生きて働く交わり


小川兄

(西神福音集会、2003)

引用聖句:ピレモンへの手紙1章6節
6私たちの間でキリストのためになされているすべての良い行ないをよく知ることによって、あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように。

ピレモンへの手紙、というのはパウロが同労者ピレモンへ送った手紙であることは、1節を読むと分かります。
パウロの文章というのは、やはり、いわゆる、教育レベルが高かったからでしょうか、ちょっと分かりづらかったり、ここの6節の文章もですね、この文章の主語はなんですか?っていうと、「交わり」が主語になってくるんでしょうね。
本来この文章は後段の方から、「あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなるように」、「私たちの間でキリストのためになされているすべての良い行ないをよく知りなさい」ということが、この文章の意味なんですね。

で、普通こう、1節から読んでいくとですね、この6節は何気なく過ぎてしまうのではないかと思うんです。
ところがこの6節だけ取り出してよく読んでみると、パウロの言ってるのは、「あなたの信仰の交わり」まあ、ピレモンに対してですから、ピレモンの信仰の交わりが生きて働くものにならなければいけないよ、ってことを言ってるんですね。
で、そうするために何が必要かっていうと、イエス様のためになされているすべての良い行ないをよく知ることによって、と書かれているわけですね。

まあ、イエス様を信じて導かれて、私たちが、主が喜ばれるようにと、主の御心のようにと言って祈りながらしていることが良い行ないですから、「このように私たち祈ってたら、このように変えられたんです。」、とか、「導かれて、イエス様を受け入れるようになりました。」っていう、そういうことを知る、そういうことを話し合って、お互いに本当に絶望の中から助けられた。
あの、主の助けですとか、そういう話を聞くことで、私たちの信仰の交わりが生きて働く、とここで言っているんです。

今日はですね、あまりメッセージで取り上げられることが少ない「交わり」について、ちょっと考えようかと思うんです。
前にある兄弟が、ちょうど御代田の会堂が出来た頃、福音センター、あの、ゲストハウスでしたかね、平成4年くらいに一度、このメッセージをされたことがあったんですね。
それから、ちょうど、実はそのとき、私も市川で、この交わりについて学んだことがあるんですけど、それからあまり学ばれたことがないので、「交わり」というものがどういうものなのか、集会にもう慣れ親しんでいる人は、交わりと言えば説明の必要もなくて、どんなもので、どんな素晴らしさがあるかはよく分かるんですけど、初めてお見えになった方ですとか、まだイエス様を信じることが出来ない、どうしようか迷ってるってそういう人には、この交わりというのが人にはとても良くて、ある人にはとても厄介で、できたら、加わりたくないものではないかと思うんです。

私たちの集会では、というよりも、聖書が示しているのは礼拝と祈り、それから交わり。これをとても大切にしなさい、ということを言っています。
日曜日の礼拝や家庭集会や喜びの集い、いずれにおいても交わりの場を私たちは持って、互いに交わりをしているんですね。
「交わり」っていうと、しばらくぶりに会った他の集会のどなたか、兄弟や姉妹と、その後主はどのようにあなたさまを祝福されましたか、っていうようなことを話して、「やー、実はこんなことがあって、こう。」「そうだった。よかった。祈ってました。」そんなことになりますよね。
で、自分も祈ってて良かった!って言って、何だか例えば、ある姉妹のご主人のこと祈ってたりすると、ご主人の顔全然知らないのに、なんだかとっても嬉しくなってきて、不思議な思いがするのが交わりの良さではないかと思うんですけど。
まあ今日はそんなことで、交わりについてしばらく一緒に考えてみたいと思うんです。

まず使徒の働きの2章の41節から、ちょっとみことばを読んでみます。最初に交わりとは何かということですね。交わりとは何かっていうことを最初にまず見てみたい。
それから、交わりによって得られるものは何であろうか、ということが二番目です。三番目は、交わりがもたらす実はなんであるか、とこの3つに分けてお話を進めたいと思います。

