引用聖句:コリント人への手紙第I、1章5節-9節
私が転勤になりましたときに、近くに兄姉がお住まいになっていらっしゃって、私たちが住むところを探すのを手伝ってくださって、色々温かい交わりをいただきました。 その頃中学二年生ぐらいだった息子さんも、主のみことばにむさぼりつくようにのめり込んで、今こうして兄弟として交わりをもつことができるようにされているのは本当は嬉しく思っています。 当時兄姉が私たちのことを本当に色々手伝ってくださったり、守ってくださったりして、私たちも息子さんたちと親しく交わらせていただいて、今度は今、彼らが兄弟として私の子どもたちのことを本当に心配して、祈ってくださっている。そういう世代ごとに祈り合う間柄にしていただいているというのも、本当に感謝だなぁというふうに思っています。 私たちこの集会にあって、ひとりひとりみなさんがお互いに、聖書に書かれているイエス様の愛をいただいて、お互いに愛し合う。そのような交わりがどんどんどん育まれていくということ自体が主によって祝福されている、あるいは主のすばらしさそのものが集会の中に現われているということの証しではないのかというふうに思います。 今日読んでいただいた個所は、パウロを通して伝えられた、イエス様が私たちに与えてくださっている本当にすばらしいお約束についてでありますけれども、 コリント人への手紙第I、1:8
というふうに書かれているんです。 本当に最後まで堅く保ってくださる主。そのような主を私たちは信頼し、信じているんだということのすばらしさだと思います。 このコリント人への手紙というのは、読んでいただくとおわかりのように、非常に問題に満ちている手紙なんです。 この当時、コリントという町にあった集会のクリスチャンたちは、主を信じていながら、もう多くの問題を抱えていたということが、の手紙を見るとわかります。 そのような人たちに、今から厳しい手紙を書かなければいけない。パウロが手紙の冒頭に書いたことば、それが、「主は私たちを最後まで堅く保ってくださる。」という約束だったわけなんです。 このことは、コリントにおかれている兄弟姉妹たちの状況とか、問題とかを考えると、本当にびっくりするようなことなんです。 道から外れてしまった兄弟たち。悔い改めようとしない兄弟たち。罪をそのまま抱えて引きずっている兄弟たち。互いの間でいがみ合ったり、問題を起こし合っている兄弟たち。 そのような群れに向かって、「あなたたち、私たちの仲間から出て行きなさい。」と言うことは、とっても簡単だと思うんです。 けれどもそうではなくて、そのような人たちに対してパウロは、最後まで堅く保ってくださる、そのように語っているんです。 本当にそのことは不思議なことであり、私たちに対しても多くのことを語っているんではないかというふうに思います。 今お読みした個所の中には、すばらしい主のお約束がどうして可能であるかという、その根拠について、そして私たちがこのすばらしい約束からどのような祈りの心が与えられるかということについて書かれているんではないかと思います。 5節のところには、あなたがたは、ことばといい知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたというふうに書かれています。 私たちはただ単にみことばを読んで、神についての知識を得たというだけではありません。それだけではおそらくきっと何の役にも立たないんです。かえって高慢になるばっかりではないかと思います。 ことばも知識も与えられ、それだけではなくて、キリストにあって豊かな者とされた。それはどういうことかと言うと、みことばが私たちのうちにあって、力となっているということなんです。 「ただ単に人はパンのみにて生きるにあらず。」ということばを知っているかどうかだけではなくて、本当に私たちはこの世の中がお金だけではない。本当に主の導きがあって初めて私たちは豊かな人生を歩むことができるんだということを経験したときに、このキリストにあって豊かな者となったというふうに言うことができるんではないかというふうに思います。 9節のところには、 コリント人への手紙第I、1:9
