引用聖句:ヨシュア記21章43-45節
「ヨシュア記」っていうのは、今読んでいただいたみことばからわかる通り、本当にある意味では、「神さまの約束の成就」っていうことがその全体のテーマになっている箇所というふうに言ってもいいんではないかっていうふうに思います。 本当に聖書どことっても素晴らしい箇所ばっかりですけども、この今読んでいただいた箇所を、本当にもう噛み締めて読みますと、主の素晴らしさっていうのが本当によくわかるんではないかっていうふうに思うんですね。 ヨシュア記21:45
というふうに書かれているんですけども、本当に素晴らしいことではないかっていうふうに思うんです。 で、そのイスラエルの家に約束されたことっていうのはいったい何だったか?って言いますと、これがまた気が遠くなるくらい、息の長いお話なんです。 発端はどこにあるかっていうと、創世記なんですよね。創世記の、11章っていうところを開けていただきたいんですけども、有名なお話がここに出てきます。 創世記11:1-9
有名なバベルの塔についてのお話ですけれども、ノアの箱舟の後、世界中にはノアの家族とその子孫しかいなかったわけですけれども、ですから言葉も一つで文化も一つ。一つの国民だったんですよね。でも彼らは、主に従ったっていうよりは、むしろ「自分たちの力で創造主なる神を、見返してやろう。私たちにはこんなすごいことができるんだ。それを示してやろうではないか。」というふうに考えるようになってしまったんです。 この状況っていうのは、ちょうど現代の私たちにあてはまるんじゃないかっていうふうに思います。 今の私たちは、世界中みんな国が違いますし、文化も違いますし、話す言葉が違うんですけれども、技術が進歩し、文明が進歩したおかげで、お互いに行き来することができるようになりました。 そして、お互いにお互いの言葉を学び合うようになりました。意思の疎通をし合うことができるようになりました。手紙を送ったりすることができるだけじゃなくて、今ではインターネットを使えば、もう瞬時に地球の裏側で発信された情報がわかるようになりました。だんだん、世界が一つになる動きが強くなってきているんですよね。 そういうふうになって来たこの時代に、人間たちはいったい何を考えてきたかっていうと、「人間たちが一つになって主をほめたたえよう!」というのではなくって、かえって私たちは「自分の力でこの世に平和を実現させよう。あるいは「人間の誇りを示そうではないか。」 そういうふうに、世の中動いているんじゃないかと思います。それこそ、この創世記で起こってることと同じ出来事なんですよね。主は決してそのような人間の歩みを喜ばれない。 ですから、一見、人間が社会を統一するような事業に手を染めようとしたとき、主が打ち壊されたっていうふうに書いてあるんですよね。ちょっとあの人道主義的な、あるいは道徳的な観点から見ると、このことを主が成されたこの記事、ちょっと理解しがたいかもしれません。 でも主は決してそういう方法で、この世に平和をもたらしたりとか、人間の幸せを与えたりしたいというふうには思っておられないんです。このように主が人々を全地に散らされたそのすぐ後に主は何をされたかというと、12章ですね。 創世記12:1-4
主は、後のアブラハムですけども、アブラムに、「わたしの示す通りに出て行きなさい。慣れた土地を離れて、困難な旅をして、不安定な、どこともわからない、あなたの知らない土地へ出て行きなさい。」ていうふうにおっしゃたんですね。 これに従うっていうのは、非常に勇気のいることではないかっていうふうに思います。けれども、彼は 創世記12:4
というふうに書いてあります。 主はそのように、主ご自身に従う者を通して、人々を祝福したい。 「アブラハムが主に従ったから、アブラハムの言うことに耳を貸す…、そのような人を、わたしは祝福しよう…。そして、地上のすべての民族、主がご自身の手でことばをばらばらにして全世界に散らしていったすべての民族は、あなたによって祝福される。」…っていうふうに主はおっしゃたんですよね。 その後アブラハムは、幾多の困難を経て、カナンの地にたどり着きますでしょ?で、その後アブラハムの息子イサク、そしてその息子ヤコブ、そしてその息子の12人の子どもたち、その一番…下から二番目ですか、ヨセフですね。