引用聖句:創世記3章1節-14節
今日、私がここでお話しすることは偶然ではないと思っています。 春頃にひとつの思いが与えられました。ぜひ若い人たちのためにお話ししなくちゃいけないことがあるということを、強く強く感じさせられました。 夏に若者のキャンプがありますので、もしその時にお話しすることができたら良いのではないかなと思っていました。思っただけで、口には出しませんでした。自分の思いなのかどうかわかりませんでしたし。 そうしたら、このキャンプ(中高生・若者キャンプ)の土曜日の夜にお話しするように言われました。その時に、きっとこれは主が私にこのような思いを与えられたと感じて、頭を低くする思いを与えられました。 今日はそういうことから、中高生の若い方々にぜひお話ししたいことがいくつかあります。 読んで頂いたみことばは創世記の3章の非常に有名な箇所ですね。エバが蛇に騙されてしまって木の実をとって食べてしまった。いわば、聖書のすべての物語はここから始まると言ってもおかしくないような箇所であります。 そしてこの箇所を通して、ひとつ大きな問題が私達に投げかけられているとすれば、それは誘惑の問題ではないかと思います。 考えてみますと、エデンの園のおいてアダムとエバは罪を知らない人間でした。ですから罪を犯すことが在り得なかった。悪が全くない世界だったんです。けれどもここに何か起こり得るとすれば、「誘惑」それだけだったんです。 いかに、純真な心を持っている人であったとしても、誘惑から逃れることはむつかしいと、この聖書の箇所は示しているのではないかと思います。 もうすでに罪をたくさん重ねてきてしまった私達は、場合によっては平気で悪いことをしてしまうかもしれません。でもこのとき、エバは全く罪を知らない純粋な人間だったんです。にもかかわらず罪を犯してしまった。そのきっかけは何かというと「誘惑」だったということなんです。 ここで、どのようにして彼女が悪魔の計略にひっかかってしまったかということをちょっと見てみたいと思います。蛇は最初に、3章1節でこのように話しかけます。 創世記3:1
この木について、 創世記2:9
エデンの園にはたくさんの木があったけど、中央には2本の木があった。一本は命の木、それからもう一本は善悪の知識の木と言われました。 創世記2:16-17
主は、「たくさんある木のどれから食べてでもいいですよ。ただ、園の中央の2本の木のうちの善悪の知識の木からだけは取って食べてはいけない。」とおっしゃったのです。もう一本の命の木については、何もおっしゃいませんでした。 蛇は女にこう言いました。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」 神様はそんなこと言ってないですよね。悪魔の一番最初の囁きかけは、神様の言葉を捻じ曲げることから始まります。神様は、そんなことを言っていないのです。ですから女の答えは「いいえ」が答えですね。 もし蛇が、「あなたがたは、園のどんな木からも食べてよいと神様は言われたのですか?」と聞けば、答えは非常に簡単です。「善悪の木から以外は、食べて良いのです。」が簡単な答えです。でも、非常にずるい聞き方を悪魔はしています。 女はそれに対してちゃんと答えます。 創世記3:2-3
女はちゃんと答えました。そこで蛇は女に言います。「あなたがたは、決して死にません。」、ここで蛇は、悪魔はウソを言います。「あなたがたは、決して死なず、あたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」 創世記3:6
この6節は非常に不思議な場面です。これまでアダムもエバも、主と共にあり常にその心は主に向けられて歩んでいました。でもこの6節、彼女はどこを見ていますか?彼女の目は、食べてはいけないという実に注がれています。 彼女の心のすべてもその実に奪われています。彼女の心の中から主が見えなくなってしまっています。 このような場面に追い込むことが悪魔の目的なのです。私達の心の中から主を追い出すこと。それに成功すると、私達はいとも簡単に悪魔の計略にひっかかってしまいます。 目の前にぶら下げられた好ましいもの、喜ばしいもの、欲しいもの、これが悪魔の餌なんです。それを手に取ってしまった結末は、すべての人類の滅びそのものでありました。 私達はこの世の中に生きていてたくさんの誘惑を経験します。けれども多くの場合、誘惑は悪の形をとって来ることはありません。ほとんどが素晴らしいもの、良いもの、好ましいもの、気持ちよいもの、そのような格好をして私達に近づいてきます。 正しいお金と正しくないお金があっても、同じ1万円です。 今はないかもしれないけど、将来社会に出てもっと大きなお金を扱うようになった時に、たとえば、正しくない100万円を提供されるかもしれません。でもお金を使うことに慣れてしまっていて、お金を手に入れることに対してマヒしてしまっていると、そのような正しくないお金に手を出してしまうかもしれません。 そのようなお金に手をつけた瞬間、みなさんは創世記3章のエバと同じ顔をしています。お金に目がくらんで、主が心の中から消え去ってしまっています。神様が与えてくださった大切な戒めを忘れ、主の目を意識しなくなってしまっています。 悪魔は、皆さんが心の底で何を欲しがっているかよく知っています。そして、少しづつ少しづつそちらの方に向けさせようとそちらの方に努力しています。 皆さんがたとえばお金を使うときに、感謝の心を持ってお金を出すか。私たちの財布の中に1,000円札がはいっていて出て行くときに、本当にそれが主がくださったものだと感謝することがあるでしょうか。 大切な点はエバと全く同じです。皆さんが主の目を意識しているかどうか。主に対する恐れを持っているかどうかということだと思います。 ガラテヤ人への手紙6:7-8
