引用聖句:コリント人への手紙第II、3章2節-3節
地方の集会に集わさせて頂くことは本当に感謝です。また、本当にうれしいことであります。それは、喜びの時に共に喜んで、そして、悲しみの時に共に悲しむという恵みに預かれるからであります。 ローマ人への手紙12:15
先ほど兄弟が語ってくださったように、この御言葉だけでも、喜ぶ者と共に喜ぶことができるというのは、私たちの性質からはできないことです。 泣く者と共に泣くことはいくらかできるかもしれませんが、喜ぶ者と共に喜ぶことは本当に変えられた者だけができる恵みであります。 随分長い間訪問していない地方もあります。そこで、もう昔、お会いした方々のお名前をメモしていたメモを見ては、どうしておられるだろうかと思いをはせることもたびたびありますけれども、先ほどのお証しのように、それは少ない者であります。 そして、今も集っておられるという風の便りを聞くたびに、心がおどります。そして、今は、離れておられるといううわさを聞くと、現在、どのような思いで過ごしておられるのだろうかと心が痛むことがたびたびあります。 群れを離れて行かれた方々と、ほんとうに再び心からひとつになって、共に主を褒め称えることができるようにイエス様の憐れみに、期待せざるを得ません。 今回この西神の地を訪問するにあたって、もう一度心にはいってきた御言葉があります。 テサロニケ人への手紙第I、3:8-11
パウロと当時の兄弟たちは、兄弟姉妹のために生きていたと。あなたがたが、主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちにはいま生き甲斐がありますと書きました。私たちは、あなたがたの顔を見たいと書いたのです。 彼らは、兄弟姉妹達に支えられて生きていたとも言えます。この御言葉を再び目にして、恥じ入るばかりであります。今日こうして集わせて頂いて、自分自身の信仰の不足を兄弟姉妹に補って頂きたいと思います。 地方の集会のために、私たち兄弟が祈っていると言いながら本当の意味で御心を行うというその一点に、本当に悔い改めさせられています。 兄弟姉妹が、主にあって堅く立っていてくれることが生き甲斐。パウロのようにそれが生き甲斐であれば、私たちは昼も夜も熱心に祈らなければおかしいと、この手紙を見て本当に教えられます。 昼も夜も熱心に、熱心に祈っています。パウロもそうでした。あながたの顔を見たい。パウロが本当に心から溢れ出るそのような思いで綴った手紙であります。 御言葉を実行したい。これが元旦に心に触れた御言葉です。 新しい思いで、主が喜んでくださることは、いったいなんであるかということについて、考えてみたいと思います。 パウロが生涯持ち続けた生きがいを、自分も生きがいとして、心に保ち続けたいという願い、求めが、その答えではないかと思うのです。ここに目標を定めて生きるかどうかが、すべてを決めるのではないでしょうか。パウロは、コリントの教会の兄弟姉妹に次のように書きました。 コリント人への手紙第II、3:2-3
私たちの推薦状はあなたですと、あのコリントの兄弟姉妹に書き送りました。あなたがたがキリストの手紙。主にあって集っている私たちが、互いにこのように言い合えれば、本当に幸いです。 今日も兄弟が礼拝の時に引用してくださった御言葉も、このようなひとつひとつの御言葉が、私たちの心の内側を探って、そして本当に御言葉を実行する者であるか。御言葉から溢れ出る喜びを与えられている者であるか。そのような思いで御言葉を頂くことができれば、幸いです。 そしてもし御言葉の通りでなければ、イエス様を中心とした主にある群れとはいうことができません。主の御心、すなわちイエス様が喜んでくださることを私たちはもうすでに、御言葉を通して受け取っています。 しかしわたしたちは、いまだに御言葉を文字として受け取っていることはないでしょうか。、パウロはコリントの人々に、 コリント人への手紙第II、3:3