まず使徒の働き。この使徒の働きの2章、使徒の働きこそがそうですが、初代教会といわれるイエス様が天に召されて、弟子であった者たちやその後イエス様の弟子たちの元に集まって来た人たちが集ったのが、初代教会といわれるんですけど、その情景が書かれています。

使徒の働き2:41
41そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

びっくりしますよね!1日で3000人ですよ!びっくりするでしょう!や、何千人集まってたんでしょう。その弟子たちのそもそもの集まりがですよ、何千人に対して、3000人来たのか分かりませんよ。でも、そんなにたくさんいなかったと思うんですよ。
3000人加えられたってのは、もうびっくりするんです。

使徒の働き2:42-47
42そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
43そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。
44信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
45そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
46そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
47神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

この最後のところ、びっくりするでしょう。毎日ですよ。毎日、その仲間を加えてくださった。毎日です。
私たちは毎週日曜毎なのに、毎日ですよ。一体これ、どういうことなんだろうか、という風に思うんです。
確かにイエス様がよみがえられて、天に昇られた後、使徒たちに起きたこと。聖霊が彼らに降って、力が与えられたってことはもちろん書かれていますけれども、まあその一つが交わりということに、その大きな力があったと思うんです。

ギリシャ語で交わりというのは、「共にもつ」とか「共有する」「分かち合う」、まあ「一緒にもっている」とか「一緒に活用する」「分け合う」という意味をもっているそうです。
だから彼らはこの、2章の44節と45節に書いてある通り、一緒に生活をして、財産を共有して、物を分け合っていた。もちろん彼らは物だけを持ち合っていたのではなくて、喜びや試練などの心の思いもまあ、一緒にしていたんですね。

パウロがコリント人への手紙に書いていた通り、互いに慰め合い、励まし合っていた、心が一つになっていたのであります。彼らの心を一つにしたのは、もちろん、聖書によれば御霊の働きがもっとも大きな中心となりますけれども、彼ら自身も主イエス様への、感謝と賛美を共に行なったことが大きな事実であります。
彼らは御心に従った祝福として、イエス様が毎日救われる人々を仲間に加えてくださった、と書いてあります。心を一つにして礼拝をして、パン裂きにあずかって、食事をしながら主を賛美していました。
このように聖書を読むと、なるほどそんなものなのか、とこう思うんですけれども、私たちにとってなかなか易しいことではないんですね。

それは集会に集う私たち自身のうちに自我があって、例えば家族ですら一つの物を共有する、まあ、テレビでもそうでしょうし、色んなことがそうですね、電話でもそうでしょうし、家族でも共有することは難しい。
一つのことを一緒に願うことすら、家族でも難しい。そういう状況なのに、集会というところはもう、大変厄介なことに、生まれも育ちも環境もみんな違う人たちがまったく同列でですね、会社のように序列が決まってると整理がしやすいんですけども、まったく同列で集まってると、もう、いわゆる、ゴチャゴチャの世界ですね。
こういう中で心を一つに、物を共有するってことは、まあ、ちょっと人間わざでは出来ないことであります。まして考え方や、価値観や人生観も異なってくるのが社会ですから、難しいわけです。
ただ私たちにとって、今、後段にお話した考え方や価値観、人生観っていうのは、一つになることが出来るのは幸いです。

どの人がどう考えようと、聖書は何と言ってるか、聖書の読み方によって、何て言うんでしょうかね、取りようによっては、二種類にも、三種類にも考えられるような記述ももちろん聖書にありますけども、それは心を一つにした祈りによって、一つの結論を主からいただくことも出来るということを私たちは経験をしています。
だから、初代教会の人たちのように心を一つにして共に生活をし、主を見上げたということが、大きな祝福を受けたことになります。分かりやすく言うと、彼らが一つになれたのは、誰もが主イエス様だけを見上げた、誰もがどんな時にでも主イエス様を見上げた、ということですね。