というふうに書かれています。このみことばは私が、今ここに聖書の脇にチョコッと日付が書いてあるんですけれども、1982年と書いてあります。 その年に私、洗礼を受けたんですけれども、ちょうど20年前になりますけれども、そのときに与えられたみことばだったんです。 そのとき私は聖書については比較的知っていました。「イエス・キリストが私の罪のために十字架に架かってくださったということについて述べよ!」と言われれば、述べることができたんです。 でも、それが自分にピンと来なかったんです。イエス様が自分のために死んでくださったということは、確かにそのように書いてあるということを理解することはできたんですけれども、自分自身が本当にそのような者であるということについてなかなかピンと来なかったんです。 でもどうしてもイエス様を信じて、救いを得たいという気持ちが強くありました。 そのときに私にとって唯一の手がかりになったみことばというのは、この、「神は真実である。」ということばだったんです。ことばの上では聖書に書かれていることをわかるかもしれない。でもそれが本当なのかどうなのか。 あるいは、これからの自分の人生においてこれがどれだけの意味をもってくるのかわかりません。でも、この「神は真実である。」ということばがもし本当であるならば、残り全部は100%間違いないに違いないというふうに思ったんです。 ですから、私が本当に主を信じて、主の前に悔い改めて、救いを祈り、そして洗礼を受ける勇気が与えられたみことばというのは、この「神は真実である。」ということばだったんです。 これがあるならば、あとのことは今はピンとは来ないけれども、間違いはないだろう。その結果、20年経って本当に主は私に対して真実を尽くし続けて来てくださったということを心から証しすることができます。 そののち本当に自分自身がさまざまなことを通して、主が私のために死んでくださったことの理由もはっきりとわかるようにさせていただきましたし、今私が主によってどのような歩みをするべきか、示されているのかということについても色々わからされるようになってきました。 もし私たちの主が真実であるならば、きっと最後まで堅く保ってくださると約束されているんですから、これは間違いないことになるでしょう。 私たちにとって幸いなことはこの個所の、最後まで固く保ってくださることの根拠として、主の真実ではなくて、私たちの真実が求められているとしたら、本当に恐ろしいことであります。 主は私たちの真実については、あんまり問題になさっていないんです。真実でないことがわかりきっているからなんです。 私たちの移り変わりやすさではなくて、ご自身のお約束、みことばの確かさのゆえに、最後まで堅く保ってくださるという約束があるんです。 続いて、その方のお召しによってというふうに書かれていますけれども、召されるということばはあまり私たちは使わない。普段使わないことばなんですけれども、自分から離れてちょっと遠くにいる人に声をかけて、自分のところに呼んで来るという意味のことばですよね。 すなわち主ご自身から私たちのほうに、私たちがどこにいるかまったく関係ない、私たちのいるところまで主が目を留めてくださり、肩を叩いて、振り向かせてくださって、わたしのところにいらっしゃいというふうに呼んでくださるというのが、召してくださるということの意味なんです。 主が召してくださるのであれば、私たちは安心して来ることができます。私たちは罪にまみれてる者ですし、主の前に真実な者ではないにも関わらず、どうして主は私たちを呼んでくださるのでしょうか。 それはイエス様が十字架に架かってくださったから。それ以外のことではありません。 なぜならば、イエス様が十字架に架かってくださったことによって、私たちのすべての罪はもうすでに赦されています。赦されているだけではなくて、償われているんです。 聖書はそれを私たちが義と認められているということばを用いて表わしていますけれども、もし私たちが主に何か願い事があると考えてみましょう。 私たちの家族に対する守りを祈るかもしれませんし、何かこれからやろうとしていること、困難なことを何とか導いていただきたいという願いをもって祈るかもしれません。あるいは今置かれている問題をどうにか解決してほしい。そのように願うかもしれません。 しかしもし私たちが神に対して負い目があるとしたら、お願いしづらいですよね。それは対人関係においても同じことだからです。 私たちが何か悪いことをしてしまった。「しまったなぁ〜。」と思っている人に対して、何かお願いしなきゃなんなくなった。すごく気まずい状況ですよね。 悪いことをしてしまったそのことを、あたかも無かったことのようにして、「悪いけどこれお願いできませんか。」、ちょっといけないですよね。 やっぱり私たちとその人の間にある気まずい出来事を完全に処理して、処理しただけではなくて、良い間柄になって、それで初めてお願いができるんじゃないでしょうか。 主と私たちとの間はどのような関係でしょうか。