墨によって書かれたもの、石の板に書かれたものとして留まってはならないと書きました。 パウロは、どうしてもこの手紙を書かなければならなかったのです。墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれた手紙ですとコリントの人々に語りました。 当時のコリントの兄弟姉妹は、多くの問題があった兄弟姉妹でした。聖書の中でもっとも不品行やあらゆる問題が明らかにされていた地方でした。 その兄弟姉妹に向かって、あなたがたはキリストの手紙です。あなたがたは、わたしの推薦状そのものですと手紙を書きつづりました。 石の板ではなく人の心の板に書かれたキリストの手紙である。パウロはそのように書きました。 私たちは、救われて年月がたって参りますけれども、しかしまだ自分の感情にあった御言葉だけを大切にしている者ではないかと思うのです。 やさしく語ってくれる御言葉だけをより分けて懐に入れておくのが、私たちの生まれつきの性質です。 パウロは、愛する弟子であるテモテに次のように語っています。 テモテへの手紙第II、4:3
私たちに都合の良い、耳障りの良い、そのような話しをしてくれる教師を呼び集める。このように当時の風潮を記しています。そのような時代になる。すでにもう2,000年前に記されています。 主なる神は、目に見えない出来事も含めても、ひとつひとつの出来事を通して、生ける神の御霊によって書かれた御言葉に立ち返るように導いてくださっています。もうこれは、はっきりとした事実であります。 私たちは、よく、「導いてください。」「主よ、導いてください。」と、祈りますけれども、もうすでに導いてくださっています。これが、聖書を読むと明らかになっています。今日も賛美しました。戸の外に立って叩くという賛美を致しました。 ヨハネの黙示録3:20
もう、何回も聞かれた御言葉ではないかと思います。賛美でも聞き、御言葉でも聞き、もう数えることができないほど聞かれた御言葉だと思います。 しかし現在進行形で、戸の外に立って叩いてる。今も叩いていると、御言葉は語っています。 必要なことは、聖書で明らかにされていることは、彼の声を心の耳で聞く、そして何度も何度も繰り返し聞かせられている。そして、戸口まで歩いていって、戸を開けることである。 ひとつひとつ味わうように御言葉を読むと、心の耳で聞く、そして立つこと、戸口まで歩いていくこと、そして戸を開けること。ひとつひとつの行動が明らかになるためです。 そうすれば、私はあなたのところにはいって食事をし、あなたも私と共に食事をする。そう約束されています。短い御言葉ですけれども、その中に多くの情報がはいっています。 聞いて、立って歩いて、戸を開けて、そうすると私はあなたの所にはいって、あなたと共に食事をして、あなたも私と共に食事をする。これが約束です、そしてひとつひとつが、聖書のすべてを通して、具体的な証しとして、事実として伝えれているということです。 ヨハネの黙示録3:21-22
勝利を得る者。ここに戦いがあるから、勝利という言葉が使われています。耳で聞いて立って歩いて戸を開ける。そして、勝利を得るものと勝利を得ることのできない者。 誘惑も落胆もあります。しかし十字架のイエス様を見上げると、道が備えれているのがわかると聖書は約束します。 勝利を得る者となりなさい。自分に向けられて語れていることだと信じますか。聖書は私たちひとりひとりに聞いています。 このひとつひとつの行程を意識して、実行する時に、彼の声を聞いて導かれるということはどういうことなのか。体験的に知るようになるのではないかと思います。 御言葉を実行するというひとつのフレーズは、どういうことなのか知るようになります。 イザヤ書30:21
この通り導かれるようになります。 体験的に知るということは、私たちが聞いて、立って歩いて、戸を開けて主を受け入れるとき、意識して聞いて、意識して立って、意識して歩いて、意識して戸を開けて、そのときイザヤが見た道を私たちも与えられるようになります。 私が心から慰められ、何度も勇気が与えられていること、間違いないと確信していることがあります。 それは何度か申し上げたことがあると思いますが、自分自身が、私自身が、パウロとどんなにレベルが違っていたとしても、彼に与えられた恵み、喜びと全く同じ大きさの恵み、喜び、後々の報酬。