛り返すことができたんですって。
で、戦争の終わった後イギリスの首相が、ヴァイツマンに「ご褒美として何でもとらせるけども、何を欲しいか」と聞いた時に、ヴァイツマンは「私は、個人的に1円もいらないから、ユダヤの地にユダヤ人が住めるようにして欲しい」というふうにお願いし、イギリスはそれをうまく図って、1917年に『バルフォア宣言』っていうのが出されて、「ユダヤの地にはユダヤ人が住んでもよい」っていう法律が宣言が出されたんですよね。

その時にユダヤに集まってきたユダヤ人は、2万5千人だったそうです。5年後に8万人を超え、15年後に18万人、20年後に43万人、そしてとうとう1948年に独立した時には、50万人を超えていたんだそうです。
聖書の中で、長らく忘れられていた大きな預言の一つ、「イスラエルの建国」これは1948年に成就したんですよね。ですからもう、イスラエル人はその時大変喜びましたけども、多くのクリスチャンは「最後の時が来る」ということを感じたということなんです。

ルカの福音書の21章24節。これは先ほどお読みしましたマタイの福音書の24章の並行記事の箇所ですけども、
24人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。

というふうに書かれていますね。
イスラエルは建国されたんですけども、「エルサレムの神殿」、これはまだイスラム諸国のものだったんです。
一番大切なエルサレムという町の中の、ダビデやソロモンが建てた神殿のあった場所っていうのは、イスラム軍に占領されたまんまだったんですよね。ですからユダヤ人たちは、神殿の場所で礼拝したり、足を踏み入れることすらできなかったんです。
ですから彼らにとっては、この場所を取り返すというのが悲願だったわけです。いったいそれがいつ可能なのか。「異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる」と書いてあるから、だから「異邦人の時が終わる」のは、いったいいつなのかっていうことになるのです。

1967年に『6日間戦争』っていうのが、ユダヤとイスラムの間で起こって、これは何かって言ったら、このエルサレムの『聖地を取り戻す戦い』だったんです。
で、なぜ『6日間戦争』かっていうと、ユダヤが勝ったんです。エルサレムの神殿の場所、今その大きな岩が立ってる場所なんですけども、その岩のてっぺんに、ユダヤの「ダビデの星の旗」を打ち立てたんですよ。それが1967年。
でも周りが全部イスラム軍に囲まれちゃってるんですよね、とても持ちこたえることができないっていうことを感じて、戦った将軍は旗を引き降ろして、逃げていっちゃったんですよね。
だからたった6日間だけ「ダビデの旗」はそこに立ってたんですって。でもその「ダビデの旗」が立ったその時ですね、世界中にいたユダヤ人は、もう小躍りをしました。

で、「異邦人の時の終わりがこの時だ」って、多くの方は感じたんだそうです。ちょうど1967年、私たちは実はアメリカにいたんです。私は小学校1年生だったんですけども、父が仕事の関係で一年間アメリカにいたんですね。で、この話をしましたら、後で父が私に教えてくれたんですけども、ちょうどその年アメリカにいて、私たちが住んでいたアパートの何軒か先にユダヤ人の家族が住んでいて、一週間お祭りさわぎだったっていうんですよ。
その時はなんでそんなに騒いでるのかわからなかったけども、お前の話を聞いてわかったというふうに、父がこの間僕に言ったんですけどね。

マタイの福音書24章に、ちょっと戻りたいと思いますけども、今度はちょっと後ろの方の32節から。

マタイの福音書24:32-36
32いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。
33そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
34まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。
35この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
36ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

イエス様は、「再臨の時」「この世の最後の時」はいったいいつかということについては、誰にもわからないとおっしゃっています。
確かにわかりません。ただ「枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります」「何日かという日はわからないけれども、季節はわかる。だからあなたがたは、夏が近いことがわかったら、気をつけなさい」というふうに言ってるんですね。
「いちじくの木」っていうのは、多くの場合、聖書の中では「ユダヤ」そのものを表しています。いちじくの木であるユダヤが、枝が柔らかくなって葉が出てくる、すなわち木として少しずつ成長し始めてくるのであれば、夏が近い。その時が近い。・・・ということを気をつけなさい。

