引用聖句:コリント人への手紙第I、2章9節
今ごいっしょに賛美しましたその歌詞(日々の歌169、行く手に望みは消えて)も、本当に私たちが色々なことを通して順調なときだけではなくて、仲良く歩いた群れが試みの中で乱れひとつになれずに悩みという個所がありますけれども、信仰をもって歩み始めたときにあらゆる波が、あらゆる嵐が起こってまいります。 しかしそのときこそ私たちが何のために救われて、そしてどういう喜びを与えられていたかということを、思い起こす必要があるのではないかと思うのです。 吉祥寺の祈り会で何人かの兄弟姉妹が今日の広島の集いのために祈り合ったのです。それは本日の集いが本当の意味で祝福されるように、すべての栄光が私たちではなくて神さまご自身に、イエス様ご自身にのみ帰されるようにと祈ったのです。 そして何人かの方々の名前を挙げて祈ったのです。そしてある日、会社で携帯電話が鳴りました。 広島の兄弟からの知らせだったのですけれども、ひとりの兄弟が洗礼を受けられることになったということだったのです。まだ会議が続いていた、議論が白熱していた夜九時ごろ、本当に嬉しい知らせだったのです。 祈り会で名前を挙げて、そしてまた奥さんの名前も挙げて祈った兄弟でありました。そして今日、その方にお会いしたときに、ちょうどその日にやはり彼も心にそのような思いが与えられて、そして洗礼の証しをしたいと心を固めた日だったというふうに知らせていただきました。 祈りに応えられる主に本当に心から感謝したいと思っています。 生きがいというのはこういうことではないかと思うのです。私たち主に捕われた者、主に導かれた者の生きがいというのは、パウロが語っているように、 テサロニケ人への手紙第I、3:8
テサロニケの人々に出した手紙の中の一節であります。この世的には何一つ利害関係がない方のことが、こんなに嬉しいというのは不思議でなりません。 イエス様を真ん中にして、ひとつの心が与えられて、ともに語り合うことの嬉しさというのは、言葉で伝えることのできない、そういうものであります。 イエス様の救いの深さ、強さというのはどんなに逃げてもイエス様の御手の中にあるということ。そのことを兄弟と同じように私も思い起こすと、本当に感謝に絶えません。 故郷に帰るといつも思い起こすことがあるのです。それは私の父が日記に残した言葉です。毎日、一日一章読んで、そしてその日のその一章の中でもっとも心に残ったみことばをずっと毎日、何年も書き続けておりました。 その中に次のように記されていたのです。「生きた証しとは何か」という言葉であります。そのときまだ父は本当のものを探していたようでありました。 今日、私は父に代わって「生きた証しとは何か」というテーマでともに考えさせていただきたいと思っています。 私たちの子どもたちはみんな小さいときからイエス様の存在を疑うことなく大きくなりました。そしてそれぞれある時期に差し掛かると、疑問を持ち始めたのです。今、末の娘は次のような疑問を持っているようです。 「私は生まれたときから神さまを知っているから、疑わずに来たけれども、ほかのものを信じている別の家に生まれていたら、それを信じていたかもしれない。ひょっとして自分は信じ込んでいるだけかもしれないと時々思うことがあるのだ。」、と兄弟の中で、自分の偽らざる思いをたまにもらしているようです。 これは、まことの神さま、イエス様に個人的に出会っていない人にとっては、普通のことかもしれません。この世の中ではこちらのほうが正常な考え方だと考えている方が多いと思うのです。このような疑問について、最近子どもたちとともに考える機会を与えられました。 子どもたちが家族の一員として可愛がっていた「麦」という名前の犬がいるのです。ちょっと前、突然脳腫瘍になって、夜中に何度もひきつけを起こすようになりました。 重苦しい雰囲気の中で聖書のことば、「麦」ということばの意味、そのようなことをともに考える機会が与えられたのです。 父親の、私の証しに耳を傾けてくれました。昔は、20年以上前は私も「鰯の頭も信心」とうそぶいていたのです。 家内にも、そして近くにある教会に行ってもそのようなことを平気で言っておりました。信仰というのは盲信、例えば洗脳、このようなものと区別することはできない。まともな議論はできないと思っていたのです。 しかし今、それから20数年経って私自身が信じている方は、決して鰯のようなもの、鰯の頭のようなものではありません。 強制的な押し付けで信じたのでもありません。まったく自発的な・・・自発的というよりも、むしろ一方的に導かれたと言うのがふさわしい、そのような類のものなのです。私の小さな、本当に小さな頭で考えていたこととまったく180度違う、そういうものだったのです。 今私は、鰯の頭ではなくて、ひとりの人格と出会っている。これを子どもたちと語り合ったのです。 それはこれまで心に思い浮かんだことのない人格であります。