ほんものとにせもの


岡本雅文兄

(テープ聞き取り、2005/10/23)

引用聖句:コリント人への手紙第I、12章19節-24節
19もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
20しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
21そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。
22それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
23また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、
24かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。

昨日は、若者たち5,60人が集いに参加させて頂きました。こんなに多くの若い魂があるということに、ただただ神に感謝しました。
そして、若い兄弟姉妹たちと心を開いて、御言葉を語り合う恵みも頂きました。
集会が終わって、夜帰りながら、ひとつの言葉を思い出したのです。「青年よ大志を抱け」、“Boys, be ambitious!!”、という昔からよく聞かされてきた言葉であります。

ある時、この言葉には続きがあると聞くようになりました。“Boys, be ambitious for Christ!!”、あるいは“Boys, be ambitious in Christ!!”、という続きがあると聞きました。
「青年よ、キリストのために、キリストにあって大志を抱け。」というものであります。
しかし、最近ある兄弟にすすめられて読んだ本の最後に、さらに次のように聞きました。“Boys, be ambitious for Christ in Japan!!”、「キリストと、そして日本のために大志を抱け!」、こういう言葉が、本当にクラーク博士の言葉であったと書いてありました。

「青年よ大志を抱け、お金のためでなく、また自分本位の欲望を満たすためでなく、人が名声と呼ぶはかなく消えるもののためではないもののために、大いなる大志を抱け。キリストとそして、日本のために大いなる大志を抱け。」、という言葉だったんですね。
そして、「青年よ大志を抱け。」と最初の部分だけでは、クラーク博士の本来に言いたかったことを伝えていなかったということであります。
そして、「青年よ大志を抱け、キリストのために、キリストにあって。」という言葉も、クラーク博士の思いを全部伝えていなかったと思います。

それはどのようにキリストのために志を抱くのか、そして日本のためにどのような志を抱いて、それを生涯に実行するのか。長い間、慣れ親しんだこの言葉は本当は、もっと、もっと深い意味があったと言えます。
そしてこの本を読み終えたときに、20数年間心の中にしまい込んできた内村鑑三の言葉が浮かび上がってきたのですね。それは、ふたつのJという言葉でした。ふたつのJとは、JesusとJapan。内村鑑三兄は短いメッセージで次のように書き記しているのです。
「われに、麗しき名二つあり、二者ともに『J』を持って始まる。イエス=Jesusなり、日本=Japanなり。我は、これを称してふたつのJと言う。・・・ふたつのJを忘れるなかれ。」

こういう短い半ページにも満たないメッセージであります。若い日に感動を持って読んだメッセージです。
パウロが彼の同胞、肉による同国人のために志を持っていたというあの記事の通りであります。

ローマ人への手紙9:2-3
2私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。
3もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。

彼もパウロもふたつの事柄を、クラーク博士がJesusと国のことを語ったように。このローマ人への手紙9章の御言葉と、若き日の感動は、セットにされて二十数年、虫にも食われず、さびもつかず、新鮮なままで、心のずっとこころの奥の方に隠されて参りました。
当時、学生でありました内村鑑三は、教師のクラーク博士の言葉を余すところなく聞いて、自分の生涯にそれを実行しました。彼のメッセージをみると、自分の生涯に御言葉を実行する、これが、彼の生涯を通して貫いた志でありました。
同じように昨日、若い方々にお話ししたことは、Boys, be ambitious!のように欠けた言葉ではなかったろうか。主が本当に喜んでくださっただろうかと、そのことを思うと、恐れを覚えるようになりました。

本日お話しすることも聖書のほんとに一部分です。主のご人格のある部分しかお伝えできません。しかしそれでも、御言葉をたよりにすすめていきたいと思います。
私たちは、何を求めてこの場所に集っているのでしょうか。それは、まことの平安、まことの自由、まことの喜び、ではないかと思うのです。
私は今、この群れを愛しています。そしてここに集っています。しかしこの集会に通い続けることが目的ではありません。あるいは、この集会を守るために集っているのでもありません。

私が主イエス様から御言葉を聞いて願っていることは、まことの教会のひとつの部分として在りたいということです。
私たちが集っている群れが、本当にキリストの体の、まことの体の部分であるかどうか、御言葉を持っていつも吟味されなければならないと、聖書を読むたびにいつも思わされます。
そして、私たちも他の部分、木につながる他の群れとと共にぶどうの木につながる恵みに預かりたいと思っています。