それまでの物語がず〜っと創世記に書かれています。 そして、ヨセフが死んで、ヨセフのことを知らない時代になって、モーセが起こされて、ユダヤの民族は、エジプトを脱出するようになります。 モーセは、40年荒野をさまよったあげく、残念ながら約束であるカナンの地に入ることはできませんでしたけれども、そのモーセの後継ぎとして、イスラエル民族を率いて、約束の土地にやっとたどりついたのが、ヨシュア…ですよね。 そのくらい、その間、何百年でしょうかね。アブラハムに与えられた一つの、「あなたの国民を祝福します。」…っていう大きな約束が、このヨシュアの時代になってはじめて成就されたっていうことになるんです。 もう一度ヨシュア記に戻っていただきたいと思うんですけども、その部分をよく見ていただきますといくつかのことに気がつきます。ヨシュア記21章ですね、 ヨシュア記21:45
私たちが、信仰というものを持ち得るその唯一の根拠は、「主は信頼することのできるお方だ!」ということではないでしょうか。 信頼することができるということは、どういうことかというと、「この人の言った約束であれば、まちがいない!!」ということですよね?ど〜んなにいいことを約束する人がいても、口だけであれば、だれも信用しませんでしょ? ただ創造者なる神がおっしゃられたんならば、それは信頼に値すると思うから、私たちは聖書を信頼し、聖書に書かれてる通りに私たちの罪の救い主として、イエス様を信じるんじゃないでしょうか。 私がまだ学生だったときに、あの、「薬理学」っていう授業があるんですね。それはいろんなお薬が、どういうふうに体に、生物に作用するかていうことを、基礎的に研究していく学問なんですけれども、その時に薬理学の一番基礎として習うことは、「薬の有効性」っていうことなんです。それについて、私たちは学びました。 「お薬が効いた!この薬よく効きますよ。」、みなさん言うでしょう?それは、何によって確かめることができるでしょうか。…ね。 あの、ドイツのことわざか知りません。ジョークだと思うんですけども、「風邪をひいて、お医者さんに行けば、一週間で治るけども、家で寝てれば七日かかります。」 果たしてお医者さんは役にたったのかどうか。ね?。お医者さんに行けばすぐに治る。一週間で治りますよ。でもね、だいたい風邪って一週間で治るもんなんですよ。すなわち、本当に効き目があったかどうかっていうのは、厳密に検証しなくちゃいけない。 その薬理学の授業の時に、例え話として教授が話してくださったのは、「雨乞いの踊り」っていう話しなんですけども、その…ある地域ある地方、どこの地方だか知りませんけど、アフリカかどこか知りませんけども、あの、年に1回雨が降らない時期があって、その時期がどのくらい続くかによって、もう人々は死活問題。 で、もう水の蓄えが心細くなってくると、その地方の人たちは村の真ん中に大きなたきぎを作って、ぼんぼん燃やして、その周りでもう雨乞いの踊りを村中で踊るんですね。 必死になって踊るんですよ。で、この踊りは非常に効き目がある!も絶対雨が降るんですって!その秘密は、…降るまで踊るからなんです。 ある科学者は、たきぎをぼんぼんぼんぼん炊くことによって、その上昇気流ができて、そうすると周囲の気流が集まってきて、フニュウっとこう、その所だけ、気圧が低くなる箇所ができますので、あの氷点や露点かなんか変わって、雲ができて、それで雨が降るんだとかその、もっともらしいことを言ってますけれども、そんなもんかも知れない。 ですから、そのよく世の中の人は、その…「鰯の頭も信心から」でしたっけ?なんかそのそんなことを言って、信心深い人を、からかったりするかもしれませんね。 でも、私たちが主を信じる信じ方っていうのは、そういう信じ方ではないんです。主は私たちに、約束してくださっている。この約束はもう個人的な約束なんです。ですから、例えば、何かのお薬が効き目があるかどうか、そういう可能性ではないんです。 私と、私の子どもとの間に何か約束があったとします。「今度、テストでいい点とったら、欲しかったあれを買ってあげることにしましょう。」 これは、科学的な事実の問題ではないんです。彼と私の間の信頼関係の問題なんです。主と私たちの間の契約、あるいは約束、信頼、それはこのようなものなんですよね。 ヨシュア記21:45