コリント人への手紙第I、4:15
15たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。

と、これもちょっと何か、パウロ独特の表現で、ちょっとその信仰の道が曲がっているコリントの人たちに少し皮肉っぽく書いてあるんでしょうか。
色々イエス様について語る人が、色々なことを言う。聖書のみことばをもって、ある人はその同じみことばをもってこう言う。他の人はまた別のことを言う。そういう状況であっても父は一人でしょう?ってことなんですね。
ですから私たちの集会でよく言われるのは、いわゆる教会のように牧師がいて、神父がいて、その人を通じて信じている者が主と交わる、ということではないんですよ。ということなんです。

誰もがいつでもイエス様と個人的に交わりが出来る。主と、いわゆるたましいのやり取りが出来るということを、私たちは聖書から知っています。また、事実、経験からそのことを知っているんですね。
ここにパウロが書いたとおり、私たちの父なる神はただお一人ですから、めいめいが父に聞くこと、イエス様に聞くこと、従うこと、委ねること、ささげること、熱心になることが信仰の歩みで、この父なる神への信仰によってだけ、私たちは一つになることが出来るんですね。

コリント人への手紙第I、6:17
17しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。

と、はっきり書いてますね。パウロは。
コリントの人たちは少し分裂があったり、偶像にはしったり、御心にかなわない行ないをしていたようですから、パウロはコリント人への手紙の第Iと第IIという二通の手紙を出して、励ましたり、戒めたりしたんでしょう。
その中で、この彼らにパウロが書いたのは、主と交われば一つ霊となるのですということなんです。まずイエス様と交わりなさい、ということですね。
社会とまったく反対のことを、言われてますね。社会の中で社会の、会社だとか学校でもそうですね。それから何か趣味のサークルなんかもそうでしょう。たくさんの人が集まって、一つのまとまりになることは大変でしょ。大変ですね。
みんな顔色伺いながら自分の意見を言ったり、ときには一人ものすごく強い人がいて、その人にみんな引っ張られっちゃったりするようなもんですね。だから会社なんかは、組織が作られて、何か一つしようと思うと目標を作って、目標達成のために研修がなされて、検討がなされて、計画が決められて、役割が与えられて、ノルマが決められて、それでみんなでがんばろう!!ってやってですね、意識統一が出来るかどうかっていうところなんですね。

しかし先ほど見たとおり、使徒の働きにあるとおり、イエス様の家においては、おのおのがイエス様との交わりを通して、イエス様からそれぞれ役割が与えられる。
また果たす力もイエス様がくださるという、そのような人は介入はしてるんですけど現に存在するんです。で、人の力でなされていないところに、不思議なものがあるんですね。

互いが互いを見るのが人の世ですけども、人の社会ですけど、私たちのこの主にある交わりというのは、一人一人が互いを見るのではなくて、イエス様との深い交わりをもつことによって、主から悔い改めるべきことを知らされるし、また祝福を受けて感謝をささげるということになります。
集会の場合には、集会全体が家と書かれています。初代教会のように、集う一人一人がイエス様との深い交わりをもって導きに従うこと。その結果として心が一つになっていく。だから毎日毎日たくさんの仲間がまあ、加えられたということになるんですね。

交わりとは何かということを考えていく時に、ちょっと変わった質問について考えてみたいんですね。まず交わりの主催者は誰かっていうことですね。
私たち、今日も食事、この後交わりをしますけど、誰が主催してるんでしょうか。誰が主催してるかと正しく知るために、やっぱりみことばを見た方がいいんです。交わりについてはあんまりみことばに書かれてないようですけれども、実は必要なことは私たちに充分なだけ書かれています。

コリント人への手紙第I、1:8-9
8主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。
9神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。

と書いてあります。
私は今回のこの学びを通して、交わりについてはいわゆる自分では分かってるつもりでしたけど、そうではない。もっともっとその、大きな目的が主イエス様はお持ちだったんだっていうことを、新しく知ることが出来て、悔い改めに導かれました。
9節に書かれている、私たちの主イエス・キリストの交わりに入れられましたと、書かれています。もちろんパウロの言うイエス様との交わりは、自分とイエス様との交わりだけでなくて、イエス様を中心とした兄弟姉妹の交わりを通してっていうことも、含んで書かれているものです。
このみことばを読むと、神さまのお召しによって交わりに入れられた、と書いてありますから、キリストじゃない・・・その方のお召しによって、と書かれてますから、特別に与えられた特権であることが分かるんですね。特別な、招待券のようなものですね。

