引用聖句:コリント人への手紙第I、3章5節-17節
今、羽石兄が家族が救われること、ひとりひとりが主に出会うこと、主に捕らえられていることの大切さについてお話くださったんですけれども、主に出会って救われた私たちは、成長しなくてはいけないというのは今ここに書かれている個所のテーマではないかというふうに思います。 コリント人への手紙第Iというのは長い手紙ですけれども、読んでるととても頭が痛くなっちゃう聖書の個所じゃないかと思うんです。 というのは、パウロはこの非常に長い手紙を書くにあたって、とっても気が重かったに違いないんです。 この手紙の中で扱われている内容というのは、本当にドロドロした大問題ばっかりなんです。 コリントの教会というのはここにも書かれているように、パウロがコリントの町で福音を宣べ伝えて、集まって来た人々を核にして始まった集会だったようです。 そのあとアポロという人が来て、その交わりを大きく成長させたという歴史のある集会のようですけれども、そのあとおかしくなってしまったようです。 兄弟姉妹が互いに喧嘩を始めて、分裂を始めてしまいました。 考えられないような不品行が兄弟方の間で公然のように行なわれるようになってしまった。家庭生活が崩壊しているような方々が非常に多かった。 結婚ということがとてもないがしろにされるようになってしまった。ささげものということに対して大変な誤解をもって、互いに兄弟姉妹をさばき合うような人たちが現われてくるようになった。 ほかのユダヤ教ですとか、そういうところの習慣であるささげものに、偶像にささげたものについて大変な誤解があった。 イエス様が復活されたということを否定する人が現われてきた。集会の中にですよ。 もう本当に多くの問題が持ち上がってきて、そのために霊的な集会の交わりが本当に立ち行かなくなってしまうほどになっちゃった。そういう集会の群れに対してパウロが手紙を書かなければならなかったときに、本当に気が重かったんではないかというふうに思うんです。 ただパウロはこの手紙を書くにあたって、本当に一大決心をして書き始めたということがここに記されているのでわかります。それは、 コリント人への手紙第I、3:11
というふうに書かれています。 私たちはイエス様を中心にしてというふうに言いますけれども、本当にそれがそのとおりに考えられ、受け入れられているのでしょうか。それが一番の問題です。 パウロはもちろん今挙げた多くの困った問題についてひとつひとつ詳しく取り上げて、どのように考えるべきかということを諭してはいるんですけれども、その前にもうとにかくイエス様、イエス様が中心であるということを強調しているんです。 すなわち私たちが直面する問題がどのような問題であったとしても、その解決はイエス様ご自身以外にないということなんです。 私たちがイエス様こそ中心である。イエス様こそ私たちの支配者である。イエス様の語られたみことばにこそ、私たちは従わなければならないということを本当に認めているのならば問題は解決します。 けれども確かにイエス様は中心かもしれないけれど、というふうな態度でいるならば、問題はますますこじれていってしまいます。 ここでパウロは、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもなくって、成長させてくださる神ご自身だというふうに言っています。すなわち成長というのはいのちの歩みです。 これは私たち人間が何かすることができる問題ではないんです。 水栽培とかなさったことのある方はおわかりと思いますけども、どんなに芽を引っ張っても伸びないんですよね。待たなくちゃいけない。成長するのを待たなければいけない。 ですからここの部分で最初の半分のところでパウロは成長する、植えるとか水を注ぐ、そして成長するという、そういういのちの問題のとして説明しています。 それに続いて今度はパウロは、賢い建築家が建物を建てるという、建築の例えに移ってきています。 ここでは、人間がどのように働きかけるかということについてパウロは一言言いたいと思っているようです。けれどもその場合に、この土台というのを、この建物というのをどのように建てるかということについてとても大切なことを順番に言っています。 それはまず第一に、どこにこの建物を建てるのか。すなわち土台そのものです。 この土台はイエス様ご自身以外のなにものでもあってはならない。私たちはもうイエス様によって買い取られた者であって、イエス様にだけ充足する者なんです。この上に違うものを建てようとしても、絶対に上手くいかない。 次のパウロはどのように建物を建てたらよいかというふうに言っています。すなわち、 コリント人への手紙第I、2:1-2
