引用聖句:マタイの福音書、5章1節-10節
今、兄弟にお読みいただいた箇所は、イエス様の、いわゆる「山上の垂訓」と呼ばれている非常に有名な箇所ですね。 クリスチャンでない方でも、一度はどこかで聞いたことがあるかもしれない、そういうような箇所です。私の学生時代の友人が、私がクリスチャンだということを知って、 「『心の貧しい者は幸いです』という箇所を一度読んだことがある。本当にそこの箇所を読んで、慰められた」 ということを僕に話してくれたことがあるんですね。 もちろん、イエス様のことをご存じない方ですから、イエス様がこのように語られた意味を知っていったわけではないと思います。それでもですね、やっぱりこの箇所を読んで、そこから慰めを感じ取る・・・。そのような箇所だと思うんですね。 イエス様は、私たちがどのような所に置かれているか、よくご存じですから、私たち一人一人に、このように語りかけてくださることができるお方ではないか、というふうに思います。 しかしですね、私たちが置かれている現実っていうのは、本当に厳しいものですね。 イエス様がこのようにおっしゃってはいますけれども、おそらく私たちの現実は、そうではないのではないかというふうに思います。 ですから、この世の評論家、あるいは哲学者が、イエス様になり代わっていえばですね、全く違う見方になってしまうのではないかと思うんです。 ここに、8種類の人が出てくるわけですけれども、もしこの世の哲学者がこの8種類の人たちについて何かいうことがあるとすれば、違ったいい方をするんではないかと思います。
でも、イエス様は、そのような私たちのおかれている現実から目を離してですね、「心の目で真実を見るように」と私たちに教えています。 そのような現実にも関わらず、イエス様は、
この8種類の人たちに対する8つのお約束の中でですね、一つだけ、ちょっと性質の違うものがあるんです。それは実は、第1番目なんですね。 「天の御国はその人のものだ」とイエス様はおっしゃったんですけども、残りの7つは、全部未来形なんです。でも、この1個だけは、現在形なんですね。 悲しむ人は、やがて慰められます。でも、へりくだってる人は、「神の御国は、今、あなたのものだ」というふうにイエス様おっしゃっておられます。私たちは、ここに主がどんなところを見ておられるかというのを知ることができるのではないかと思います。 私たちが、どのような場にあったとしても、もし私たちの心が主の前に砕かれていて、ほんとに開かれているのであれば、その時すでに、天の御国は私たちのものである。私たちの困難な状況は、一向に変わらないかもしれません。 けれども、その全ての問題について解決は与えられます。でも、今もうすでに、天の御国が私たちのものであるということをイエス様は、約束してくださっているんです。 本当に素晴らしいことではないかというふうに思います。 このことを知っているかどうか、それが今、私たちに与えられている難しい現実を生きていくことができるかどうかにかかっています。 私たちは、この現実を見るのではなくて、目に見えない真実に心の目を留めなければなりません。 ヨブ記の19章25節。せっかくですので、英語で読みますね。 Job19:25-26
ヨブ記19:25-26
25節、26節。このようにメサイアの第3部が始まります。 ほんとに素晴らしいソプラノのアリアで、メサイアの第3部は始まりますけれども、ここに書かれているように、私たちが、自分のいのちを贖う方が生きておられることを知っているかどうかが、それこそが、最も大切なことであり、それを私たちに伝えるためにこそ、聖書が私たちに与えられているんです。 おそらく、私、メサイアで一番最初に聞いた曲は、メサイア50何曲の中で、この曲だったと思うんですね。まだハレルヤも聞く以前に、この曲を聞きました。 そして、そのメロディの美しさもほんとに素晴らしいと思いましたけれども、引用されている聖句を見て、ほんとに感動したのを今でも忘れることができません・・・。 メサイアの第1部でイエス様が、お生まれになったという喜びについて、私たちは歌います。そして、第2部でイエス様が私たちの罪のために十字架に架ってくださったということを歌います。 そして、第3部にきて、私たちは主イエス様が永遠に生きておられ、すべてを治めておられる王の王であるということを、誉めたたえて歌うようになります。 ゼカリヤ書の14章の9節。やがて来るべき新しい世界、神の国というのは、いったいどのようなところでしょうか。 ゼカリヤ書14:9
その日には、イエス様はすべてのすべてをご支配になられ、御名もただ一つとなるというはどういうことでしょうか。 すべての人が主ご自身を誉めたたえるようになるということなんです。あらゆる人が主のものとされる。 今の世の中には、もう数えきれないほどの宗教がありますよね。 あるいは、数えきれないほどの間違った信念や、哲学や、人生観がありますよね。けれども、この時にはですね、そういうものはすべてなくなって、主だけが崇められる。・・・というふうに、書かれています。 主ご自身が、私たちの中心となって、私たちの賛美をお受けになる唯一の方となる。そのようなところが、神の国です。ちょっと前のゼパニヤ書3章9節。 ゼパニヤ書3:9
