引用聖句:創世記1章1節-5節
詩篇96:5
去年、メサイアキャンプのときに私、当番だったんですよね。何かメサイアのちなんだお話をさせていただいて。 今回は絶対、先週の連休にキャンプが当たると思っていたんですけども、そしたら今週だということで、じゃあまた当たっちゃいましたので、今回はその天地創造のキャンプですからやっぱりそういう話をするのかなと、漠然と思って、祈っておりました。 天地創造のお話というのは、どうしても現代の社会に生きる私たちにとっては非常に難しい問題をはらんでいるんじゃないかと思いますよね。 やっぱり、進化論と創造論というのはどういうふうに考え分けるのかということが、普段の私たちの日常生活の中ではあまり問題にならないけれども、ある場面でとてつもない大きな問題になって立ちふさがっちゃうことありますし、特にまだ信仰を持たれていない未信者の方と色々な話をする中で、ときにこういった問題にぶち当たることはよくあるんじゃないかと思うんです。 あるいはクリスチャンであるんですけれども、この創造論と進化論の問題に、いわばハマッてしまって、そこで非常にそこで苦しんでしまうという方もおられるということを私はよく知っているんですけれども、端的に言って、その創造論対進化論という対決というのは、これは悪魔の働きなんです。 創造論とか進化論とかそのものが、どうこうとかいう問題ではなくて、聖書の創世記に記されている、神が天地を創造されたというこの個所に創造論という名をつけ、私たち人間が科学技術文明を用いて少しずつ、少しずつ明らかにしてきたこの自然の仕組み、まだ十分解明されていないですけれども、その知識、その知識に進化論という名前をつけて、この二つを対決させるというのが実は悪魔の働きなんです。 創造論対進化論の対決というのはどのような展開になるかと言えば、無神論者がクリスチャンたちに唯物論の世界に下りて来て、話をしようという戦いなんです。 したがって、神の出てこない、この私たちの目に見える世界だけで聖書の議論をしましょうというのが創造論対進化論の対決なんです。ですから初めから悪魔の土俵で話をすることを要求されている議論なんです。 したがって、この論争はどんなに進んで行っても結論にたどり着くことはありませんし、議論をすればするほど、悪魔の思う壺にハマッていくお話なんですよね。 そこに気が付かないと、私たちはとてつもない泥沼の中に引き込まれて行ってしまいます。 でも多くの場合、このことは私たちを悩ませる問題になってしまいますし、少なくともハイドンの天地創造を私たちが賛美にするにあたって、そんな憂いを持たずに心から主に対する賛美をささげることができれば、本当に幸いではないかというふうに思うんです。 モーセの書いたと言われる書物が、聖書の最初に5つ並んでいるんです。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記と。 ここまでの5つの書物はモーセが書いたというふうにされています。ですからドイツ語の聖書はここの部分は「創世記」とは書かれてないんです。「第一モーセ」と書かれているんです。 「出エジプト記」は、「第二モーセ」というふうに書かれているんですよね。 すなわち、このモーセが書いた最初の5つの書物の中でもっとも大切な点は何かと言えば、創造の物語ではないんです。 そうではなくて、第二モーセすなわち、出エジプト記の中に出てくるイスラエル民族がエジプトを脱出して紅海を渡りました。海が2つに裂けたという、非常に驚くべきことを経験して、イスラエルの民族は脱出を果たしたわけですけれども、この出来事、これがこのモーセ五書の最大の問題なんです。 この出来事を経験したのち、イスラエル民族はすべてを造られた全能なる神が私たちを選んだということをそれ以後、心に刻むようになるんです。ですからそのあと出てくる聖書の中のさまざまな場面で、あなたをエジプトから連れ出した神を思い出せというふうな、主の呼びかけが何度も、何度も出てきます。 したがって、このモーセが書いた一連の書物の最大の力点は、出エジプトの事実、「あなたをわたしが選んだ。」というその事実なんです。ですから、創世記、すなわち第一モーセの部分はいわば序文なんです。 現実に創世記の中にはモーセは出てきません。