引用聖句:ローマ人への手紙8章28節
メッセージの準備は、12月じゃないけども、「くるします」で、本当にメッセージの準備をしていますと、自分が色々内気にみえて、割と目立ちたがり屋の部分があるんじゃないかと思うんですね。 そういう責任がない時には、心の中でこのみことばがいいなとか、ここはこういう書き方だとかっこいいなとか思ったりするんですけども、実際そうやってちょっとメモしたりすると、大抵みんな、いざ本番になりますと全然ダメで、結局そういう準備をしてると本当に結局いつも押し迫って、そういう神さまを本当に前にへりくだって仰がないと、本当に与えられないと、そういう実際のところ、やはり今回も昨日のメッセージで力尽きておりました。 しかし、やはりそういう、まとめようと思っても要するにまとめられるもんじゃないということが本当に思います。 やっぱり準備してると、ふっと示されることとか、そしてふと読んだ本から、自分自身が教えられたこのこともまたそうだなと、本当にそういう読み方。神さまがこう語ってくださるという感じなんですけれども、今日も神さまにお任せして、今日のメッセージの題の「感謝をもって今を生きる」ということですけども、神さまがやっぱり働いてらっしゃって、やっぱり必要な方には必要なことを語ってくださるだろうと、私じゃなくて、という思いで語っていただきますので、本当につたないものですけども、よろしくお願い致します。 私は非常に思い煩いの多い人間でして、それによって人生をかなり浪費して、ふと気が付くと50代です。信仰という言葉の反意語が、思い煩い、あるいは、心配という言葉などではないでしょうか。 そしてこの両方が、今という言葉に大いに繋がりがあると思うのです。 マタイの福音書6:25
私たちの肉体のいのちももちろん大切です。しかし食べたり、着たりしていくことについては、そういうことについて心配で心を一杯にしてはいけない。心配や思い煩いに、今という時を占領させてはならない。 そうすると、私たちは主に仕えることが出来なくなる。ちょっと戻って、 マタイの福音書6:24
今私たちが大切にするものによって、私たちの生き方が決定されてしまうということを、言っているのと思います。主に仕えるのか、それとも物に仕えるのか。31節、32節に飛びまして、 マタイの福音書6:31-32
ここに私たちの必要を、よくご存知の天の父がおられます。だからイエスは心配するのはやめなさいと言われます。心配するのをやめる。これはチャレンジです。信仰の選択。 マタイの福音書6:33
神の国、すなわちこの世界は本質的に天の父のご支配されているところです。私たちは今、豊かな豊かな天の父をもっています。33節のこれらのものはすべて与えられますとは、どのようなことでしょうか。 これは放蕩息子の例え話によく描かれています。ルカの福音書の15章から見てみたいと思います。 ルカの福音書15章の17節から。途中からなんですけども、みなさんよくご存知だと思いますので、とにかく父の家を出て放蕩三昧に過ごしたこの放蕩息子。しかしすべての財産を食いつぶしてしまった。そしてもう飢えて本当に行き詰ってしまった時、 ルカの福音書15:17
そして、父の元に帰る決心をします。 ルカの福音書15:20
飛んで、22節、そして息子さんが、悔い改めの言葉を口にしようとするのを、遮るように、次のように言います。 ルカの福音書15:22-23
父はこのように、最上の物を豊かに注ごうと常に待ち構えてくださるお方です。 マタイの福音書6:34
イエス様がこのように、明日のことは心配しなくていいんだよと言われることに続いて、明日のことは明日、今のことは今と、言われます。それは、あなたが本当に生きて働くことが出来るのは、今なんだよ、今しかないんだよ、過去でも未来でもなくて、今このときなんだよというところに強調があるように思われます。 過ぎ去ってしまった過去は既に確定しています。もう動かしようがありません。私の心の中にも、私の若いときの失敗、それはちょっと詳しいことは言えないんですけども、言ってもあんまりどうってことないと思うんですけども、しかしそれが私の中では棘となって、ずっと刺さって、残っていて、夜静かに寝ていると、ふと思い出したり。そういうこと、何度もあって、本当にあのことがなかったらいいのになあ、というようなことが繰り返し襲ってきたのですね。 