大阪喜びの集い


野口修兄

(大阪喜びの集い、2005/04/02)

引用聖句:マルコの福音書5章1節-20節
1こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
2イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。
3この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。
4彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押えるだけの力がなかったのである。
5それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。
6彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、
7大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」
8それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け。」と言われたからである。
9それで、「おまえの名は何か。」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。」と言った。
10そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。
11ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってあった。
12彼らはイエスに願って言った。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」
13イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。
14豚を飼っていた者たちは逃げ出して、町や村々でこの事を告げ知らせた。人々は何事が起こったのかと見にやって来た。
15そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。
16見ていた人たちが、悪霊につかれていた人に起こったことや、豚のことを、つぶさに彼らに話して聞かせた。
17すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。
18それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。
19しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」
20そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。

今読んでいただいた個所というのは、福音書の中で比較的マルコの福音書というのは読みやすい、非常にシンプルな書き方をされている福音書だと思うんですけれども、その中にあってもちょっとわかりにくい個所の中のひとつではないかというふうに思います。
今お読みいただいて、何か悪霊が出て来たり、何か豚の群れが湖の中になだれ落ちたとか、ちょっと尋常じゃないことがたくさん起こっています。

舞台の一番最初が墓場ですし。だから何か少しちょっとおどろおどろしい雰囲気の個所なんです。そういうことを考えると、どうしてこういうことが聖書の中に記されてるのかなぁというのが、ぼくも最初この辺読んでいたときに、よくわからなかったんです。
というのは、この前の4章のところでは、イエス様は群衆に囲まれて、色々メッセージをなさってる場面が出てくるんです。

そこから湖を渡って、反対側の土地に移ってみると、ここは墓場の地だったんです。そこでイエス様を迎えたのは人々ではなくって、ひとりの気のふれた男だったわけです。
そこで何か恐ろしい悪霊との戦いがあって、その結果、人々も起こった出来事に恐れをなしてしまって、何と、イエス様にこの地方から離れてくださるように願ったというんです。

おそらく、イエス様がパリサイ人とかそういう人たちはもう意識してイエス様を拒んだわけですけれども、そうじゃなくして、イエス様を受け入れなかったという個所というのはここと、あとイエス様が故郷のナザレの地に戻られたときに、そこでも人々はイエス様を受け入れることができなかったんですけども、その二ヶ所じゃないかというふうに思うんです。
で、ここでイエス様が人々から、この土地を離れるように言われて、また舟に乗って、反対岸に渡られたら、21節のところでは、

マルコの福音書5:21
21イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。

と書いてあるんです。またイエス様は人々に囲まれる状況にあったんです。
そのことから考えても、このゲラサ人の土地というのは非常に特殊な場面だったということがわかるんじゃないかと思うんです。

イエス様はわざわざこの土地においでになって、その結果として人々から出て行ってほしいとまで言われなければならなかったようなことをなんであえてなさったのか。
もしイエス様のご目的がひとりでも多くの人の救いをもたらすということがイエス様のご目的であったんだったらこんなことしないで、人々に湖のこちら側でお話しになったようなことをなさったらよかったんじゃないかというふうにも思えるんじゃないかと思います。

起こった出来事を見てみても、悪霊が出て来たり、ちょっとこの当時の人々にとっても尋常じゃない出来事が起こっているようです。
今の私たちが見ますと、ちょっと昔話だったら許せるけれども、こういうことが現代で起こるということはちょっと受け入れられない。
もしこういうことが真面目に書かれているのであれば、聖書はそれだけでちょっと受け入れることができないというふうに思ってしまうかもしれません。

何かオカルトチックですよね。けれどもそのオカルトというのも、私たちがテレビや映画やそういうもので身近に触れるようになったのは実はこの50年ぐらいの出来事であって、それ以前はこのオカルトというのは、社会の陰の部分にしか存在しなかったはずのものなんです。
それがこのところ、さまざまなメディアによって人々の娯楽として当たり前のように登場するようになってきました。ですから現代の私たちはこういうのを見ても恐ろしく感じないんです。
むしろ映画の一場面であるかのように受け取ってしまいやすいと思います。これは現代の悪魔のひとつの大きな働きのひとつではないかというふうにも思います。

