引用聖句:列王記第II、4章17節-4章21節、4章24節、4章27節、4章30節
本日のテーマを「真(まこと)の仕事をした女」という題名にしたいと思います。 このテーマでお話しするには、適していない者ですけれども、どうしてもこのことをご一緒に考えてみたいと思うようになりました。 先週、地方の集いで、ひとりの婦人とお会いしました。非常に短い交わりでしたが、30歳の息子が毎日つらい思いで生きているということでした。なんとか会社にぎりぎりで通勤しているけれども、起きてから会社に行くまで、本当に、たいへんで、本人も私達もつらい。この症状は、小さい時から20年続いていると言われました。 そして、ご主人は最近、こうまでもらされたそうです。「この子は、召されたほうが良いかも知れない。」そして、この方は、どうすれば良いのか、わからないとおっしゃられたのです。 この話しを聞いたときに、別の地方に住む夫婦のことを即座に思い出しました。 彼らは、2年くらい前に救われた方々なのですが、彼らも同じように、30歳のいわゆる引きこもりの息子さん、家から一歩も出ることのできない息子さんを持っておられるのです。そして、全く外から見ると変わらない、そういう状況を見て、姉妹がため息混じりの愚痴をもらされたそうなんです。 すると、そばを通りかかったご主人が、こう言われたのです。「わしが、祈り始めたから、もうだいじょうぶだ。」 ま、この証しを車の中で聞いたのです。本当に、うれしくなりました。 彼は、ほとんど、集いも礼拝も来れない仕事をしています。いつも姉妹から少しづつ兄弟の話しを聞くのですが、ほんとうに、うれしかったのです。 それ以来、この証しをずっと心に留めるようになりました。 ここに、親の仕事があると思います。今まで、子供の状態に一喜一憂してきたとしても、間違いない方にまかせたからもう大丈夫。この方に祈り始めたから、もうだいじょうぶ。聖書の語っていることは、こういうことではないかと思うのです。 この心の向きに、すべての始まりがあって、終わりがある。すなわち、主にある平安と喜びが、ここに隠されているのではないかと思います。 親達、大人達のこの世における最も大きな仕事のひとつは、あの方が見ておられるから、もうだいじょうぶだと、こういう確信を持つようになることではないかと、最近思うようになりました。 そして、イエス様との親しい交わりの中で、平安と喜びの恵みを与えられ続けること。そういうことではないかと思うのです。仕事というのは、そういうものではないかと思います。 申命記32:10
この方によって、このひとりの方によって、ひとみのように守られている私達の子供は、大丈夫なのです。そう聖書は語っています。 この確信を私達、大人自身が与えられるように、聖書は語っているのではないかと。これが、大人達の、親達の第一の仕事ではないかと思います。 子供達に関することで、心に悩みのある方。ま、自分も目が離れると同じです。そういう方々に聞いて頂きたいことがあるのです。 その悩みは、神の国が実現するために、特別に与えられた問題に間違いないということ。その問題は、神の国が実現するために与えられたのであります。 ルカの福音書17:21
「神の国は、あなたがたのただ中にある。」この約束の言葉が、個人的に実現するためにあるのに違いありません。これは、もう間違いない私達の確信になることができれば本当に幸せです。 あの子は、もうだいじょうぶ。この確信の中に生きることが、親の仕事そのものではないかと思います。 唯一、親としてできること、やるべきすべてではないかと思うのです。これ以外は、枝葉末節のことではないかと思います。これが、イエス様を信じるということではないかと思います。これが、私達のこの世の戦いの現場なのではないかと思います。 平凡な事柄の中に、信頼、喜び、感謝のすべてが、隠されていると、聖書を見るとこのように導かれます。 使徒の働き16:30
パウロの証しは、こういう思いで語られたのではないかなぁと思うのです。 もう、だいじょうぶなんです。彼が、見ておられるから。だから、もう思い煩わなくて良いのだとパウロの証しが、私達に届けられています。パウロの証しが、私達の証しになるために、このことが私達に起こされていると言えます。 ピリピ人への手紙4:6-7
これが、パウロの証しです。そして、私達に伝えたい手紙の内容です。 このパウロの思い、イエス様の御心、これが、私達が、導き入れられる主イエス様との交わりそのものではないかと思います。 このみことばは、主イエス様との交わりを示していると思います。この約束の交わりに導き入れられるために、また、神の国に憩うために、いま、愛する者に病気が備えられている。と言えます。 ヨハネの福音書11:3
