一つもたがわず、みな実現した


野口修兄

(御代田喜びの集い、2006/08/04)

引用聖句:ヨシュア記21章43節-45節
43こうして主は、イスラエルの先祖たちに与えると誓った地をすべて、イスラエルに与えられたので、彼らはそれを占領して、そこに住んだ。
44主は、彼らの先祖たちに誓ったように、周囲の者から守って、彼らに安住を許された。すべての敵の中で、ひとりも彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。
45主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。

今日、兄弟にお読みいただいた個所は、ヨシュア記の最後のほうの個所なのですけれども、とても元気が出る個所ではないかというふうに思います。
特に、45節のところをもう一度お読みいたします。

ヨシュア記21:45
45主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。

たった二行のことばでありますけれども、本当に力強いと言いますか、意味深いことが書かれているな、というふうに思います。ひとことも無駄に出来ないみことばだな、というふうに感じます。
主はイスラエルの家に約束してくださったすべての良いことを、全部実現してくださったと書かれているのです。
これはイスラエルの民族が、創世記の最初からヨシュア記にたどり着くまでの間を、物語をずっと読んでくると、本当に驚くに値する宣言ではないかというふうに思います。

主はイスラエルの家に約束してくださったと書かれています。「家」というのは、私たち「建物」のことではなくて、もちろんその中に住む人のことを言っているわけですけれども、最初ひと組の夫婦から始まります。
そして子孫が増え、複数の人々が家の対象になります。家が大きくなってくると、世代を超えてひとつのファミリーになっていきます。
すなわち、主が約束してくださったこと、イスラエルの家に約束されたことという主の約束は、ひとりひとりの個人ということではなくて、「家」、すなわちひと組の夫婦から始まる、ある集合体全体に約束されているということなのです。

この約束は、最初に志を持ったひと組の夫婦だけではなく、そこから始まる複数の人々全員が対象になっているということなのです。
その中には必ずしも、いうことを聞かない人もいるかもしれません。家長や主に従いたいという気持ちを持っていない人もいるかもしれません。
けれども、そういうひとりひとりを越えて、家全体に対して主は約束してくださった。そして、その約束は実現したというふうに書かれています。

私たちは、聖書の中で有名な、

使徒の働き16:31
31「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」

というみことばのことをよく知っています。なぜそのようなみことばがあるかと言えば、聖書は私たちひとりひとりの個人だけではなくて、私たちから始まる家全体を恵みたい、救いたいと望んでいるからなのです。

「イスラエルの家」と書かれています。そうであれば私たち日本人は関係ないというふうに言えるかもしれません。
確かに旧約聖書の時代はそうでした。けれども新約聖書の時代になったことによって、イエス様が十字架に架かってくださったことによって、イスラエル以外の全ての人々、異邦人である私たちにも主の約束が与えられることができるようになりました。
主はイスラエルの家のために約束してくださいましたが、この約束されたことは実現した。そして、主が約束されることは必ず実現する約束である。その同じ約束が私たちにも与えられているということは、何てすばらしいことなのでしょうか。

このみことばによれば、すべての良いことが実現したと書かれています。先ほど申しましたように、出エジプト記からヨシュア記までのイスラエルの歩みを見てみると、その歩みというのは、もう模範的な信仰とは本当にほど遠い不信仰と堕落の歩みそのものでした。
モーセひとりだけを取り出すならば、私たちはそのすばらしい信仰に本当に頭が下がります。しかしイスラエルの家、イスラエル民族全体の信仰と歩みを見てみるならば、本当にがっかりしてしまう歴史なのです。
それにも関わらず、主は、モーセひとりという、あるいは、ヨシュアひとりというような個人ではなく、家全体に対して、すなわち、イスラエル民族全体に対して、主に従いたい者、従いたくない者も含め、その全体に対してすべての良いことを約束してくださり、実現してくださった。

私たちが滅び失せなかったのは、主のあわれみ以外のなにものでもない。旧約聖書には多くのさばきが記されています。民数記や申命記を読みますと、それらの多くの戒めと、それに伴うさばきが書かれていることを知っています。
これらのさばきは、私たちが主の道を踏み外した時、私たちに与えられる主からの懲らしめとして存在しています。
私たちの歩みが、その不信仰のゆえに、主からの懲らしめを受ける。そのような苦しみが与えられることもあるかもしれません。