あなたがたは、キリストの体であって、ひとりひとりは、各器官なのです。パウロは、コリント人への手紙第Iの12章27節でコリントの人々に言いました。

コリント人への手紙第I、12:27
27あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

そして、

エペソ人への手紙5:30
30私たちはキリストのからだの部分だからです。

私たちは、本当にパウロがコリントやエペソの教会に手紙を書いたように、この言葉の部分と言えるでしょうか。
その当時、2,000年前にパウロは、やはり同じようにコリントの教会、エペソの教会に心から本当に悲しみをもって、あるいは喜びをもってこの手紙を書いたのです。今日、3つのことを考えてみたいと思います。平安、自由、喜びの3つです。

主のもとには平安がある。このことは、主イエス様を信じる私たちには間違いのない事実であります。しかし、どのようにしてそれが私たち自身にわかるのか。
またこの平安をどのようにして伝えることができるのか。誰かが、「ただ、平安がある、平安がある。」と言っても、聖書には次のように書いています。

エレミヤ書6:14
14彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。

こういうことがあり得るのです。
私たちの内側にある平安はどうして本物であると言えるのでしょうか。主にあるまことの平安とは、どのようなものでしょうか。そのことは非常に大切であります。そして、

コリント人への手紙第II、3:17
17主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。

パウロは語りました。これも本当のことであります。しかし、ただ自由がある自由があるという所に本当の自由があるかどうか、確かではありません。

ペテロの手紙第I、2:16
16あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。

ペテロはこのように手紙を書きました。その自由を、悪の口実に用いることができるということであります。同じ、

ペテロの手紙第II、2:19
19その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。

口で、自由がある自由があると言っても、なんの意味もありません。
「集会時間」というのがあります。集いの始まる時間が来ても始まらないということです。時間にルーズでも許されるということかもしれません。しかし、これが私たちが一生捧げて手にしたいと思っている自由でしょうか。そうではないでしょう。ただのルーズとどこがどのように違うのか。
キリストの中にある真の自由とどういうことなのか。こういう風に、メッセージでいうとまた逆に風が吹くかも知れませんけども、私がこのように言ったからといって、なんでも時間通りに始めなければならないということでは決してないですね。

本質が大切であります。本体はキリストにあり、律法はキリストです。聖書は常にそのように言っています。同じことでも、真反対のことがあります。

ヨハネの手紙第I、1:3-4
3私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
4私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

喜びはまことの交わりのうちにあると、ヨハネはこの箇所で語っています。これが私が主から聞いた主の心、キリストの心、喜びということについて聞いたメッセージであると。
まことの交わりとは、お互いによく知っている仲の良い信者たちの交わりではないと、何度も私たちは聞いています。
御父および御子イエス・キリストとの交わりとは、これはどういうことなのでしょうか。

あの兄弟も、あの姉妹も主イエス様が身代わりとなって死んでくださった尊い人であると心から愛し慕う交わりであります。
たとい、愛することのできないような状態であっても、あの人を愛することができなくても、あの方を心から愛し慕うことができなくても、主にあって愛することができる恵みを頂くことではないかと思います。
私も同じように、赦された罪人の頭であると小さくなっている者だけが与えられる、主イエス様との交わりであります。そして、主イエス様を通して、成立する御父との交わりであります。そうでなければ、にせものだと言わざるを得ません。

喜びとは、そのような交わりの中にこそ存在するのではないかと思うです。陰険で醜い自分の心の性質をようく知っている者だけが、主にあって愛の交わりを喜ぶことができるのではないでしょうか。
愛せなくても、愛することができる。喜べなくても喜ぶことができる。パウロはそのように手紙を私たちに残しました。
ですからパウロは、大胆に喜びなさい。もう一度言います喜びなさい。この言葉は本当に耳にいつでも響いてくる言葉であります。

喜べなくても、喜びなさい。喜ぶ状態でなくても、喜べるから。愛せなくても、必ず愛せるから。
その根拠は、パウロが手紙で何度も何度も語り続けたのです。どのような環境であっても、喜べなければ、おかしい。そうでなければ、キリストにつながっていないと言えます。
平安がある、自由がある、喜びがあるというのは良いことに違いありません。しかし、その思いだけでは、感覚がどこがどのように違うのかわかりません。他人にわからないのはもちろん、自分自身にも判別できないことがあるのではないでしょうか。