モーセは出エジプト記になってから初めて出てきます。 すなわち彼にとっては、モーセにとってはこの創世記というのは自分が生まれてくるまでのイスラエルの歴史を、語り継がれて来た歴史を記した序文になるわけです。 その序文の一番最初に創造の物語が出てくるわけですけれども、この創造の物語というのは、その出エジプト記のあとに出てくる三つの書物、すなわち民数記、レビ記、申命記。これは歴史の書物と言うよりは、むしろ律法の書物なんですけども、律法の書物が人々に与えられるにあたって、どうして欠くことのできないこと。それはこの天地を主が造られたという、その宣言なんです。 私たちは創造論をこの聖書の流れから切り離して進化論とぶつけると、迷いの森にハマッてしまいます。 けれどもそうじゃなくて、どうしてこの創造の物語が聖書の一番最初に書かれてるかということを聖書全体の光の中から見直すと、初めて私たちはそれを理解することができます。 人々に律法が与えられたのは、人々は律法なしに生きることができないからなんです。 アブラハムは出エジプト記の前、モーセが生まれる前の時代の人ですけれども、自分の故郷を捨てて、約束の地であるカナンに移住して来ました。 モーセはイスラエル民族を率いて、エジプトを脱出して、約束の土地であるカナンに目指して旅をしました。 どちらも同じカナンを目指す旅ではありましたけれども、モーセの旅は長く辛い、厳しい旅でした。 アブラハムの旅も、決して楽な旅ではなかったかと思います。当時のことですから。でも聖書はアブラハムがカナンに向かう旅のことについてはあまり詳しく語っていないんです。気軽に知らない土地に向かって出発してたどり着きました。たった一言で終わらせています。 この時代、人々には律法が必要ありませんでした。もちろんこの時代の人々も罪を犯しましたし、それによって主によっていちいち罪を明らかにされてさばかれました。 アブラハムの奥さんのサラが、イサクが産まれるという主の約束を笑ったということについて主は咎めてますよね。 でもこの時代、神はひとつひとつの出来事に対して直接個人的に諌めてたんですね。 けれどもモーセがエジプトを出発してカナンの地に向かうにあたり、何十万人の人々を引き連れて出掛けなければなりませんでした。 この民のためには自分たちを律するきまりが必要だったんです。それで主はイスラエルの民族に律法をお与えになりました。けれども律法は人々をさばくためのものではなくて、人々を本来はいのちに導くための主の守りであり、約束であったはずなんです。 ただ罪人である人間はそれを全うすることができないために、ますます律法自身によって死へと、滅びへとさばかれてしまう結果にならざるを得ないんです。 ですから、エジプトを脱出したイスラエル人が律法を与えられた。そのことによってすべての人が律法のもとに罪を定められる結果になった。 そこから救われるためにはイエス様が生まれる必要があった。イエス様が私たちの代わりに律法によって罰せられ、贖いのみわざを成し遂げなければならなかった。 モーセの5つの書物は、そのすべてを含んでいる書物なんです。ですから、モーセに聖霊が親しく臨んで、このように書きなさいと、最初の5つの書物について一言、一言モーセに告げられ、モーセがそのとおりに筆を取ったそのときに、聖霊がモーセに教えたかったこと。 それは主なる神がすべての主権をお持ちになっており、完全な形でこの世界を創造したにも関わらず、罪のゆえに人々が迷い出てしまった。そこからイエス様ご自身の犠牲を通して回復したい。 すべての人が滅びに向かうのではなく、救いをいただいてもう一度主との完全な交わりを回復するように。 そして、失われたこの世界ではなくって、主が最初に創造したのとまったく同じ、完全な調和の取れた、やがて来たるべき天の御国でもう一度新しい永遠のいのちをもって、新しい生活を始めたい。そのことをモーセに伝えたかったんですよね。 ですからそのような目的をもった御霊とモーセとの間には、この地上がどのようなメカニズムで造られているか。それはあまり大きな問題ではなかったんです。 最初の7日間を通して、主はこの世界を造られたと創世記は私たちに教えています。 この7日間というのがいったいどのような意味を持っているのか、私たちにはまったく理解することができません。