考えたこともない人格であります。教えとか信条とか哲学とか心理学とか心学とかいうものとまったく関係のない、これらと次元の異なる種類の人格であります。 私が信じているのは、およそ学問と関係のない、人の考えの及ばない、生きた人格としか例えようのないものであります。その方に出会ったと言えます。 今日ごいっしょに考えてみたい本当のもの、本当のひとりの人格が聖書には次のように表わされています。 先ほど読んでいただいた、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして人の心の思い浮かんだことのないもの。」、こういう人格と私たちは出会ったのであります。 イエス様に出会う前はだれも心に思い浮かんだことのないものですから、いかに親しくても、いかに愛していても、人は伝えることのむずかしいものであります。 しかし聖書にあるように、必ず時と機会が備えられるようになる。これは期待すべきことばであります。 そして子どもたちに伝えたことのひとつは、この人格に出会うことによって、私自身が心の内側にさまざまな奇蹟を見るようになったということを、続いて話したのです。 その中で子どもたちにもっとも伝えたかったことは、犠牲を払うことが喜びになるという奇蹟についてであります。忍ぶことが、あるいは仕えることが喜びになるという奇蹟が本当にあるということなのです。 そういう事実について、生活を共にしている父親がこのような奇蹟を本当に大切にしている、体験しているというその事実を子どもたちと語り合いました。 こういう考えは、犠牲、忍ぶこと、仕えること、このことについて今申し上げたような考えは、生まれついてからイエス様という人格に出会うまで心に一度も思い浮かんだことすらない考えでありました。 そして単なる考えではなくて、それは喜びであるということは思いもつかないことだったのです。 この類の喜びを心に持つ者がキリスト者ではないかと思います。教会に行くとか行かないとか、献金するとかしないとか、洗礼を受ける受けないとか、そういうこととまったく関係のない主なる神の一方的な贈り物であります。 聖書は犠牲になる喜びに満ちあふれていると思うのです。忍ぶ喜び、仕える喜びで満ちあふれています。 この秘められた喜びを今日私たちが自分自身の宝として、財宝として、主なる神からの贈り物として受け取ることができれば、どんなに幸いかと思います。 イエス様は徹頭徹尾、私たちの犠牲となられるためにこの地上に来てくださいました。わがままな者のために犠牲になることを喜びとしてくださった方であります。 聖書ではっきりと記されている一つのことは、主イエス様の喜びは犠牲となることであったということです。 イエス様の喜び。度々聖書に出てまいります。イエス様の喜びとは犠牲となる喜びであります。仕えることを喜びとされました。 そして、この人格と私は出会う恵みにあずかった。これだけが子どもたちに伝えることのできる証しであります。そしてこの喜びを知るようになったのです。 もちろん完璧なことから見ると、ほど遠いことですけれども、こういう類の喜びを知るようになった。出会ったということであります。主なる神とはこのような方なのです。 ヨハネの福音書15:11
イエス様は弟子たちを本当に色々なことばをもって導いてくださっています。そしてそれは、わたしの喜びがあなたがたのうちにある。 どういう喜びかと言うと、イエス様のうちなる喜びは犠牲になる喜び、忍ばれる喜び、仕える喜び、そういう類の喜びであります。私たちが楽しいという喜びとは全く違う種類の喜びであります。 自分の状態が良くても悪くても、ただ犠牲になられた神のことばを心に受けるときに、心に思い浮かんだことのない喜びの奇蹟が私たちのものになると聖書を通して確信できることであります。 イエス様と深い交わりが、みことばを通してイエス様の喜びを心に受けて、知らなかった喜びを喜ぶようになります。 もう一度言いますけれども、決して義務ではありません。義務であったら喜びなど無いですよね。 聖書に書いてあるとおり、主の喜びが私たちの喜びとなる。これが約束であります。 私たちはイエス様を信じて、この喜びをいただける者として、神の子どもとして、友として私たちは呼ばれています。低いレベルで満足すべきではないと思うのです。こういう類の喜びを私たちの毎日の生活の土台として見ることができれば力になります。 パウロは牢獄の中で書いた手紙にその喜びを記しています。私たちが何度も何度も目にしている個所だと思います。 ピリピ人への手紙の4章。パウロは、牢獄から外の世界に向けて手紙を出しました。目に見える牢獄は自由の場所であり、目に見える自由の場所は本当の意味で牢獄であったと言える個所であります。 ピリピ人への手紙4:1、4
