ドイツ喜びの集い


岡本雅文兄

(ドイツ喜びの集い、2004/06)

引用聖句:マタイの福音書27章45節-46節
45さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。
46三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

昨日、ボーデン湖に浮かぶマイナウ島でのハイキングが、本当に楽しい、嬉しいものでありました。
姉妹たちと、バラの咲き乱れる花の園で、その美しさを本当に味わうことができました。

最も印象的だったのは、この花の園に入る橋のたもとに、三本の木が立っていたことであります。
二人の犯罪人と一緒に、罪人として釘付けられた主イエス様の十字架であります。ちょうど橋のその入り口にはっきりと分かる、そういう三本の木があったんですね。

この国に入るには、この十字架のもとにある一本の橋、一本の道、これを通らなければ入れないと、そのようなメッセージを受けました。
ちょうど約二十年くらい前に、ベックさんに初めて吉祥寺で出会った日に、言われたひとことをずっと忘れることができません。
「聖書の中心はイエス様の十字架の死だよ。」ということでした。

私がまったく理解することができなかったときに聞いたこの言葉が、私を二十年間支えて、導いてくれたように思います。

マタイの福音書27:45-46
45さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。
46三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

初めてドイツに来て、ドイツの兄弟姉妹とともに考えてみたいことは、やはりこの十字架の死であります。
日本では、イエス様の最期の数時間に焦点を当てた映画、「パッション」が話題になりました。
先日、私の娘がこの映画を観て、そして帰って言ったんですね。「涙が出た。」と言ったんです。

しかし、そのあとに、「でもイエス様はどうして十字架の上で、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』と言ったの?」と聞いたんですね。
このような思いは、「パッション」を観た多くの人の感想ではないかと思います。

今日は映画ではなくて、聖書そのものから、この疑問について考えてみたいと思います。
映画では、最後の夜、いわゆるゲツセマネの園で苦しみ悶えておられる場面から始まるんですね。

マタイの福音書26:36-38
36それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」
37それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
38そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」

娘が発したその問いの答えがここにあるのではないかと思うのですね。
「悲しみもだえ始められた。」とあります。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」という表現があります。
マルコの福音書では、「深く恐れもだえ始められた。」と記されているところがあります。

罪のかたまりとなられたイエス様の十字架は、悲しみのかたまりであったのではないかと思うんですね。
イエス様がこの日味わわれたものは、死ぬほどの悲しみであったと聖書は記しています。

鞭打ちの刑やさばきや、いばらの冠や打ちつけられた首の痛みや、十字架の苦しみが、映画パッションではクローズアップされました。
人の目に見えるイエス様の苦しみは確かにそうでした。しかし本当に大切なことは、イエス様はこの目に見える苦しみを受けられる前に、捕らえられる前に、ゲツセマネの園で十字架の悲しみの大きさを思って、もだえ、苦しまれるのではないかと聖書は記しております。

十字架の辛さ、痛さ、肉体的な苦しさではなかったと思うんですね。みことばにあるように、大きな計り知れない悲しみだったのです。
暗黒の悲しみとでも言いましょうか。愛する方との断絶であります。底なしの絶望であります。
イエス様は初めから、この地上に来られた初めから知っておられました。それはイエス様が、ご自身飲み干さなければならない杯の味であります。その味は、イエス様が知っておられた悲しみの味であると思うんですね。

聖書によると、イエス様が飲み干さなければならない杯とは、酸いぶどう酒がいっぱい入った杯であります。
私はある時から、日曜日の礼拝の度に、「腐ったぶどう、酸いぶどうを飲み干してくださった。」という聖書の箇所を、毎週毎週思い出すようになりました。酸いぶどう、腐ったぶどうであります。

霊的な意味で、救い主を認めようとしない腐りきった罪人の私たちの、いっぱい詰まった杯であります。
ヨハネはこの最後の、イエス様の最後のときを次のように目撃いたしました。

ヨハネの福音書19:28-30
28この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
29そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
30イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。

この日、この時、イエス様が受けられた酸いぶどうの味は、ゲツセマネで恐れ、苦しみ、もだえられた悲しみであったと思うんです。
反逆の民であり、自我のかたまりである私たちに何度もみことばを送ってくださいました。
私たちの人生の至るところで、「わたしのところに帰っておいで。」と語り続けてくださいました。しかし私たちは腐った者でありました。

確かに救われた今でも、時として自分だけのことで精一杯であります。自分の思いにとらわれると、世界の中心で自分が回っているんですね。
それは劣等感を持とうが、持っていようが、優越感に浸っていようが、自分が中心であることに変わりはありません。
本当のことは聖書の中に、愛の歌として私たちに示されています。

イザヤ書5:1-2
1「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。
2彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。

イエス様は、エデンの園というぶどう畑を持っておられました。そこに良いぶどうを植えられたんですね。

創世記2:8
8神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。

良いぶどうをこうして植えられたんですね。イエス様は甘い、素直な、主と永遠の交わりを愛するようにと、私たちがそのようになるのを待ち望んでおられました。甘いぶどうのなるのを待ち望んでおられました。
ところが、酸いぶどうができてしまった。これが聖書の告げる、私たちの隠れた真実であります。

