引用聖句:マルコの福音書9章21節-27節
イエス様が悪霊に憑かれた子どもを助けてくださったという、そういう記事なのですけれども、とっても印象的な会話がここで交わされているのをみなさんお気付きになると思うのです。 この子の父親というのは当初、主が自分の子どもが本当に苦しんでいるのを見て、自分の手に余る本当に大きな問題、そのためにどうしたらいいのだろうと思って苦しんでいたわけです。 そこで彼はイエス様のことを聞いて、もしかしたらイエス様なら助けてくださることができるかもしれないと思って、藁をもすがる思いでイエス様のところにやって来たのです。そして、「もし、おできになるものならば、助けてください。」というふうに言いました。 日本語ですと、こういう言い方というのはどちらかと言うと、丁寧な言い方なのだろうと思うのですけども、英語でこういう言い方をするときというのは、本当にそれができるかどうかわからないのですが・・・という、不信を表明する言い方になってしまうのです。ですから、丁寧な言い方で言ったということではないということなのです。 それをイエス様はお聞きになって、「できるものなら、と言うのか。」というふうに仰いました。それを聞いたとき、このお父さんはとっても自分の内側に問題があるということに気付かされてしまったのです。 最初は自分の息子の問題で心がいっぱいだったわけです。けれどもそうではなくて、自分のがわに大きな問題があって、むしろ助けられなければならないのは息子だけではなくて、自分もいっしょに助けてもらわなければならないということに気付かされられたのです。 そこでお父さんは「信じます。不信仰な私を助けてください。」というふうに言っています。 この「信じます。不信仰な私をお助けください。」というこの言葉は、英語の聖書とかを見ますと、こう書いてあるのです。 "I do believe, but not enough, help me to have more." と書いてあるのです。要するに、「信じています。でも十分ではないのです。ですからもっと信じることができるように助けてください。」というふうに書かれています。 それを日本語にすると、こういうふうに「不信仰な私を助けてください。」という訳になるのかもしれません。 このお父さんは自分がもっともっと、ただ単にイエス様はもしかしたらできるかもしれないという希望と言うか、望みというだけではなくて、自分自身が根本的に主によって救われ、助けられ、揺るぎない信仰を持たなければならない。 そういうものが自分の内側に無い。空っぽなのだということにはっきり気付かせられたのです。 主はしばしば私たちの目の前の障害とか、困難とか、そのようなものから解放してくださるだけではなくて、そういう苦しい問題を通して私たちの根本的な問題に光を当てて解放してくださる。解決してくださる。そのようなお方だというふうに言うことができるのではないかと思います。 もう何十年も前になりますけれども、私がまだ学生だったときに、その当時、まだ地方に集会を持ってなかった時代です。 もう吉祥寺だけでしかクリスチャンたちいませんでした。もう若い人たち大ぜい集まって、みんなで毎週集まったり、年に何回かキャンプしたりとか、自主的にしたりしていたのです。 ある冬のキャンプのときにみんなで集まって、色んなテーマで話し合ったりしていたのですけれども、あるとき、もしあなたの親しい友人が何か罪に陥っているということがわかったら、どんなみことばを送ってあげますかというテーマでみんな色々各自考えて、話し合いをしたのです。 私ならこういうことばを送ってあげます。って、そういうのがたくさん出てくるかと思ったら、そうではなかったのです。 そういうことを言った人はひとりもいなかった。そうではなくて、何かかえって自分自身の抱える問題とか、罪とか、そういうものに対してどんなみことばが本当に自分を心から変えたかということを語り始めてしまったのです。 だれかにそのみことばを送ってあげるなんて、そういう余裕は私にはないというのが、不思議なことにみんなの一致した気持ちだったのです。 たくさん色んなお証しやみことばが、そのときに出されたのですけれども、とても印象的だったのが詩篇の103篇です。ダビデによる、と書かれていますけれども、下の段の8節のところからお読みします。 詩篇103:8-14
