引用聖句:エゼキエル書16章4節-6節
イエス様のことばはこのような人に、またこのような時に語りかけられているなと思います。 自分の血の中でもがいているとき。血に染まっているとき。そういうとき、くり返し、くり返し語られた「生きよ。」ということばが私たちのすぐ側にある。聖書はこう語っています。 パウロはこう言いました。 ローマ人への手紙10:8
私たちのすぐ近くに、造り主なる神が私たちひとりひとりに語られた「生きよ。」という呼びかけがあると言えます。 ひとりの方が今、私たちの側を通っておられる。これは聖書が、旧約聖書から新約聖書全篇にわたってくり返し、くり返し語られる真理であると思います。 今この場でも、主が私たちの側を通っておられる。主はいつでも声をかけられている。その事実が聖書に散りばめられています。 そしてこの事実を子どものように私たちが受け入れるとき、側をいつも、今も通っておられる。必ず彼に出会うという事実です。 イエス様は血の中でもがいている私たちに、血に染まっている私たちに「生きよ。」という、このみことばどおりのことばをかけられています。 イエス様は次のような例え話を2,000年前にされました。マタイの福音書20章の1節からです。 何度もごいっしょに考えたことのある個所ですけれども、この個所は1節から7節までの要約を話しますと、天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものだとあります。 そしてその主人は、朝早くから、九時に、十二時、三時、そして五時に出かけて行きました。この個所を見ると、イエス様は朝早くから、一日中血の中でもがいている人を捜しておられるようです。 そしてイエス様が出かけられる度に、その度に、別の人たちが市場にいたとあります。別の人たちがいた。 別の人たちとは、聖書を通して考えてみると、やっと自分の力よりもみじめさがまさった人たちではないかと思います。ずっと市場にいたにも関わらず、イエス様の声を初めて聞くように、聞こえるようになった人たち。やっと絶望によって自分という牢獄の鍵が壊されようとしている人たち。 そういう人たちのことを、この聖書は別の人たち、突然現われたかのように書かれています。 彼らは市場で朝早くから必死で働いていた人たちだと思います。そしてある人は九時に、ある人は十二時に別の人になったとあります。 そして彼らは心の奥底に秘められたことを、ただひとり聞いてくださる方に訴え、叫ぶようになりました。 五時に雇われた人たちのことばがこれを表わしていると思います。6節にイエス様は、 マタイの福音書20:6-7
だれも雇ってくれない。この叫びです。 ひとりの方、イエス様にこう訴えるとき、「だれもいない。」、「だれも救ってくれる人がいない。」、「だれも雇ってくれない。」、こうひとりの方に訴えるときに、「生きる」、聖書で言う「生きる」ようになります。ぶどう園で働くようになる。 主人の声は朝早くから一日中この市場にいつでも満ちていましたけれども、私たちは聞きませんでした。聞こえても注意を払うことができなかっただろうと思います。 (音声中断)・・・まで声をかけ続けてくれる方がいると、この個所は示しています。そしてそれは、「ぶどう園で生きよ。」という呼びかけです。「ぶどう園で生きよ。」 多くの雑音の中からこの主人の声を聞き分けるときに私たちは、新約聖書の中で紹介されている、あの生まれつきの盲人、ヨハネの福音書9章にある、生まれつきの盲人に与えられた祝福と同じ恵みが与えられると、本当に心から思います。 それは彼はこう言ったのです。生まれつきの盲人が目が見えるようになったときに彼はこう言いました。 ヨハネの福音書9:25
市場にずっと朝からあくせく働いていた一人の人が、そしてまた多くの人々が、今見えるということ。それだけ私たちは知っている。自分が目が見えると私たちは思っています。 救われても気が付くとそう思っています。自分が血の中でもがいていることさえ気が付きません。あるいは気が付いても最後の望みを未だに自分の力に託しています。 造り主なる神は次のように考えておられます。先ほどのエゼキエル書の16章のちょっと先の18章に、聖書はこう考えている。イエス様は、また神はこのように考えておられるという個所であります。 エゼキエル書18:31
聖書は、私たちが主から離れて、私たちの思いで歩もうとするとき、死のうとするのか。なぜ、死のうとするのか。それは死に至る道であると言います。 エゼキエル書18:32
これが聖書のメッセージであります。自分の血の中で、自分ひとりでもがき続けることは、死のうとすることだと聖書は語っています。 ヨハネは別の個所でこのように言っています。 ヨハネの福音書8:24
こうイエス様のことばを紹介しています。「もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬ。」、自分の罪の中で死ぬ。 エゼキエル書18:31