主は私たちのすべての罪を赦してくださっただけではなくて、償ってくださったんです。 そして、償ってくださっただけではなくて、「もう一度、新しい愛の交わりを始めましょう。」と言ってくださっているんです。 私たちの側からするべきことは、その主が成してくださったことに対して頭を下げる。それだけなんです。 イエス様がすでにすべての罪を贖ってくださいましたから、主からは私たちが罪人のようには見えていないんです。 義と認められるということは、正しい者であると宣言されたということなんです。もはや罪人ではないということなんです。神さまの目から私たちをご覧になると、私たちは完全無欠な人間に見えるというのは聖書の判断です。 私たちは自分のことを考えたら、とてもとてもというふうに思いますよね。でも、イエス様がそれを成してくださったんです。私たちにはとてもできない事がらをイエス様が十字架の上で成し遂げてくださったんです。 ですから私たちが義と認められているということは、私たちは神の前には完全無欠な人間と映っている。だから何でもお願いしていいですよというのが聖書の勧めなんです。 本当にびっくりすることではないかというふうに思います。 ローマ人への手紙3:23-24
義と認められるというのは、私たちが償いをするからではなくて、ましてや私たち自分自身が立派な人間だからでもありません。 私たちの罪がいかに大きかろうと小さかろうと関係なく主はご自身の愛と恵みとのゆえに、私たちを義と認めてくださっているんです。 十字架の上でイエス様は、愛するひとり子としてではなくて、あたかも全人類の罪そのものとして取り扱いをお受けになりました。 クリスマスの日に聖なる方として本当に世にも不思議な生まれかたをなさったイエス様は、その地上の歩みの最後のときには、その聖さとはまったく相容れないお姿で死なれたんです。 十字架とはもっとも大きな辱めであり、惨めさであり、苦しみでありました。本当は私たちが受けなければならないはずのものだったんです。けれどもその罪に対する主のさばきは、十字架の上でイエス様の上に下されました。 ローマ人への手紙4:24-25
この4章の25節、非常に短い個所ですけれども、マルティン・ルターはこの個所を小さな聖書と呼んだんです。25節に聖書のすべてが要約されている。 イエス様は、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられた。それがすべてであるということなんです。 それでは私たちはいったいどうしたらよいのでしょうか。 ローマ人への手紙5:1
私たちは主が成してくださったみわざを信じる。そのことだけを求められており、イエス様が私たちのために死んでくださったと信じるならば、それで義と認められるということなんです。 ローマ人への手紙というのは、信仰による義と私たちの行いによる義というものがどのように違うのか、ということについて詳細に書かれていますけれども、私たちは自分が神と再び良い関係を保つために、良い行ないをして、一生懸命償いをして、その結果、努力を認めていただくというのではなくて、ただ単に主の前に頭を下げる。 そして主が成してくださったわざが、みわざが十分であったと信じる。そのことだけで目的を達することができるというふうにイエス様は仰ってくださっているんです。 ローマ人への手紙8:18-24
イエス様が私たちに呼びかけて、召してくださって、私たちを義としてくださいました。 そして私たちは義とされただけではなくて、主ご自身の栄光のうちに召してくださっているということがわかります。今お読みしましたローマ人への8章のところに「栄光」ということばが度々出てきます。 「栄光」ということばは、主のご支配が100%満ち満ちている、そのような状態を指しています。すなわち、そこにはもはや死も罪の重荷も憎しみも欠乏も、人間のあらゆる苦しみの原因はもう存在しない、そのような現実です。 主はイエス様を遣わされることによって、私たちの苦しみと虚しさの人生から救い出してくださる道を開いてくださいました。そしてこの栄光のうちに、招き入れられるというすばらしい望みを私たちに与えてくださっているんです。 今までごいっしょに考えてきましたように、十字架の上でイエス様はすべての人の救いのためにみわざを完成されて、イエス様のよみがえりは私たちの死が、決してすべての終わりではなくて、新しいいのち、義とされたいのちの現れであることを表しています。 私たちイエス様を信じる者は、この来たるべき栄光を望み見ることによって、今の時のあらゆる苦しみに立ち向かう力が与えられます。 