引用聖句:ヨハネの福音書21章15節-17節
私のこの一・二年の出来事を語りながら、みことばをちょっとづつ選んでありますので読みたいと思います。 今日は嬉しいんですけど、姉妹が、今度兄を札幌の喜びの集いに、連れてきてくださいって誘ってくれたんです。で〜、「札幌行こか?」と兄が言うんで、僕は歩くのにつらくなってて、どうしょうかな、でも兄が行く言うんで行こう、と言うて来ました。 でも切符を買うのが1週間前で、姉妹がはよう切符買わんと来れなくなるがね、飛行場に近いんで行ったんです。 行ったところがすぐ取れました。それで買うとき、「いくらですかぁ〜」言うたら、「16万なんぼ」言うんですね。「え!僕、10万しかさげてない。」、その前に片道二万円づつで往復で四万、そんなら八万でたるなぁ〜って計算したら、そうじゃなくて札幌から東京までと、東京から高知までで六万なんですね、だから、ああ、16万いるんだなぁ〜って。 カード持ってるから、それを出したら使えなくって、期限切れ..ああ、しょうがないなぁ〜と、「ちょっとコンピューターをホールドしててください。」って言って帰って来ました。 そしたら別な店に置いてある財布の中に、他にありましたお金をもう10万さげて行って、もう一回このカードが使えるか試して見よう、と思ってそれで払うとちゃんと払えました。 現金は出さずに済んだんですが、銀行から引かれるようです。 ことほどほどに全部失敗だらけで、今日はこちらの兄弟が車でつんで来てくれました。車の中、ずっと通ってすっごい紅葉の山を見ました。すごく嬉しかったんですが、道がカーブの多い中、横に当たったり、兄に当たったりしながらやってきたんですが、その前にその車に乗る時、向こうの杉にコンとあてて、足にキズがついちゃったんです。 血が出ててましたが、もう治療が済んで痛むこともなくなりました。けど、温泉に入れないので残念です。 車を降りて、玄関に入ってくる所の一段低くなってあったところで、そこで転んじゃったんです。でも受身をするように、ころり、と転んだんで心配ないと思います。骨折はないと思います。 二人とも年をとりました。兄は81歳、僕は72歳。メッセージも、やめさせてくださると思うんですが、でもベック兄が71歳で現役であられますので、もうちょっとさせていただこうと思います。 兄嫁が去年の8月31日召されました。8月9日に入院してから、大体21日病院でいたのですが、ほとんど毎朝と夕方行きました。行かなかったっときも、三回ほどあったんですが、それでも夕方は行ってました。 後でそのことが思い出されて、不思議だなぁ〜って、思うことがいっぱい起こりました。それは、痴呆症になった兄が非常に苦労しました。兄がいなくなると、うろうろと捜しまわるんですね。デ、その時僕がいたら、「姉さん、お祈りしよう。」って、両手で手をつかんで、祈りますね。 祈り終わる瞬間、「アーメン」いうたとき、表情がパーッと変るんです。不思議だねって、時たま夜行った時、「姉さん聖書読むか?」、って。そして読んで聖書の話しすると、とんちんかんをいう人なのに、聖書のお話を聞くときは、きちっとわかってるんですねぇ〜。 あとで思い返して、ああ、不思議だなぁ〜って思いました。そしてだんだんわかるんですが、召されてから兄は、姉は集会に行ってるから、集会の方式でやって欲しいっていわれて、あの、それでやったんで恵まれました。 その時、使用したパネルの端に、2、3、このことばと、このことばをあなたが書いてぇ〜言うて、出棺の間際にまで筆で書いてくださって。それでパネルが仕上がりました。 詩篇122篇1節、これは、兄も覚えちょッたんですが、その通りじゃねぇ〜って兄も言うんです。これは、私が毎週迎えに行くんです、そして兄嫁が大喜びして、出てくるんですね、その表現がここにきちっとあるし、 詩篇122:1