だいたいこの7日間に付き合った人間はいないんです。主がこの7日間の働きをなさった時にそれを見ていた人は一人もいないんです。 まだ人間は生まれてなかったんです。 私たちに唯一できたことは、主がこの7日間を通してこの世を造られた。そのことを聖霊に教えていただいたということだけなんです。 御霊もこの地球が地面の下にマントルの対流が流れていて、その奥にドロドロした地球の核があって・・・そのようなことを教えるつもり、全然なかったです。 そうではなくて、主がこのすべての宇宙を成り立たせている方であり、すべてを支配しておられる方だということを私たちに明らかにする必要がどうしてもあった。だから創世記、天地創造の記事はたった2章で終わってるんです。 もし主が私たちが例えば、私たち生命の秘密、DNAですとか遺伝の秘密がどのようになってるか、分子生物学的に説明することが必要と考えれば、たった2ページじゃ終わらなかったと思います。 けれども主はその必要をまったくお認めにならなかったんです。創世記の個所の中で、 創世記1:27-28
主が生命を創造されたときに使った手段は非常に単純です。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」この三つのことばだけで主は生命を創造されたんですね。 「生めよ。」ということばは、音に出して言うだけなら私でもできますけども、まったく何もないところからいのちを造り出し、そのいのちが生まれ出ることができるような仕組みを造り上げる。 お母さんのお腹の中で10ヶ月かかって赤ちゃんが育って、人間の形を作って、生まれてきますけども、このプロセスについて私たち人間はようやっと幾ばくかの驚くべき秘密を解明することができつつありますよね。 まだわからないところのほうが多いです。でも少し何かわかってきました。でもそのすべての隠されていた仕組み、事実、これを主は「生めよ。」一言で終わらせました。 この「生めよ。」という一言の中に主はすべての技術的な問題を含めて解決されてしまったんです。「ふえよ。」と一言仰いました。 最近私たち人間は、人間の体にはまったく同じ構造の人間を新たに作るための設計図、遺伝子というものがあって、これがコンピュータのプログラムとは違って、DNAというデオキシリボ核酸という科学構造物の上に刻まれているということを知ることができました。 何十万というその、この核酸の配列をようやっと最近全部解読したんですね。それで設計図のコピーが人間の目の前にようやっと提示されることができました。でもまだ解読されきっていないんです。 書かれている文字は見ることができます。でもその文字が何を意味しているのか、まだわかってないですね。 わかってない遺伝子が、もう山のようにあります。書かれてるこの部分がいったい何を意味しているのか。どんな働きをする遺伝子を記述しているのか、まだわからないことばっかりです。 でもこれらすべてが働いて、親と同じ構造の子どもが生まれてくる仕組みができあがってるということがわかったんです。主はこれをたった一言、「ふえよ。」たった一言で解決されました。 聖書は私たちに技術的な問題を解決する、その手がかりとして書かれているものではありません。これらの技術について聖書はまったくと言っていいほど関心がありません。 そうではなくて、聖書が私たちに教えようとしているのは、どうして、という問題です。 創世記のこの1章と2章に記された創造の物語。これは私たちに技術的な問題の解決を与えるために書かれたのではなくって、主がひとつひとつ準備をなさり、人間がこの世に住むことができる準備をなされた。そのことを私たちに伝える、そのためだけに書かれています。 ですから一番最初に見ましたように、この創造の物語に創造論という題名をつけ、私たちが人間の科学技術の力で明らかにしてきた知識に進化論という名前をつけ、この二つを対決させるというのは、まったくナンセンスなんです。 久保有政という人が「創造論の世界」という本を書いていて、この方はクリスチャンの方のようなんですけれども、クリスチャンの立場に立って、いわゆる進化論についてどのように考えたらよいかということについて一冊の本を書いているんですよね。 色々・・進化論が呈出してくる問題について、聖書の点からどのように考えると、納得がいくかという書かれ方がされているんですけれども。 