ただひとつだけ、私が知っていることがあります。もうずいぶん前のことになりますが、ある兄弟を通して頂いた主の知恵であります。それは御言葉と平安が同時に満足される。御言葉と自由が同時に満足される。御言葉と喜びが同時に満足される。
片方に御言葉が示された事実があり、もう片方には、内側から流れである溢れ出る平安があり、自由があり、喜びがあるという状態であります。
車の両輪のように主にあって、バランスのとれた状態を主イエス様は私たちに提供してくださっています。

どんなに心に平安や自由や喜びが訪れたとしても、それだけでは、主イエス様が与えてくださった本当のものかどうか知ることはできません。
たとえ涙がにじみ出るような平安、自由、喜びがそこにあったとしても、まだ何か足りません。御言葉です。
イエス様は、涙で左右されるような方ではありません。涙を流された方ですが、涙だけで左右されるお方ではありません。

また、どんなに御言葉がそう言っているように見えても足りないものがあります。そこに御言葉と同時にまことの平安が、まことの自由が、まことの喜びがなければ危ないのではないでしょうか。
その御言葉は、主の御心を表してるのではなくて、聖書の一部分を切り取ったただの文字かもしれません。人を傷つける自分流の思いが隠されているかもしれないからであります。
平安、自由、喜びの源はひとつであります。キリストご自身がその源であります。ヨハネが福音書で書いたように、人の奥底から川のように流れる御霊とともに与えられる平安であります。自由であります。喜びであります。生ける水の川そのもの、その御霊の実であります。

私たちが頻繁に使う言葉に、「交わり」とか「導かれる」と言う言葉があります。しかし、多くの場合は、意味のない言葉ではないかと思うのです。
祈りがなくても、導かれたと口でいうことができます。ほったらかしにしておいても、何らかのことが起こされるからであります。
祈りの結果も、ほったらかした結果も、「導かれた」という表現ができるのです。

信者の間でかわされる楽しい会話やつきあいも交わりということもできます。しかし、それも意味のない混じりものが混じっていてもわかりません。
集会の中や兄弟姉妹の間での生活が霊的な歩みで、会社や学校での生活が世ではありません。
外の世界は、主が獲得しようと見ておられる将来の畑、そのものではないかと思うのです。そこも主なる神が支配されている世界であります。

兄弟姉妹の間でこそ、最も醜い世が入り込むのではないかと思うのです。最も油断している危ない場とは兄弟姉妹の間ではないかなと思います。
大切な大切な兄弟姉妹の間であるからこそ、本当に主にある配慮が必要ではないかと思うのです。そこにこそ、まことの戦いが必要ではないかと思います。
パウロはそのために、彼の一生を兄弟姉妹のために捧げたと言っています。

あらゆる醜さや問題は兄弟姉妹の内側にありました。聖書のひとつひとつを見て、あの手紙のひとつひとつを見て、ほとんど兄弟姉妹の問題であります。
戦いとは御言葉との戦いであります。信仰者との間では、平安、自由、喜び、交わり、導かれる、この5つの言葉だけでわかったような会話が成り立ちます。しかし、先ほど、考えたように、これだけでは不十分であります。偽物との見分けが付きません。
これらのことを今日長々とお話ししたのは、真の教会、キリストを頭とする栄光の教会とは、私たちが目にしているこの程度のレベルの低いものではないと、今私は心から悔い改めているからであります。

30年間勤めた会社の中で、世の人々を通して、本当に教えられたことがあります。それは、人の評価は弁解することなく事実としてとらえることであるという一言であります。
このことを30年、おりにふれ、いろいろなことを通して、本当にこれでもかというくらい人の評価を受けて参りました。
しかしそれは事実である。人の評価は事実であると認めるように30年間教えて来られたのです。職場や客先を通して徹底的に訓練させられたことであります。

人の評価という表見的な言葉だけを見ると非聖書的な響きが致します。しかし人の評価を事実として認める勇気は、自分のレベルの低さを認める勇気を頂くことに通じます。自分自身の実態を認めることで、はじめて自由に向かってスタートを切ると思うのです。
世の評価も主によって与えられた恵みにほかなりません。この世は、他人は自分を映す鏡であると教えてくれます。
同様にキリスト者にとって聖書こそ自分を映す鏡そのものであります。聖書は世の評価と違って、ひとつとして見逃すことがありません。ですからこの世の鏡、この世の評価も含まれているはずであります。

