引用聖句:箴言9章1節-6節
昼の二人の兄弟のメッセージ、証しをお聞きしていて、本当に、私たちは一つであるということ、一つだなぁということを思いながら、感謝をして聞かせていただきました。 その中で兄弟が、イエス様はののしられても、ののしり返さず、と言われましたけれども、本当に私たちはののしられると、ののしり返す者。本当にそういうふうに思うのです。 兄弟もそこに焦点を当てて、私たちの現実がそういうものであるということ、本当にわきまえのない者であるということ、そのことを知った上で、イエス様は私たちにひとつひとつお語りになっていると思います。 詩篇の23篇に、先週も納骨のときに、この詩篇の23篇をお読みしましたけれども、このとおりではないかと思います。 詩篇23:1-6
6節にあるように、私のいのちの日の限り、私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。 彼らは私たちの、地上に生きている私たちの心の中で生きているだけではなくて、このみことばのとおりに、本当に生きているのです。気休めではありません。本当に生きておられます。 ごいっしょに、今日はこの事実を考えてみたいと思っているのです。 私たちのいのちの日は、いつまでも続く。これが主なる神のメッセージであります。 この世では、人が死んだ日を命日と呼びます。しかし私は、詩篇23篇の6節にあるように、いのちの日と呼びたいのです。 愛する者の死は、希望とならなければ、おかしいのではないでしょうか。もしそうでなければ、生きている意味、生きている喜びはどこにあるのでしょうか。 聖書のことばを信じる者は、すなわち、主イエス様を信じる者は、天と地がはしごで結ばれていると知るようになります。見えないものにこそ、目を留めるようになります。肝心なことは目に見えないと分かるようになります。 先に召された愛する者は、天国に住んでいると、よく私たちは言い交わしています。しかしそれは、漠然と天国に住んでいると考えているのではないでしょうか。 パウロは手紙にこのように書いたのです。 コリント人への手紙第I、15:19-20
パウロが語ったと同じように、私たちがキリストに単なる希望を置いているだけなら、今日のこの集いは哀れなものになります。 天の御国とはどのようなものか。聖書が告げる天の御国は、私たちが想像している、いわゆる天国とは異なっています。単なる希望をおくところではありません。私たちの望む港そのものであります。 ですから聖書は多くのことばで天の御国を語っているのです。聖書のマタイの福音書では、天の御国を十一の例えで伝えています。それはとっても不思議な例えであります。十一の方向、十一の視点で天の御国が語られているのです。 今日は時間もありませんし、そして、天の御国の全体像をごいっしょにざっと見てみるために、あえて一つ一つは詳しくは申し上げません。 ただ、十一の天の御国とは、一つは13章の24節に、 マタイの福音書13:24
こういう人とあるのです。そして二つ目は、 マタイの福音書13:31
からし種のようなものと書いてあります。そして33節には、 マタイの福音書13:33
マタイの福音書13:44
宝のようなものである。そして45節には、 マタイの福音書13:45
商人とあります。そして六番目に、47節に、 マタイの福音書13:47
そして七番目は、18章の23節に、 マタイの福音書18:23
そして八番目は、20章の1節に、 マタイの福音書20:1
主人のようなものだ。そして九番目には、22章の2節に、 マタイの福音書22:2
王と語っています。そして十番目。25章の1節、 マタイの福音書25:1
不思議なことばで語ります。天の御国は、十人の娘のようだとあるのです。 そして最後に、25章の14節に、旅に出て行く人のようである。 マタイの福音書25:14
こう、十一の例えをもって天の御国をマタイは語りました。家に帰って、一つ一つ味わっていただきたいと思うのです。 要点は、天の御国とは、場所を表わしているというよりも、人格を表わしていると言えます。 すなわち、イエス様ご自身であります。ですから、召された、彼らが天国にいるというのは、主イエス様とひとつになっているということではないかと思うのです。 天国はどのようなところか。聖書にはわずかな描写しかありません。しかし、天の御国、すなわち、主イエス様の人格で聖書は満ち溢れているのです。 ヨハネの福音書1章。ヨハネは最初からそのことを書いています。1章の1節。途中ですけれども。 ヨハネの福音書1:1
そして、4節、 ヨハネの福音書1:4