そうですね、イエス様のご再臨の日まで私たちの信仰を堅く保つ、恵みとして与えられたんだってことも8節から分かりますでしょう。責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいますと、書かれてるその次に、この交わりのことが書かれていますから、この二つのことを私たちはとても見逃してしまっているのではないでしょうか。

私たちの集会は、どこの集会でも交わりをしていますから、とても日常的ですから、とても素晴らしく、御心に適ったことで、イエス様は喜んでらっしゃると思うんです。
しかしこのみことばを読むと、自分がすっかり交わりに慣れてしまっていて、これが私の特権なんだということだとか、それから後に自分の信仰を堅く保つ恵みとして与えられてる良い機会なんだということを、ちょっと忘れてしまっている。というよりも、初めから心にない状態だったような気が、私はするんですね。
確かに交わりはいいし、満たされるし、というのはあるんですけれど、特権であることと、後でもう少し詳しく説明しますけれど、自分の信仰を堅く保つ恵みがこの交わりにあるんだということ、ちょっと私はあんまり心にはありませんでした。

何故今このようなことを注意深く見る必要があるかというと、交わりの奥底に大切な二つのいのちがあるからなんですね。この特権にあずかるために犠牲となられた主イエス様のいのちと、それから私たちのいのちなんです。
私たちのいのちとイエス様のいのちを、同じ列に並べていいのかって思うかもしれませんけど、同じ列なんですね。まあ、正確には多少違うかもしれません。どうしてかっていうと、贖われたいのちというのは買い取られたいのちで、主イエス様のものなんですね。

私たちは確かに自分たちは貧しくて、愚かで、汚れていて、どうしようもないという気持ちがありますけども、それは昔の自分たちの話で、心の一致によって私たちが信仰の道を歩むっていうことが出来るならば、私たちのいのちは主のものなんですね。
パウロは何度も書いていますね、生きることもキリスト、死ぬこともまた益ですっていうことを書いてますね。そう考えたら、贖われたわたしたちのいのちっていうのは、主イエス様のものなんですね。ですから、そのお捨てになったイエス様ご自身のいのちと、そのお捨てになったいのちによって助けられた、滅びから救われたわたし達のそのいのち、この二つのいのちが堅く保たれるべき場が交わりだっていうことを、主は願っておられるんです。

ということは、だからこそ交わりというのは、いのちについて伝える場であるし、いのちの恵みを受ける場であることが分かります。神さまのひとり子であるイエス様の犠牲によって備えられた厳粛な場であるし、私たちの信仰を聖めて、堅く保つ場と言うことが出来ます。
そのような心構えをもって、交わりに臨んでいただろうかと思うと、ちょっと悔い改めざるを得ません。
この二つのいのちについて、知らない時はいいでしょうけども、聖餐を受けて主への感謝をささげる私たちにとっては、やはり交わりが、その交わりの場のもとにですね、イエス様の犠牲のいのちと、それからそれによって贖われた私たちの永遠のいのちが、尊いその主から見てですね、尊いと仰ってくださるいのちが中心にあることを忘れてはなりません。

もっと大きな感謝をもって、真剣に交わる必要がありましたし、それが自分の信仰を堅く保つ恵みとなることですね。
これは交わりを通して、新しい励ましを得られる。それから主ご自身がお約束なさった一つ一つの御心に対して私たちが、新たにそれを知ることが出来る良い機会であります。

まあ、自分のことですけども、振り返ってみるとこの世的な話ばかりで終わってしまったり、イエス様にある喜びの交わりどころか、むしろこの世的な場になってしまったり、というようなことがありました。ですから最初の質問の、交わりの主催者は誰ですか?といったら、もちろん主催者はイエス様であります。
招かれた私たちは招待者の目的に従って、招かれたことへの感謝とそこに提供されるたくさんの恵みにあずかることがやはり幸いではないでしょうか。

