引用聖句:ヨハネの黙示録2章1節-5節
マタイの福音書20:16
今日ご一緒に礼拝を奉げることができて、本当に感謝したのは、兄弟一人一人が選んでくださったみことばが、私たちを養ってくださっているのだなぁ、と思わされたことであります。 一人の兄弟は、「恐れつつ、喜んで」と言われました。聖書をひもとくと、いつも思うことは「恐れることが知識の始めである。恐れること。」、しかし聖書の最後にいくに従って、恐れの中から喜びが湧き出して、恐れないで大胆に主の前に近づくことができる「恐れつつ、恐れないで」、こういうイエス様のみこころに触れることができる。 今日も兄弟の祈りの中でそれに出会いました。 それからもう一つ。全部言うとそれだけで終わってしまうので、もう一つだけ言うと、主なる神がイエス様に語られた「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」 この箇所を選んで下さいましたけども、イエス様を信じる者、私たちに対して、神の子である私たちに対して、同じみことばを、同じ思いで私たちに語りかけてくださっている、「これは、わたしの愛する子。わたしの喜ぶ者である。」 私たち自身が、そのように主なる神から語られている、そのことも、兄弟の引用してくださったみことばを通して、今日も本当に深く感謝しました。 今日、御一緒に考えてみたいそれは「教会−救われた者たち」 私たちは、長い間「教会」ということばを、信じている者も、信じていない人たちも、聞いてまいりました。それは、堅いことばであって、そして何かイメージとしては、建物をどこか心の中に考えるようなことばであります。しかし、聖書では「教会」は「救われた者たち−人間そのもの」それを「教会」と言われています。 「二人、三人が集まるところにわたしも共にいる」それが「教会」であると、聖書ははっきりと、単なることばではなくて、みこころを語りかけて下さっています。 二つ目に引用してくださったマタイの福音書20章は、おそらく昨年ですか、12月にこの箇所を取り上げて御一緒に学んだ箇所でないかと思います。何度も何度もこの箇所を学ぶことができました。 このぶどう園のたとえは、一人の人間の一生を豊かなものとするために、イエス様が前もって語って下さった宝物のようなみこころであると思うのですね。 最近はこの箇所と、最初に読んでいただいたヨハネの黙示録の2章が、一つのことである、イエス様が一つのことを語っておられると、そのように見えるようになりました。 人は「初めの愛」からすぐに離れてしまう者であることを、イエス様は知り尽くしておられる。ですから、この恵みを決して忘れることがない様に、この「初めの愛」に、イエス様に出会った時の「初めの愛」から、決して離れることのない様にこのみことばを送ってくださったと思うのですね。 「私たちは、離れる者である。」そのような者であると知ってくださっているからこそ書かれてあると思います。 これは個人の問題だけでなく、救われた群れ全体にとっても大切な主のみこころであると思うのですね。ですから、最後のヨハネの黙示録にヨハネはこのことを書きました。 マタイの福音書20章のぶどう園のたとえから「悔い改めて初めの行ないをしなさい」というみ声が聞こえてまいります。 イエス様がこの地上にきて、そして最初に福音を語られたその福音のことばの中に、聖書の最後のヨハネの黙示録に書かれている「初めの行ないをしなさい。悔い改めて。」というみこころがすでに備えられていると言えます。 このヨハネの黙示録を書き記したヨハネは、若かった時、イエス様から直接このたとえ話を聞きました。そして、この聞いたこのたとえ話、ぶどう園のたとえを一生涯覚えていたのではないかと思うのです。 「自分の心の秘密を知って心から悔い改める人は幸いです。ここに祝福があるからです。」、とヨハネは受け取ったに違いありません。 今日は、読んでいただきませんでしたけれど、マタイの福音書20章1節から16節、ここに書かれたたとえに、ぶどう園の5つのグループが登場します。もう十分に知っておられると思うのです。 各グループは5つの時間帯に区別されているのですね。その要旨を短くお話しますと次のようです。 朝早く、おそらく朝6時頃から雇われた人々は、一日1デナリの約束がされました。1デナリとは当時の一日の賃金の平均的な賃金であるということは、多くの兄弟姉妹たちはご存知でしょう。 次に登場する朝9時の人々には、「相当のものを上げるから」という約束でした。1デナリではなかったのですね。社会に出て働く者にとってこの約束はいい加減な約束のように思われます。 「相当のもの」−決められていない。4節、7節に書かれていますね。「相当なものを上げるから」。 