というふうにパウロは言っています。すなわちパウロにとってイエス様とは、十字架につけられた方だったんです。 すなわちパウロはすべての問題を解決するにあたって、十字架につけられているイエス様。これを全面に出す。 十字架につけられた方であるイエス様だけがすべての解決になるということを言いたかったんです。私たちは物事を解決しようとするときに、どうしたらいいか一生懸命考えるかもしれません。 けれどもパウロは人間的な知恵とか、工夫とか、そのようなものではなくて、十字架に架けられたイエス様こそ答えだというふうに言ったんです。 十字架に架けられたイエス様とはどのような方のことでしょうか。 人の目から見れば、大成功した人物ではないということです。すばらしい仕事をやってのけた人でもない。何か不思議な力をもっている人ということでもない。偉大な知恵をもっている人ということでもない。 もちろんイエス様は今申し上げたすべてに該当するんですけれども、イエス様が唯一成し遂げてくださったこと、それはそれらのすべてを放棄して、私たちの犠牲となるために十字架に架かってくださったということだけだったんです。 イエス様はご自分が神であるのに、神として崇められることを求めませんでした。 むしろ、自分のことを神とも思わないような人のために喜んで犠牲になりたいと思われたんです。 ローマ人への手紙5:6-11
まだ私たちが弱かったとき、イエス様は私たち不敬虔な者のために死んでくださいましたというふうに書いてあります。 正しい人のために自分のいのちをささげようという人はあまりいない。どんなに正しい人だと言われていても、そのような人のためにいのちまで差し出すということはあまりない。 でも、自分に本当によくしてくれた人。自分が困っているときに助けてくれた人。自分が心から感謝している人のためになら、自分のいのちを出してもいいかなと思うような人はいるんじゃないかというふうにパウロは言っています。 でも、自分に対して敵意をもつような人。自分に対して本当に嫌なことばっかりしてくる人。とっても失礼なことをする人。悪口雑言向けてくる人。 あるいは私たちが一生懸命呼びかけようとしても、徹底的に無視する人たち。そういう人たちのために死んであげたいと思うでしょうかというふうにパウロは言ってます。 でもイエス様はご自身に対してまったく関心を寄せない人間。ご自身に対してむしろ悪口を言ったり、敵意を持ちさえする、そのような人。イエス様の聖さや尊さ、すばらしさを踏みにじるような人。 そういう人たちのために喜んで死にたいと思ってくださったんです。 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださったという、この二行の文章はそういう意味なんです。 ローマ人への手紙5:8
すなわちイエス様は、私たちが主イエス様のことを愛するようになるかどうかわからない。でもイエス様のほうは私たちのことを本当に愛してくださっている。死んでもいいと思うくらい、愛していてくださっている。 十字架に架かってくださったイエス様。それはそのようなお方だったんです。 イエス様が十字架に架かってくださったがゆえに私たちは罪の赦しをいただくことができました。 すなわち全能なる神さまともとのちゃんとした関係に戻ることが許されたんです。 そうであるならば私たちのためには全能なる神さまがついていてくださっています。何にも怖いことはありません。すべてを安心して主に任せることができるようになります。 11節には、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるというふうに書かれていますけども、私たちがイエス様が私たちの罪を赦してくださったということを、本当に心の目で知ることができたとき、このことばのとおりに私たちは本当に神さまのことを喜ぶことができるように変えられます。 ここにこそすべての問題の解決があるんです。 もう一度コリント人への手紙第Iの3章に戻りますけれども。 パウロは建物を建てるときにどこに建てるか、イエス・キリストという土台の上に建てるべきである。どのように建てるべきであるか、十字架に架けられたイエス様、それだけがたいせつだというふうに言いました。 さてそれではどのような材料を用いて建物を建てるのか。 コリント人への手紙第I、3:12-13
というふうに書かれています。さまざまな材料があります。簡単に加工できるものから軽くて扱いやすいもの。なかなか細工を施すのが面倒なもの。自分の言うことをなかなか聞いてくれない材料まで色々あります。 けれども明らかに見てわかるように、最初の三つはとても砕かれにくいです。燃えにくいです。 そして、イエス様がもっとも大切にしたい点は、火で焼かれてあとに残るかということなんです。 コリント人への手紙第I、3:13-15
私たちは自分自身を建て上げていくにあたって、この火で試されることになるというふうにイエス様は言っています。 火とはすべてを明らかにする神の力なんです。 ある人にとっては、仕事の上での試練かもしれません。ある人にとっては、家族の中の問題かもしれません。ある人にとっては、信仰上のつまずきかもしれません。けどもこれらの火がひとりひとりの建て上げた内容を明らかにしていきます。 火で焼かれたあと、きちんと建物が建っているならば、その人は主によって報いを受けるというふうに書かれています。 焼けてしまったとしても、ここが聖書のすばらしいところですけれども、「あなた、もうダメよ。」っていうんじゃなくて、「残念でしたね。でも助けてあげますよ。」と言ってくれてるのは本当にありがたいことではないかというふうに思います。 でもできれば、火の中をくぐるようにして助かるよりは、焼け残ったほうがいいんじゃないかと思います。 じゃあ、どうしたら焼け残るような、火に耐えられるような建物を建てることができるでしょうか。 十字架に架けられたイエス様。