二つ目の質問は、誰と交わりますか?っていうことですね。
これもちょっと不思議な質問かもしれませんけど、ヨハネの手紙第I、1章3節です。

ヨハネの手紙第I、1:3
3私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

と、こう書かれています。
交わりで語られることは、主イエス様のなさられたこと、語られたことですね。私たちから見ると主イエス様から受けたこと、教えられたこと、示されたこと、現実に起こされたこと。そうしたものを互いに伝え合うことが交わりであります。
ですから兄弟姉妹の交わり、とても楽しい。特に兄弟姉妹がイエス様からどのような祝福を受けたかを聞くほど、楽しいことはありません。嬉しいことはありません。
でも交わりの相手は、お互いに兄弟姉妹ではなくて、兄弟姉妹に生きて働かれるイエス様が私たちの交わりの相手なんです。

このことはとっても大事なんですね。イエス様が話されることや、見上げながらお聞きするのが交わりです。イエス様を中心とした交わりだと言いながら、人間的な思いで話していないか、聞いていないかっていうことなんですね。
例えばですね、相手がイエス様、兄弟姉妹と話してても、相手が相手のうちに働かれるイエス様が私たちの交わりの相手だという風に思った時に、人間的な慰めや同情が、私たち出来ないはずなんですって。
私が語るのではなくて、主よどうか語ってくださいという思いで、一人一人が交わりに臨むことによって、初めて初代教会の人たちのように、同じ心で交わりが出来るのではないかと、思うんです。

悩みがある人は、いわゆる心を責められている、弱くなった状態ですね。弱くなったその霊をですね、励ますのはやっぱり主イエス様の霊なんです。聖書には女は弱いと書かれてますね。ホントかいなと思ったんですけど。昔は。
でも確かにそうです。姉妹というのはやはり弱い存在ですね、兄弟と比べると。どちらが、という比較ではないですよ。
私が今の経験の中で自分で感じるのは、姉妹はやはり兄弟の慰めや励ましが必要な存在だっていうことですね。兄弟ももちろんそうですよ。兄弟の場合には、姉妹から欲しいのは、祈りそのものであって、逆に慰めとか励ましよりも、祈りだけで充分じゃないかと思います。
でも姉妹はどうも、やっぱり目に見える形での励ましとか、そういうのがないとちょっとどうかな、と思ったりもしますし、もう一つはすごく惑わされやすいのは姉妹ですね。
聖書を見るとそうでしょ。サタンに惑わされたのは全部姉妹ですよ。姉妹を悪く言ってるんじゃないですよ。そういうために主が創られたから、だから兄弟がいるということ。聖書読んだら女性の方が、姉妹の方がいいかもしれないね。だって自分の体を愛するように愛しなさいっていうんですから。無理な注文でしょ。兄弟にとって、姉妹ってのはね。

横道にそれましたけど、そういうわけで、私たちが交わりの時に向かい合ってる相手はその、目には、兄弟姉妹に見えるけれども・・・交わりのときに私たちが祈るように、互いに主を褒め讃えながら、イエス様の御心を求めて交わるわけですよね。そうすると、ときに自分の気に入らないことを言われたりすることがありますね。ときにそうすると、あの姉妹がこんなこと言ったとか、この兄弟が私にこんなこと言ったっていうふうになるんですけど、それはどうかと思うんです。
そうではなくて、交わりの場というのは人間的に慰めたり、同情したりすることは全く必要がない。
あるいは導きについて考えたり。こんなことが起きたんだけど、どう思う?腕組みして何が主の御心だろうかって考えたり、こうなんじゃない、こうなんじゃないって、こう考えてますけど、おかしな話ですよね。

信仰っていうのは、その導きの目的、主が目的にされるその地に従って一日一日を過ごすことが信仰の歩みで、どうも主はこっちに導かれてるから、たぶんこうなるだろうって、その時点でもう先読みして喜んだり、悲しんだりしてることを私たちはしてしまうんですけど、それは間違いです。
導きはイエス様が与えられて、昨日出エジプト記の学びをしましたけども、40年間足がはれることも、着物がすりきれることもなく、主が導かれた方ですね。私たちの最善を考えてくださる主の導き、私たちは楽しんで待つことで充分なわけで、とても考えるようなものではありませんし、考えるという行ないは人間の思いであって、多くが罪ですね。
考えるということは罪なんです。考える時間があったら、祈ることがどれほど力になるか。