「あなたが、愛しておられる者が病気です。」この願いごとを、何も思い煩わないで感謝を持って捧げる願い事によって、主に知って頂きなさい。これが、すべただと、パウロは語っています。これが、私達の仕事です。これが甦りの主を信じることではないかと思うのです。 ほかのことは、みな、その後に主によって導かれる事柄。このようでなければ、私達は、パウロがほかの箇所でいっているように、キリストに単なる希望を置いているだけの者ではないかと思うのです。 「そうすれば、私達の考え、思いにまさる神の平安が私達の心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」パウロは、このように伝えました。 わたしたちが、真の仕事をしているなら、必ずこの通りになりますと聖書は語っています。 愛する者だけではなく、私達、親、自身もだいじょうぶだ。世の中で、考えていた「だいじょうぶだ」というのと全く違います。 私達自身が、主によって、広いところに導き出される経験。個人的に、必ずその経験をするようになります。 詩篇119:105
このみことばの通りが、私達の経験になります。この婦人とさらに語り合いました。 さきほど、「もう息子は召されたほうが良いのでは・・。」ともらされたご主人は、まだイエス様に出会われていないとのことでした。でも、もうご主人はだいじょうぶ。私が、祈るようになったから、もう主人もだいじょうぶ。そう確信するようになればどんなに幸せでしょう。 これが、すべての「はじめ」ではないかと思います。 この仕事の中に私達自身が平安、喜び、そのものを与えられ、この仕事の中に、平安と喜びが隠されています。この恵みの道が備えられています。 私達の感覚では、私達の思いでは、狭き門だと思います。しかし、この道が私達に備えれています。 この道を行こうとすると必ず妨害があります。心の中で、妨害があります。この道で戦いがあります。 この戦いは、的はずれな戦いではありません。的はずれな拳闘ではありません。パウロはこのことを証ししています。これが、生きるということではないかと思います。この道がパウロの歩んだ道です。 よく、兄弟達が、語ることばに、悩みながら喜ぶことができるとあります。 悩みながら、喜ぶことができるというのは、単なる気休めではありません。保証が与えられるから、喜び続けることができる。感情ではありません。感情や感傷は時と共に消え去ります。 私達が受けるのは、永久の保証です。永遠の命です。御霊の実です。平安です。愛です。喜びです。 主イエス様につながっている限り、ぶどうの樹につながっている限り消えません。留まり続ける時、小さな芥子だねほどの信仰が、大きな樹に成長すると約束をくださっています。 ですから、はじまりはからしだねほどの信仰でいいんだと、聖書は語っています。 「もう、子供達は、大丈夫。!」「主人は、だいじょうぶ。」「妻は、だいじょうぶ」「父は、母は、だいじょうぶ。」そう言うからしだねほどの信仰で小さな信頼で良いのです。はじまりは、からしだねほどの信仰で良いのだと聖書は語っています。 ヘブル人への手紙11:1
まことの仕事をしたいと願うとき、保証が私達の内側に与えられているのがわかるようになります。単なる保証書ではないでのです。実、そのものなのです。 一生涯忘れることのできない、平安の味、喜びの味。ま、自分は、自分で、こういうものを宝と呼んでいます。もう一度、読みます。 ヨハネの福音書11:3
「主よ。ご覧ください、あなたが愛しておられる者が病気です、」感謝を持って祈り願い仕事に従事するようになれば、 ピリピ人への手紙4:7
このように、人の考えにまさる神の平安が、心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。 思いを、主にあって守ってくださる。これが、保証が主によって与えられている証拠です。 その時、「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安があなたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」の事実が実現します。 それが、保証が与えられている証拠そのものです。実が、残ります。この保証された恵みの中に十字架がたてられていると思うのです。 主の犠牲の死と、絶望の葬りと甦りの命を土台として、この平安が与えられています。神は、また確認の印を私達に押し、保証として、御霊を私達の心に与えてくださいました。 コリント人への手紙第II、1:22
保証とは、御霊です、聖霊です。聖霊は単なる言葉ではありません。ぼんやりとした事柄でもありません。彼に信頼する者を失望させられることはない。 ローマ人への手紙10:11