すごく嬉しそうな顔で、はじめのうちは兄は、少し恥ずかしそうに僕の姉と妹と、それから兄嫁つんで集会所に行くんです。兄は見送ってばかしだったんですが、いつころのことか、いっしょに来てくれるようになりました。 あのぉ〜、すごぉ〜く嬉しかったんですけど、この状況は兄嫁を思い出すみことばとして、パネルに書き記しました。 あのぉ〜、私たちがどのようなときに喜ぶかって思いますと、それはイエス様の話を聞くとき、イエス様が言われるみことばを聞く時、私たちの心はなんとなく嬉しくなります。 僕は集会大好きで、行ってるだけで疲れが取れちゃうんで、あのぉ〜、日曜日の午後もみんなが帰ってしまうまで、愛する兄弟姉妹たちとおります。 3時ごろ帰ってくるんですけど、あのぉ〜、そのこと思い出しながら、あのみことばを思い出したよってルカの福音書の最後の端の、エマオの途上に、エマオへ行こうとする二人の弟子たちがいて、その弟子たちがイエス様とお会いして、イエス様と話しながらエルサレムに起こったことなどを話し合いながら、ずぅ〜っといきゆううちにぃ〜、その方を家に入ってくださいって、泊まってくださいっていうて入ってもらいます。 そんとき、イエス様がこう言うことをなさりました。 ルカによる福音書24:30-32
あの人たち、エマオに何しに行ったかわからないけど、また、ひき返して来るんですね。 今イエス様にあった喜びを、兄弟姉妹に伝えたかったんだと思いますね。すぐエルサレムに引き返してきた、とあります。 このとき、私たちの心は内に燃えていたではないか。このことばの通りなんです。 みんなと聖書を聞いているとき、兄弟がメッセージするとき、そして兄弟姉妹とイエス様の話をする時、私たちの心にほのぼのとした、暖かさが感じられる。 私を導いてくださった高知集会の爺さん、僕が座っている枕もとの側で、すぅ〜っと召されました。 そして僕はこう思いました、ああ、神さまを信じてる人は、こういう召されかたするんだなぁ~って、すごいなあって。 その前におじいちゃん、あのぉ〜、耳が聞こえない方だったから、「退屈でしょう。」、と言うたら、「いやいや、!皆さんも一緒だし、神さまもいっしょだから、そんなことはありません。」、て言いながら、しばらくして召されたんです。この方が私を十年くらいの間誘ってくれました。 このごろおばあちゃんが90歳になりましたが、だんだん弱ってきて、礼拝にやっと来る状況です。そして僕と会うと必ずこいうこと言うんです。 「広海ちゃん?あなたを私が集会に誘う時、おじいちゃんに相談したよ。『おじいちゃん?時計屋の広海さんを誘おうと思うんですけど、どうですか?』、『ああ、そう簡単にはいかんぞね。』と言ったそうです。」 それはちゃんとその前があるんです、僕のおじと友達で、しょっちゅう来ておしゃべりして、その側で僕が時計を修理して、かえりに時たまビラをくれるんですが、「こういう集まりがあるから、おいで。」って、「はい!ハイ!」言うて十年すっぽかしたんです..。 だからそのことはお爺さんにあるから、ああそうか、だからそう簡単にはいかんぞねッて。けど、誘われてからはずぅ〜っと一度も休まずに行きました。 聖書をその頃買ってきたんですが、僕のは薄いんですね、みなのは厚いんです、どうしてかなって思ったら旧約聖書と新約聖書がいっしょになっていて、それが一般に聖書だよってその時知りました。それからずぅ〜っとおじいちゃんの家に集いました。 洗礼受ける時、「広海ちゃん、洗礼受けたらどう?他の方も洗礼受けるから」、て言われて、「洗礼受けるってどういうことですか?」って聞いたんです。信者になることだよって言うんです。 その頃のお母さんの信仰は、今のようではないんです。僕はよく、19年教会にいく間も、お母さんと同じような本当にイエス様〜、って言う信仰はなかったんです。 で、会うとこのごろそのことを言いながら、「お母さん、あのぉ〜集会に移っといて本当によかったね!ほんとによかったねぇ!!」、そう言い合うんです。 それほど僕たちはイエス様が大好きです。 さきに呼んで頂いたところは、ペテロにイエス様が、あなたは鶏が鳴く前に三度私を知らないと言うよって、その時彼は落ち込みます。 して、イエス様が捕らえられていく時に、ジッとイエス様がペテロを見られるんですね、そのことは、ずぅ〜ッと彼の頭の中にギリッギリッと残ってて、つらい思いをしてたと思います。 すごく心意気のいいペテロだから、きっとそう思ってたと思います。 ある兄弟が僕に、「イエス様の言われる愛っていう言葉と、ペテロの言う愛という言葉をちょっと調べて欲しい。」、といわれたんです。 僕の中にこの個所を見てて、わかりました。どうして彼がそう言ったか、ええ、文章欄の下の段を見てください。二つの米印と三つの米印が出ています。 ヨハネの福音書21章15節のところです。