また今お話したとおり、交わりの相手がイエス様であるという、その思いが不足していると、イエス様が兄弟姉妹を通してお示しくださるメッセージも私たちは受け取ることが出来なくなってしまうんですね。
ま、耳に心地よいものは受け取るんですね。受け取るんですけど、自分の心地よくないものはそのまま残ってしまう。受け取ることが出来ない。その意味では交わりの前の、交わり前にみなさんでお祈りしますね。その交わりの前の祈りっていうのは、その一人一人にとってもそれから集会を一つとする、本当に主イエス様の、恵みにあずかるためのものである。主イエス様の御声聞きたいと。その交わりに加えられるんだ。というその感謝と願いをもつ祈り、それがとても大切であることを私はこの学びを通して知りました。交わりはイエス様がくださった、特権と恵みでありますから、 イエス様と向かい合うこと、祈ること。これが本当に大切であることを知らされました。

ま、次に交わりによって得るものは何かっていうことなんですけれども、先ほどヨハネの手紙に、「私たちの見たこと、聞いたことを伝えることが交わりである。」、と書かれています。
信仰の歩みにおいて、多くは試練の中でイエス様が働いてくださった経験をしていきます。自分は何もしていないのに、祈っていたらイエス様が問題を解決してくださったとか、すべきことを示してくださったとか、何故か分からないけれども、平安がもたらされたとか、祈ってる人は信仰に導いてくださったとか。兄弟姉妹、一人一人色んなケースを通して生きて働かれるイエス様を経験されていることと思います。
ペテロは手紙の中で、「私たちは、キリストの威光の目撃者だ。」、と書いているんですね。まさにそうではないでしょうか。
そしてイエス様ご自身が、わたしは道であり、真理であり、いのちだからですと、語ったからです。イエス様を信じる者は必ず祝福が与えられます。イエス様は私たちの目には見えませんけれども、私たちにと助け主を与えてくださるという約束をしてくださいました。

ヨハネの福音書、16:7-8
7しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
8その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。

助け主とは御霊です。御霊は私たちを助けるために、与えられたイエス様の、イエス様ご自身の意志ということが出来ます。
兄弟姉妹たちは、交わりの中でもちろん見たこと、聞いたことを話されますけども、ご支配なさったのは御霊です。自分にはとても出来ないこと、例えば謝りたくない人に謝ることが出来たんだ、という話だとか、断じて許せないのにそのときは何故か許せたという、私たちにはとても出来ないようなことをしてくださるのは、御霊なんですね。

エペソ人への手紙5:18-20
18また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
19詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。
20いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。

ここに酒に酔ってはいけない、と書いてありますけど、お酒を飲むことがいけないということの戒めではないんです。その後の御霊に満たされなさい、御霊に満たされなさいと、このことを言うためにパウロは酒に酔ってはいけません。
当時一番分かりやすい表現だったから使ったんですね。そうではなくて、酒だろうがなんだろうが、御霊に満たされることから除外するような、自分が熱心になってしまうものを、遠ざけなさいということなんです。
そしてここにも、交わりという言葉はありませんけれど、19節と20節のことは明らかに交わりのことを指しています。互いに語り、心から歌い、主に賛美しなさいと、イエス様の名によって父なる神に感謝しなさい。このことこそ本当に御霊に満たされた状態で交わることを、パウロは薦めているんですね。