けれどもそれは、私たちが頑なな心のため、弱い誘惑に負けてしまう心のために、旧約聖書に書かれている多くのさばきが全て実行されたら、おそらく私たち人類は今、存在していないに違いありません。
けれどもこのみことばによれば、そのようなイスラエル民族の歩み、私たちの信仰生活の歩みにも関わらず、すべての良いことが、みな実現したと記されているのです。
主は私たちのために忍耐をしてくださり、私たちが滅ぶのではなくて、私たちが主の道に立ち返り、主ご自身の赦しと救いと新しいいのちとを受け取ることを望んでおられます。そしてそれこそ、私たちに与えられたこの良きことなのではないでしょうか。

また、これらのイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、何と驚くことに、一つもたがわず、みな実現したと書かれています。
考えてみますと私たちは、毎日の歩みを通して、主のために多くの働きをなし、主のお役に立つすばらしい人生を送っていると言うよりは、どちらかと言えば、主に喜ばれることの少ない、むしろ主が導いてくださるのを、その計画をぶち壊してしまうような、そのような存在ではないでしょうか。
それにも関わらず、主の約束は、一つもたがわず、みな実現したと書かれています。イスラエルの歩み、歴史を見ても、彼らは本当に主に従わない歩みでした。それにも関わらず主がお約束されたことは、一つもたがわず、実現したと書かれています。

また、主の約束というものは、このみことばの通り、一つもたがわずに実現する。そのような約束です。
そこに至るまで私たちは愚かさのゆえに、遠回りや脇にそれることがあったとしても、主のお約束は必ず、一つもたがわずに実現するのです。なぜならば、主ご自身が生きておられるからなのです。
このように45節に書かれているたった二行のことばの中には、本当に多くのすばらしい宣言が込められています。そして嬉しいことに、これはただ単にイスラエルの民族に対して約束されたものではなく、私たち自身が私たちに向けられて語られたみことばだと、そのように受け取って良いということなのです。

今私たちは、さまざまな困難や苦しみのある人生を歩みながら、やがて主によって目的地に到達したその時に、私たちはひとりの例外もなく、きっとこのヨシュアのみことばの通りに告白することになります。
「主が私の家に約束してくださったすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。」、私たちがこのように告白することができるために、いったい何が必要でしょうか。
知恵でしょうか。知識でしょうか。強い意志でしょうか。そうではなく、私たちの心の有り方です。すなわち、私たちが自分の心をどこに置くかということ。それが全てを決める決定的なものになっています。

ピリピ人への手紙3:10-15
10私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、
11どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。
12私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
13兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
14キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
15ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。

パウロは、すでに自分は何かを捕えた。あるいは、完成された者となった。そのようには思えない。ただ私は、主に与えられた目標を目ざして一心に走っている。そして主ご自身が私をそのような者として捕えてくださったというふうに言っています。
私たちの心の有り方の第一は、主に捕えられた者だ。そのように思うことなのです。私たちが自分自身で何かを得た。あるいは、何かをつかんだというのではなくて、私は捕えられた。そのように思えるかどうかということなのです。

十字架にイエス様が架かってくださり、私たちの罪を赦してくださった。そのように信じることができるということも、私たちが捕えられたということと同じことです。
私たちが、自分自身で何かを得たと思っている間は、おそらく知るべきことをもまだ知ってはいないのではないでしょうか。
そうではなく、私を主ご自身がつかまえてくださった。だから私はもはや主に助けられながら一心に目標を目ざして走るのです。そのように思うかどうかということではないでしょうか。

二番目は、

ローマ人への手紙12:1-2
1そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
2この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

第二番目の心の有り方というのは、私たち自身を生きた供え物として主にささげるということであります。
私たちが自分のからだや、自分の持ち物、あるいは、自分の人生そのものを自分のものだと思っているのであれば、主は私たちを用いることがお出来になりません。
私たちは主を信じ、主によって救われた。そのことを知った時から、主ご自身のものとして買い戻されたからだであります。もはや生きているのは私たちではなく、私たちの内に主が生きていてくださっています。それは言い換えれば、私たち自身が主にささげられているということなのです。

私たちが歩むこの人生も、もはや私自身のものではない。だからどうぞイエス様。あなたが望む通りに私を導き、あなたが望むとおりに私を用いてください。そのように思うことができるかどうか。
パウロはここでは、それこそ、あなたがたの霊的な礼拝だというふうに言っています。
主は私たちからこの世の金品や財産や、ましてや私たちの能力や働きを求めているのではなく、私たち自身をお望みになっておられます。

三番目は、テサロニケ人への手紙第IIの手紙2章。2章の15節からです。

テサロニケ人への手紙第II、2:15-17
15そこで、兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。
16どうか、私たちの主イエス・キリストであり、私たちの父なる神である方、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身が、
17あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。