最近特に、集会の近所の方々が迷惑されていると言われています。これは他人の評価であります。事実であります。
私たちは、そのひとつの事実をどのように受け、主にあってどのように御言葉を実行してきたのか、その歴史を考えただけでも、私たちのレベルの低さは想像を絶するほどであります。
この世の者でもわかるレベルの問題。主の御心は明らかであります。この報告を聞ながら、聖歌や日々の歌の下に伝道と書かれた聖歌を、気持ちよく歌っていたのは私たちではなかったかと本当に恥ずかしくなる思いであります。

エゼキエル書33:30-33
30人の子よ。あなたの民の者たちは城壁のそばや、家々の入口で、あなたについて互いに語り合ってこう言っている。『さあ、どんなことばが主から出るか聞きに行こう。』
31彼らは群れをなしてあなたのもとに来、わたしの民はあなたの前にすわり、あなたのことばを聞く。しかし、それを実行しようとはしない。彼らは、口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている。
32あなたは彼らにとっては、音楽に合わせて美しく歌われる恋の歌のようだ。彼らはあなたのことばを聞くが、それを実行しようとはしない。
33しかし、あのことは起こり、もう来ている。彼らは、自分たちの間にひとりの預言者がいたことを知ろう。」

恐れるばかりの御言葉であります。今日は兄弟姉妹が少ないので、こういうことはないと思うのですけど、集会所が満員で溢れるばかりの時、私たちの行いはどのようなものでありましょうか。
新幹線の自由席を取り合うように、古い信者たちが席をとりあっていることがないでしょうか。最も弱い方々が最も尊ばれる。これは本当に事実になっているでしょうか。
パウロは、コリント人への手紙第Iの手紙の最初に書いたのです。また12章の22節から24節をもう一度お読みしましょうか。

コリント人への手紙第I、12:22-24
22それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
23また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、
24かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。

この御言葉が、どのように実行にうつされているのか。ひとりひとりの心の内側に価値観として、そのことを聖書は常に語っています。
もしこのようでないなら偽物と言わざるを得ません。この御言葉を私たちの生涯に実行しようと、心から願う喜びが内にないなら、私たちは偽善者であります。
兄弟を愛さない者は死のうちに留まっていると、ヨハネは語りました。

ダビデは姦淫を犯したときに、それはあなただと名指しで言われました。この御言葉が、心に響く人は幸いであります。心の貧しい人とは、そのような方のことではないでしょうか。
聖書の言葉に耳を傾ける時、私たちは真実の声を聞くことができます。主と同じ形に姿を変えられていくという想像を絶する約束が与えられているのも恵みであります。
しかし、ひとつふたつを例にあげたように私たちの実態は本当にかけ離れています。しかしそのあざむく者、ヤコブのような醜い心の者に今日も主の約束が、ゴルゴダの丘に立っています。

あと2ヵ所お読みして終わりたいのですけれども、創世記の28章の15節
昨日も若い兄弟姉妹と、この箇所をお読み致しました。ヤコブは私たち自身のことであります。欺きの家を逃れた日、兄を裏切った日、その夜彼はこのような約束を与えられました。

創世記28:15
15見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

どのようなことがあっても、今日ひとつひとつ上げさせて頂きましたが、そのようなことがあっても彼は、「私はあなたを捨てない。あなたに約束したことを成し遂げるまで決して捨てない。あなたと共にいる。」
これが、最初から私たちが罪人として罪の中でもがいていた時から、はじめからずっと今まで語られていることであります。
彼のゆえに私たちは奇跡の人して、新しく産まれたことをもう一度思い起こして、今日ふたたび思い起こして、彼に再び信頼すべきではないかと思うのです。

私たちに今望んでおられることは、主が望んでおられることはむつかしい聖書の学びではなくて、すでに何度も何度も聞いている単純な単純な信仰であります。
最後に愛する人にヨハネが書いた手紙を読んで終わりにしたいと思います。

ヨハネの手紙第I、2:7
7愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。

ヨハネの手紙第I、1:6
6もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。

ヨハネの手紙第I、1:8-10
8もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
9もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
10もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

ヨハネの手紙第I、1:7
しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。




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