交わりによって得られるものは何かというと、一番はイエス様のご真実ではないかと思うんです。従えば必ず祝福があることは、聖書に繰り返し書かれています。兄弟姉妹の証を聞いても、従えば祝福があるということは、誰からも聞いてる証だと思います。
ところが残念なことに、主の導きには従いたくないという、そういう思いが私たちにはあるんですね。
往々にして私たちが選びたくない方を、主は選ばせようとなさいます。本当にそれで良いのかと思うこともあります。そしてたとえ自分がどう思おうとも、今を御霊の導きのままに委ねた、そういう証を聞く時に私たちは、深い感銘を覚えるんですね。やっぱり主に従えた兄弟姉妹たちの、信仰に対して私たちは良かったと思うし、本当に祝福があるなあ、ということを知らされます。
その行ないを助けるのは、さっきお話したとおり、御霊の働きなんですけれど、決定するのは兄弟姉妹たちの意志なんですね。
昨日もお話したとおり、選択の道があるときに決定するのは私たちに委ねられてるんです。反対に主イエス様の方から、多くで祝福を受けたその自分の思いを、ないもののようにして祝福を受けた兄弟姉妹と、先の心配ばっかりしてなかなか従えないその自分とを対比して、実感したりするのが交わりであります。

まあ、自分にとってはとても出来ない、というため息も出ますし、自分に対する失望で一杯になるんですけども、こうしたときに信仰によって悔い改めに導かれます。この交わりを通して得られるものの二つ目が、悔い改めなんですね。
兄弟姉妹が、楽しく、満たされた顔で話すことが、とってもその兄弟姉妹にとっては当然のように嬉しそうに話されるんですけど、私たちにとっては大きな悔い改めになることがあるんです。
言えないんですね。いやっ、私はそんなことしたことがないとか、そんな私だったら出来ない、と思うんですけど、でもあんまりにもその輝く顔を見て、やっぱり自分は悔い改める必要がある、とどうして自分はそのお話をしてくださる兄弟姉妹のように、喜びを、喜びがなくなくなってしまうんだろうか、といこうことを悔い改めたりする。そのために交わりがあるんです。
だから最初に話したとおり、私たちが堅くその信仰を保つ恵みがあるってのはここなんですね。信仰ってのは、絶えず前に進まなきゃいけないものでありますから、ここでいいっていうことはないですから、主はふさわしく、そのような方との交じわりに私たちをうまく組み合わされるんでしょうね。
よく鉄は鉄によって磨がれるって言いますけれど、ときに自分の一番話したくない人と、なんか隣同士になっちゃたりして、そんなことがありますね。まあ、主は本当に私たちをよくご存知ですから、不思議であります。

でも、これらは私たちにとっては互いのものなんですね。どちらか一方だけってことはないんです。互いのものなんです。あるときは、ある人が信仰的には弱くなるし、あるときはまた私の方が信仰的には弱くなる。だから互いに交わりを通して、励まさなければいけない。
あるいは間違っているならば、はっきりと御心ではありませんということを伝える必要があるのでしょう。

ガラテヤ人への手紙6:1-6
1兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
2互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。
3だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。
4おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。
5人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。
6みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。

ま、こう書かれてますけれども、これも交わりを通してなされることですね。人と人とが主を介して交わる、話し合うことが交わりですから、人間的に「あなた違うよ。」って言ったら喧嘩になるんですね。
どっちが偉いわけでもないですから。まあ、一般にいわれる教会のように長老だとかですね、特別な役を付いた人が新しく来た人に言うんなら、丸く納まってるかもしれませんけど、私たちはそうではないんです。
何十年いようが、今日来た人だろうが、みんなおんなじなんですね。主のもとに。ただ、御心にとってですね、御心から考えたら明らかに違うということについては、誤りですということを伝えなきゃならないことが、起きることがあるんです。

まあ、この聖書の集会にそういうことが起きたかどうか、分かりませんけれども、例えば礼拝途中に突然立って、異言で語り始めたらどうしようか。
そんなことが起きたときに、やはり誰か兄弟がですねー、立って外に連れ出さなきゃいけないことになるんでしょうけども、そのようなことが起きたときには、私たちはその人を排除するよりも、正しい信仰を伝えるために、柔和な心をもって御霊の人であるあなたがたはって、この表現胸に痛くないですか?
御霊の人であるあなたがたは?って言ってるんですけど、そういうことが、交わりが交わりから得られるものということが出来ます。