「神は侮られるようなお方ではない。」と書かれています。神を侮るというのは神を恐れることの正反対であります。神様なんていないと思うことであります。 その結果は必ず自分の身の上に振りかかって来ると聖書は言っています。 以前私の子が、どうやったらお金が貯まるのかと私に聞いたことがあります。幼稚園くらいでしょうかね。小さい頃。 私はこの箇所のことを思って次のように答えました。「お金というのは不思議なものだ。人のために使うと戻ってくる。でも、自分のために使うとどんどん無くなる。」というふうに言いました。 そのとき理解できないようで、とっても不思議な顔をして聞いていました。「どうして?」、「そのうち、わかるよ。」と言ったんです。 私達は、自分のためにせっかく与えられた恵みを使ってしまうと、どんどん自分の欲の中にひきずりこまれてしまいます。 主は私達のために与えてくださった目的のために、自分達の能力や恵みを用いるように望んでおられます。それが、私達に与えられた豊かな恵みをさらに増し加える秘訣であるというふうに思います。 十戒の7番目に姦淫してはならないと書いてあるのですね。やっぱり私の子供が小さいとき、みんなで十戒を覚えようと、この所を書き出して暗唱する練習をしたことがあったのですけど、どうも、「姦淫するな」という所を小学生に教えるの、ちょっと困ったなと思って、いろいろ書き換えようと思ったのです。 聖書を書き換えることにはたいへん抵抗があったんですけど、最終的に書き換えるのをやめて、どんなにわかるように書こうとしても小学生にはわからないでしょう。 ですから、そのまま「かんいんしてはならない。」と覚えて「姦淫って何よ?」と聞かれても「そのうち、わかるようになるよ。」としか言いませんでした。 中学生、高校生になって、ひとつの大きな興味は異性のことではないかと思います。それは当たり前かもしれませんね。 「誰ちゃんが誰ちゃんを好きだし。」とか、「告白しちゃったらしい。」とか、「ふられちゃった。」とか、もうおそらく中学生、高校生の話題のかなりの部分を占めているのではないかと思います。 高校生くらいになると、もう少しませてキスしたかしないとか、もうちょっと、すすじゃったかとか、深刻な話題になって来るかも知れません。誰かを好きになってしまうと、頭がその人のことでいっぱいになってしまって、・・・ (テープ A面 → B面) そのような異性に対する経験は、大人になるためにどうしてもその時期に通らなければならない道のひとつだと思います。ある意味では、不思議なことではありません。 けれども皆さんにボーイフレンドやガールフレンドができた、できたらしいということがあると、皆さんのご両親はとっても心配されると思います。間違ったりしないだろうかと、とっても心配されると思います。 2週間前に、喜びの集いで音楽会がありました。その音楽会は、ベック兄の結婚50周年の金婚式をお祝いする会も兼ねていました。 その会の中でベック兄が、50年の結婚生活についてお証しをしてくださいました。ベック兄のお証し、特に結婚のお証しを聞く機会は珍しいと思います。皆さんもお聞きになったことあられるし、そうでない方も非常に興味があるのではと思います。 そのお証しによりますと、ベック兄は16歳の時にミュンヘン姉に出会われて、ご本人はそうはおっしゃいませんでしたけど、大恋愛をなさいましたよね。 ミュンヘン姉に導かれて主を知るようになって、16歳でしたから、二人とも男女のおつきあいをするのは早すぎるということで別れるようにアドバイスされたそうです。 その後何年間も、会うことも手紙をやりとりすることもなく、ただ祈りあうだけの時を持たれた後、やはりお互いに、お互いこそが与えられた伴侶であるという確信が揺るがなかったことで、10年後に日本で結婚式をされるようになったということなんですよね。 それから50年。ベック兄のお証しをお聞きして、日本流に言うとおのろけですが、本当にお二人の夫婦生活の充実していること、素晴らしさをお聞きすることができて感謝だったんです。 結婚生活とはそのようなものです。けれども皆さんに、ボーイフレンドやガールフレンドができた時に、ご両親が間違いを起こしてしまうのではないだろうかと心配するとすれば、それはやはり早すぎる肉体関係のことについて心配されるのではないかと思います。 マルコの福音書10:6-9