このみことばのゆえに、「息子は、娘は、もう、だいじょうぶ。」そして、「妻はもうだいじょうぶ。」「年老いた、父や母も、もうだいじょうぶ。」目に見えない確信をくださいます。 この小さな、本当に、小さな信仰の営みの中に保証、聖霊、キリストの心が与えられていることに、今日ご一緒に目を向けたいと思います。さきほどの読んで頂いた、シュネムの女。この真の仕事をした女性。この女性は、子供が死んだ時にすぐに神の人、エリシャのもとに飛んでいきました。何をおいても、主のもとにでかけたとあります。 何があっても、私達が飛んでいく所は、ひとつしかないとこの箇所を見て、思わされます。この女性は、質問を受けました。 「あなたは、無事ですか?」「あなたのご主人は、無事ですか?」「お子さんは、無事ですか?」という質問です。 列王記第II、4:26
彼女は、答えました。「無事です。」息子は、死んだのに、無事ですと答えたのです。彼女は、息子が死んだという現実の悩みを心に持っていました。それにも、かかわらず無事ですと答えたのです。その理由は、彼女のつぎの言葉に現れています。 列王記第II、4:30
彼女は、神の人が息子を与えてくれたように、取られたのも神の人によると確信していたのではないかと思うのです。 彼なら、神の人なら、エリシャなら意味のないことをなされない。息子は、無事である。だいじょうぶだ。これこそ、彼女が第一にとった心の向きでありました。 ヨブも、10人の子供達が一瞬にして死んだときにこう言いました。 ヨブ記1:21
この態度をとる者は、必ず主に導かれ、主に祝福される。これが、聖書の告げる変わらないメッセージではないかと思います。 主は、ヨブの前の半生より、後の半生をもっと祝福されたと、ヨブ記の最後の章に書かれています。ヨブと同じように、シュネムの女も祝福されました。 この女性は、毅然として、神の人に訴えたとあります。私は、決してあなたを離しません。と、いう訴えです。この訴えは、聖書全編を通して見ることができます。 彼女の訴えは、ヤコブの訴えであります。ヤコブが、ヤボクの渡しで戦ったのと同じ戦いをこの場所で行っています。 4000年前に、不安でどうしようもない時、騙した兄と会う前日、どうしても不安が取り去られないとき、こう記されています。 創世記32:24-26
「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」わたしを、祝福してくださらなければ、去らせません。 また、シュネムの女の訴えは、不正な裁判官のところに、ひっきりなしにやってきて、うるさくて仕方がないと言わせた、あのやもめの訴えと同じです。 イエス様が、このたとえ話しをした理由が記されています。それは。いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、このやもめの話をしたと、書いています。 ルカの福音書18:1
本日、わたしたちは、主の御心を尋ねています。そして、わたしたちが出会ったイエス様は、私達の訴えを聞き届けられること。それゆえ、私達や、家族に与えられている一切の事柄は、状況がどのようであっても、だいじょうぶであること。 このことを、見て参りました。そして、あらゆる現状を前にして、だいじょうぶであるという目に見にえないものを、確信させて頂くことこそ、私達の第一の仕事ではないかと、思うのです。短い時を共にして、考えて参りました。 3日前の、5月16日(2002年)の夜のことなんです。 母が入院した病院で、わたしの姉夫婦と、母と4人で、主治医から病状の説明を聞きました。 2年前に手術をした悪性リンパ腫、ま、正式名はホジキン病というそうなんですけれども、悪性リンパ腫が、肝臓に再発している。すでに肝臓全体に、広がっていて、肝機能が低下し続けているということでした。 できる治療といえば、ステロイドと、抗ガン剤しか治療の方法がなく、治癒率は50%。ま、こういう報告を受けました。 非常に、臆病だった母が、彼女が何十年も間よーく知ってらえる方と、まともに、主に守られながら、たんたんと説明を受けることができるという、横で聞きながら、本当に幸いでした。 50%という治癒率も、母にふさわしいように思いました。 イザヤ書30:21
「だいじょうぶだ。」そう、後ろから声がするようだったのです。 その夜、ま、9時ころ病院を後にしました。その後、母と二人で「日々の光」を読みました。本当にその日、その時にふさわしい箇所だったのです。 そして、同じ日に多くの兄弟姉妹が、同じ箇所を読んでおられるのだなと、思うと、うれしさが増し加わったのです。 こんなに、読んで、これほどうれしいと思ったこともはじめてでした。 ま、これらのみことばの中に明らかにされている事柄。明らかにされている御心を誉め称えたいと思います。 最後に、「日々の光」の、5月16日をお読みして終わりたいと思います。 日々の光、5月16日、夕 詩篇16:7
イザヤ書9:6
箴言8:14
詩篇119:105
箴言3:5-6
エレミヤ書10:23
イザヤ書30:21
箴言16:3
ヨブ記23:10
箴言20:24
詩篇73:24
詩篇48:14
|