引用聖句:マタイの福音書5章4節
会社の会議やこの世の集いと違い・・喜びの集い、集会は、そこに向かって来はじめるときから、来る前に祈るときからすでにはじまっており、その中で一番大切なのは、交わりではないかと思います。 そして、このような学びも交わりを、前に、後にして、心を整えるときに思います。なによりも、一番の中心はイエス様であり、私達の側から見ると、交わりそのものです。与えられましたので、今夕もご一緒に考えてみたいと思います。 最愛の人を亡くした人に、人は、語るべき言葉が本当にありません。 寝たきりの体を動かせない、びくともできない一人の兄弟がおられました。まばたきで、詩を残した水野源三さんと言う兄弟です。 お母さんに一文字一文字、まばたきで合図して、詩を書いたのです。彼は、詩を残しました。 ただ、ひとりの姉。 大切な夫、百歳の父を、半年の間につぎつぎと 天に送ったあの方。 どうしても、お慰めする手紙が書けない。 慰め主なる神様が慰めて下さることをただ祈るだけです。 「わたしには、どうしてもお慰めする手紙が書けない。」と彼は詩に歌いました。そして、その後、源三兄弟は、自分自身が体験をする事になり再び詩を残しました。 主よ、なぜですか。 父に続いて、母までも、 御国に召されたのですか。 涙が溢れて、主よ、とただ呼ぶだけで、 つぎの言葉が出てきません。 主よ。あなたも、わたしと一緒に、泣いてくださるのですか。 母を失った私のために泣かないでください。 心の中は、不思議なくらいに静かなのです。 キリストが、わたしと共におられるからでしょうか。 こう言う詩なんです。 わたしたちは、悲しみを必ず経験するようになります。悲しみとは、何を意味するのでしょう。それは、別れ、すなわち、交わりのとだえ、そのものの現れなのではないでしょうか。 愛する者と別れるとき、交わりが途絶えるとき、心が通じ合わなくなるとき、私達は、悲しみを覚えるようになります。 死は、この世の終わりの死は、交わりの途絶えを明らかな形で突きつけるものであります。水野源三さんが、まばたきを言葉に変えてくれていた、無くてはならない母が死んだ時に、先ほどの詩を歌いました。 「主よ、なぜですか。」「涙が溢れます。」 彼は、たった一畳ほどの空間が、彼の数十年間の空間だったのです。そこから微動だにできません。 その彼から、この世で最も支えとなっていた母が、召されたときの絶望の深さを思うだけで、私も言葉が出てきません。しかし、彼、自身が自ら歌うようになったのです。 「泣かないでください。」「心の中は、不思議なくらい静かなのです。」 そして、彼は、その理由を、「キリストが私と共におられるからでしょうか。」と詩に綴りました。 「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」水野源三さんは、このみことばどおりに、慰められました。誰も、慰めることのできない悲しみに出会った時に、不思議な平安を与えられたと告白しています。そのとき、聖書のこの言葉は、命となって、彼の中に住まわれたと言えます。 みことばが、生きて働いて、主の慰めそのものとなったと言うことであります。 ヨハネの福音書1:1-5、14
このように、ヨハネは福音書の第1章を書き始めました。そして、12章24節。 ヨハネは福音書12:24
これらのみことば通りに、私たちの内側に、言葉が蒔かれます。聖書の言葉の種が、私達の心に蒔かれます。一粒の種が蒔かれます。一粒の麦が地に落ちて、と、聖書は証ししています。 一粒の麦は、ひとつのことばです。ひとつのことばは、イエス様、そのもの、命そのものです。 彼は、私達のために死に、私達の命そのものになったと全編を通じて、証しをしています。なんとしても、この方に出会わなければ、慰められることがありません。 どうしても必要なことは、わずかです、いや、ひとつだけです。ルカは、次のように記しています。 ルカの福音書10:42
昨日、残業をしていました。先輩が、うかない顔をしてやってきました。 今から通夜に行く。自宅の近くの方が自殺された。三日前に、会ったばかりなのに、その家族の方になんと言って良いかわからないと悩んでおられました。 その先輩は、会社でも非常に重要な仕事を担って、昼間は、自信溢れて生きておられるお方でした。でも、彼は、命の事について、全く考える事ができませんでした。最も、大切な事がすっぽり抜けているのです。この世の悲しい現実です。 昨日は、会社の中で、1年間の方針を立てて部門の中で展開させる最終日でした。この方針の展開で、最も大切な事は、目標をどこに置くかと言う事だったのです。そして、その目標をいかに明確にしていくか。