結婚式の時にも読まれますけれども、これが主が私たち人間に与えてくださった、男と女の究極の交わりなんですね。 一心同体と書かれていますけども、心がひとつになることと体がひとつになることの両方が与えられています。 心がひとつになるということは、もちろん互いに心から愛し合っているということです。体がひとつになることはもちろんSEXのことです。そして、それが許されているのは、この夫婦関係の中にあってだけだと聖書ははっきりと言っています。 創造の始めからそのように作ったと聖書は言っています。ですから男が女にひかれ、女が男にひかれるのは当たり前のことです。そのように主が作って下さったからなのです。 どちらかだけというのは中途半端なことになってしまいます。この一心同体になる結婚生活。この一心同体に二つの条件をつけています。 人はその父と母を離れて一心同体になるのがひとつです。もうひとつは、神が結び合わせたものを引き離してはならない。この二つであります。 どうして皆さんが肉体関係を持つと早すぎるのでしょうか。それは1番目に答えがあります。人は結婚して、本当の男女の交わりである夫婦生活に入るためには、父と母から離れることが必要なのです。 すなわち肉体的にも、精神的にも、社会的にも、経済的にも、独立として一人の人間となった時に結婚する資格があるのです。 性の肉体的な営みは愛の祝福です。そしてこの祝福が喜びと幸せになるのは、結婚という主の守りの中にあってだけの出来事なんです。 それ以外の場面で男と女が一心同体になることは可能ですが、祝福が与えられません。聖書はそのような場面を不品行と呼んでいます。 結婚する前に肉体関係を持つ男女のことを不品行と呼び、すでに結婚した他人と肉体関係を持つことをおもに姦淫と呼んでいます。 厳密な区別ではないので、どちらも不品行でありどちらも姦淫であります、従ってそれは、7番目の主の戒めに背くことになります。 主が私たちに与えて下さろうとする男女の交わりの最も深い喜びと祝福、それは結婚の中にだけあります。私たちがそのことを忘れてしまうと、一心ではなく同体になることはできるかもしれないけど、恐ろしい主の罰が待っています。 でも別に私は独立してるし、一人で生きていくことができるから自由に関係を持ってもいいんじゃないですか?いいえ、だめです。なぜなら二番目の条件があるからです。人は神が結び合わせたものを引き離してはならない。 すなわち男女の交わりは一度、ひとりの人とだけということなのです。 神様は、私たち人間の体と心をそのようにお造りになられました。それに反することはできますけれども祝福がありません。どこかおかしくなっていきます。体が病んでいきます。心が病んでいきます。 その行き先は喜びではなく、悲劇と苦しみそのものです。 コリント人への手紙第Iの6章と7章は、結婚について、男女関係について大変乱れていたコリントの教会に対してパウロが書いた箇所です。ですから、どうぞここを真剣にお読み頂きたいと思います。 コリント人への手紙第I、6:9
不品行は不良のように思えるかも知れませんが英語の聖書などでは、はっきりとsexually immoralと書いてあります。すなわち性的な不品行です。 コリント人への手紙第I、6:10-20
安易に肉体的な交わりを持つことは、その人と一心同体になることですから注意するように。そして神の定めによれば、それは永遠のものであり、だから注意するように。 私たちの主は生きておられます。私たちは日々の生活の中にあって、格好良い人や素敵な人に出会って心が惹かれるかも知れません。幸運であれば、おつきあいできるかもしれません。けれども私たちは、ある一線を越えることができないことを知らなければなりません。 現代はそのようなことに対して非常に無頓着というか、寛容というか、勧めすらします。高校生で肉体的関係を持っているのが驚くにあたらない。今や中学生でもそのようなことがあるとメディアでは報道されています。 私達は、自分の体が主によって贖われたものである、私たちのうちに主が住んでいてくださるということを意識しているでしょうか。 ミュンヘン姉が16歳のベック少年に出会った時に、ミュンヘン姉は、戦争の後絶望して生きる目的を失っていたベック少年をアイドリンゲンの集会に連れて行って、そこでお二人が信仰を持たれたということであります。 もし相手の人を大切に思うのであれば、その人に盲目的に従うのではなくて、その人に救われて欲しいと思うのが正しい態度ではないかと思います。 マタイの福音書7:13-14
この世の中の言うことを聞いていると、必ずこの大きな門から入ってしまいます。私達が命に至る道を見いだすことができるのは、ただ聖書だけであります。 今日、皆さんがこの場に来ることができたのは決して偶然ではないと思います。皆さんが祈られているから、今日ここにおいでになれたのだと思います。 ですからどうか、そのことを忘れないでいて欲しいと思います。そして、どんな時にも主が私達のことを見ておられる。 聖書の中で、最も賢い者が誰かと言えば主を恐れる者だと言っています。恐れるのは怖がるのとはちょっと違います。 たとえば、皆さんがお父さんや学校の先生に怒られたとき恐いでしょう。その恐さは、聖書の恐れると非常に近いです。 私達は、主が私達を見ていると思えば、なかなか悪いことに手を出せないと思います。けれども、ちょうどエバのように主の目を忘れてしまうと、簡単に誘惑に陥ってしまうと思います。 最後に詩篇の34篇からお読みして終わりにしたいと思います。 詩篇34:7
私達が主をいつでも恐れる気持ちがあるなら、主は私達の周りに御使いを送ってくださり、私達をすべての悪から守り、私達に対する攻撃から守ってくださることがおできになります。 どうか、私達は主によって罪を赦され、贖われ、買い取られた者であるということを、覚えておいて頂きたいと思います。 |