18節にはパウロは、今の時の苦しみとそしてやがて私たちに与えられようとしている栄光とを比較して、その結果、今の時の苦しみはまったく問題にならない程度のことだと言っています。 それは、この苦しみは決して永遠に続くものではないのに対して、私たちにやがて与えられる主の栄光というのは永遠のものだからなんです。 確かに今の私たちにとっては、この今の時の苦しみは、決して軽いものとは思われないかもしれません。 場合によっては、愛する者と死に別れなければならなかったり、病に体が侵されていったり、裏切りに会ったり、自分の罪の大きさに押し潰されそうになったりするかもしれません。ですからパウロは、私たちもともにうめきともに産みの苦しみをしているというふうに言っているんです。 けれども、これらの苦しみは、パウロは取るに足りないものだと言っていますから、それから考えても、やがて私たちに与えられる主の栄光というのは、私たちには計り知れないほどのものではないかと思います。 やがて私たちは、主の御国に招き入れられ、たどり着くことが約束されています。そこは主の栄光が満ち、本当にすばらしいところです。 先に召された兄弟姉妹たちは、今もうそこにあって、主のすばらしさをほめたたえて・・・ (テープ A面 → B面) ・・・飾り立てられているからすばらしいんでしょうか。 そうではないんです。そうかもしれないけどね。でもそんなのは大したことじゃないんです。どうして御国がすばらしいんでしょうか。そこは神のご支配が100%の場所だからなんです。 今のこの私たちが生きているこの世界、この世はどのようなところかというと、サタンが支配している場所だと聖書は言っています。 ですから私たちは、善を願ってもなかなか行なうことができません。一生懸命、一生懸命努力して、たまに良い行ないをしたり、良い事をしたりすることができるかもしれません。 でもその途端に有頂天になって高慢になったり、せっかくいいことをしたのに台無しにしてしまうことがよくあるんじゃないかというふうに思います。 それはこの世界がサタンに支配されているからなんです。でも御国ではサタンがいないんです。悪がありません。罪も存在しません。ですからそこにあって私たちは、ごくごく自然に何を考えなくても良いことしかできない。 もし罪を犯したいと、地上にいた頃の罪を思い出してね、「あれ良かったな、あの罪。」とか思って、やりたいと思っても、一生懸命努力しても、罪を犯すことができないんですよ。だからすばらしいんです。 もしこの地上にあって、すべての人が憎しみを持たなくなってしまったら、たぶんこの世から法律が無くなると思うんです。必要なくなってしまうからなんです。 けれども、ひとりでもそうでない人がいる限り、法律が必要になります。そしてそのために私たちは自分自身を守らなければならなくなってしまいます。そのために人を信じることができなくなってしまうんです。 でも神の国にあっては、まったくそんな心配がない。そこにはもちろん神の秩序がありますし、神の定めがあるでしょう。でもそこで規則を云々する人はひとりもいないんです。必要がないからなんです。 ですから私たちはそのようなすばらしいところにたどり着くことが約束されているんです。 そのようなことは今私たちには実感をもってあまり理解することはできません。けれどもそれがやがてはっきりするときが来ます。私たちが義と認められているということは、この神の国にはいるための最大の条件であります。 そしてこの来たるべき主の栄光にあずかる準備でもあります。しかし幸いなことにそれは私たちに約束されていることなんです。 コリント人への手紙に戻りたいと思いますけれども、第一の手紙の1章9節で、神は真実であること、そして真実な主が私たちを召してくださったことについて考えましたけれども、最後に私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたと書かれています。 すなわち、私たちは本当に赦されて、罪人でなく、義人とされたというだけではなくって、主の家族に加えていただいたということなんです。ですから私たちは互いに兄弟姉妹と呼び合っているんです。私たちはもう、ひとつの大きな家族の一員に加えていただいている、もうお兄さん、お姉さんなんです。 で、イエス様ご自身が私たちの一番上のお兄さん。そこからすべての主にある兄弟姉妹がひとつの家族になっています。それはどういうことを意味しているかと言うと、主なる神はイエス様と私たちを同じに見ているということなんです。 すなわちもし主が倒されなければ、私たちも倒されることはない。主が勝利をされるならば、必ずわたしたちも勝利にあずかるということなんです。 イエス様が歩まれた道、イエス様が成し遂げられたわざ、そしてイエス様に与えられる栄光とすばらしさ。それはみんなあなたがたにも与えますということなんです。その結果私たちはどのような思いが与えられるでしょうか。6節ですね。 コリント人への手紙第I、1:6-7