もヨシュアは、その人生の歩みの中で、こうはっきり!…言うことができたんですよね。 「イスラエルの家」と書かれていますよね。家っていうのはもちろん、旧約聖書の中でイスラエルの家といえば、イスラエルの民族全体のことを意味します。 でも、それでもやはり家といえば、家族が主体です。夫婦から始まって、複数の人が対象になっています。もちろん世代を超えて含まれています。 家族の中には、もしかしたら言うことを聞かない人もいるかもしれませんね。でも、その人も約束の中に含まれているんです。 主は、イスラエルの中のいい子だけに約束してくださったんではないんです。イスラエルの家全体に約束してくださった。ですから、私たちも主に連なる家族として、私たちの全体が、主の約束の中に入れられているということを知ることができます。 その中には、まだ主ご自身に、ま背中を向けようとする者がいるかもしれません。でもそのような人も私たちの家族の中であれば、主の約束のうちにある者なんです。 「主が約束してくださった」って書いてありますでしょう? 確かに主は、イスラエルのために約束されたんですけども、新約聖書によれば、これらの約束は、イエス様が十字架にかかってくださったがゆえに、イスラエルの人々だけではなく、すべての人に与えられている。 聖書の中のあらゆる約束は、ユダヤ人でなくても、自分のこととして受け取ってよい。そのように、イエス様は道を開いてくださったんです。この約束は、必ず実現する約束なんです。 「すべての良いことが実現した」っていうふうに書かれてます。先ほど言いました、創世記、アブラハムの時代から出エジプト記、そしてヨシュア記とたどってくるこのイスラエルの歩みっていうのは、いったいどんな歩みだったのでしょうか。 本当に、いい子の歩みでは全然ないですよね。ユダヤ民族は、もう、いっつでも不満ばっかり、不平ばっかり。文句ばっかり。もうモーセにも聞き従いません。 そういう何十万の人たちを束ねて、砂漠を旅しなければならないモーセは、もう大変だったと思いますけど、けれども、それにも関わらず、「すべての良い事が実現した」っていうふうに書かれています。 私たちはどうですかね、あの、何か約束して、「いい子だったらあげましょう。」「でも、ちょっといい子じゃなかったから、さっきの約束はなしにしましょう。」、そういうものですよね。 けども主は、イスラエル民族がどんなに不信仰で不従順であったとしても、それにも関わらず、良いものを与えてくださった。 ミカという預言者は、私たちが滅びうせなかったのはただ主のあわれみ以外の何ものでもない。というふうに言っていますね。旧約聖書の中には本当に多くのま、「裁き」が記されています。厳しい律法がたくさん書かれています。律法に違反したら、どんなに恐ろしい罰が待ってるか、たくさん書かれています。 もちろん主は、時々私たちに対しても、懲らしめとして苦しみをお与えになることがありますけれども、おそらくそれは、イスラエルの人々、あるいは私たちの、かたくなな心を砕くための道具ではないでしょうか。 もし、これらすべての裁きが、書かれてる通りに実行されたらもうとおの昔に人類は滅んでいて、おかしくありません。 でも、「すべての良い事は実現した。」というふうにヨシュアは言っています。私たちも、自分の、不従順や汚れや弱さや愚かさにも関わらず、主がどんなに豊かに私たちのことを愛していてくださっているか…、それをよく考えてみる必要があるかもしれません。 「すべての良い事が実現した」というだけではなくて、「一つもたがわず、みな実現した。」っていうふうに書かれています。 どういうことかって言いますと、私たちはどちらかというと、主の計画を成し遂げる者であるよりは、おそらく、主の計画をぶち壊す者ではないでしょうか。 …にも関わらず、主は、約束された約束を一つもたがわず、実現された。それができるお方だっていうことなんです。 もちろんそこに至るまで、もしかしたら、私たちの愚かさや不従順のために遠回りをしなければならないことがあるかもしれません。でもそんなことのゆえに、主のご計画や約束がそこなわれることがないっていうことを、ヨシュアは言いたいんです。 主は生きておられるがゆえに、主の約束は一つもたがわずに実現する。それこそヨシュア記が、主の計画の成就を示す書物だと言われてる所以ではないかというふうに思います。 私たちに対する約束っていうものは、どのようなものでしょう。コリント人への手紙第Iの1章4節。 コリント人への手紙第I、1:4-9