1948年にイスラエルが建国されて、段々、段々大きくなって、建国当時50万人だった国民が今500万人を超えています。
そして今や世界史の表舞台に登場しつつありますよね。

余談ですが、最近音楽CDありますでしょ。あれコンピューターを使うと簡単に複製できるんですよね。それも1枚50円か60円で買ってきたCDに簡単にコピーできるんです。昔の、ちょうどテープレコーダー・・・テープをコピーすることができるのと同じように、できるようになっちゃったんですよね。
そうなったら、レコード会社すごい困りますよね。昔レコードがテープにコピーされて、著作権がすごい問題になったように、今まったく同じことが起こって、CDをコピーするっていうのが、非常に世界中で大問題になってます。

著作権を問題にしてるんですけども、問題は著作権じゃないんです。お金なんですよね。
レコード会社が困っちゃう、それだけなんですけども、これができないようにする、特殊なコピープロテクトの技術が開発されたっていうのが、一昨日ですか、先一昨日ですか、新聞に載ってましたよね。
イスラエルの会社が開発した特殊技術なんですよ。これが今後は世界中のCDには使われるようになる。イスラエルの国っていうのは、今もう世界の表舞台に出始めてきています。

したがって、いちじくの木が成長してくれば、私たちは夏が近いっていうことを知らなければならない、っていうことなんです。

マタイの福音書24:34
34まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。

っていうふうに、イエス様おっしゃったんですけども、ここでその「時代」というふうに使われている、この言葉は英語の聖書で言えば「generation」って言葉なんですよね。すなわち「世代」なんですよ。
正確には「時代」っていうと、何百年ですけども、「世代」っていえば人の一人の一生の長さですよね。

まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この「世代」は過ぎ去りません。
「すべてのこと」っていうのは何ですか。「全部起こってしまう」の、「全部」っていうのは何ですか。
「終わりの始まりから、終わりの終わりまで」すなわち、みんなが「終わりの時が始まった」と感じてから、この世界が本当に終わってしまうまで、なんです。それが、一世代だっていうふうに、イエス様おっしゃってるんですよね。

さてどの世代でしょうか。
イエス様がこれを語られたのは、今から2,000年前ですよね。じゃ、これを聞いていた人たちでしょうか。残念ながら違いましたね。もうその世代は過ぎ去ってしまいました。
次のチャンスはそうすると、『第一次世界大戦』を経験した世代。「終わりの始まり」を知ってる世代、1917年前後に生まれていて、そんなようなことを知ることができた世代。20世紀の初頭に生まれた世代。・・・死に絶えつつありますよね。祖母の世代ですよ。
でもまだ残ってるんですよ。いまだにですね、明治4X年っていう方が、私の病院に入院してきますからね。ですからまだあと何年かあるかもしれません、まだ余裕は。でもたかだかあと何年でしょう?長くても。

もしかしたらイスラエルの建国1948年の建国を知っている世代。1940年前後に生まれた世代。私の父の世代ですね。今77歳ですか。あと何年あるんでしょうね。
エルサレムの奪還された1967年。これを知っている世代、そのちょっと前に生まれた世代、1960年頃に生まれた世代。私ですよ!
そう考えると少なくとも、論理学的に考えて言えることは、少なくともイスラエルの建国、その辺を軸にして前後の重なる世代が一番確からしい。

なぜなら、バッハやヘンデルの時代には、『イスラエル』という国はなかったんです。1600年代ですから。
ヘンデルが「メサイア」を書いた時、メサイアの第3部っていうのは、「再臨」についてです。だけどこの時ヘンデルは、もちろんイエス様が再び来られることについては、音楽聴いてわかる通り、ヘンデルは、全く疑ってなかったと思います。
でもヘンデルにとって、イスラエルの建国っていうのは、夢のまた夢だったんですよね。将来いつかきっと起こる出来事でしかなかったんです。私たちにとってはどうですか。現実です。