その時、主は私たちの滅び行く体をも変えて、きよくしてくださる。 そして、私たちはすべて一つなって、心を一つに合わせて、主を賛美するようになる。・・・というふうに書かれています。 私たちがメサイアを演奏する時、その会場全体はまさにこういう雰囲気で満たされています。けれども、この時には、この日には、メサイアを演奏しているその会場だけではなくて、全世界が、このように変えられる。・・・というふうに約束されているんです。 「くちびる変えてきよくする」というふうに書かれていますね。 私たちは、ほんとに主によって、きよい者と変えられる。ほんとに素晴らしいことではないかというふうに思います。 私たちは、この世の中にあって、「主のために役に立ちたい」、あるいは「主のために働きたい」、あるいは「主に従っていきたい」そういう切なる思いを持っていますけれども、なかなかできないですよね。 糸の切れた風船のように、どこかにすぐ飛んでいってしまいそうな者です。 どうしてかと言えば、この世は悪魔に支配されているからなんです。ですから、私たちは救われた者であったとしても、この世にあって生きている限りですね、どうしても悪魔の邪魔を受けます。 ですから、私たちはどんなに一所懸命主に従いたいと思っても、善を行ないたいと思ってもなかなか難しい。たまにできますね。でも、それで喜んだとたんにですね、高慢になってしまったりします。 でも、この御国にたどり着いたらですね、そこにはもう悪魔がいないんです。従って罪が発生しないんです。私たちは、その御国にあってですね、自然に善を行なうことができます。心の底からですね、「主に仕えたい」、「主を賛美したい」という思いが自然に湧き上がってくるんです。 むしろ逆に、私たちは罪を犯そうと思ってもですね、一生懸命、一生懸命努力しても罪を犯すことができなくなってしまいます。それは、ほんとに素晴らしい世界なんです。 私たちは今、この社会にあって、少しでもこの世の中を良くしようという努力が、様々なところで行なわれているのを知っています。 けれども、あまりうまくいっていないということも知っています。でも、この日にはですね、そんな努力は全く必要なくなってしまいます。 イザヤ書65:17-25
ここでは、私たちが今、この世の中で、望んで得ることのできない全てのものが可能になってます。この時には、病気もなくなるようですね。 私は、仕事をやめてもよさそうです。一生懸命、ファゴットの練習に励むことができるんじゃないかと思いますけども、おそらく練習なんかしなくてもですね、平気でパラパラパとひけるようになるんじゃないかと思います。 動物たちもですね、狼と子羊が一緒に仲良くしてる。たぶんですね、狼は悪気があって羊を食べるんじゃないんですよね。おなかがすくから食べちゃうだけのことなんですけれども、でも、神の国にあってはですね、その必要がないようです。 すなわち、飢えるということがないみたいですね。食べることが楽しみの人にとっては、ちょっとがっかりのように思うかもしれませんけども、満ち足りていますから大丈夫なんです。 そこでは、私たちは喜びにあふれて、ほんとに「憎しみ」というものがなくなってしまうんです。そのようなところ、それこそ神の国そのものであります。 私たちは、どのようにしてその御国にたどり着くことができるのでしょうか。もちろん、私たちは何もそのためにすることはできません。イエス様が、すべてを成し遂げてくださいました。 ただ私たちに求められている唯一のこと、それは「心の貧しい者」となること、へりくだる者となること、それだけなんです。そして、その瞬間にこのような素晴らしい神の国は、私たちのものである・・・というふうに約束されています。 1 Corinthians15:21-22
コリント人への手紙第I、15:21-22
これもメサイアの第3部ですね。 ほんとに主がよみがえってくださったからこそ、私たちのこの素晴らしい約束が、可能となったわけです。 1 Corinthians15:51-52
コリント人への手紙第I、15:51-52
私たちは、この肉のからだが滅びたとしてもですね、全く朽ちることのない、新しい不死の朽ちないからだをいただくことができます。それこそ、神の国にあって私たちが変えられるということの意味なんです。 その素晴らしい何一つ欠けるところのない神の御国にあってですね、いったい私たちは何をするのかと言えば、ただひたすら礼拝をするんですね。 私たち、今も礼拝をしていますけども、おそらく私たちがこの地上で行なっている礼拝と少し違うんではないかというふうに思います。 私たちは、礼拝の中で祈り、主を賛美して、感謝して、誉めたたえます。けれども、おそらくですね、この新しい天の御国にあって、私たちがする礼拝っていうのは、誉めたたえることだけなんです。 以前も一度、ご紹介したことがありますけれども、ギブスという人が書かれた「礼拝」という素晴らしい本があるんですけども、その中にですね、礼拝っていうものに対して、どんなものであるかということを説明して、ほんとにわかりやすい例え話がありますのでもう一度ご紹介したいと思うんですね。 それは、祈りと賛美と礼拝、一見同じようでありながら、実はちょっと違うんです。このように書かれています。 「広く言えば、 祈りは、たましいがその必要なものに目を向けることであって、 賛美は、たましいがその祝福に目を向けることであって、・・・ (テープ A面 → B面) ・・・それらがそれぞれに『礼拝』なのではないということが言えます。 『主よ。