パウロは、キリストについての証しがあなたがたの中で確かになったというふうに言っています。 私たちが主の歩みを自分の歩みとして歩むことによって、イエス様についての証し、すなわちイエス様が成してくださったこと、イエス様がご経験されたこと、ひとつひとつ私たち自身が経験することができるようになっていく。 そしてそれは私たちが主とともに歩むにしたがって、ますます確かなものとされていく。確かなものとされていくことによって私たちはさらに励まされるようになっていくということなんです。 その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、熱心にイエス様の現われを待つように変えられていくでしょうというふうにパウロは言っています。 日々私たちは、主を待ち望む者と変えられていきます。 イエス様はこの地上に下りて来られましたけれども、最初から最後まで、自分はこの世のものであるとはまったく思っていらっしゃらなかったでしょ? 私たちもだんだん主ご自身の歩みをいっしょに歩んでいくことによって、自分たちがこの世のものではないということをだんだん理解するようになっていきます。 その結果どうなるかと言えば、早く家に帰りたいという思いではないかと思います。それこそ私たちの主イエス・キリストの現われを待つという状態そのものではないかと思います。 ヘブル人への手紙12:1-3
イエス様は私たちの信仰の創始者であられるだけではなくて、完成者であるというふうにヘブル人の手紙には書かれています。 すなわちイエス様は私たちの内側に求める心を起こし、救いをあずからせてくださっただけではなくて、最後まで完成してくださる。そのようなお方なんです。 ですから私たちは、そのイエス様から目を離さないでいなさいというふうに言われています。私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんかというふうに言われています。 イエス様から目を離さないことによって、私たちは励まされます。イエス様がどのような歩みをなさったか、そこに目を留めることによって元気を取り戻すことができます。 イエス様は自分のほうに見向きもしないような、かえって自分自身に対して悪意をもって向かって来るような人に対して、喜んでその人の犠牲になりたいと思ってくださったんです。 私たちに対しても、あるいは私たちの信仰に対して悪意や敵意をもって来る人はきっといると思います。 でもイエス様がそのような人たちにどのような態度を取ったかということを考えてみると、私たちはどのようにしたらよいのか、主から導きを得るのではないかというふうに思います。 そしてイエス様がそのような忍耐をもたれたということは、私たちもここに書かれていますように、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわない。 私たちがイエス様がどのように成されたか、そのことに目を留めることによって、私たちは再び元気を取り戻すことができるんではないでしょうか。コリント人への手紙第Iに戻りたいと思います。 コリント人への手紙第I:8
これだけ考えてきたあとにもう一度、このみことばを見ますと、本当にびっくりします。 私たちの不真実な歩みにも関わらず、主は最後のときには、責められるところのない者として、立たせてくださる。それも、よろけるような立ち方ではなくて、しっかりと立たせてくださるというふうに言ってくださっているんです。本当にすばらしいことではないでしょうか。 テモテへの手紙第IIの1章。私の大好きなパウロの証しでありますけれども、 テモテへの手紙第II、1:12
私たちもパウロと同じように、その時まで、その日まで主が私自身を守ってくださることができると信じることができれば本当に幸いではないかというふうに思います。 新年の、「一年の計は元旦にあり」と昔の人は言いましたけれども、本当に私たちはそのことを心にしっかりと留めて、この一年を歩むことができれば、本当に主の恵みを十分にいただくことができるのではないかと思います。 |