こういう、私たちがちょっと理解することの、あるいはどういうふうに受け取ったらいいかわからないような出来事、それが何でこの聖書で紹介されているのか。
私も最初はここの辺を読んでたときにはわからなかったんですけども、あるときふと気が付いたのは、たぶんイエス様はこの悪霊とか、そういうような出来事との戦いを紹介したかったのではなくって、その結果、何が起こったかということを知らせたかったんじゃないかというふうに思うんです。
すなわち、ひとりの人間が変わったということなんです。

私たちはイエス様と出会うことによって変わることができるということなんです。
そしてそれこそこのオカルトの戦いとか、そういったこと以上に大きなイエス様の力であり、イエス様のなさった奇蹟ではないかというふうに思います。
それを現実にちょっと聖書に即して見てみたいと思うんですけれども、どのような状況だったかと言いますと、この人は墓場に住んでいたというふうに書いてあります。

私たちが日常生活を送っているこの現代社会というのも、もし私たちが自分の今の生活に本当に満足して、充実しているならば、天国のように思えるかもしれません。
けれども一たびつまずいて、困難にぶつかり、混乱が起こってくると、私たちの生きているこの世界というのは地獄に変わってしまいます。
今まで、すばらしいことと思っていたことが絶望のように思えてきて、輝かしいことのように思えていたことがむなしく思えてきてしまいます。

東京の高層ビル街を指して、巨大な墓石だというふうに言った作家がいますけれども、一旦私たちがこの世の中でむなしさを感じ始めると、ほんとにそのように思えてしまう。それは現代にあっても同じではないかというふうに思います。
この男の人は、鎖で足かせにつながれていたというふうに書かれています。私たちも仕事ですとか、人間関係ですとか、さまざまな環境によって色々なところで束縛されています。

あるいは名誉とか地位とか財産とか、本来ならば私たちをより自由にして、より大きな自由を与えるはずのものですら、気が付くとそれらの虜になって、私たちをがんじがらめに縛りつけてるものであることに気が付かされます。
ましてや私たちの内側にある罪ですとか、欲望ですとか、そのようなものは一旦私たちがそれらに心を売り渡してしまうと、限りない泥沼の中に引きずり込む原因になってしまいます。
その意味でも、この男と私たちとは非常に似ている状況にあります。

彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続けていたというふうに書かれています。
これもまた私たちの苦しみ、痛み、助けを求めようとする状況、平安のない状態を表わしているのではないでしょうか。
心の中のむなしさのゆえに、だれかに助けを求めたい。そのような叫びが私たちの心の中にはないでしょうか。

彼は石で自分のからだを傷つけていたというふうに書かれていますけれども、私たちも自分でいったい何をやっているんでしょうか。
自分たちで、良かれと思ってやっていることであっても、結局は滅びに向かってまっしぐらに進んでいるのではないでしょうか。
こうして考えてみると、この男がおかれている状況というのは、現代の私たちにとっても、そう遠くない状況であるということが言えるんではないかと思うんです。

彼は自分がそのような絶望的な状況にある、そのために苦しんで、助けを求めて叫んでいました。
ですから、イエス様を見つけたとき、遠くからイエス様を呼ばわったんです。イエス様に出会ったあと、彼がどのように変わったのか見てみたいと思います。

マルコの福音書5:15
15そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。

というふうに書かれています。
この間の出来事は、本当にイエス様にしかわからない出来事ですよね。ですから町の人々にはいったい何が起こったのかわかりません。
けれどもその出来事が終わったあと、駆けつけてみると、そこに今まで自分たちが知っていた、気がふれているはずの男がすわっていました。そして彼は、正気に返ってすわっていたというふうに書かれています。

イエス様に出会うと、私たちは自分のありのままの姿、本当の落ち着きと平安とを取り戻すことができます。
みなさんよくご存知のあの放蕩息子のお話がルカの福音書に出てきますけども、ルカの福音書の15章の11節からお読みしますとこう書かれています。

ルカの福音書15:11-19
11またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
12弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
13それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
14何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
15それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
16彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
17しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
18立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
19もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』

こうして彼は父のところに帰って行くんですけれども、17節のところに、「しかし、我に返ったとき彼は、」というふうに書かれているんです。
すなわち我に返る。私たちが本当の自分の姿というものを気が付かされたときに初めて出てくる表現が、我に返るという言葉ではないかと思います。