こう聖書は語っています。 生まれながらの人、どんなに良い人でも、どんなに優しい人でも生まれながらの人は自分の罪の中で死ぬ。こう聖書は告げています。 これが聖書が告げる隠された事実であると思います。 聖書を通して与えられることは、目が見えない者は幸いであるということです。 そして、悔い改めて生きよ。向きを変えて生きよ。ぶどう園で生きなさい。そしてあなたの代わりに死ぬためにわたしは来た。 そう聖書を通して私たちは与えられています。だから、あなたは生きよ。これが聖書の、そしてイエス様のメッセージではないかと思います。 はっきりしていることがあります。それは今日も、今も、そしてこの場にもイエス様は私たちを捜して、近づいてくださっているということです。聖書自身がそのことを私たちに明らかに証明しています。 よく知られた個所を、少しご紹介したいと思いますが、ルカの福音書の18章。聖書の中でも特によく引用される個所でもあります。 イエスがエリコに近づかれたころ、イエス様がエリコに近づかれたころある盲人がいたとあります。ある盲人にイエス様は近づかれた。群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と彼は尋ねたのです。 ルカの福音書18:37-41
ここにイエス様が一人の盲人に近づいてくださっているという記事があります。 今日もこれと同じように、2,000年前と同じように、このような盲人を捜しておられる。これが聖書のメッセージです。 そして19章の1節に、それからイエスは、とあります。 ルカの福音書19:1
先ほどエリコに近づかれたころ、一人の盲人がいた。そしてエリコにはいられた。 ルカの福音書19:2-5
イエス様がここでも今一人の罪人の目の前を通りかかってくださっています。今日も、2,000年前と同じように、このような悔い改めた罪人を捜しておられる。聖書はこう言っています。 いつも近づいてくださる方であって、そしていつも側を通ってくださる方である。そしていつも、ちょうど目の前におられる方であります。 そしてヨハネの福音書の5章では、もうひとりの人の目の前にイエス様が近づいてくださった記事があります。 ヨハネの福音書5:1-7
イエス様が、ここでも一人の病人の側を通りかかってくださいました。彼は、ベデスダの池のこの病人は、彼は先ほど、マタイの福音書20章で読んだ、ぶどう園の主人に叫んだ五時の人に似ています。 あの雇われた人のように、「主よ。私には池の中に私を入れてくれる人がいません。」、すなわちだれも助けてくれる人がいないということです。 当時迷信であったろうと思いますけれども、その池の中に最初に波が立ったときに、最初に入った者はいやされるという言い伝えがあったと注に書いてありますけれども、私にはそのような人がいないということ。その叫びを彼もイエス様に叫び求めたとあります。 今日もこのように心の内側の絶望を叫ぶ者を捜しておられるとわかります。今、3人、もしくは4人の聖書の個所に記されてある人々をご紹介しましたけれども、ひとりひとり状況が違います。 ですけれどもみな、自分の血の中でもがいていたということがわかります。それは私たちとまったく同じことであると思います。 たくさんの人々の中からイエス様は聖書を通してはっきりと示しておられます。それは、彼らを選んだということなのです。 多くの人たちがいました。多くの群衆がいました。多くのパリサイ人や聖書学者や、本当に優秀な人々がたくさんいました。しかし聖書は決まって彼らを選ばれたという事実です。 彼らこそイエス様が捜し求めておられた、失われた一匹の羊であったという事実です。 みことばどおり裕福な者ではなくて、心の貧しい者を選ばれたとわかります。心の貧しい者。そして正しい者ではなくて、罪人を選ばれたというみことばどおり、私たちに紹介されています。 そして健康な者ではなく、ベデスダの病人のような、そのような人を選ばれたと聖書は紹介しています。 私たちが信じる方は、こういうお方であります。「生きよ。」という声に耳を傾けてほしいと、心から望んでおられる方であります。 今私たちがどんなに、私たち自身がどんなにひどい状態でも大丈夫なのです。聖書を見るとそう思います。 たとえイエス様に悪態をつくようなひどい、そのようなひどい状態でも大丈夫ですと、聖書は言っているように思います。 彼に向かって叫ぶと、大丈夫だとわかります。イエス様の声に、そして彼のみことばに耳を傾ければ大丈夫だと聖書は語っています。 イエス様は難しいことは一切要求なさらない。彼らが選んだ人たちを見ればわかります。何も知らず、ただ耳を、そして目を彼に向け、彼の声に聞き従った者だけがイエス様によって救われています。 イエス様に聞き、そしてイエス様のほうを向き、イエス様に叫び求めることがすべての始まりであると、聖書を通して私たちは与えられています。 そうすれば、そこに真っ直ぐな道がある。そうすれば、住むべき町へ導かれる。詩篇の作者はこう言っています。 今日、私たちはひとつの事がらを胸に刻むことができたら本当に幸いです。それは、私たちの代わりに血に染まって、衣を着てくださった方がいるということです。 私たちの代わりに血にまみれた、罪そのものとして十字架に磔になられた方がいるということ。「生きよ。」という十字架のことば、「生きよ。」という十字架のことばは、いつも私たちの近くにある。私たちの口にある。私たちの心にある。 そしてそれは救われた者にとって神の力であると聖書は言っています。 最後に、二ヶ所お読みして終わりたいと思います。 詩篇107:6-9
もう一ヶ所、 エゼキエル書34:15-16
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