二つの米印と、三つの米印があります。 二つの米印は、ギリシャ語の「アガパオー」、三っつの米印は、ペテロが答えた言葉の愛するという言葉の、やはりギリシャ語で「フィレオー」という言葉があるんですけれども、少し教会でギリシャ語を習ったので、辞書を持っていますので、こつこつなら訳せるんですけど、そこを調べてきて欲しい、と言われました。 これはイエス様が、あなたはわたしを愛しますか、というと、アガペーという愛の言葉で言うんですね。ペテロが答える時は、フィレオーという言葉を使うんです。これは、兄弟愛、という意味なんです。 アメリカにフィラデルフィアという、最初にできた町であろうそこで、アメリカの建国の集まりがあって、カーペンター.ホールで会議をやって、13の植民地からそれぞれの使者がやってきて、そこで12人が来て、ある投票をしたら、6対6で決定ができなくて、そこへニューヨークの近くの州の兄弟が駆けつけて投票に参加して、その時アメリカ合衆国が成立したという歴史のあるところですね。 フィラデルフィアの大工さんたちの事務所に、僕行ったんですけど、今の話を聞いて、へエー不思議だなあと感じました。 その近くに小さいパビリオンがあって、自由の鐘がおいてありました。フィレオーとは兄弟愛ちゅう言葉ながです。アガペーとは、私たちには持ち得ない純粋の愛。神さまだけが下げている愛ですね。 そのことを、教えて欲しい、調べて欲しいと頼まれた兄弟に伝えると、ああ、そうですか、やはりそうだったのですか、と考えられてました。 1回目に言うところをちょっと見てください、そして私はどう言えるか考えてみてください。 ヨハネの福音書21:15
これを三度言われるんですね、あの、「アガパス.メ」、あなたは、わたしを愛するか、彼が答える時、「フィレオ.セ」、「セ」とは、あなたという意味です。 そして三度目の最後にはこう答えます。 ヨハネの福音書21:17
ペテロは気づかないのです、ここもやっぱり、「フィレオ.セ」という言葉を使います。じゃあ、結末はどうなのか?、と思ったんです。それでペテロの手紙第Iを調べたんですけど、手紙の中にその答えがありました。 それは、ある私たちの集会の兄弟が、その箇所を読んだんでびっくりしたんですが、ペテロの手紙第IIの3章を開いてみてください。 ペテロの手紙第II、3:1
と、あります。 この愛する人たち、というとこの愛は、アガペーという言葉を使うのですが、すごいすごい、やっぱり変えられたんだなあと、てぇ〜思います。そう思いながら、一章の6節、ちょっと読んで見ますけど。 ペテロの手紙第II、1:6-7
イエス様のご愛と、同じものだよって、ここに使っているんです。 へ〜。やっぱしそうなのだな、と思わされます。そして、ペテロはすっかり変えられて、多くの人々に初めてのメッセージを伝えます。 あのぉ=、使徒の働きの2章をちょっと読んで見てくださいますか、あのぉ〜私たちとイエス様を十字架につけろ、と言った群集もいたことだろうと思いますが、ペテロたちはみんな、イエス様のお約束の聖霊を受けます。 そのときにイエス様が言われたことを、はっきりとわかるようになります。聖霊は私たちに、イエス様が言われたことが全部理解することができる力を、その時々に起こることを理解するようにしてくださるように遣わされたんだなあ、と思うのですけど、初めから読むと長いですから2章の33節からお読みいたします。 使徒の働き2:33
あなた方が見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。 旧約の時代にダビデ王という、選びの王のことは皆さんの周知のことですが、 使徒の働き2:35-40