罪の中で本当に悶えて、苦しんでいたとき私たちは、自分自身の姿を知りません。けれども聖書の光に照らされて、自分の罪を知らされ、イエス様によって自分の罪が赦されているということを知ったとき初めて私たちは自分の姿を知ることができます。
そのとき私たちは我に返ったということが言えるんではないでしょうか。マルコの福音書のところに戻りますけれども、この男は、正気に返ってすわっているというふうに書かれています。

本当に私たちが自分のありのままの姿を見ることができたとき私たちは正気に戻ることができます。
この男は、着物を着て、すわっていたというふうに書かれています。着物を着るとは、救いの衣を与えられたということではないでしょうか。罪が被われたということではないでしょうか。
イエス様に出会うと私たちは、自分の姿に気が付き、罪を赦され、罪を被う救いの衣を着せていただくことができます。そのとき私たちは初めて、安心して落ち着くことができるんではないかと思うんです。

イエス様がこの地方から立ち去ろうとすると、この男は、18節のところですけれども、いっしょにお供をしたいとイエス様に願っています。
救われた人の特徴というのは、イエス様とともに歩んで生きたいと願うようになるということではないかと思います。

私たちは救われるまではイエス様のことは何もわかりません。
けれども救われたあと、イエス様がどんなにすばらしい方かということを知るようになると、もうイエス様とともに歩んで生きたい、イエス様といつもいっしょにいたいという願いが与えられるようになります。
それもこの男の変わった点ではないかと思います。

多くの場合イエス様は、いっしょについて行きたいと言う人をもう連れて行くんですけれども、ここではイエス様はお許しにならなかったんです。
これも非常に珍しい出来事ではないかと思います。けれどもイエス様はお許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、 主があなたに、どんな大きなことをしてくださったか。 どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」というふうにイエス様は仰っています。

私たちは救われてすぐに、救われたとほとんど同時に御国に召される兄弟姉妹がおられることを知っています。
本当に羨ましいと思うんですけれども。私も救われて二十年ぐらいにもうなっちゃいますので、まだもうちょっとこの世で苦しみなさいということなのかも知れないんですけれども。

この男もイエス様といっしょにいたかったんですけれども、そうじゃなくって、あなたはここにとどまりなさいというふうに言われました。
そしてここで人々にあなたの救いについてあかしするようにというふうに言われたんです。その結果彼はどうしたかと言うと、

マルコの福音書5:20
20そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。

彼は自分がどのように変わったか、あまり説明の必要がなかったです。なぜなら、その地方にいた人たちはみな彼のことを知っていたからなんです。
ただ彼は自分が変わった原因がイエス様であるということを宣べ伝えさえすればよかったんです。

おそらく私たちはイエス様に出会うとみな変えられます。そして変えられること、そのことがやはり救いの証しそのものではないかと思います。
そして人々が変わった私たちを見ることによって、イエス様ご自身のすばらしさを知る。人々はみな驚いたと書かれていますけれども、そのように人々に、決して否定することのできないあかしをもたらすのではないかというふうに思います。

この男は自分に何が起こったか理解することはできなかったかもしれません。でも、変えられたということ。そのことだけはよくわかった。結果だけはよくわかったということではないかと思います。
私たちの救いも同じではないかと思います。

私たちはどのようにして自分が救われたのかは、きっとわかりません。私もわかりません。
けれども救われた結果、私たちは自分の内側に本当に失われない喜びや、平安、やがて来たるべき天の御国への希望、そのようなものが与えられた。私たちの愚かさや、汚れや、罪のゆえにもう絶望する必要がまったくない。そのためにイエス様が十字架に架かって赦してくださったんだということを知っています。

私たち人間のがわから見ることができる救いというのはそのようなことだけなんではないかと思います。
それをもし裏側から、舞台の裏側から覘いてみるならば、すなわちイエス様が、主があなたにどんな大きなことをしてくださったかと仰ったその内容を見てみるならば、次のようなことではないかと思います。
救いとは主のがわから見ると、私たちに対するあわれみと神の計画そのものです。

詩篇103:8-14
8主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。
9主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。
10私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。
11天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
12東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。
13父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。
14主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。

救いを主のがわから見ると、これが救いです。すなわち、主の高みから私たちを覘き見ると、私たちはいったい何をやってるんだろうか。
まったく役に立たないことのために一生懸命になってしまい、そのために主にはいつもがっかりさせてしまい、怒らせてしまい、そのようなことばっかりであります。
けれどもそれをご覧になっている主は、私たちの罪にしたがって私たちを扱わない。私たちの咎にしたがって私たちに報いることはないというふうに仰ってくださっています。