主のうちに喜びの根拠があるのです。パウロの喜びの根拠はここにありました。うまく説明することはできませんけれども、聖書は約束しています。 「主にあって喜びなさい。」、主の喜びを喜んでください。「私の喜びをともに喜んでくれ。」、マタイも同じように、そのことを心に受けました。 私自身のように、以前を振り返ると本当によくわかります。利己的で自分のことしか考えることができなかったような者の心に、みことばのとおりに別の心、今までなかった心、主の喜びの心を植えつけてくださったという事実があります。 接ぎ木してくださったという感じなのです。聖書にもそのようにあります。接ぎ木をしてくださった。自分自身でこれ以上の奇蹟を知りません。 イエス様にいやされた盲人は証しをしています。それは、私たち主に出会った者たちの証しと全くいっしょだと思うのです。 ヨハネの福音書9:25
有名なことばですけれども、私たちが本当にそのことを毎日土台にして、感謝して、そして生きる力にしているかどうかが問題であります。 「一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見える。」、「今は出会った。今は彼を知っている。」ということであります。 聖書が前もって約束しているとおりの神のわざを、心の目で見るようになります。今日も兄弟が言ってくださいましたけれども、もう前もって約束してくださっていることを見るようになる。 先日、吉祥寺ではこのことを「実験する」という言葉を、内村鑑三の言葉を引いてお話しましたけれども、すでにわかっていることを確認するというような意味合いであります。 「実験」。経験するという漠然としたことではなくてもうはっきりと、前もって知らされていることがそのとおりかどうか、それを理科の実験のように確認するということが信仰生活であろうかと思うのです。 もっともレベルの低いものの上に起こったことだからこそ意味があると言えます。利己的で自分のことしか考えないような者の心が、180度山が動くように変えられていく様を奇蹟としか言いようがありません。 ヨハネの福音書の7章の37節、38節。この約束が私たちの心に事実となるときが来ます。 ヨハネの福音書7:37-38
これが約束であります。そして、このとおりにならなければおかしいと言わざるを得ません。心の奥底から喜びが流れ出るのを知るようになります。必ずなるのです。 みことばを読んで頭で知るだけだった者が事実として心に受けるようになります。聖書に書かれているとおりの喜びの奇蹟を我が身に受けるようになります。 このご人格、この方と出会ってそして導かれるところは、私たちのすべての行ないの奥に潜む思いは、結局自分を喜ばす思いからすべてが発しているということであります。 みことばそのものに心の奥底を探られて、導かれて、そのみことばどおり主の前に悔い改めるときに、私たちは平安と喜びの波に浸るようになります。 以前はよく歌っていた聖歌の284番には、主イエスを思うときこの心は喜びの海に浸る如しとあるのです。 私たちが「喜び」と言葉で簡単に言いますけれどもそれは、主イエス様を思うとき、私たちの心は喜びの海に浸る如しという、そういうことであります。そういう類の喜びであります。 主なるまことの神は本当に不思議なことをなさるお方なのです。もっとも親しい者、もっとも愛する者の間に剣を、争いをお与えになられる方であります。そういう人格を持っておられるお方でもあります。 それはまことの幸せ、まことの喜びを与えられるためにそのようにされるとしか言いようがありません。 実の両親や兄弟や子どもたちとの心の隔たりを通して自分の心のかたくなさや陰険さ、そして自分を大切にする利己的な性質を知るようになります。そのことを通してしか知ることはできません。ひとりで生きていくとき、ひとりで思うように生きていくときには決して気が付かないことであります。 もっとも愛する者、もっとも近い者、親しい者、そこにイエス様は剣を置くと約束しておられるのです。そのようなかたくなな心を私たちは持っているということであります。家族が家族と争うようになるということなのです。 そしてその結果、イエス様のご人格と私たち自身の事実との間の大きな隔たりを知るようになります。大きなギャップを知るようになります。 ルカの福音書の12章に、私たちがひとりひとり経験をしてきたこと、また今経験していることがここにあります。 ルカの福音書12:51-53
これが私たちの現実であります。イエス様がお許しになった現実であります。これが隠された事実であります。 主のご人格に触れた人は、根本的な問いをもつようになります。自分の心の秘密が明らかになるのです。心の秘密というのは、エレミヤが言ったように、 エレミヤ書17:9