夕方6時になりました。仕事が終わって賃金が払われました。5つのグループの人々は、全員が同じ賃金1デナリだったんですね。5時に雇われて、たった1時間しか働かなかったのに、一日中働いた人と同じ報酬を貰ったその人はうれしかったでしょう。信じられなかったでしょう。 彼らはぶどう園の主人の人格に触れたんですね。心から感謝いたしました。一生涯忘れることのできない主イエス様との出会いでした。「初めの愛」を彼らはこのように受け取ったのですね。 私たち一人一人にも、最初に彼に会った時、主に出会った時、与えられた「神の愛」そのものでした。そして、その「愛」を与えてくださった神に対する私たちの「初めの愛」もここにあったのですね。 これがスタートでした。これが天の御国の常識、一人一人どのような者にも1デナリ、同じ報酬が与えられる標準、天の標準、天のきまりだったのですね。天の御国とは、このように人を偏りなく取り扱われる人格であります。イエス様ご自身。 聖書は、「天の御国それは人格である、イエス様ご自身である。」とあらゆるところで語られております。5時ごろに雇われた人の喜びの大きさは、イエス様と一緒に十字架につけられた二人の犯罪人のうちの一人が体験したものと言うことができるのではないでしょうか。 ルカの福音書23章42節にそのことが書かれています。 この日、イエス様が十字架につかれたその日、人生の最後の瞬間にこの犯罪人も共にその最後の瞬間を迎えました。そして、二人の犯罪人のうちの一人だけがぶどう園に雇われたんですね。 それはイエス様の声に耳を傾けたからであります。彼は素直になって次のように言いました。ルカの福音書23章42節にあるみことばです。 ルカの福音書23:42
こう言ったのですね。人生の最後の瞬間でありました。 イエス様は、彼に言われました。二人のうちの一人だけに言われました。 ルカの福音書23:43
即ち天の御国イエス様ご自身の中、 ルカの福音書23:43
と言われました。 このことばは「あなたもぶどう園に行きなさい。」ということばであります。彼にとって、この犯罪人にとって、罪人にとって、相当なものとは、「きょうイエス様とともにパラダイスにいること」彼にとって相当なものとはこういうことでした。1デナリは、彼にとって「きょうイエス様とともにパラダイスにいること」そうだったんですね。 こうして天の御国では後の者が先になるのであります。ずっと一生涯罪人として心のうちを責められ続けて生きて来たこの犯罪人は、最後の瞬間にこのぶどう園に雇われました。「あなたもぶどう園に行きなさい。」 しかし、イエス様が私たちに伝えたいと思っておられたことがこれだけであれば、このぶどう園のたとえ話はここで終わりであります。しかし、続きがありました。 朝早くから働いた人はこれを知った時に文句を言いました。マタイの福音書20章11節〜12節です。 マタイの福音書20:11
1デナリを受け取ると、約束どおりの賃金を受け取ると、主人に文句をつけて言った。 マタイの福音書20:12
この20章をよく読むと、ぶどう園の主人は、5時頃に雇われた人よりも、朝早くから雇われた人に多く語っておられるということがわかります。 マリヤとマルタのあのベタニヤでの集いでもそうでしたね。マリヤよりもマルタの方に多くを語りかけておられます。イエス様という方は、そういう方であります。一見問題がありそうな人ほどイエス様は語りかけたいと思っておられるのではないでしょうか。 主人、即ちイエス様は、彼らの、朝早くから雇われた人の心の秘密を明らかにされようとしておられます。ここから、もう一つの物語が始まろうとしておりますね。ぶどう園の続編と言ってもいいのではないでしょうか。 マタイの福音書20:13
イエス様、 マタイの福音書20:13-15
このようにイエス様は語られました。この人を、朝早くから雇われたこの人を、陰険で嫌なやつだと思われるでしょうか。それとも当然だと思われるでしょうか。自分自身のこととして、静かにこのことを考えて見たいと思うのであります。 朝早くから一日中焼けるような暑さを我慢して働いた人がいだくこのような思いは不当なものでありましょうか。 後から雇われた彼らも私を同じ報酬を貰えてよかった、本当にうれしい、と心から喜んで言える人は、この世で何人いるでしょうか。 聖書によると、もし、一度も憤りを覚えたことがない人がおられるとすれば、それは不幸な人と言わざるをえません。 なぜなら、「義人はいない。ひとりもいない。」とパウロはローマ人への手紙3章10節で告げているからです。聖書がそう告げているからであります。 一度も怒りを覚えたことがないという人がいるとすれば、その人は、自分の心の真実、自分の心の秘密をまだ知らないゆえに、恵みも少ないからであります。 今日も礼拝の時に、兄弟が「罪の増し加わるところに、恵みも増し加わる。」と伝えてくださいました。ローマ人への手紙5章20節ですね。 聖書のことばが鏡となって私たちの心の秘密、陰険さが明らかにされます。しかし、心の秘密、陰険さが明らかにされるのには、理由があったんですね。 その理由がガラテヤ人への手紙に書いてあります。ガラテヤ人への手紙3章22節、29節に次のように書かれています。 ガラテヤ人への手紙3:22