本当に、それに対してウジウジ、ウジウジ自分でして、それが本当、取り返しがつかないと分かっていても、この事実、何とかならんもんかというような、よっぽどプライドが高いわけで、そういうふうに思っていますけどもけども、そういうことも含めて、神さまのご支配のもとにあったというふうに思い、感謝することで今は解放されていると思います。 で、さらに将来のことも私たちにのしかかります。直に大きな仕事が与えられたり、それから今もそうですね、この四月から新しい学校に転勤しまして、今まではでかい学校だったんですけども、今度はかなり規模が小さくて、生徒も人数が少なくて、覚えやすいですけどもね、名前覚えが非常に一苦労だったもう、性質になってますので、あの1学年が3クラスか、2クラスなもんですから、非常に生徒と接する、顔を合わせる密度が高くなって、それはいいんですけども、また教員同士の人間関係などのトラブルが起こったら大変と、顔を合わせてはいられないと、でも合わせないではいられない。 こういうことがあって、やっぱり非常に神さまに導かれたところとは、感謝していながら同時にまたやっぱり、行き違い、誤解、うまくいかない。 そういううちに、私の中に思い煩いが持ち込まれてきました。そしてそういう過去のこと、それから先のこと、そういうものの思い煩いがともに気がつくのは、私が本当に生きているこの、今というときを奪い取るものだという事実。 放っておくと、心配や思い煩いというのは、私が今という時を主とともに歩み、主とともに働くという、今しか出来ないもっとも大切なことから引き離す、サタンの有力な武器だなあ、ということがいえると思います。 聖書の中にも、一杯そういう「思い煩うな」という言葉が出てきて、後でちょっと見たいと思いますけども、そういう非常に強力な武器、そういう攻撃に対して私たちは、どうすればよいのでしょうか。 ここで、「感謝を」という言葉を中心に考えたいと思います。 長い間、聖書でいう感謝ということについて、誤解をしていました。感謝にはよく「すべて」という言葉がくっついているわけなんですけども、そういう言葉を見ないで、良いことや、何事もない無事なことを感謝する、それだけなものだと。ただなんか感情に属する、お祈り、そういうもののように思っていました。 だいたい、ずっと心が重く、苦しい、重苦しいという時が続いておりましたので、感謝する理由もそういう感謝する種も見当たらない、ということでした。状態でした。 しかしすべてを感謝するということを知って、感謝は感情にではなくて、意思に属することだと、そして私たちの信仰の表現であるということ。それから父なる神さまが、今私にこれを受け取りなさいと差し出しておられるものを、そのままに受け取る、感謝して受け取る、そういうことがあると知りました。 ですから感謝とは、一番目に「主よ、今起こっていることはあなたがなさっていることなのです。」ということを認めることであり、そして次に、「これはあなたの完全な愛から計画されたことなのですね。」との、信仰告白であって、神さまの御腕を捉えて、神さまの御手の中に満足をもってやすらうことである、ということを教えられました。 で、ありますから、感謝は、感謝をすることは私たちのために神さまが用意しておられる、神さまの御心の中に私たちをおくこと、神さまと共に歩むことを可能にすることだと思います。 そしてそれゆえに、神さまの御心をも満足させることとして、それは神さまを愛することにつながっていくのだと思います。そして感謝は、例えば私たちに次のようなことももたらします。 私たちは長い間、これは私たちの周りに生きているこのような人々もそうなんですけども、これは良いもの、これは悪いもの、これは私たちにとって良いこと、これは悪いこと、という区別を常にして生きてきました。 病気することは悪いこと。学校の成績が上がるのは良いこと。儲かるのは良いことで、人間関係がうまくいかないのは悪いこと。子供が順調そうに手がかからず育つことは、良いことです。悪いことが続いたら、お祓いに行かなくちゃ、ということになります。 しかしすべてが神さまの御手から出ていると知るならば、私たちは悪いように見えることも恐れる必要がなくなります。 詩篇112:7