今日も兄弟が、いのちということについて本当に深く語ってくださいましたけれども、ヨハネは、キリストこそいのちそのものであると告げました。そしてマタイは、この方が天の御国そのものであると伝えたのです。 いのち、天の御国、主イエス・キリスト。一つであります。明らかなことは、召された彼らは、いつまでも主イエス様とともに住んでいる。完全な主のご支配のうちに住んでいる。主のご支配のうちに生きているということではないかと思うのです。 彼らが、先に召された私たちの愛する者たちがどこにいるのか知りたい人は、主イエス様を知ればいいのです。 そこに彼らもいるからであります。ですから天の御国は、もう今から始まっていると言えます。天と地ははしごでつながっているからであります。はしごはイエス様そのものです。 イエス様をよりよく知るということは、はしごを一段、もう一段と、天に向かってのぼって行くようなものであります。はしごとひとつになるということであります。そこには喜びがついてくるのです。その喜びは想像を超えた喜びであります。 パウロの人生もこのようでありました。ピリピ人への手紙の3章の14節に、 ピリピ人への手紙3:14
パウロは、目標を目ざしてはしごをのぼって行きました。イエス様とひとつになって、絡み合うようにして、彼は、目標を目ざして走っていったとあります。 全てのことは主イエス様のうちにある。聖書はこの一つのことを最初から最後まで告げ知らせていると思うのです。 パウロは、また次のように証ししいたしました。コリント人への手紙第Iの1章の30節ですが、 コリント人への手紙第I、1:30
イエス様というものは、神の知恵であるとパウロは語ったのです。そして、また、コロサイ人への手紙の2章の3節。同じパウロがこのように言っています。 コロサイ人への手紙2:3
このキリストのうちに、イエス様のうちに、知恵と、神の知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。イエス様を通してだけ、神を知ることができるということであります。 捜す者だけが、畑に隠された宝を見つけることができる。宝とは、天の御国、主イエス様であります。 心の貧しい者だけが、宝を見つけるようになります。心の貧しい者が、御国を相続するからであります。 聖書は、イエス様が地上に来られるずっと前から、ただ一人の救い主、罪の贖い主が来られると、長い歴史を通して伝えてまいりました。そして、その答えが、丘の上に立てられた十字架であります。犠牲の血です。 いくら考えても、理解し尽すことのできない深い愛そのものであります。 そして今現在、唯一残された問題は、この歴史上の事実が私たち自身のうちにもまこととなること、事実となることであります。それだけが残された問題であります。 3,000年前にすでに証しされた事実、預言されたことがらをごいっしょに最後に考えてみたいと思います。 ソロモンは箴言でこう言いました。 箴言3:13
と、証ししたのです。3章の13節ですけれども。 そしてその後、同じように、先ほど兄弟に読んでいただいた個所、9章の1節から6節までのことばを語りました。もう一度お読みいたしましょうか。 箴言9:1-6
この個所は、私たちを一気に新約の時代、福音書のいくつかの場面を思い起こさせるところであります。知恵とは神であり、主イエス様であります。 知恵は私たちのために自分の家を、すなわち、ぶどう園をお造りになりました。知恵は朝早くぶどう園で働く労務者を捜しに出かけられた主人のようなものであります。 そのぶどう園は、七つの柱が据えられたところであります。「七」という数字が示すように、全く欠けたところのない天の御国、完全な主の支配のあるところであります。 マタイは十一の例えを用いてご自分の家、すなわち、ぶどう園の柱を据えたのです。 しかしヨハネは、例えを一切用いることをせずに、七つの奇蹟をもって、七つのしるしを用いて柱を据えました。天の御国はどういうものか。それはいのちであると、ヨハネはしるしをもって私たちに示してくださいました。 第一のしるしというのは、ガリラヤのカナで示されたのです。ただの水がぶどう酒に変えられました。ヨハネの福音書の最初のしるしは、こういうものでありました。いのちが現われた。 ヨハネが私たちにしるした最初のしるしは、いのちが現われた。主ご自身がいのちであります。永遠のいのちであります。 ヨハネの福音書2:11
水はぶどう酒に変わったのです。いのちが現われました。 第七番目の最後のしるしは、エルサレムに近いベタニヤでしるされました。死んだいのちが、よみがえりのいのちとなったというしるしであります。 ヨハネの福音書11:43-44