一生懸命書かれたなというのはすごく読んでてわかります。だけども一つ言えることは、この本を読んで納得できる無神論者はいないだろうなということなんです。 クリスチャンの方でこの本を読んで、なるほどなと思って、とても納得される方は多いんじゃないかと思うんですけれども、それはもう、そもそも最初から主がこの世の中を造ったと思ってるから。ですからそれはそうなんですけれども。 でもこの本を読んでもきっと、無神論者は主を認めるというふうには説得されないだろうなというふうに思います。議論がかみ合ってないんです。全然。やはり無理があります。 一方、私が何冊か読んだ進化論の本の中で、今西錦司という方が、ちょっと前の時代の人ですけれども、京都大学の生物学の教授だった方ですけれども。 この方が書かれた「主体性の進化論」という題名の本があるんですけれども、この方は自分でまったくクリスチャンじゃないとはっきり言っていますし、それから動物学、サイエンスとしての動物学をずっと専門にして来られた方で、特に進化という問題について学問的にずっと取り組んで来られた方なんですけども。 この方がこの本の中で、最後に自分がたどり着いた結論というのは、この人間のこの生命というものがこのように段々段々と存在してくるようになったこの過程を見てみると、そこには何らかの主体性があるとしか思えないっていうふうに言ってるんです。 こんなこと言うもんですから、この人は科学者たちの中からは段々変な目で見られるようになってしまったんですけれども、非常にその本を読むと、逆に私としては非常に説得力があるんです。 この方が、「主体性がある」というような言い方がまったく科学的な表現ではないということを自分はよく知っていると。 これが科学者たちからは非難される的になるであろうことを自分でもよく理解してると。でも、そう言わざるを得ない。というふうに言ってるんです。 そして、その主体性というなぜそんな非科学的な言葉を持ち出すようになったか。その根拠を示せと言われても私にはできない。 それはいわば直感としか言いようがないというふうに言っているんです。 ここでこの科学者である今西さんも大きな飛躍をしています。すなわちどんなに事実を積み重ねていっても結論にはたどり着かないということを告白しているんです。 そしてそこに何らかの質的な乗り越えなければならない大きな一線があるということを告白しているんです。 もしこの方がクリスチャンになったらこの方は創世記を読んで、もうまったくその通りだって仰る結果になったんじゃないかと私は思います。 創世記に書かれている創造の物語は事実を、技術的な問題を私たちに明らかにするために書かれたのではなくて、私たちの信仰告白のために書かれたものなんです。 したがって私たちはこの世界を見て、自分の周りに目を向け、何だったら興味のある人は顕微鏡を持ち出して詳しく調べても結構です。 分子生物学的な手法を用いてどんな風に、どんなメカニズムになっているのか探ってみても結構です。 その結果私たちは虚無の世界の中に引きずり込まれるのか、あるいは主をほめたたえることになるのか、それは科学技術の問題ではなく、私たちの信仰告白の問題だということなんです。 ヘブル人への手紙11:1-3
(テープ A面 → B面) 進化論の議論というのは、目に見えないものの話はやめましょうということです。 これではどうやっても解決することのできないことがらがここにあるということなんです。 イザヤ書40:26
私たちは目に見えない方、造られたものだけではなくて、その被造物を造られた方、その方ご自身を見上げるようにしなければ迷いの森に入り込んでしまいます。 創世記が、創造の物語が私たちに指し示しているもの、それは調和の世界です。 神は一つ一つの創造のみわざをなされたあと、それをご覧になってよしとされた。なぜならそれらは非常に良かったからであるというふうに聖書は書いています。 創世記に戻りまして、 創世記2:1-3