ドキッとするようなことがあっても、でも大丈夫だということが、私たちには主の愛と、そのご支配を知る時に、この私たちを支える強力な、恐れない土台を得ることが出来ます。さらに、その悪いように見える中に、神さまが良いことをしようとしておられることを信じることが出来ますから、これからそれを避けようとしたり、抵抗しようともがくことからも、救い出されます。 今現実となっていることは、すべて神さまの力ある御手、完全な愛のご計画の御手を経由して、私たちのところに届けられたもののはずです。私たちはそう信じます。 ですからたといそれが、今悪いこと、あるいは理解出来ないこと、ヨブのように、ヨブはちっとも自分がこんな苦しみを合う理由が分からない、神さま、本当に分からないです!っと言って神さまに訴えたんですけども、そういう風なこともあると思うんですけども、そういってヨブは神さまとある意味で争ったんです、と思いますけども、しかし、私たちはそういう必要がなくなる、そういう今起こっていることを拒否しようとしたり、避けようとしたりすることは、それは、ある場合神さまの御心を拒否して、で、私たち自身が神さまとの、いつまでも争うことになってしまう。 本当にこう、暗い人生の時期になりますと、本当にそこからもう出たくなるということを私も本当に経験しましたけども、しかしこれは本当に拒否すべきものだろうか、避けられたら、避けるべきものだろうかいや、そうではないと、いうふうに思えるとき、私はある意味で異様な、解放を覚えると思います。 私たちは辛くともそれを受け取り、充分に味わうという姿勢を維持するべきではないでしょうか。そのことが哀歌の3章には描かれているのだと思います。 哀歌3:25-30
自分を打つ者、しかしそれはその背後に神がおられる、そしてその神の扱いを十分に受けよ、十分に味わえ、ここには試練が来たとき慌てたり、避けようとしたりするのではなく、落ち着いてそれを受け止めている人、そしてそれを与えた主にじっと目を注いでいる人の姿が描かれています。 彼は主よ、このことを通してあなたは何をお語りになろうとしておられるのですかと、主を待ち望んでいます。たとい辛くても、私は主の用意された道を歩む。そこにはまだ私には隠された尊い意味があり、主はそれを与えようとしておられたのだから。31節から戻って、読みますけども、 哀歌3:31-33
ここに必ず神さまの意図がある、という風に書かれてます。私たちがそれを十分に味わうことだけが、神さまのご計画をすみやかに進めることではないでしょうか。 哀歌3:34-37
人が悪意をもって私たちに何か良いことをしたとしても、主はそれをただ見ておられるだけではなくて、それを主が命じたのでなければ、誰がこのようなことが起こしえようか、というふうにあります。ここにも背後に主がおられる。そして最後38節ですが、 哀歌3:38
ここで新約聖書に戻りまして、感謝をするということについて、幾つかのみことばからみたいと思います。 ローマ人の手紙8:28
神を愛する人々とあります。そしてその神を愛する人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 すべてのことといいますと、だから、すべてのことを感謝する、のすべてということで、すべての良く見えること、悪く見えること、普通のこと、そのすべてのことを働かせてくださるのは、神を愛する人々のためである、と。 神さまの与えられた第一の戒めは、神さまを愛することです。マタイの福音書の22章に、イエス様はそのことを語られているとこがあります。 マタイの福音書22:37
もし神さまが今、私たちのうえになされていること、そして神さまのご支配と導きに対して、私たちが今それを満足していない、それを避けようとして嫌がっているなら、私たちが満ち足りていないなら、私たちは神さまを愛することにはなっていないということではないでしょうか。 いつでも、すべてこのとについて私たちの主イエス・キリストの名によって、父なる神に感謝しなさい。ここでも、すべてのことについて感謝しなさい、と書いています。 すべては例外を認めません。自分にとって良いことだけではなくて、私に今臨んでくる一切のこと残らずです。 私たちがそのように感謝をするとき、私たちは初めて神のご支配に対して調和を保って、神とともにあるということが言えます。そのとき私たちは神さまのご支配に栄光を帰しており、神さまを愛していると、言えます。 私たちが、神さまご自身、また神さまの今なさること、それをともに私たちが満足して受け入れること、それがイエス様を愛することだと言えると思います。 そしてそのときに、先ほどのローマ人への手紙の8章の28節ですけども、「神さまがすべてのことを働かせて益としてくださる。」ということを保障してくれます。 この感謝ということが、手紙では一杯、本当に探してみると出てくると出てくると思うんですけども、ゆうべ、せっかく持って来たコンピューターが突然壊れてしまいまして、それを調べるといいなと思ってたんですけども、 ピリピ人への手紙4:6