そして、その目標を達成するための課題を抽出して、そして最後に、具体的な施策を制作する。そのために、約1ケ月間、ほんとに真剣な討議がなされました。 しかし、この世の高い知能を持った、同じ人が、この世の死を前にして、何も考える事ができない。これが現実です。 あまりにもアンバランスな精神構造であると言わざるを得ません。私達の一生の目標を立てる時、水野源三さんのように、ひとりの方に出会う事を第一の目標に立てる事ができれば、本当に、素晴らしいのではないかと思います。 彼は、そのために生まれ、そして一畳の空間の中で、そのために生きたと言えます。 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。その言葉に、隠されている人格に出会う以上の目標を私は考えることができません。 50年ちょっと生きて来ましたが、その中で、これ以上の目標を見つける事はできませんでした。 この第一の目標に、私たちの的が絞られた時に、私達の新しい始まりが、スタート致します。イエス様をよりよく知る喜びがスタートします。 人格に出会った時、それからよりよく知る恵みがスタートします。増し加えられる歩みが、恵みが増し加えられる恵みがスタートします。 きょう、ご一緒に、聖書から学んで、いると言う意味は、ここにあります。 私たちの、目標である主イエス様の方向に、しっかりと顔を向けて、キリストの心であるみことば。このみことばによって導かれて、心に残る大きな喜びを与えられる事こそ、本日のこのような喜びの集いの大きな目的ではないでしょうか。 主と共に歩む具体的な人生とは、みことばによって養われる事ではないかと思います。そして、また、会社の仕事で言えば、具体的な施策のようなものではないかと思うのです。 みことばによって、養われる事について、少し考えてみたいと思います。 最近、私自身に与えられた恵みですが、少し前の事なんです。地方の集いに行った時、年輩の姉妹からひとつの悩みをお聞きしました。 車の中だったんですけど。最近、聖書を読んでも頭に入らない。読んでも、。すぐ忘れるようになってしまった。こう言われました。そして、この事を一緒に考えたのです。 これは、どう言う事なんだろう。嘆くべき事なんだろうか。イエス様は、この事をどのように考えておられるのだろうか。短い時間でしたけど思いを向け、しばらく沈黙の時がありました。 そして、聖書の言葉によって導かれました。すぐに忘れる事は、嘆くべき事ではなく、むしろ恵みではないか。そう思うようになったのです。そして、導かれた行き先は、恵みの中でした。老年の恵み。パウロは、書いています。 コリント人への手紙第I、15:3-4
ま、このように書かれています。 パウロが最も大切な事として、私達に伝えたのは、次の3つの事であります。 ひとつは、キリストは、聖書の示す通りに、私達の罪のために死なれた事。 ふたつめは、葬られたこと。 3つめは3日目に甦られたこと。 この3つの事だけを、はっきり覚えて生活する事ができれば、私たちは、新しく生まれた者として、まことの喜びを、その中を歩む事ができるのではないかと言う事であります。 コリント人への手紙第I、15:2
この知識だけでだけで十分ではないかと言う事なのです。聖書は、それ以上の事を大切な事として記していないのです。大切な事として、3つしか書き記さなかった。と言うのは、重大な出来事ではないかと思います。そして、別の箇所ではこのように言っています。 テサロニケ人への手紙第I、5:16-18
聖書は、イエス様が、私達の罪のために死なれたこと、葬られたこと、甦られたこと。この3つの事実だけを握って、いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさいと語っているのではないかと思うのです。 聖書、全体は、そのことのためにあると言っても良いかもしれません。 テサロニケ人への手紙第I、5:18
パウロは、最も大切な事として、このように手紙を書きました。これがぶどうの木の幹ではないかと思います。 幹がしっかりしていれば、枝がはれ、葉が茂り、実がなります。主に信頼する者にとって、多くの言葉は不要です。先ほど引用したみことば通りなのです。 イエス様は、ひとりのイエス様を愛する姉妹、マルタににおっしゃいました。どうしても、大切なのは、ひとつだけです。そのひとつとは、妹、マリヤのように、主イエス様の足下に座って、みことばに聞き入る事だったのです。 これだけ良いんだ。パウロの手紙を読んでそう思います。 イエス様が、何を、してくださったかだけを、知っていれな良いんだ。聖書を通して思います。 イエス様は、私達の罪のために死なれた事。