こういうふうに書かれています。10節のところに、私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、というふうに書かれているのです。これは本当にびっくりするようなことなのです。 もし神様が私たちをご覧になって、私たちの罪にしたがって私たちを正しくさばかれるという、そのようなお方だったらいったいどうでしょう。私たちはおそらくだれも立っていることができなくなってしまうのです。 14節のところには、主は、私たちがちりにすぎないことを知っているというふうに仰っています。けれどもそのちりにすぎない、すなわち捨てたほうが良いと思うくらいの存在である私たちに対して、むしろあわれんでくださって、ご自分の血を流してくださって、痛み、苦しみを受けてくださって、いのちを捨ててくださって私たちの救いを望んでくださったのです。 私たちがもし主によって生かされることができるとすれば、主の恵みが私たちの上にそそがれているから。それ以外には理由がありません。私たちは主の十字架によって、自分のすべての罪を赦され、私たちの罪はすべて主が代わりに罰を負ってくださいました。ですから私たちは主の前に立つことが赦されているのです。 主は私たちを、罪にしたがって扱うことをせず、私たちの咎にしたがって、報いない。というふうに約束してくださったのです。 小さいとき、私ちょっとピアノを習っていたのですけれども、団地の集会所みたいなところでレッスンを受けていたのですけれども、そのピアノのレッスンよりも楽しかったのは、待っている時間なのです。 友だちが順番に時間にやって来るじゃないですか。で、少し早く行くと遊べるのです。集会所のところで流行った遊びは、椅子を積み上げて跳び箱をやるというのが私たちの楽しみだったのです。 何段跳べるかとか、すごく楽しかったのですけれど、私は比較的たくさん跳べたのです。だいたいピアノを習いに来る子なんてあんまりスポーツマンいないでしょ。そんな中で私は結構身軽だったものですから跳ぶことができたのです。 あるとき、今まで自分が跳んだことがないくらいたくさん積み重ねて跳んだのです。大失敗しまして、倒れて、怪我はしなかったのですけれども、ものすごい大きな音がしたのです。ガラガラガッシャーン。すごい音がしたのです。 さすがに先生がびっくりして、そのレッスン室のほうから飛び出して来て、ひと目で何が起こったかわかって、私はもう怒られるかと思ったのです。 そのとき。もうシューンとして、これはもうゲンコツのひとつやふたつ来るかなぁと思って、覚悟していたのですけれども、そのときにその先生は怒らなかったのです。そうではなくて、「待たせてごめんね。」って言ってくださったのです。それが本当に、何と言うか、ショックと言うか、びっくりしたことだったのです。 もう当然怒られると思っていました。けれどもそのとき何か幼い心の中に、赦されるということがどういうことかということを、そのとき何か感じたのではないかなというのが遠い遠い記憶の中であるのですけども、なぜかその場面だけよーく覚えているのです。 私たちは本当だったら咎められなければならない。罰を受けなければならないはずだった。ところが許されたということの、その大きさと言いますか、そのことのすばらしさというのは本当に自分の罪ということがわかると、どんなにすばらしいことなのかということがやっとわかるようになるのではないかと思います。 私たちはそうして自分の罪を知り、イエス様が私たちの代わりに自分の罪のすべての罰をお受けになってくださって、赦され、イエス様の前に立つことが赦される。そのような者として変えられた。そのことは本当にすばらしいというふうに思うのです。 けれどもそのようにしてクリスチャンになり、歩み始めて喜ばないものがいるのです。それは悪魔なのです。この悪魔は何とかして私たちをくじけさせたいというふうに思っています。 そこで、どのような攻撃をしてくるかと言いますと、 「いや。あなたは救われた。罪が赦されたと言っているけれども、相変わらずではないか。相変わらず悪いことはするし、主を裏切るし、自分勝手な思いで何でもやってしまうし、全然変わってないではないですか。 主を知って、主の前に頭を下げているにも関わらず、そのようなことをしているようでは、もうあなたのためにもう恵みは残っていない。 あなたのやっていることは全然、クリスチャンと言いながら、主を証しする、そのような生活ではないではないですか。 もうあなたのことを主は愛することができない。あなたはもう主のもとに帰る資格は無いのだ。」 そのような責めというのは、悪魔が私たちに絶えず持ちかけて来るものです。