「主も、最後まで堅く保ってくださいます。」っていうふうに書かれています。これこそ、私たちに与えられている、本当に素晴らしい約束ではないでしょうか。 信仰の道筋の途中で失われている可能性、そのことについて私たちは恐れを抱くかもしれませんよね。 でも、主の方のお約束は何かと言えば、「私たちを最後まで堅く保ってくださる。」それだけでなくって、「主イエス・キリストの日に責められるところのない者として」というふうにおっしゃてくださってるんです。 私たちは、自分のことを考えたら、本当に、とんでもないっていうふうに思います。なぜこんなことが可能なのか…。イエス様が十字架にかかってくださったから。それ以外の何ものでもありません。 どうして主はこのような約束をすることがおできになるのでしょうか。その根拠が9節に書かれています。 コリント人への手紙第I、1:9
だからです。 主は真実であられるならば、私たちは、本当に安心していられます。主は、私たちの真実についてあんまり問題にしておられません。どうせ…!真実ではないからです。 もちろん私たちは絶えず悔い改めて、砕かれて、謙虚にされて、主の前に本当に責められるところのない者として、毎日毎日出て行かなければならないと思います。 でも、私たちの「悔い改め」だって、どこまで持つことができるか?本当に頼りないものじゃないでしょうか。 でも主は、私たちの真実のゆえに、あなたがたを守ろうとおっしゃたんではなくて、ご自身の真実のゆえに私たちを守っていてくださると言ってくださっているんです。 また、「その方のお召しによって」と書かれていますよね?私たちが立候補したんじゃなくって、主が勝手に向こうから呼んでくださった。「召す」っていうのはそういう言葉ですよね? 気がついてなかった人々、ちょっちょっちょっちょっちょって肩たたいて、こっち向かせて連れてくる。そういうのを「召す」っていう言葉ですよね? 「召された」ということはどういうことかと言うと、私たちは「義なるものとされた」っていうことなんです。 「義とされる」っていうことは、本当にもう聖書の中でさんざん出てくる言葉であるんですけども、私たちはなかなかピンときません。 法律用語だからわかりにくいのかもしれません。だったら、ちょっと逆に法律の世界のこととして考えてみると、わかりやすいとパウロは考えて、ローマ人への手紙を書いたんじゃないかと思うんですけども、主のご計画によれば、この世界は残念ながら立て直しようがないというご判断のようです。 ですから、これはもうやがて火で焼いてしまいましょう。でもその時に、愛する者たち、それは… (テープ A面 → B面) …その裁きの座に出ずにすむ者は幸いである。 「裁きに出る必要のない者」は、どういう者でしょう。罪がない者です。すなわち「義とされてる者」なんです。 ですから、イエス様の十字架の血潮によって、罪を赦された人々は義とされた。その人たちは裁判所に行かなくていいです。あたりまえですよね。 裁判所に行くのは、罪ある人たちだけ。ですから、私たちは義とされている。 その最後の審判を通過することなく、大いなる主の栄光の御国に入れていただくことができる。それこそ、主が私たちに与えてくださったご自分のいのちを捨ててまで成し遂げたかった、出来事だったんです。 主との交わりに、私たちのイエス・キリストとの交わりに、入れられたというふうに書かれています。すなわち、私たちは主の家族に加えられているということなんです。 今の世の中は、先週ちょっと、吉祥寺の朝の集会で「ハリーポッター」について、お話したんですけども、読んでらっしゃらない方には、あまりにちょっと突っ込みすぎたお話だったんで、退屈で、大変お疲れになったかも知れません。申しわけありません。 ただ、何を言いたかったかって言いますと、今の時代、ハリーポッターっていうのは、本当に氷山の一角でしかないっていうことなんですね。 アメリカでは、そのハリーポッターの本が教科書に用いられるかどうかということがあるので、もう世界的な大問題になってるようですけども、日本では、ハリーポッターを非難する本なんて一冊もありませんよね? なぜかといえば、ハリーポッターが子どもたちに及ぼす悪影響よりも、もうひどいものがたくさん世の中に満ちてるからなんです。 