ここに思い煩いが出てきます。そして感謝が対比されるように出てきます。 どのようにして私たちは思い煩うことから救い出されるのでしょうか。私たちがすべてのことについて感謝することを始めるとき、思い煩いは消えざるを得ないのではないのでしょうか。 なぜなら今まで思い煩いの種であったことをも、私たちは感謝し始めるのですから。感謝と思い煩いを同時にすることは出来ない。どっちか一つなんですね。ですから感謝し始めたら、思い煩うことは出来なくなる。思い煩い始めたら、感謝が出来なくなる。 そして、感謝と満足とを神さまにささげつつ、それを土台として、その次に願い事を神に知っていただくことがすすめられています。 私たちが単に願い事を神さまに申し上げるだけだとすると、私もしばしば経験しましたけど、やっぱり何となく祈りが応えられないと欲求不満に陥って、落ち込んできて、あんまりおもしろくないなあと思うんですけども、やっぱり聖書は神さまへの感謝が、音楽のバッハの音楽でいいますと、通奏低音、チェロとか弾く音がずっとこう、低い音が響くような通奏低音というんだそうですけども、そういう通奏低音のように私たちが神さまに、感謝をささげつつ、そして願い事を神に知っていただくという、この組み合わせが非常に健全で大事なことなんじゃないかなあというふうに思います。 で、それに続きまして、 ピリピ人への手紙4:7
平安自身、また喜び自身が私たちの目的ではない。私たちにとっての価値はイエス・キリストご自身ですけども、しかし私たちはそういうふうに、イエス・キリストに感謝するとき、私たちの心はその結果として平安によって守られます、というふうに約束してくれてます。 もう一箇所見たいとおもいます。 コロサイ人への手紙2:7
ここにも、あふれるばかり感謝しなさい、このように私たちがキリストにおいて成長することを描いているわけですけども、書いているわけですが、その成長するうえにおいて神さまの完全なご支配を得るため、満足と感謝をささげるということが重要であるということだと思います。 テモテへの手紙第I、6:6
満ち足りた心をともなう敬虔、神さまはそういう私たちの満ち足りた心と感謝を喜ばれるというふうに思います。 今日、そして今という時こそ、私たちが生きて働くことが出来るとき、なによりも主ご自身が働いておられるときです。ヨハネの福音書5章の17節には「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」というふうに言われています。 ですから、この世の人から見れば私たちは本当に平凡な人、たいしたことない人、平凡な日々、昨日も今日もあまり変わらないような日でも、神さまが働いておられる日、というふうに、そういう光を当てられると、イヤイヤ、これは平凡な日ではない。 私たちは本当に、取るに足りないような者。しかし私たちはすでに神の子。救われた罪人に過ぎないけれども、キリストとともに、新しい世を受け継ぐ者とされています。 そして今しばらくは、この地上にあって信仰によって神とともに歩み、そして御心であるならば、もちいていただける者ですけども、私たちはすべてのことを感謝することから始め、本当に神さまを喜び、何々を貰ったから頂いたから喜ぶということとともに、聖書には私に求めよ、という言葉とそれから、私を求めよ、という言葉と、両方あると思いますけれども、神さまはその両方、そして私を求めよということを神さまは求めておられるのではないかな、というふうに思います。 本当に神さま、そして神の御子イエス・キリストこそ、私たちにとっての最高の神さまの賜物。そしてそのお方が、今私たちとともに見えない形でおられることも、後には目に見える形で私たちはお会いします。 みことばを読んで終わりたいと思います。 コリント人への手紙第II、6:2
この今を大切にし、私たちは今神さまを喜び、神様に感謝し、そして神さまを信じ、そして進んで行くことが守られるように、神さまに求めたいと思います。 ありがとうございました。 |