約束が与えられる為。そして29節、 ガラテヤ人への手紙3:29
こう書かれています。約束が与えられる為、そしてその約束とは相続人となること、これが主なる神の憐れみ、恵みであるとパウロは理解したのであります。 相続の約束が与えられる為に、神の子とされる為に、私たちは罪の下に閉じ込められた。これが主の御計画、主なる神の御計画でありました。 ですから「罪の重荷にさいなまれて生きてきた人は幸いである。」、と聖書はその土台としてこのみことばを語られました。 また今日、自分の心の秘密を知った人も幸いであります。自分の心の陰険さ、暗やみが増し加わるところには、恵みも増し加わるからであります。 即ち、約束による永遠のいのちの相続の恵み、心に思い浮かんだことのないものとはこういうもの―永遠のいのちの相続の恵み―理解することができません。永遠というものをつかむことができないからであります。 しかし、これが、イエス様が朝早くから雇われた人たち、即ち長い信仰者と言ってもいいかも知れませんね。イエス様に出会って、そして長い時が経った信仰者たちに与えたいと願っておられる恵みなのではないでしょうか。救われた後に、イエス様に出会った後に、罪が増し加わることがありうるということであります。 5時頃に雇われた人、即ち救われた喜びの上に、さらに増し加えられる恵みがあるということを、聖書はこの箇所を通して語っておられるのではないかと思うのですね。 「初めの愛」がさらに、さらに大きく成長する恵みであります。大きな、大きな喜びであります。まことのぶどう園に永遠に雇われる恵みであります。 聖書は、詩篇10編14節で「不幸な人は、あなたに身をゆだねます。」、こう書かれているのです。不幸な人は幸せが用意されています。「幸いな人は」と言われていません。「不幸な人は幸いである。」と書かれてあります。聖書は不幸な人へのメッセージであります。これが福音でありますね。 こういうわけで、朝早くから雇われた人は、5時頃に雇われた人の将来の姿であると言ってよいのではないでしょうか。5時頃に雇われた人は、必ず時が経つと朝早く雇われた人になるということであります。 主が下さるものはこの世のものとは違います。もし、違う5つのグループの人が雇われなかったとしたら、朝早くから雇われた人は、文句も言わずに1デナリの賃金を貰って帰ったでしょう。 見えるところは、めでたし、めでたしと言えます。しかし、そこにある喜びは、当初の約束どおりの賃金が支払われた時の喜びは、私たちがすでに知っているこの世の喜びと変わりません。 イエス様に出会った後に、時間の経過と共に、少しでも主のために働いたと思いはじめた時に、人は、夕方の5時から3時、12時、朝の9時にそしてついに朝早くから一番長く働いたという高ぶり、偽善が膨らんでいくのではないでしょうか。これが、イエス様がパン種に気をつけるように告げられた理由なのではないでしょうか。 これは悲しい現実であります。消すことのできない性質であります。そのことをイエス様は決して否定されません。そういう者だからであります。こうして私たちに罪が増し加わります。イエス様に出会った者が、信仰生活が長くなればなるほど新しい罪が増し加わります。人の性質だからであります。パン種とはルカの福音書12章1節に次のように書かれています。 ルカの福音書12:1
と書かれてあります。 私たちの内側には偽善があるとイエス様は十分に知っておられます。一人も偽善のない人はいない。「義人はいない。」この真実が明らかになるのであります。 パウロはコリント人への手紙第I、5章6節で、 コリント人への手紙第I、5:6