これに耳を貸してしまうと私たちは最初の暗やみの中に突き落とされてしまいます。 確かに、救われて私たちは相変わらずです。弱いです。愚かです。良くなっていません。だから救われなければいけなかったわけなのです。 私たちは救われて、スーパーマンになったわけではないのです。相変わらず主の助けを必要としていますし、主の守りを必要としている、そのような者なのです。それは毎日毎日必要ですし、これからこの地上の歩みをして行く間、ずっと必要なことなのです。絶えず悔い改めなければならないし、日々主に新たにされなくてはならないし、主にいつでも導きを与えていただかなければ、すぐに迷ってしまう、そのような者なのです。 主はそんな私たちに何て仰っているかと言いますと、 ヨハネの福音書6:34-40
このようにイエス様は仰ってくださったのです。37節のところに、 ヨハネの福音書6:37
というふうにイエス様は仰ってくださっています。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てない。」とイエス様は仰っています。 私たちがイエス様のところに行くかどうかだけの問題なのです。そこでイエス様のところに来て、私たちが立派に歩むかどうかは問題にされていないのです。たどりつく私たちがすばらしい人間かどうかは問題にされていないのです。 問題なのはイエス様のところに来るかどうかだけなのです。その先はイエス様の問題なのです。イエス様は、「わたしは決して捨てない。」というふうに仰ってくださっています。 いったいいつまで私たちは主の恵みのうちにいれられていることができるでしょうか。 イエス様は「決して捨てない。」というふうに仰いました。すなわち私たちはイエス様のところに行きさえすれば、イエス様は永遠に私たちのことを見捨てることがない。そのように約束してくださっているのです。 したがって、どんなに悪魔が私たちのことを責め立てることがあったとしても、私たちがどんなに誘惑に負けたり、自分の古い気持ちに負けてしまったり、主をがっかりさせるようなことをしてしまったりしたとしても、それはイエス様が私たちを捨てる理由にはならないのです。 39節のところでは、イエス様を遣わしてくださった方、すなわち天におられる父なる神のみこころは、イエス様に与えられたすべての者を、イエス様はひとりも失わない。そしてひとりひとりを終わりの日によみがえらせる。そのように言ってくださっています。 イエス様に与えられた者、そのような者はイエス様は絶対失わない。絶対に手を離さないというふうにイエス様のほうが言ってくださっています。 私たちはイエス様の手を離すかどうか。それはあまり関係ない。そうではなくて、イエス様のほうが私たちの手を絶対に離さないと言ってくださっているのです。 昔聞いたメッセージの中で、猿の信仰と猫の信仰というのがあるというメッセージを聞いたことがあるのですけれども、猿の信仰というのは、生まれた赤ちゃんの猿はお母さんのお腹にしがみ付いています。お母さん猿は気を付けてはいるのでしょうけれども、それでも岩から岩へ、枝から枝へピョンピョンピョンピョン跳び回って。赤ちゃんがもし手を離したら最後です。 一方猫の信仰というのは、猫のお母さんというのは赤ちゃんの仔猫のうなじのところをがぶっと噛んで、それで吊し上げるのです。連れて。どこでも連れて行くのです。もう赤ちゃん猫のほうはボヨヨンとリラックスして済むことなのです。 幸いなことに私たちに赦されている信仰というのは猫のほうなのです。私たちが必死でしがみ付いていなければ置いて行かれてしまう、捨てられてしまうというのであれば、もう本当に大変だと思います。 けれどもそうではなくて、イエス様はイエス様のほうが私たちをつかまえて絶対に離さないと言ってくださっているのです。どんなにすばらしいことではないかというふうに思います。 イエス様はご自身が生けるパンであるというふうに仰いました。なぜイエス様がご自身をパンに例えたかと言うと、私たちはイエス様を食べるべきだということなのです。 食べるというのはどういうことかと言うと、私たちの内側にイエス様をお迎えすることだということなのです。心の中に私たちの主がいてくださるかどうか。それがすごく大切なことです。 食べ物というのは私たちを生かす力になります。すなわちイエス様ご自身が私たちを生かしてくださるいのちの源であり、いのちそのものとなってくださるということなのです。 私たちが立派になったり、強くなったりするために私たちはイエス様をいのちのパンとしてお受けするのではなくて、主が私たちの内に生きてくださるために私たちはイエス様を受け入れるのだと思います。 