と、あります。 今の時代を考えると、本当に行き詰まります。あのぉ〜、やっと就職してもすぐにやめさせられたり、僕たちの集会のひとりの兄弟もリストラに会って、今、一人の娘さんと二人の兄弟姉妹が、一生懸命に生きていますけど、あのぉ〜、これからッ、という時にあのぉ〜、やめさせられたりします。そして、就職しようと願う高校卒業、大学卒業で、あのぉ〜、全部が就職難に合うと言う状態になっています。 不確実性という時代、世の中は憎み合いの結果、テロとなってアフガニスタンのアラブ人たちが、ああいうことをします、けどこれをしかけた理由の大きなこととして、アメリカのありかたの原因も大きな理由をして含まれているのを見ますと、どうしてかなぁ〜って思います。 その時、解決の道は一つしかないけど、これは不可能だろうと私たち、イエス様を心から信じているものは確信します。 それは、イエス.キリストを信じて、「私は赦された、」、「あなたも赦されてる..」、夫婦がいたら、互いに赦し合い、愛し合うようになる。それが、国と国、また民族と民族、宗教と宗教、やなくて無宗教のイエス様を信じる世界にならないかぎり、この平和はこの地球上に来ないんだなあ〜、って思います。 その時、こういうことを僕は思うん出すけど、ひとりの兄弟が高知に来てくださって表現した言葉が嬉しくて、よく紹介するんですが、エエ、神さまがイエス様を通して言葉を発し、そして、そこでこの、天地万物全部造られた、そして、この地球を特別に造ってくださって、そこに神さまに似せられた人間が住まえるようにして、神さまはこれをどうしよう、と思われるんですね。この造ったものを誰に与えようと思われたとき。 神さまはこのように人々を、ご自身の形に創造された。 神さまの形に彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 神さまはまた、彼らを祝福し、このように彼らに神さまは仰せられた。 産めよ増えよ、地を満たせ、地を従え、地を這うすべての生き物を支配せよ、と言って、これを人にゆだねてくださいました。 この時、その兄弟はこう言います。「格別の思いをもって、人を造ってくださって、御造りになったものすべてまかせてくださることを赦してくださった、このご愛を私たちは大事にしなければいけない。」、と兄弟は言うんです。 格別の思いを持って、人を造ってくださった。 私たちはいろんな事が起こりますと、何でわざわざ私を産んだのか、などと親をなじったりします。また、その人達が親になってみてイエス様を知らないと、いつもいさかいが起こり絶えません。 そうした時、私たちはいつも、自分勝手な思いで物事を決めまた、神さまを知らずに、私たちはこの地球上を歩むことになります。そのことを神さまはこう言われます。 主は、地上に人の悪が増大し、その心がいつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。 それで、主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。 そして主は仰せられた。「私が創造した人を地の面から消し去ろう、人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで、わたしはこれらを造ったことを残念に思うからだ。 しかし、ノアは、主の心にかなっていた、と、あります。これはノアの歴史である。ノアは正しい人であって、その時代にあっても、全ったき人であった。ノアは神さまとともに歩んだ、とあります。 でも、洪水の後も、人の心は、おんなじだったと、いうことを主は知られました。そして、一つの方法を預言を通して、イエス様という方を私たちのためにこの地上に贈ってくださったんです。 あのぉ〜、私たちが本当に気づくようにしてくださるのは、イエス様でありますし、イエス様のくださった霊が、私たちを気づかせてくださいます。私たち兄弟姉妹は知っておろうが知らなかろうが、みんなイエス様まの霊をいただいております。 だから、兄弟姉妹たちと交わることは、非常に嬉しいんです。この世の人との交わりとは、全く違うからです。 それは、私たちのうちに聖霊が住まわれていてと書かれています。パウロは、私たちの中に聖霊が内住している、と、ローマ人への手紙8章で書き記しております。 では、このみたまをいただくにあたって、どのようにすれば良いのか、考えてみました。そのことは、イエス様がここで、ご自身の父のお言葉で言っておられます。 今日はじめて来ておられる方も、おられるかもしれませんし、まだ、イエス様を信じてはおられない方もいるかもしれません。 イエス様の御前で、気づかせられたら、まず自分の身勝手さを全部、「わがまま、勝手しました、おゆるしください。」、っていうことだと、この集まりは一番大切にしていることをはじめての方に勧めます。そのことは、こういう言葉で旧約聖書の中に語られております。 皆様も良くご存知のダビデ王が大失敗し、自分に仕えるものの妻をわがものにし、そのものを戦いの中の一番激しいところへ出向かせ戦死するように仕向け、そのことが預言者ナタンによって示されて素のような卑怯者は死刑だ、とダビデがいった時、それは「あなたです!」、と、示されました。 そのときダビデは心から悔い改めに導かれます。そして一番大事なのは、詩篇51篇の14節。 詩篇51:14-17