ちょっと子どもたちが見ているテレビの番組をご覧になってください。その中にはもう、オカルトがいっぱい入ってます。今の時代、なぜかオカルト的な要素を盛り込まないとヒットしない。そういう時代になってます。 ですから、売れるものはみんなそいうものばっかりなんですよね。おまけに私たちの住んでいる東洋、特に日本は古来、汎神論、八百万の神の土壌にありましたから、「何でも神様、何でも、いいです」。 一方聖書の世界はといえば、「一人のこの世の中を造った唯一の神さまがおられて、人間が救われるためには、イエス・キリストの名前しか、与えられていない。」っていうメッセージです。全く相容れないメッセージなんです。 けれども、悪魔が必死になって阻止したいことは、「『イエス・キリストの名だけが人間を救うことができる』この事実を何とかして、人々の目から反らしたい。そのためにはもう何でもいい。どんな手段を使ってもいい。」といふうに悪魔は考えています。 そのために、最も有効な方法は、汎神論、「何でもいいですよ」そういう考え方なんです。ですから、「あなたはキリストさんを信じてるかもしれない。私は阿弥陀さんを信じてる。いいじゃないですか。どっちも入り口は違うけど、目指すところは一緒でしょう?」、そういう考え方は、日本人とても耳障りがいいですよね?でも、それこそ悪魔の最も有効な攻撃方法なんです。 ハリーポッター、たかが子どものファンタジーじゃないですか。何をそんな咎めたてる必要がありますか? 先週お話したように、その中にはもうオカルトがぎっしり入ってるんですよね。児童向けオカルト入門書と言っても、本当に言い過ぎではありません。 でも、子どもたちが見ているテレビとか漫画とか、もっともっとひどいです。本当に見ててびっくりしちゃうくらいですね。そのような中にあって、私たちは本当に主だけが私たちの救い主であるということを、はっきりと意識しなければなりません。 悪魔はあんまりにも巧妙に、私たちの周りを、主イエスに対する反対の雰囲気で満たそうとしています。ですから、もう本当に私たちの喉のきわまで、そういうおかしなものが押し寄せてきているんです。 でも、私たちはそれらにとっても慣らされてしまっているんです。 今朝、ベック兄姉といろいろな、そういうお話をしてたときに、ミンヘン姉妹が、リンデちゃんが召された時のお話をしてくださって、「実を結ぶいのち」の本の中にも確かに書かれていて、私も読んだ覚えがあるんですけども、リンデさんが召された時に、 「その病室の中は、本当に主の栄光で、いっぱいに満たされていて、本当に素晴らしい雰囲気だった。 でも、そこから一歩出て、家に帰る車の中で、それと全く対照的にこの世の中はどんなに暗闇と悪の力に満ちてるかということを、なおいっそう強く感じられた。」 というふうにお話してくださったんですけども、悪があること、あるいは邪悪なものがあることではなくって、主イエスがおられないこと。そのことが、もうすでに暗闇であり、恐ろしい悪の力そのものなんです。 けれども、ここのみことばにありますように、「私たちは、イエス様との交わりに入れられた」というふうに書かれています。 主の家族にしていただいた。イエス様が一番上のお兄さんです。それに続いて、私たちが子どもたちとして家族の中に加えていただくことができたっていうことなんですよね。 主の家族にしていただけたんだったら、主は、私たちのことを絶対見捨てるはずがない。そのように思って良い。…ということではないでしょうか。 4節からもう一度読みますと、パウロはこういうふうに言っています。 コリント人への手紙第I、1:4-7
キリストにあって豊かにされた結果、私たちのうちに「キリストについての証しが確かになった。」というふうに書かれています。主についての証しが、私たちの中で、どれだけはっきりしているかということは、とても大切なことなんです。 私たちのうちで、イエス様が実際に生きておられるかどうか。私たちの中で、イエス様が私たちのために、十字架にかかってくださったっていうことが、どれだけかけがえのないものと思えているか。それが、私たちの信仰生活の中で最も大切な鍵を握っていることなんです。それがますますわからされるために、私たちは日々いろいろな困難や苦しみの中に置かれているのではないでしょうか。 