イエス様を受け入れる、あるいはいのちのパンであるイエス様を食べるというのはどういうことでしょうか。私たちの人生の全て、私たち自分自身全てをイエス様に明け渡すということではないかと思います。 私が本当に主に救いをいただいたということがはっきりわかったのは、20歳のときだったのですけれども、そのときイエス様にひとつの祈りをしたのです。 それは、これから私はどのくらい生きるかわからないし、どのように生きるかも全くわからないけれども、あなたが私のことを救ってくださったから、私の残りの人生をイエス様にお返ししますというふうに祈りました。 それは本当にこれからどういう歩みになることがあったとしても、それは主が導いてくださる。自由に私をどこにでも連れて行って、自由に私の人生を使ってほしい。そのような祈りをしたのをとってもよく覚えています。 ここにいつでも戻れば、私は最初の主の愛のもとに立ち返ることができるという、そのような経験をこれまで何度も何度もしてきました。 相変わらずあっちへフラフラ、こっちへフラフラ・・主の道から外れるような毎日ですけれども、でも主は必ず私のことを導いてくださるということをはっきり信じることができます。 そして自分自身の主人は、自分ではなくてイエス様である。私の人生はもうイエス様にお返しした人生だというふうに、そのような気持ちでいると、もうすごく安心です。 どうなってもイエス様は必ず責任を取ってくださいますし、わがままになったとしてもわがままになりすぎることがないというか。ですからこうしてそれから20何年経ちましたけれども、未だにこの主の祝福のうちに加えていてくださっている。 私は結構飽きっぽい性格なのです。ひとつのことに夢中になるのですけれども、しばらくすると飽きて離れて行ってしまうことが多いのですけれども、それにも関わらず未だにこうして主の群れに加えていただいているというのは私の性格ですとか、そういうことをはるかに越えて、主が私をつかまえて離さない。そういう恵みそのものではないかと思えて仕方がありません。 主の光のうちを歩むことができれば、私たちは安全です。主の与えてくださる恵みと祝福と本当にいつもへりくだって、謙虚に感謝することができれば、私たちは安全です。 イエス様が私たちに与えてくださる光というのは、私たちの心を照らして、私たちの本当の姿を明らかにし、ますます私たちをへりくだらせます。光の中を歩んでいれば私たちには交わりが保たれます。罪がきよめられていきます。 ヨハネの手紙第I、1:5-10
ここでヨハネは私たちが光のうちを歩むということの大切さを語っています。そして光のうちを歩むということのためにもっとも大切なことは何かと言うと、私たちの罪がすべて主によってきよめられている。そういうことだということなのです。 もし私たちが何か心の中に罪を抱いていて、後ろめたい思いをしているのであれば、どうやっても主との光の中にある交わりを持つことができないということなのです。けれどもそれを解決する方法は非常にシンプルです。 ヨハネの手紙第I、1:9
というふうに書かれています。これも本当に不思議なことです。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神はちゃんと罰してくださるというのではないのです。 そうではなくて、主はその罪を赦して、その上で私たちがその罪から離れることができるようにきよめてくださるというふうに約束してくださっているのです。 告白する、あるいは罪を言い表わすということは、私たちが光のうちに戻る、主が与えてくださった唯一の手段です。そしてこれはある意味ではひとつの行ないでもあります。 私たちは主の赦しを信じていますけれども、私たちは信じるということの結果として主に従う。主の勧めをその通り歩んで行かなければいけないということが勧められています。 すなわち、罪を言い表わすということは、行為として私たちが私たちの罪をうやむやにしないで、光のうちで主に告白する必要があるということなのです。もし私たちがそのような罪をうやむやにしてしまうと、必ず私たちの内には良心の責めが、呵責が生まれてきます。そうすると平安と喜びは失われていってしまいます。 それももちろん私たちが滅ぼされてしまうとか、私たちに救いがないということを意味するのではありません。私たちがどんなに主から顔をそむけようとしても、主は離さないのです。私たちのことを。 