最後のしるし、七番目のしるしは、こうして私たちに示されました。 ソロモンが箴言で記したいけにえとは、罪のないご自分をいけにえとして、十字架の上で罪の身代わりとしてほふられたイエス様ご自身であります。 ソロモンは本当に遠い昔に、イエス様の十字架のわざを預言していたと言えます。混ぜ物をしたぶどう酒とは、祝福そのものであります。 ヨハネの福音書の書かれる1,000年ほど前に、混ぜ物をしたぶどう酒という表現が、箴言の9章に出てまいります。 雅歌では、香料を混ぜたぶどう酒という表現が出てきます。贅を尽くした飲み物であります。本当に主の祝福そのものであります。 しかし、あの十字架の日、イエス様が十字架で死なれた日、イエス様のいのちの日、イエス様の命日、いのちの日。その日には、マルコの福音書には没薬を混ぜたぶどう酒が差し出されました。そしてマタイは、苦味を混ぜたぶどう酒が差し出されたと書いてあります。ぶどう酒に混ぜ物がされたのです。 イエス様が十字架についた日、あのゴルゴダの丘の上で、同じように、1,000年前に預言されたとおりに、混ぜ物をしたぶどう酒が差し出されました。 当時、混ぜ物をしたぶどう酒とは、十字架の苦しみを和らげる物として差し出されたと言われています。ところがイエス様は、受け入れてくださいませんでした。 それぞれの福音書が、三つの福音書、マタイとマルコとルカの三つの福音書が、このことを記述しています。混ぜ物をしたぶどう酒をイエスは受けられなかった。最後まで苦しみ抜かれたのです。 十字架の苦しみを和らげる、そのようなぶどう酒を受け入れることはなさいませんでした。 そして、イエス様の十字架の最後の時は次のものでした。ヨハネの福音書19章です。この個所を昼に兄弟がその一部を紹介してくださいましたけれども。 ヨハネの福音書19:30
この時ヨハネだけがこの記述を記しているのです。混ぜ物をしたぶどう酒ではなくて、酸いぶどう酒を、ただ渇きをいやすだけの価値のないぶどう酒を、価値あるものとして、最後の最後に選んでくださいました。 当時、酸いぶどう酒は、渇きをいやす、本当に普通の兵士たちが飲む物だと言われています。 酸いぶどうとは、霊的には腐ったぶどうではないでしょうか。陰険な私たちであります。それを、主ご自身の渇きをいやす飲み物として選んでくださいました。天の御国とは、限りない赦しそのものであります。主イエス様ご自身であります。 詩篇の作者は、彼は赦すから恐れられると言っているのです。 ヨハネの福音書で、イエス様は食卓を整えて、ソロモンが記したように食卓を整えて、サマリヤの女にことづけて、山で告げさせたとヨハネの福音書は記しています。当時、異邦の民と言われていた女性です。 ヨハネの福音書4:19-21
そして34節。 ヨハネの福音書4:34
父なる神のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、イエス様の食物である。身代わりの死であります。 麗しい混ぜ物をしたぶどう酒ではなくて、腐った酸いぶどう酒を受けられることが、主の食物そのものでありました。 そして、「完了した。」と言って、霊をお渡しになったのです。その一つ一つの事実が、ソロモンの箴言を通して、そして1,000年後のヨハネの福音書を通して、私たちに宣べ伝えられています。彼女は、サマリヤの女は、このように告げています。29節に、 ヨハネの福音書4:29
わきまえのない者はだれでもここに来なさいと。すなわち、わきまえないことを捨てて生きよと、知恵なる天の御国そのものなる主イエス様は言われています。 サマリヤの女、小娘を通して私たちに語りかけてくださっています。 ヨハネとソロモンは、約千年の隔たりがあるにも関わらず、同じ主の霊によって養われていたと分かります。ヨハネはこのように証ししました。 ヨハネの手紙第I、5:11
ヨハネの手紙第Iの5章11節に、手紙の最後に、ヨハネは歳を取って、彼の結論としてこのように言いました。 ヨハネの手紙第I、5:11
この方こそ、いのちであります。永遠のいのち、そのものであります。こうしてヨハネは、1,000年前に預言された福音が彼自身のうちに、まこと、事実となったのであります。 同じように、2,000年後の私たちが今日、私たち自身のまことのいのちの日となることができれば、本当に幸いであります。 コリント人への手紙第II、5:17
パウロがコリント人への手紙第IIの5章の17節で手紙に書いたことばです。 コリント人への手紙第II、5:17
古いものは過ぎ去った。最後に、いくつか読んで終わりたいと思いますけれども、最初のみことばは、私の実の父がこの地上を最後にした時に日記に記してあった最後のみことばであります。 彼は一日に一章、必ず読んで、そしてその日心に残ったみことばを一つずつ書き記してまいったようであります。日記はそういう日記でありました。 そして最後の日の日記の、そのみことばは、イザヤ書の4章からのものだったのです。彼のいのちの日のみことば。 イザヤ書4:5-6
そして最後に、娘のいのちの日に与えられたことばは、毎日読んでいる「日々の光」のみことば。これが娘を通して与えられた、いのちの日のみことばであります。 この個所を読んで終わりにいたします。イザヤ書の21章の11節。ここは短いところですけれども。 イザヤ書21:11
その一部であります。 そして、詩篇の130篇の5節、6節です。 詩篇130:5-6
どうもありがとうございました。 |