葬られた事、そして甦られた事です。このれだけを、知っていれば良いのです。 ですから、老年になって忘れっぽくなっても、ぜんぜん問題ない。これだけを心に刻み込んで、喜びと祈りと感謝と、感謝で満ちあふれるときに、私達はパウロのように喜びを共に喜べるようになるのではないかと思います。 主の喜びを、共に喜ぶことができるようになるのではと思うのです。 年輩の姉妹との短い語らいでしたが、それを通して確信するようになりました。歳をとるに従って、多くの事を忘れやすくなると言うのは、最も、大切な事がますます明らかになるように、刈り込みをなさってくださってるのではなだろうかと言う確信です。 これは、年輩者の喜び、老年の喜びではないかと思うのです。 ヨハネの福音書15:2
最も大切なものが明らかになるように、刈り込みをなさっているのではないか。 もっと、実を結ぶために。この箇所をだぶらせてその時に、考えさせれました。 もっと、実を結ぶために。それは、もっと愛を知るために。もっと、喜ぶようになるため。もっと平安を得るために。 そして、続いてもっと、寛容に、もっと親切に、もっと善意をもっと、誠実を柔和を自制をと言う実を結ぶために老年の恵みが与えられているに違いありません。 物忘れがひどくなったと、嘆く必要はありません。ただ、パウロが、どうしても伝えたかった3つの言葉を、残したいと思います。私達の罪のために死なれた事。葬られた事。甦られた事。そのほかの事が良いのです。この事実が、わたしと、この3つの言葉が、自分とどのように関係があるのか、この一点が、最も、重要なのではないかと思います。 この3つの言葉が、私達のうちに生きるなら、私達は、神の畑、神の建物であります。 私達が、誰のために生きているか。その方は、何をしてくださったか。この唯一の質問に対する3つの言葉。3つの答え。これを、毎日、思い起こすことだけを求められているのではないか。 そうすれば、ペテロや、ヤコブや、パウロのように、甦りの主、すなわち永遠の命と必ず出会うと約束されています。 いま、ご一緒に、考えてきたこのような事が、聖書の言う持ち物を全部、売り払うと言う事だと思います。自分のたてたストーリーを捨てて、ただ、3つの言葉を信じる信仰だけが喜びの源ではないかと思うのです。 私は、短い交わりの中で、刈り込みをされると言うみことばと、新しく出会いました。そして、自分の心が導かれた所は、広い所でした。平安がありました。 この小さな内側の経験は、自分にとって、私にとって大きな宝となっています。この導きの、交わりのはじめから終わりまで、忘れないだろうなと思います。 それは、自分にとって宝であります。また、ひとつ宝が増えました。この宝は、キリストの心に触れた喜びと共にあります。 最後に、ひとこと申し上げたいと思うのは、きょう、明日、おひとりおひとりが宝を見つけられたら、その見つけた宝を畑に隠して帰ることができたらと思うのです。その事を考えて終わりたいと思います。 マタイの福音書13:44
こう言う短いみことばです。 天の御国。すなわち、主イエス様。キリストの心、イエス様の人格。その天の御国は、畑に隠された宝。鳥が来て食べたり、道端で日焼けして枯れないように隠しておく事が必要だ。 また、見つけられるように目印をつけておく。目印は、十字架です。悲しみです。大きな慰めです。喜びです、平安です。彼は、持ち物をぜーーんぶ売り払って、その畑を買います。 あなたがたは、神の畑、神の建物です。みことばが、私達の心を導いてくださると言う体験が与えられ、みことばが導く事が事実になります。 こう言う導きを必ず、個人的に体験するようになります。個人的に体験するようになります。 その時、私達は、神の畑として取り扱われているのを知るようになります。 畑の宝を何度でも取り出して、味わうことができるようになります。 深い、どうしようもないみじめさの中にある時。その時こそ、畑の中の宝を目印をたよりに取り出しましょうと語ります。そして、主イエス様が、私達のすべての、すべてとなります。 すべてを、よーく知っておられる方が、ヤコブを通して語られました。ヤコブの手紙を通して、みことばが、私達に与えられています。 ヤコブの手紙4:9
それは、苦しみが宝の隠されている場所の目印だからです。悲しみが、宝の隠されている箇所の目印。涙が、宝の隠されている箇所の目印ではないでしょうか。最後に、もう一度、お読みします。 マタイの福音書5:4
さきほど、司会の兄弟もエゼキエルを開いてくださいましたが、エゼキエル書の別の箇所を、もう1ヶ所開いて終わりましょう。ここにも、「生きよ」出てきます。 エゼキエル書18:31-32
|