ですからイエス様の来られるというお約束、これを経験する世代はいったいどの世代か、ということを考えた時、少なくともバッハやヘンデルの時代よりは私たちの時代である可能性の方が、はるかに高いっていうことなんです。
「おそらく私たちの人生の間に、イエス様が必ず来られる」っていうふうに考えることができる、十分な根拠がここにあるんじゃないかって思います。
シメオンは、「あなたは救い主を自分の目で見るまでは、死ぬことが決してありません」って約束された、ただ一人の人でした。でも私たちは「イエス様の再臨を経験できる世代」かもしれない。

これまで、主にある兄弟姉妹が大勢天に召されていきましたよね。私たちは葬儀の度に、本当に悲しみではなくて、本当に心からの喜びと平安を持って葬儀に臨みました。
そういう形で私たち、もし自分が天に召されれば、本当に素晴らしいなあっていうふうに思います。でももしかして、私たちは別なかたちで天に召されるかもしれません。再臨。

先ほどの姉妹のお証しの中に、「イエス様が来られる空が見える」っていうふうに、おっしゃられていたのが本当に印象的ですけれども、私たちね、もしかしたらイエス様が天に、文字通り引き上げてくださるかもしれないですよね。ふわふわ、ふわふわ・・・って、天に昇ってっちゃうんですよね。
イエス様どうやってやるんでしょうね。何百年前かのクリスチャンだったら、天に引き上げられるって言っても、単純に信じてたと思うんですよ、きっと。

でも科学の時代に生きている私たちは、なかなかそんなことね、信じるの難しいですよね。でも「神様だったらできないことない」と思えば、どうやってやるんだろうな。せっかく天に行くんだったら、そういう行き方いいなぁ!!
本当にね、それ考えるとわくわく、わくわくしてきます。

私たちが主が来られることを、本当に待ち望むっていうこと、それは私たちがこの世界にあって、旅人であるっていうことを証しするもう一つの大きな特徴になるっていうことが言えます。
私たちは、自分たちがどこへ行くのか、どこへ行く旅をしているのか知ると同時に、いつ頃そこにたどりつくのかという目標を、幸いなことに、持つことが許されているということなんです。

最後に3箇所お読みして終わりにします。

ヨハネの福音書14:1-3
1あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
2わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
3わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

イエス様ははっきり「用意ができたら迎えにくるから待っているように。あっちには立派な家を用意しておくから」っていうことのようなので、本当に期待をして待っていたいと思います。

ペテロの手紙第II、3:11-14
11このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
12そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
13しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
14そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。

ペテロの手紙第II、3:18
18私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。

ペテロはここで、本当に私たちは旅の終わりにあって、身を引き締めなければいけない、というふうに言っています。
旅が終わりに近づきそうだとわかったら、その旅人は何をするでしょうか。たぶん持ち物整理すると思うんですよね。
長い旅のためには必要だったかもしれないけども、もうじきたどり着くということになれば、要らないものがたくさん出てくるはずですよね。私たちの内側に、要らないものたくさんあるんじゃないでしょうかね。

「どれほど聖い生き方をしなければならないか」っていうふうに言ってます。本当にこれは「主にお会いする」っていう、その厳粛なことを考えれば、本当に私たち、自分の内側を整理しなければならないことをよく感じさせられます。

ヨハネの福音書10:28-29
28わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
29わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。

天国に行くことが約束された私たちは、主の御手によってしっかり捕まえられています。ここから私たちはどんな力によっても引き離されることはない。本当に素晴らしい約束をいただいています。
ですからその時が来るまで、いつかわかりませんが、ご一緒に本当に互いに励まし合い、愛し合いながら、一緒に時を過ごすことができれば、本当に幸いだと思います。




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