けれども残念ながら私たちのほうが主のほうを向かなければ、喜びも平安も失われてしまいます。 私たちがもう一度主にある平安と喜びを取り戻したいと思うならば、日々私たちは主に自分の罪を言い表わして赦していただき、きよめていただく必要があります。 一度これをどれだけはっきりと具体的にするかによって、おそらく私たちひとりひとりの信仰がどのくらいはっきりするか、深まるかということと関係あると思うのです。 こっそり、ひとりの時で結構ですけれども、自分の罪のリストというのを作ってみるのです。紙に次から次から心の中に思い浮かんで来るものから順番にどんどんどんどん書き上げていくのです。 一個では済まないと思います。人によっては1ページでは済まないかもしれません。で、最後にこのヨハネの手紙第I、1章の9節、 ヨハネの手紙第I、1:9
というみことばを書いて、感謝して、祈って、その紙を燃やしてしまえばいいのです。 もちろん一緒に祈ってくれる人がいれば、それは本当に大きな祝福になるとは思います。そしてそのようなプロセスの中で、もしかしたら私たちはだれかに謝罪しなければならないことに思い当たるかもしれないし、償いをしなければならないことに思い当たるかもしれないです。もしそのようなことがあるのだったら、それは行なわれるべきことではないかと思います。 すべての罪に、私たちが持っている罪に対して、主は私たちを弁護するがわに回ってくださるということなのです。 あらゆる罪に対して主は私たちを責めたり、さばいたりなさるのではなくて、かえって私たちをその罪から守るがわに立ってくださる。私たちをその罪から救うがわに回ってくださるというふうに言っておられます。 イエスの血はすべての罪から私たちを救うことができる。これが聖書が私たちに言っていることなのです。 今度はヨハネの福音書の3章の16節。 ヨハネの福音書3:16
聖書の中でおそらく一番有名なみことばではないかというふうに思いますけれども、 ヨハネの福音書3:17-21
私たちは自分の心の内にやましい思いがあれば、決して光の中に出て行くことができないのです。先ほどの、例えば罪のリストを作るとか、そういうことを考えてみると、その行為というのは何かと言えば、光のうちに出て行くということを意味しています。 でもここに書かれているように、もし私たちのうちに本当にやましい思いがあれば、とてもではないけれどそのようなことをする勇気はないです。 けれども私たちはこの17節、18節を見てはっきり知ることができるのは、イエス様は私たちをさばくために来られたのではなくて、かえって私たちが悪から離れ、罪からきよめられ、救われるために来てくださったということを知っています。 すなわち私たちが自分の罪をもって、光のうちに出て行ったとしても、その私たちの罪の姿が光によってすべて明らかにされたとしても主はさばかない。むしろきよめてくださるというふうに仰っています。 それを私たちが本当に心から受け入れることができたとき、私たちは本当に主の栄光の光のうちに出て行くことができます。 ヨハネの黙示録12:10
クリスチャンたちを、もう日夜苦しめる告発者。「あなたたちは相変わらず罪があるではないか。そのようでは神の救いのうちにはいることなんか出来やしない。」と言って私たちを責め続ける、この悪魔が投げ落とされたというふうに書かれています。主の完全な勝利のゆえに私たちはもう何も心配する必要はない。 どんなに私たちの内側にやましい思いがあったとしても、何にも心配する必要はない。なぜならイエス様はそのためにこそ苦しんでくださり、血を流してくださり、私たちのために犠牲となってくださって、それでも私たちのほうをしっかりと見てくださって、私たちを抱きしめてくださっているからなのです。 イエス様が、私たちが救われるために私たちが主の光の中に安心して出て行くことができるために、どんなに苦しんでくださり、犠牲を払ってくださったか。そのことを知れば知るほど、私たちは本当に感謝でいっぱいにさせられます。 そして私たちがこだわっている、そのような罪や愚かさから離れることができる勇気と力とを主は与えてくださることがおできになります。 もし静かな時間を作ることができて、主に本当に自分の心の一番奥底まで光を当てていただいて、主との交わりを持つことができたら、本当にすばらしいのではないかというふうに思います。それこそ私たちが新しく生まれ、新しい歩みを始める。そのような一歩ではないかというふうに思います。 簡単ですけれどもそこまでで終わります。 |