と言いました。自分の思いに支配されて働けば働くほど,恵みは減り続けます。恵みではなく当然受け取る報酬、即ち、この世の思い、高ぶりが増えていくのであります。 この心の奥深くに隠されている私たち一人一人の事実を認める時、一人として例外はないと聖書は語っていると思うのですね。 その自分の心の内側にある人間の性質、それを認める時、即ち、現行犯で逮捕される時、あの姦淫の女性が現行犯で捕まった時、一言も弁解することができない、そして、ダビデが不倫を犯した時に、預言者ナタンに「それは、あなただ。」と突きつけられた時に一言も弁解できないその現行犯で逮捕される時、私たちは祝福の戸口に立っていると、聖書全編が語っています。 マタイの福音書20章の1節から16節は、「彼ら」と書かれている通り、複数の人々、グループとして表現されています。しかし、同時に一人の個人の心の真実、心の秘密を明らかにしている。個人の心、そしてグループの心、群れの心。 エレミヤは「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」と語りました。私たちはこのみことばを軽く考えているのではないでしょうか。「人の心は、私の心は、何よりも陰険で、それは直らない。」 この心が人を殺し、そして争いを起こし、盗みを行い、不和をおこすものだと聖書は語っています。これが私たちの心の秘密であります。この記事は一般論でも教えでもないのですね。私たちが、どんなに陰険で自分のことしか考えられない者であるか、その事実を、イエス様はよく御存知であることを明らかにされています。 私たちの心は炭団玉のようなもの、若い人はわからないかもしれませんね。タドン玉。炭を練り、丸く作ったようなもの。よくそれをこん炉の中にいれていました。それは磨けば磨くほどきれいにならなくて、磨いても、磨いても黒いですね。最後まで黒いですね。磨いても、磨いても黒しかありません。 私たちの心はそのようなもの、磨いても無理。それが私たちの心である。このような者を、主のみこころどおり、また御計画通り、取り扱ってくださいました。 ですから、エレミヤの「人の心は陰険でそれは直らない。」というみことばは、祝福の到来を告げる福音のことばであります。 夕方、5時頃ぶどう園にある人々が連れてこられて、仕事らしい仕事をせずに、同じ賃金を貰って帰っていきました。朝は早くから雇われた私たちは、それを見て文句を言いました。 20章の11節12節、先ほど読んだところですね。もう一回読んでみましょうか。 マタイの福音書20:11
私たちは、 マタイの福音書20:11
契約通りの賃金をもらうと文句をつけて言った。 マタイの福音書20:12
今救われたこの人、 マタイの福音書20:12
これが私たちの心そのものではないでしょうか。 聖書はさらに念押ししています。放蕩三昧して帰ってきた弟を手厚くもてなす父を見て、兄である私たちは言いました。ルカの福音書15章29節、30節ですね。 ルカの福音書15:29
これが私たちの心であります。イエス様に出会った者も、イエス様にまだ出会ってない方々も、同じ心、同じ陰険な性質を持っています。しかし、イエス様に感謝すべきであります。 「初めの愛」に出会った後に長い時が過ぎて、朝早くから雇われた者となった時、再び「初めの愛」が近づいてこられます。「悔い改めて、初めの行ないをしなさい。」と声をかけて下さっています。 新しく喜ぶことができる幸いな国が、私たちのただ中にあると、みことばを携えて来て下さっています。ルカの福音書17章20節、21節に書かれています。 ルカの福音書17:20-21
神の国は、主イエス様のご支配は、イエス様に頼って、イエス様に一切責任をとっていだだくそのような世界は、そのような国は、私たちのただ中にあると語ってくださいました。この約束に目を留めるように勧められています。 この約束とは、イエス様ご自身ですね。どんなに時が経っても、この方の内に5時頃に雇われたそのような者の喜びが蓄えられている。私たちの内にあると思っている喜びは、時とともに薄められ、そしてついには消え去ってまいります。 しかしイエス様の内側には、その喜びが絶えることはありません。そして私たちはイエス様を心の内に持っている。聖霊とはそういう働きをするお方ではないのでしょうか。 聖霊の宮とは、イエス様の思いを、私たちの心の内側に永遠にいつまでも保ち続けてくださる。昨日も少しご紹介しましたかね。聖霊の働きとはみことばを結びつけてくださる。信仰によって、私たちの心の内側に結びつけてくださる、そのような働きをするものであるとペテロは語りました。 そして、彼らと共に1デナリ、兄弟姉妹に与えられた幸いですね、それを感謝していただく奇跡が備えられているのであります。 朝早くから労苦した者が、何の労苦もない者が与えられた1デナリを、共に自分に与えられたように喜ぶ奇跡を与えられます。 このように陰険な者が心から喜びの涙を流しながら共に喜ぶ奇跡が与えられる。これ以上の奇跡があるでしょうか。約束ですから必ず実現いたします。必ず与えられます。 そしてこのような1デナリを共に喜ぶところが、イエス様が羊の群れを導いていきたいと思われている天の御国であると、私は確信しています。 