もしこれが、主は聖なる神であり、義なる神であるがゆえに私たちの罪にしたがって正当に私たちを扱う。私たちの咎にしたがって正当に私たちに報いるということであれば、私たちは絶望であります。
主があわれんでくださるから私たちは救いがあるんです。
主が私たちの罪を見逃してくださることができるとすれば、その私たちの罪はどこかで贖われなければなりません。それがイエス様の架かってくださった十字架だったわけです。

私たちの救いというのをイエス様のがわから見てみますと、

ヨハネの福音書12:47
47だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。

イエス様は私たちのために大切なことをたくさん福音書の中で仰ってくださっています。神の国について、愛について、律法について多くのことをお話くださっています。
けれどもこういうことを言って、それを守らなくても、わたしはその人をさばかないというふうに仰ってくださっています。
なぜならば、わたしがこの世に来た目的は、さばくためではなくて、救うためだからというふうに仰ってくださったんです。

イエス様にとっては、「大切なことをあなたがたに話しました。そして、あなたたちがそれを守れなくても、わたしはあなたがたを救います。」というのがイエス様のお気持ちなんです。
でも考えてみると、その間にとっても大切なものが一つ抜けてるんです。
何かって言ったら、イエス様は私たちが守れなかった分をご自分で犠牲を引き受けてくださいますという一言が抜けているんです。

なぜならば、イエス様は、イエス様にとって私たちのために犠牲を払うということは、イエス様は犠牲と思っておられないということなんです。
私たちをもう心から愛しているから、イエス様にとっては犠牲ではないんです。もう愛そのものなんです。

だからイエス様は福音書の中で何度も何度も、救うということを仰ってますけども、あなたたちのために犠牲になるとは一言も仰らないんです。
イエス様の十字架が私たちの罪のための贖いであるというのはパウロが初めて言った言葉なんです。

パウロは私たちと同じ人間です。イエス様によって罪を赦され、救われなければならなかった人間だったんです。救いを受けた私たちと同じ人間だったんです。
ですからパウロは救いを受けた人間として、イエス様が架かってくださった十字架は私たちに対する犠牲だったということを言ったんです。
でもイエス様は自分で犠牲だと全然思っていないんです。あなたたちのために死ぬこと。それはわたしにとってあまりに当たり前のことだというふうに思ってくださっていたんです。

ですからここのところを見ても、だれかが、「わたしの言うことを聞いてそれを守れなくても、わたしはさばきません。わたしはあなたがたを救うために来たからです。」
もうそれだけなんです。イエス様のお気持ちは。それがイエス様のがわから見た私たちに対する救いそのものなんです。
では、私たち人間にとって救いとは何でしょう。

詩篇146:1-2
1ハレルヤ。私のたましいよ。主をほめたたえよ。
2私は生きているかぎり、主をほめたたえよう。いのちのあるかぎり、私の神に、ほめ歌を歌おう。

これが私たち人間にとっての救いそのものではないでしょうか。
すなわち、私たちが唯一自分の救いについて言うことができる言葉、それは感謝と賛美だけだということなんです。
この短い賛美の中に、「私は生きているかぎり、主をほめたためよう。いのちのあるかぎり、私の神に、ほめ歌を歌おう。」と書かれていますけれども、私たちの人生は苦しみながら、戦いながら、苦労しながら歩んでも一つの人生です。

あるいはこの詩篇の作者のように、「私は生きているかぎり、いのちのあるかぎり、私の神に、ほめ歌を歌おう。」、そのような気持ちで過ごしても一つの人生であります。
いったいそのような人生を私たちは送りたいと願うでしょうか。そして、どうしたらこのような気持ちで一生を過ごすことができるでしょうか。

私たちが本当に心からイエス様に出会って、イエス様に造っていただいたということを本当に知って、変えられるならば私たちの人生はこのようになってきます。いのちのあるかぎり、私の神に、ほめ歌を歌おう。
そのような気持ちで過ごすことができれば本当にすばらしいのではないかと思います。

墓場の中で苦しみながら叫んでいた男は、イエス様に出会うことによってこのように言うことができる男に変えられました。
私たちもイエス様に出会うことによって同じように変えられることができます。
もしまだイエス様にお会いになっていない方がおられましたら、心を開いて、イエス様ご自身をご自分の救い主としてお受け入れになっていただきたいと思います。




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