それが中心であることなんです。 この問題はとても簡単で、且つ非常にむずかしいです。 なぜならば私たちは自分の知恵ですとか力とか、どうしてもそういうものに頼ってしまいがちです。 イエス様に祈り求めること、これよりも強い力は本当はないんです。けれども、どうしても私たちは自分と力に頼ってしまいがちです。 先週、朝集会に出かける前に私大変に困ったんです。お財布が見つからないんですよ。 この中に私の全財産が入ってます。紙幣っていう意味じゃなくて、銀行カードからキャッシュカードから、非常に大切な小さな住所録から実はその中に色々なパスワードまで書かれてたりしてですね。 これが人の手に渡ったら私は大変なことになってしまうんですね。肌身離したことないです。もうずっと。 それが日曜日の朝見つからなかったんです。で、そういうことがあっちゃいけないので、これを肌身から離すときには、置く場所は固定されているんですね。こことここ以外には絶対に置かないというふうに決めてあるんですね。ところがそこにない!! 家内に「財布知らないか?もしかしたらズボン洗濯に出すときに出したかもしれない。いやー、でも昨日帰って来るときに確かに家の前で見たから、家の中のどこかにあるに違いない!もしかしたらタクシーの中に?!」 どのタクシーだったかうろ覚えだったんですけども、タクシー会社に電話して、「落し物届いてませんか?」「いやー、まだ届いてません。でもまだ数台、戻って来てないタクシーがあるからもし届けがあったらご連絡します。」 「えー!!届けがあるまで待ってなくちゃいけない!じゃあ、今日集会に行けないかもしれない!」と思ってとっても心配しました。 あっちこっち、あっちこっち探して。普段探さない場所まで探して、探してない物見つけたりして、「あ、こんなとこにあったのか。」なんて思ったりしたんですけども。で、そこでハタと気が付いて、祈ったんですよ。 「あ、落ち着かなきゃいけない。イエス様。助けてください。なんか困ったときの神頼みで申し訳ありませんが・・・困っているので助けてください!!」祈ったんですね。 ・・・すぐにひらめいちゃったんですよ。どこだか。おトイレだったんです。 前日の夜返って来て、それからおトイレ入って、ちょっと格好悪い話で申し訳ありません。ズボン下ろしてね。その時に落ちたんですよ。だからちゃんと便器の脇にポンポンと置いてありました。 いやー、びっくりしちゃいました。あんまりダイレクトにお答えがあったので。今私がテーマにしたい困難はもう少し深刻な困難です。 けれども、私たちがもしイエス様を本当に一番にするならば、さまざま思い煩わないで、本当にイエス様を第一にするならば、本当に深刻な問題ではあればあるほど、解決しやすくなります。 私たちが建てる建物の土台、それはイエス様ご自身です。 そして私たちが建てている建物はやがて火に試されるときが来る。 コリント人への手紙第I、4:5
火は私たちの信仰を試すだけではなく、その根底に何があるのかも明らかにします。やみの中に隠れていることも明るみに出されます。 そして、そのひとつひとつに対して主は私たちに称賛をくださるというふうに。報いをくださるというふうに言っています。 もし私たちが、このパウロが私たちに語っているように、イエス様ご自身にすべての土台を置くならば、私たちはやがて天に迎え入れられた日に主からこのように称賛を与えられることが許されるというふうにパウロは言っています。 本当に辛くない人生を歩みたいじゃないですか。だけどその一番の秘訣というのは、「イエス様。どうぞあなたの思うようになさってください。」、そのように祈ることではないでしょうか。そしてそのように祈り続けることではないでしょうか。 私たちが自分の軸足をイエス様の上にしっかり置いて、そこから動かさない。そのような態度を意識して取るならば、主は私たちの信仰を咲かせてくださる。 気が付いたときには、主に試されても揺るがないような、そのような信仰にしてくださるというふうにパウロは言っています。 私自身、これまでの信仰の歩みを振り返ってみますと、とてもそんなことは言えないですね。もう、あっちにフラフラ、こっちにフラフラしちゃっています。 救われてから24、5年経つんですけども、未だにこうして兄弟姉妹とともにみなさんの前に立たせていただけてるということは、本当に主のあわれみ以外のなにものでもないというふうに思っています。 イエス様が私たちのことを本当にあわれんでくださって、捕まえていてくださるから、私たちはこのように歩んで行くことができるんではないかと思います。 そのことをいつも意識して、私たちは心に覚えていたいと思います。 最後に二ヶ所お読みして終わりにしたいと思いますが、 マラキ書3:6-7
主は、変わらないお方だというふうに言ってくださっています。 ヘブル人への手紙13:7-8
父なる神が変わられないように、私たちの救い主であるイエス様も、いつまでも変わらないお方であります。 そのようなイエス様に従った私たちの先輩たちのことを、よく見るように。そしてあなたがたも、それにならいなさいというふうにパウロは勧めています。 本当にもう、主が来られるときが間近に迫っているこの時代にあって、本当に最後のときまで、ともに助け合って、祈り合って歩んで行くことができれば本当に幸いではないかと思います。 |