ですからエペソの教会、即ち兄弟姉妹たちに告げられた「初めの行ないをしなさい。」と言うみことばは、ただ初心に帰れと言っておられるのではありません。「悔い改めて」と書いてありますね。「悔い改めて、初めの行ないをしなさい。」 信仰生活が始まって年月が経った者だけに語られたことば、そのような者に、特別に与えられる恵み、増し加えられる恵みであります。 悔い改めの大きな喜びが付け加えられた初めの愛にまさる喜び、これが私たちに与えられている恵みではないでしょうか。 働きの報いを一杯身につけた者に、また信仰者として、幾分かでも成長したなどとかすかな自信を持つようになった者に言われたことばであります。何も知らなかった者にではなく、何か知っていると思っている者に、「悔い改めて生きよ。」と言われたのであります。 今は、今の時代は、年長者から悔い改める祝福の時、悔い改めの時、このようなリバイバルの時ではないでしょうか。 こういうわけで、「初めの愛」とは、初めの愛であるイエス様の内に留まること、ただそれだけではないでしょうか。 イエス様との親しい交わりではないでしょうか。私たちの性質とはかけ離れたイエス様のご性質にあずかることなのではないでしょうか。 主と共に働くとは、イエス様のご性質を私たちがあずかり、共に喜ぶことではないでしょうか。 年月を経て、高ぶりの心が芽生えた先の者に、後の者になる悔い改めの喜びを与えたいとイエス様は願っておられます。 高ぶりをはるかに超える喜びを、私たちは受け取る約束がある。それは、私たちが以前に一度も経験したことのない救われた者の新たな喜び、まことの平安、まことの慰めであります。朝早く雇われた者が、5時頃に雇われた者と同じように、子どものように喜べる時、先の者が後になるのであります。 こうして私たちは、個人も群れ全体も成長していくのではないでしょうか。 ですから、聖書がいう成長するとは、先の者が後になり、後の者が先になるような営み、生活ではないかと思うのですね。 それは、へりくだる競争、小さくなる競争、めだたなくなる競争、イエス様の内側に隠れる競争、ということができます。「ここに兄弟愛がある。」とみこころが、みことばを通して聞こえてまいります。 本日、御一緒に考えてきたことの一つは、何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じる時、その信仰を義とみなされる、そういう喜びが与えられるということでした。これが一つでありました。 そして、もう一つは、朝早くから、また初めから、主と共に働く喜び、共に生きる喜びであります。年が経つに従って増し加わる恵みであります。小さく、小さくなる、その中にある喜びであります。その為には私たちは、自分の心の秘密を知らなければなりませんでした。 それはイエス様の十字架の死がどれほど尊いものであるか、このような経験を通してでなければ、自分の心の陰険さを通してでなければ、このように、本当に黒い、誰一人助けるもののいない、そのような経験を通してでなければ出会うことができないのでありました。 しかし、その結果は重荷ではなかったんですね。 「主のくびきは負いやすく、主の荷は軽いからである。」、マタイの福音書11章30節にあるこのみことばは、私たちが考えている以上の意味を持っています。イエス様と同じくびきで結び合わせられる恵みだけが用意されています。 「くびき」というのは、「イエス様が前で、私たちが後ろ」ということではありません。「くびき」とは横一線に繋がれて、同じ横一線に立たされて歩むということであります。イエス様が前ということではなく、イエス様が横におられるということですね。兄弟とはそういう者です。イエス様が長子で、私たちが弟であり、妹であるということ。 聖書のみこころ、主なる神の御計画とは、このような神の家族を作りたい。イエス様が長男で、私たちはその兄弟である。私たちが考えていることとは、はるかに違います。 「くびき」を共にするということは、そういうことではないでしょうか。兄弟となるということではないでしょうか。 へブル人への手紙の2章11節には へブル人への手紙2:11
イエス様は、 へブル人への手紙2:11
即ち、私たちを、 へブル人への手紙2:11
と書かれています。 この事実を、イエス様の御計画を、神の家族とはどういうことなのか、イエス様と私たちの関係は将来どのようになるのかという奥義を、イエス様は、聖書のあそこにもここにも隠して、そして私たちが時を経て見つけるように、みことばを用意してくださっています。 最後にヨハネの手紙第I、1章8節、9節をお読みして終わりにしたいと思います。 ヨハネの手紙第I、1:8-9
私たちを兄弟と呼んでくださいます。 |