その中で、私たちは、主に呼び求めることを学ばされています。主からみことばをいただくことを、勧められています。与えられたみことばに、すがるようにして、日々生活していくことを求められています。そのような主ご自身との個人的な経験、それだけが、私たちの信仰生活を深め豊かにしていきます。 「日々待ち望むようになる。」、そのことが最も大切なことだというふうに言われています。 すなわち、ますます私たちが、この世よりも、やがて来たるべき主の御国を待ち望むように変えられていく。私たちの信仰の創始者であり、完成者であるイエス様を、ますます見つめるように変えられていくこと。それが最も大切なことではないでしょうか。 テモテへの手紙第II、1:12
私の大好きなみことばの一つですけれども、本当に、このように確信することができるっていうことが、とても大切です。 ローマ人への手紙8:18-21
この中に「栄光」っていう言葉が出てきますよね。 栄光っていうのは死とか、罪の重荷とか、憎しみとか、欠乏とか、人間のあらゆる苦しみの原因が存在してない、そのような現実のことです。 ある姉妹が、インターネットのお交わりの中で、「御国は何色か?」だったかな、ピンクじゃないかとか、透き通るような青じゃないかとか、色のお話があったんですけども、や、そうじゃないんです。 御国の素晴らしさっていうのは、罪が存在しないっていうことなんです。 今のこの世の中は、悪魔が支配しています。ですから、私たちは罪の中に閉じ込められてしまって、やること成すことすべて、罪に満ちています。それは私たちが罪人で、悪魔の支配するこの世の中に生きているからなんです。でも、やがて来る御国には、悪魔が存在しません。罪が存在しません。 ですから、私たちが罪を犯したいと思ってもですね、犯すことができないんです。私たちは、今この世の中にあって「善を成したい」と思うけどなかなかできないでしょう?御国に行ったら、頑張って頑張って、罪を犯そうと思ってもなかなかできないんです。だから、素晴らしいんです! 主は、イエス様を遣わしてくださることによって、私たちをこの苦しさと虚しさとの満ちている世界から救い出してくださる道を開いてくださいました。 ・十字架の上で、イエス様がすべての人のために救いのみわざを成し遂げてくださったこと。 ・イエス様がよみがえってくださったこと。 それは、私たち人間の「死」っていうものが、決してすべての終わりではなくって、やがて、来るべき永遠の世界の入り口だっていうことを証明しています。 私たちは、この来るべき御国とその栄光を望み見ることによって、今の時の様々の苦しみを忍び、立ち向かって行く力が与えられるのではないでしょうか。18節では、「今の時の苦しみと、やがて私たちに与えられようとしている栄光とを比較して、今の時の苦しみは全く問題とならない。」というふうに、パウロは言ってますよね。 それは、この苦しみっていうのは、決して永遠に続くものではないのに対して、やがて私たちに与えられる主の栄光っていうのは、永遠のものだからなんです。もちろん、私たち今の時の苦しみは、決して「軽い」っていうふうに思えないかもしれませんよね。 でも、パウロはどうだったか?パウロ自身、個人的に多くの苦しみを負っていたにも関わらず、喜んで人の苦しみまで、担う。…そのような人だったようですよね。そのパウロがこのように言っているんです。 聖書が私たちに、「私たちは義とされている」と言ってもあまりピンときません。けれどもそれが、やがてはっきり私たちにわかる時が来ます。それは主の栄光の御国のうちに入れた時です。 今のこの私たちの人生っていうのは、その時のための準備期間でもあって、私たちに与えられてる約束に、私たちがいかに信頼し続けるかその訓練の場ではないでしょうか。 ただ私たちは、ヨシュアが言ったように「主の約束されたことは、何一つたがわず実現した。」…やがて言うようになる。そのように聖書は言っています。 それが可能となるために、いったい、私たちはどれだけのことをしたでしょう。私たちは何もしていません。 イエス様がすべてを成し遂げてくださったんです。このかけがえのない唯一の救い主であられるイエス様に、私たちは、本当に心からへりくだり、感謝をして、礼拝をささげようではありませんか。 簡単ですけど終わりにします。 |