私のたましいを救ってください』というのが『祈り』です。 『主よ。私のたましいを救ってくださったことを感謝します』というのが『賛美』です。 『主よ。あなたが主であられることを誉めたたえます』というのが『礼拝』です。 この少し微妙な区別を、いくらかはっきりさせるために、たぶん次の例が役に立つでしょう。 ある泳げない人が川に落ちたとしてみましょう。何とか自分で助かろうとして、もがいても駄目なので、もう絶望だと思って、心の底から『助けてくれ!救ってくれ!』と叫びました。これが『祈り』です。 罪を明らかにされた罪人は、祈りを教えてもらう必要はありません。詩篇107篇には極度に困憊した罪人が、神に救いを求めていることが記されていますけれども、これについて、『困難は人に祈る方法を実によく教える』という言い伝えがある通りです。 おぼれかかって救いを求めているこの人の叫びに応じて、突然、立派な身なりの一人の紳士が現われました。 一時もためらわずに、この紳士は川の中に飛び込み、自分のいのちをかけて、その人を救って岸までつれてきました。救われた人は、その場で心からお礼を言いました。 その救ってくださった人を賛美して、『私のいのちを救ってくださったあなたの勇敢な行為に対して、私の感謝はとうてい十分に口では言い現わすことはできません。幾重にもお礼を申し上げます』と言いました。 確かに、この例は神の子キリストが十字架の上に贖いの死によって罪人をその滅びの罰から救われるようにしてくださったことを現わしています。キリストを自分の救い主として受け入れることによって、罪人は、自分が救われていることを確信することができます。 この確信が、その人のたましいを喜びで満たします。彼のくちびるを彼を救った方に対する賛美の歌で満たします。 ところが、この救助者は自分の救った人が安らかに家路に着くのを見て、その人に自分の名刺を渡して、こう言いました。 『これが私の名前と住所です。どうか明日の夕方、6:30に私の家に来て、私と一緒に食事をしてくださいませんか。そうすれば、われわれはお互いにもっと良い知り合いになれると思いますから』 その通り、救われた人は、その翌晩名刺にある住所を訪れました。驚いたことに、そこは街の一番金持ちが住んでいる一角でありました。さらに、その上彼を救った人の家の住所は、その一角にあるどの建物よりも大きく立派な建物でした。 ベルを鳴らすと使いが現われました。名前を告げますと、応接間に導かれました。そこへ主人が現われて、いかにも完璧な紳士らしく、すぐに客人に『どうぞお楽に』と言いました。 食事の用意ができた知らせがありました。非常に立派な料理で、食事中主人は、客人をもてなすために上手にお話をしました。 食事がすむ頃には、客人は、この主人の人柄にすっかり魅せられてしまっていました。その親切さ、知性、もてなし、その知恵、優雅さ、細かな心遣い、謙虚さ、それらは非常に感銘的でありました。 言いかえれば、この主人の人格が救助者としてなしてくれたこととは全く別に、実に道徳的に優れ、素晴らしい、尊い、ということがわかったんです。主人が自分の救助者である事を忘れたのではありませんけども、今は主人がしてくれたことに対する感謝よりも、主人その人の人柄に対する尊敬と敬虔との方が大きくなりました。 主人の家を訪れ、主人とともに語り、この主人とともに歩みつつ、この主人を知れば知るほど、尊敬の念は増すばかりでありました。 これは、『賛美』と『礼拝』の間にある微妙な区別を説明するのに役に立つでしょう。」 私たちは、イエス様が自分の救い主であることと、イエス様がご自分の尊い血潮をもって自分たちを贖ってくださったことを決して忘れることはできません。 けれども、主をもっと親しく知るようになるにつれて、救い主としての主イエス様に対する感謝は、その尊い輝かしい神ご自身としての本性に対する尊敬と溶け合って、しまいには尊敬の方が感謝を上回るようになります。 そして、この主イエス・キリストの完全な本性の優越性は、聖霊によって神のみことばの中に啓示されています。 私たちは、ですから来るべき礼拝の時において、もはや自分たちが罪人であることを嘆いて、救いを求めるような祈りは、きっとする必要がなくなります。もちろん主が私たちを救ってくださったことを心から賛美して、感謝して、そのことを忘れることはないでしょうけれども、それよりも主ご自身がどんなに素晴らしい方であるか、そのことを心から誉めたたえるように変えられてきます。 ですから、私たちがその時に行なう礼拝は、誉めたたえることだけになってしまうんです。 Revelation5:12-13
ヨハネの黙示録5:12-13
これこそ、私たちが天の御国で礼拝する『礼拝』そのものです。 ここには、もはや罪を嘆く言葉もなければ、罪を贖ってくださったことに対する感謝すらも含まれてません。ただ主の素晴らしさを誉めたたえることだけであります。 そして、私たちが今、この現実の世界にあってですね、まだまだ多くの苦しみや多くの問題を与えられながらも、天の御国にあたかもいるかのようにですね、ともにこのように主を誉めたたえることが許されてるということは、ほんとに素晴らしいことではないかと思います。 これから、夏の演奏会、そして10月のコンサートに向けて練習しながらですね、この主を賛美するっていうことに、私たちの思いを集中することができたら、ほんとに幸いではないかっていうふうに思います。 |