という心の秘密であります。自分の心の隅々までもみことばによって探られた者は本当に幸いであると聖書は語っています。その人は、悔い改めて神の国を見るからであると語っているのです。 イエス様はこの地上に来たときに、最初から「悔い改めなさい。」と言われました。何にも説明なしに「悔い改めなさい。」、ここから出発されました。「神の国が近づいたから。」 親しい者の中で心の醜さを発見する者は本当に幸いであります。それは、そのことを通してへりくだらざるを得ないからであります。 自分の心のレベルの低さを思い知らされるからであります。「心の貧しい者は幸いです。」 きれいごとではないのです。なりふり構わぬ自分の奥底に潜んだ悪、罪、そこに目が留まる者は幸いであると聖書は語っています。罪の大きさ、罪の重さに悩む者は本当に幸いである。 今日も2人の兄弟がともにマタイの福音書11章の28節を引用してくださいましたけれども、これは本当に私たちの人生の中で、救われた者であっても毎日毎日重荷を負って、そして主の前に来なさいと語られている個所であります。 そして私たちがイエス様のところに行ったときに初めて、私たち自身がどのような重荷を背負っていたのか、人生の秘密を知るようになります。私たちが中身を知らずに負っていた重荷とは、罪の重荷であります。 みことばのとおりに導いてもらいたい。主の喜びを喜びたいと子どものように願うなら、そのとおりに主にある喜びに満たされるようになる。これが聖書が繰り返し繰り返し手紙を通して私たちに知らせている、告げ知らせているメッセージであります。 もうすでに天に召された兄弟は、癌になって再発をして、そして最初の礼拝のときに詩篇の103篇を読んでくださいました。 本当に病が与えられたときに、病をいやされたという個所を読んでくださいました。喜ぶことができないけれども、喜びたいと祈ってくださいました。 そういう人生を、そういう歩みを私たちは事実歩むことができると聖書は語っています。喜べるから喜ぶのではなくて、喜べなくても喜びたいと本当に心から祈り願うときに、事実になります。 私たちがみことばを神のことばとして本当に素直に、そのとおりに一字一句、自分の解釈を入れずに信じるなら、今日兄弟が・・・ (テープ A面 → B面) ・・・本当にナアマン将軍のように、幼子のように主の人格を信頼するようになります。新しく生まれるようになります。新しい歩みが備えられるようになります。 エレミヤ書の29章は、私たちの信頼する方が私たちひとりひとりに備えてくださっている約束、計画であります。 エレミヤ書29:10-14
こう約束しておられます。事実になります。 最後になりますけれども、最初に申し上げたように兄弟姉妹が主にあって堅く立っていてくれるなら、私には生きがいがあるとパウロが書いた手紙のように、私たちが生きることができれば、兄弟姉妹のともなる生活を生きがいとして生きることができれば、本当に幸いであります。 父の日記の最後のページに記されたみことばは、イザヤ書の4章でありました。 イザヤ書4:5-6
彼の一生をこうして導いてくださったという、病気がちであった父にとって人生を締めくくるにふさわしい個所であります。 一生を主に支えられ、主に支配されていることを信じて生き抜いた父は、「生きた証しとは何か」という、自分で問いかけた問いに無言で答えてくれているように思います。 そして、ここにしおりが挟まれていたのです。このページは最後に実の父親が、次のように生きよと残してくれた場所でもあります。 もうそれ以来2度と忘れることのできない個所となった場所ですけれども、これは次のところです。 イザヤ書5:1-2
この個所は父が、次の日ペンを取ることができたら、きっと日記に記されるべき個所であったと思うのです。私にとってこのみことばはそれ以来ずっと10数年の間、聖書の中でもっとも親しい個所になりました。 ですから色々な場所の兄弟姉妹のところに行って、必ずと言っていいほど、1度や2度は読まさせていただいた個所であります。 そしてこの個所を通して一気にヨハネの福音書19章、イエス様の十字架に私たちの心は飛んで行くに違いありません。 ヨハネの福音書19:28-30
期待に応えることができないで、良いぶどうにならないで、なることができないで、腐ったままで飲み干してくださった方がおられます。それを喜びとしてくださった方がおられます。 犠牲になられるために生まれて来られた方がおられるのです。黙したままで、身代わりとしてほふり場に引き出された方がおられるのです。 聖書を通してこのように伝えられた事実を信じて一生を生き抜くことこそ、生きた証しではないかと思います。 もっとも尊い幸いな人生とは、こういう平凡なだれにでもできる、しかし選ばれてそして神の家族となった者だけができる証しではないかと思うのです。 みことばの約束が間違いなく成就するという信頼の中に生きることこそ、生きた証しではないかと思います。 今日、ごいっしょに聖書から見てまいりましたけれども、この世の取るに足りない者や、見下されている者を選んでくださった方が、今日私たちひとりひとりを招いてくださっております。 どうもありがとうございました。 |