私たちは自分自身が主のものであると知ったあと、あらゆる良いわざとことばとに進むように勧められています。
私たちが救われたあと、私たちの歩みはどのような歩みであるべきでしょうか。相変わらず、救われる前と同じような歩みをするべきでしょうか。
主は、私たちがあらゆる良いわざとことばとに進むことができるように、私たちを慰め、強めてくださいます。そして私たちがその道を進むことによって、すばらしい永遠の慰めと望みとを味わい知ることができるように、用意をして待っていてくださいます。

主のみこころに従って歩む歩みの中には、苦労はあっても、尽きることのない喜びが与えられます。
その歩みのためには私たちは、全てを用いて歩むべきではないでしょうか。
同じテサロニケ人への手紙第II、3章の6節。

テサロニケ人への手紙第II、3:6
6兄弟たちよ。主イエス・キリストの御名によって命じます。締まりのない歩み方をして私たちから受けた言い伝えに従わないでいる、すべての兄弟たちから離れていなさい。

とても厳しいことばであります。パウロは「締まりのない歩み方」と言っています。
本当に私自身、自分の歩みを振り返り、反省してみて、この「締まりのない歩み方」ということばに、本当に心痛いものがあります。
絶えずみことばに自分自身を照らし合わせ、主が喜んでくださるように、あらゆる良いわざとことばに進むことができるように私たちが努めなければならない。そのように思えなければならないということです。

四番目は、ペテロの手紙第Iの5章の7節。

ペテロの手紙第I、5:7-11
7あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
8身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
9堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。
10あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。
11どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。

この今の終わりの時代にあって、ペテロが私たち信者に伝えたかったこと。それは、「堅く立って、悪魔に立ち向かいなさい。」というメッセージでありました。
ここで私たちは、悪魔に立ち向かうように言われています。けれども私たちはそのような力を持っているのでしょうか。私たちは自分の力で悪魔と立ち向かうのであれば、おそらく私たちは絶望ではないかと思います。
私たちは絶えず悪魔によって狙われていると書かれています。すなわち、私たちが何もしないでボーっとしていては、あっと言う間に悪魔の餌食になってしまいます。けれども、私たちがもし、目をさましているのであれば、主が私たちを守ることがお出来になります。

この個所を見てはっきりわかるとおり、私たちは悪魔に立ち向かうということが求められていますけれども、戦ってくださるのは主ご自身であります。勝利をしてくださるのも主ご自身であります。そして私たちはしばらくのこの戦いの苦しみのあとで、主によって不動の者とされると書かれています。
ただ、私たちにとって最も大切なことは、目をさましていること。そして、悪魔に対して備えているということではないかと思います。
だから私たちは自分自身を主にささげる必要があり、悪魔から遠ざかり、良いことばと良いわざとに心を砕かなければならないのであります。

五番目に、最後にエペソ人への手紙の6章。エペソ人への手紙の6章の11節。

エペソ人への手紙6:11-18
11悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
12私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
13ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
14では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
15足には平和の福音の備えをはきなさい。
16これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
17救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
18すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

このように書かれています。先ほど私たちは、悪魔に対して立ち向かうべきことを学びましたけれども、そのための備えのみことばは用意してくださっています。
ここにはさまざまの備えが用意されています。真理の帯、正義の胸当て、平和の福音、信仰の大盾、そして救いのかぶとと、剣である神のことば。
真理と正義と平和の福音と信仰。そして救い。これらは帯であり、胸当てであり、足にはくものであり、大盾であり、かぶとです。身に着けるものです。全部。守るための道具であります。

私たちに与えられている唯一の攻撃の武器は、御霊の与える剣である神のことばだ、というふうに書かれています。
すなわち、私たちが悪魔を退散させるのに最も有効な攻撃の武器、それこそ神のことばであるみことばなのです。
このみことばの剣を最も有効に用いることができるためには、私たちはこれらの守りの武具をしっかりと身に着けていなければなりません。

もし私たちが丸裸で剣一本持たされても、戦いに勝つことは、きっと出来ないです。私たちはしっかりと身を守られている時にだけ、有効な攻撃をすることができます。
これらのものは全て聖書の中に用意されています。
したがって私たちは、本当に日々、みことばをいただき、日々祈り、賛美し、兄弟姉妹との交わりを通して互いに徳を高め合い、日々を歩んで行く励ましと力とをいただくことができるのではないでしょうか。

主が与えてくださった私たちに対する約束は、一つもたがわずに、実現します。
ですから私たちはそれを励ましにして、本当に力強く日々の信仰の歩みを歩んで行くことが赦されています。
そのために私たちは本当にへりくだり、主ご自身を自分の中心にお招きし、私たちのご主人であると、主のことを受け取ることができれば、本当に幸いではないかというふうに思います。




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