というふうに書かれています。 神さまが休んだというふうに書かれている個所は聖書の中でもここだけですよね。 今、今の時代どうかと言えば、イエス様は、わたしの父は今に至るまでずっと働いておられますとイエス様は仰いました。だからわたしも働いているのですというふうに仰ったんですよね。 でも創造のこのわざをなさった主はお休みになられた。万物の支配者であり、創造主である主が休むことができたというのはすばらしいことですよね。なぜなら何も問題がなかったからです。 何にも問題がなかったから、主は休むことができたんです。今、主が休まれたら大変なことになってしまうんじゃないでしょうか。 主が休まれないのは私たちにとっては本当に幸いであり、感謝なことです。どうぞ目を覚ましていていただきたいと思っていますけれども。 主が休むことができるくらい完全なものができあがったんです。でも残念ながら、この世界は失われてしまいました。堕落してしまいました。人間の罪によってです。 ですから主は休むことができなくなってしまいましたし、今も働いておられますし、私たちも苦しみの中に置かれて、日々主に助けを求めながら歩まなければならなくされているんです。 でもそうなることは主は見通されていたかもしれませんけれども、それは主の目的ではありませんでした。主は私たちを回復して、また元の位置に戻したいと願っておられます。 その次の創造のみわざを主は新約聖書の時代にお始めになりました。 マタイの福音書28:1
と始まっています。主は創造の6日間を終えられて、7日目にすべてのわざを休まれた。で、その日を安息の日とされた。 安息日が終わって、週の初めの日の明け方、イエス様は復活されました。安息にはいられた主がその次に行なった大きな創造のみわざ、それはイエス様の復活だったんです。 主は私たちを回復するおつもりでおられます。私たちを束縛から解放して、失われた世界に連れ戻し、失われた世界を再び完全な形で完成させることが主のご目的なんです。 ローマ人への手紙8:18-24
ここでも私たちは目に見えることではなく、目に見えないものに望みを置くことを求められています。 創造論と進化論の対決はここから私たちを目をそらさせ、私たちの目に見えるものだけに、私たちを縛りつけようとする悪魔の働きそのものであります。 ローマ人への手紙5:12-15
創造の物語とそれに続く物語、人間の堕落と出エジプトによる神の選び、そして私たちに律法が与えられ、罪が明らかにされ、その結果イエス様が私たちの犠牲となって死んでくださった。この一連の出来事を聖書はこのように説明しています。 ヨハネの手紙第I、3:2
私たちはやがて変えられます。そして私たちは創造の最初に完全な形で主がお造りになったように、私たちも回復される。そのことが約束されています。 ヨハネの黙示録22:1-5
やがて来たるべき神の御国はこのようであるというふうに聖書は言っています。 最初に主がこの世界を造られたとき、エデンの園と呼ばれていますけれども、ここはお庭だったですよね。私たちがたどり着くべき天の御国は都と呼ばれています。 すなわちそこにはすべてのものができたままではなく、完成された形であります。ここには悪がなく罪もないので、私たちは何の心配もする必要がなくなります。喜びだけが、主への賛美だけがある。そのような世界です。 ですから私たちが主のなさった天地創造を、もしほめたたえるとすれば、すでに失われてしまった過去の世界について、懐かしむのではなくて、私たちがこれからたどり着こうとしている完成された天の御国を思って、私たちは天地創造の主のみわざをほめたたえるべきではないかというふうに思います。 詩篇の19篇を読んで終わりにしたいと思いますけれども、主が造られた天地をほめたたえる者はどのような気持ちでいるべきかということをダビデがうたったんではないかと思います。 詩篇19:1-14
私たちは聖書を読んで、この世が私たちに一生懸命、一生懸命教えよう、説得しようとすることと、あるいは相容れないことを聖書の中に見ることも時々あります。 でもダビデが言っているように、主の御教えは完全で、もしこの主の御教えに耳を傾けるならば、たましいが生き返るというふうに言っています。 際限のない迷いの森に踏み込む議論ではなく、私たちは、主が私たちを支配していてくださり、私たちのためにご自身のすべての恵みと栄光とを投げ売って、私たちに与えてくださったこの方ご自身を賛美しほめたたえる、そのような気持ちで賛美することができれば幸いではないかというふうに思います。 |