最後に、交わりがもたらす実について少しだけ考えてみると、最初に引用したピレモンへの手紙の1章をもう一度開けていただきたいんですけれど、

ピレモンへの手紙1:6
6私たちの間でキリストのためになされているすべての良い行ないをよく知ることによって、あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように。

このみことばは交わりがもたらす実は何かという質問に対する、簡潔な答えということが出来ます。キリストのためになされいるすべての良い行ない、というのは何でしょうか。
御霊の導きに従うことですね。御霊の導かれるままに従うこと、それが良い行ないで、お互いのその良い行ないを知ることによって、私たちの信仰の交わりが、初めて生きたものとなってくる。

交わりによって得たものを、お互いが活かし合うことが出来るという風にここで書いてあります。交わりを通して得られるものは、さっきお話ししたとおり、イエス様のご真実と、それから自分自身のうちに働く悔い改めと言いました。
で、このイエス様のご真実の確信と、自分自身の悔い改めが活かされなければ、この交わりは生きて働かないということになります。

ヨハネの手紙第I、1:6
6もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。

と、書かれていますね。このやみの中を歩んでいる状態というのは、御霊に従いたくないって思いがあれば、やみの中っていうことですよ、目に見える集会に来なくなったとか、それから聖書を読まないとか、祈らなくなった、っていうことじゃないんです。そうではないんです。
良い行ないというのは、御霊に導かれることが行ないですから、神と交わりがあると言っていながら、やみの中を歩むというのは、御霊に従いたくないという自我があることを言っているんですね。

ヨハネの手紙第I、1:7
7しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

と、書かれています。
パウロの言っているのと、ヨハネは反対から書いているんですね。ヨハネは私たちが光の中にあって、イエス様に自分を開け渡すことが出来るなら、正しい交わりを互いにもつことが出来る。そして、悔い改めに導かれるよということを言ってるんです。
そして悔い改めからきよめられるよ、ってことを言ってるんですね。
パウロは反対なんです。そのために私たちが御霊に導かれるよ、と同じようなことを言ってるんですけれど、信仰の確信と悔い改めが交わりによって得られるものですから、これらによって私たちは良いものを見分けることが出来るようになります。

信仰の経験の中で、私たちが自分の中に何て言うんでしょうかね、蓄えていくことが出来るのは、信仰の経験の中でも良いものを見分けることではないでしょうか。

ピリピ人への手紙1:9-11
9私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、
10あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、
11イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。

こうして、イエス様を信じる信仰が私たちの生活にしっかりと根付いていくことが、交わりのもたらす実であります。
初代教会に起こされたように、正しい交わりは毎日救われる人が加えられるという、実を結ぶことが明らかなんですね。
私たちがこれからするべきことは何かと言ったら、交わりは主が私たちを招いてくださって、そこに私たちが座っているということですね。そして私たちがそっからやれることは、兄弟姉妹たちがお互いに見たこと、聞いたことを語ることによって、主のご真実とまた私たちの不信仰のゆえにもたらされる悔い改めを知ることであります。

単にお茶を飲み、ケーキを食べたり、パンを食べながらですね、イエス様に救われた喜びを話すことは交わりではないんですね。あの、世間一般のこの世の話をすることはもちろんそうですけど、仮にイエス様の話しをしていても、私たちがそこに主への賛美と、主の犠牲のいのちがあるんだということを忘れるならば、まったく意味のないものになってしまうのではないかと思います。

コリント人というのは、もちろん信仰のあった人たちの集会であったのに、その人たちが、私はパウロにつく、私は誰につく、と言い始めたことを思うと、初代教会とはずいぶん、離れてしまったことを私たちは知るわけです。
もっとも大切なことは、心を一つにするために私たちはどこに身を向けるかといったら、やっぱりイエス様の十字架ではないでしょうか。

私たちの贖われたいのちを、主にささげることが私たちの信仰ですし、その信仰の基となっているイエス様の十字架の上での犠牲の死が、私たちにとっては大きな一つの目標となることが出来ます。

ありがとうございました。




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