たましい、心という言葉があるんですが、たましいは私たちの原動力です。心は地上にて私たちが考え、また情を持つ私が意識するそれらのもの、それらの本当に本心で、わたしの御前で砕けた心になることだよって告白させられた、これがダビデの言葉です。 この賛美は、旧約聖書の中に何回も出てくるのですけど、さきほど読みかけたヨハネの福音書の箇所をもう一度読みますけど、 ヨハネの福音書3章、御霊さまをいただく一番の最短距離の方法を、イエス様はここに語ってくださっています。 ヨハネの福音書3:1-8
と、言われてます。 イエス様がはじめて、この地上で父の御心をかたろうとする時、ひとつのことをなさいます。その前にイエス様は、マルコの福音書の1章の最初にこう言います。 水と、霊とで生まれなければ、とあります。水とはなにか、といいますと、マルコの福音書1章の4節。 マルコの福音書1:4-5
ここでされているのは悔い改めのバプテスマです。私たちが本当に信仰を持つのは、その後の8節に、 マルコの福音書1:8
この方が来て、私たちに、聖霊のバプテスマを授けてくださいます。それは御霊なる方ですから、14節に。 マルコの福音書1:14-15
そのあと、私たちは御霊をいただくことになります。 ですから、兄弟姉妹が集まる交わりの中は、何とも言えないかもしだされる楽しい、嬉しい、雰囲気は御霊なるお方が、私たちひとりひとりの中におられるからであろうと、思うんです。 もう、痴呆症でわからなくなった兄嫁との交わり、それは御霊さまが兄嫁の中に、意識はしていなくてもおられるから、それで喜び合えるんだなぁ〜って思えます。 ある女性が召されました。ある宗教を自分が信じて、広い地域を伝道して、家族が全員信じちゃったんですね。そして、その方の次女である姉妹が、昔から交わってたんですけど、この方が家に帰ってほんとに世話をしっかりして、イエス様を伝えられると、その女性はさっさとイエス様に信仰を変えちゃって、その日はイエス様の喜びの葬儀をなさりました。 その時姉妹が証しました。 「私が、お母さんが、つらくてつらくて、召される寸前にイエス様の話、みことばを読むと、お母さんがすごく喜んだ。その時私、お母さんの中に聖霊がいたと、信じれた。」、そう、彼女は証しました。 僕は、兄嫁のことでその事実を体験的に知っていたので、「本当だね。」と、喜び合うことができました。 このように私たちは、聖霊をいただいて、自分が意識しようがしまいが、イエス様の御前にごめんなさいと言わされたものは、みんな御霊さまをいただいているんだな。だから、「うれしいんだ..!」と、思うんです。 僕は御霊の実がどいうものなのか知りたくて、もう一度聖書を少し前に読んでみました。ガラテヤ人への手紙5章22節。まず、その前に16節。 ガラテヤ人への手紙5:16-21
次に、私たちがいただいている御霊の実とはどういうものかを記しています。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、このあとにまだあるんですけど、愛、喜び、平安、ああ..そうか、だから嬉しくなるんだなあって思います。 御霊をいただいてる、イエス様に愛されてるという意識、この愛はイエス様の愛です。愛、喜び、平安、だからどのようなことが起こっても私たちは日々、イエス様を愛します、と言いながら、喜ぶことができるのです。 いっぱいまだ、愛について読みたいのですけど、先ほど見つけた個所を読んで終わりたいと思います。 エペソ人への手紙3:14-19
と、あります。本当に少しづつ、イエス様の御愛を私たちは発見して行きます。 再臨の時、私たちは顔と顔を合わせて、イエス様のありのままの姿を見るようになる、それが楽しみです。 先に送った兄弟姉妹たちとの再会も許されますし、そして、御国でみんなとなごやかに永遠の命に生きるからです。 これで終わります。 |