どうしようもない腐りきったぶどうであります。私たちはこれです。この酸いぶどうで作った酒を受けられると、「完了した。」と言われて、霊をお渡しになられたのです。
腐ったままで飲んでくださった。甘くならないままで、酸っぱいままであります。この認識の深さがイエス様との交わりの深さではないかと思うんですね。

昨日も読まれたとおり、よけいに赦してもらった者は、よけいに愛するようになるとイエス様が言われました。
この、酸いぶどうで満ちた酒を飲み干す代償は、本当に変えることのできない、そして耐えることのできない悲しみでありました。
ゲツセマネの園のその苦しみは、その悲しみの極みであったんですね。肉体の、その痛さ、辛さではなかったんです。

マタイの福音書26:38-39
38そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
39それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

そしてついに、そのときが来ました。

マタイの福音書27:45-46
45さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。
46三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。

イエス様のご生涯を見るときに、父なる神から見捨てられるということが、どんなに大きな悲しみであったかが分かります。
一箇所だけ見てみたいと思います。

ヨハネの福音書5:30
30わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。

父なる神とイエス様は本当に一つであったと、聖書を見るたびに思います。父なしに存在することはできない方なんですね。
あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるという一つでありました。
その愛する方から見捨てられるということは、私たちの感覚では考えることのできない、耐えられない悲しみでありました。これが十字架の贖いであります。

一年九ヶ月前、前触れもなく長女が召されたとき、病室で突如として、本当に真っ暗な暗黒の暗やみに引きずり込まれました。
それは応答のない世界であります。愛する者と思いを通わせることができない、底なしの闇の中に落ちていく世界であります。
二度と会えないというサタンのささやきであります。

言葉で表現するとすれば、言いようのない悲しみです。そのときから個人的に、以前は死で知っていたこの十字架のイエス様の叫びが、悲しみの極みであると、新たに、少し知るようになりました。
もちろん、言葉では知っておりましたけれども、味がするようになったんですね。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」

私たちがイエス様から離れるときに、主は、イエス様は、同じ悲しみを、永遠の別れの辛さをもって私たちが立ち返るのを待っていてくださったんだなと思うようになりました。
私たちが軽く考えている、主から離れるということは、イエス様にとって、永遠の別れの辛さであります。
二度と会えないかもしれないというイエス様の辛さ、悲しみであります。

今日、ご一緒に味わってみたかったことは、イエス様の十字架の犠牲の大きさというのは、私たちが死ぬまで知り尽くすことができないほど、大きいということであります。
そして腐りきった、酸いぶどうのような私たちの酸っぱさは、私たちが死ぬまで知り尽くすことができないほど、腐った酸っぱさであるということであります。
理解力に乏しい、忘れっぽい、救い甲斐のない私たちのために、暗黒の悲しみをまとってくださった方が生まれるということを、ともに味わってみたかったんです。

イザヤが、あの53章で語ってるように、彼は悲しみの人であります。
私たちがこの地上で少し悲しみを受けるとき、少し苦しみを受けるとき、主の苦しみもそこにある。
その犠牲の大きさをともに受ける恵みを与えられていると思うんです。

私たちが道に迷ったとき、酸いぶどうのままで、腐ったままで受けてくださった方を疑ってはならない、ということを思い出してもらいたいと、イエス様は本当に願っておられます。
信頼すべき方は、ただ十字架で死なれたお方一人であります。

赦しの大きさを知る者は本当に幸せです。この十字架のイエス様のからだから、血と水が出たと聖書は記しています。

ヨハネの福音書19:33-34
33しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。
34しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。

この血は、あの悲しみの深さを耐えてくださった、イエス様の犠牲の尊さであります。
そして、流れ出したこの水は、新しいいのち、永遠のいのち、約束の救い主なる主イエスご自身ではないかと思うんです。

私たちは本当に悩みの多いこの世の中に生きています。いつでも悩んでます。
しかし、この水がどこから流れて来たか、そしてどこに流れ込むか。決して忘れることのないように十字架を仰ぎ見る必要がどうしてもあります。

十字架が語っていると思うんですね。どうしても自分の性格を放棄してほしいということであります。
一人で旅をする虚しさから解放されほしい。本当の自分自身の分からないそれが、心の奥底のうめきを、本当に知ってほしいと、十字架は語っています。

最後に少し長いんですけども、ちょっと全部お読みしたいと思います。エゼキエル書の47章の1節から。
水がどこから流れ出て、そしてどこに流れ込むか。数千年のむかしに私たちに示された箇所であります。

エゼキエル書47:1-9
1彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。
2ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。
3その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。
4彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。
5彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。
6彼は私に、「人の子よ。あなたはこれを見たか。」と言って、私を川の岸に沿って連れ帰った。
7私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。
8彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海にはいる。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。
9この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。

エゼキエル書47:12
12川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。

終わります。




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