それが、自分にも与えられないはずはないという。 どんなにレベルが違っていても同じ恵みが与えられるという確信であります。 もちろん何もしないで与えられるという意味ではありません。救いは、救われることは、何もしないで一方的に与えられますけども、救われた後の、これからは一致して的をはずすことなく、与えらた賜物を使い切ることだけを主に願って歩めば、必ずパウロが手紙に書いた通りの喜びが与えられる。 これがパウロが手紙を書いた理由のひとつです。道が備えられている。パウロの手紙にひとつの道が明らかにされている。 意識して的をはずさず、一人一人に与えられたそれぞれの賜物を使い切ることだけを願うなら...これが、密かにしまっている確信。 ずうずうしいかもしれません。しかし、聖書を読むたびに、それは、誰にでも開かれている門です。 これは御言葉が保証していること。勝手に思っていることではなくて御言葉が保証していること。その御言葉とは、マタイの福音書25章。聖書を開いて、耳を開いて、主の言葉を聞く。何度も何度も同じ御言葉を心の奥深くに、備えられるまで、聞き続けるということではないでしょうか。 マタイの福音書25:20-23
5タラントの賜物の人も、2タラントの賜物の人も同じ主人の喜びを共に喜ぶ者となりました。しかしその後に記されている通り、1タラントの人は自分に与えられている賜物をどのように用いれば良いのかわからなかったのです。 御言葉を実行しなさい。 マタイの福音書25:24-27
もし、1タラントを預かった人が心から御心を知りたいと願っていたら、主人の言葉を思い起こしたでしょう。そして、主人の御言葉に導かれて、もう1タラント儲けていたに違いありません。 すなわち2タラントの人の喜びが、この人にも与えられていたでしょう。その道が備えられていたでしょう。 銀行に預けておくべきだったとひとつの道が書いてありますけれども、主人のひとつひとつの言葉に注意深く耳を傾け、そのとおりに実行していれば、必ず同じ喜びが与えられたはずであります。ですから、自分がどんなにレベルが低くても望みがあるのです。 ベテスダの池のほとりで38年間伏せっていた病人にイエス様が言われた言葉は、「起きて床を取り上げて歩きなさい。」 すると、その人はすぐに治って床を取り上げて帰った。 ヨハネの福音書5:5-9
そのイエス様の言葉が、今聞こえる人は幸いです。ですから望みがあるんですね。 救われた者の喜びは、救われたときは一方的にイエス様から与えられます。救われた者は、意識して、主の声を聞くことが始まりであるとパウロは記しています。 その御言葉が示す道を私たちの生活の中に、私たちの人生に適応しようと、パウロもヨハネもペテロも、手紙を書いたのです。 御言葉は読むためにあるのではなくて、生活の中に、人生の中にその御言葉を自分のものとして...、 御言葉を実行するとは、その喜びの知らせを聞いたならば、すぐに立って戸口まで歩いていって、戸を開ける。 ザアカイのようにイエス様を見るために先頭に走り出て、木の上に登った。ルカはその光景を見て、聖書に記したのです。 ルカの福音書19:3-6
このことはもう前から決めておられた。泊まることにしておられた。もう決めておられたこと、その通り実行する人の家に今日、泊まる所がある。聖書はこう語っています。 イエス様を見るために、イエス様の声を聞くために、前方に走り出て、立って歩いて、木の上に登った。この通り実行する人の家に今日、泊まろう。 ですから、今日は、私たちの家に泊まることになっている日である。今日、御言葉をからし種ほどのちっぽけな信仰を持って自分にあるだけのからし種ほどの信仰を持って、それだけでいい。 その信仰を持って、自らの生活の中に、結びつけたいと、心から願い求める人の家に、きょう、泊まることにしてある。それが、はっきりと聖書に約束されています。これが、御言葉を通して与えられた約束であります。 主が約束してくださったこの喜びを心の蔵にたくわえ、毎日その蔵から取り出すことができるように願い続けること。その人はパウロの喜びを共に喜ぶ者となる。 主の喜びを共に喜んでくださいと言われた通り、パウロも主の喜びを蔵にたくわえました。、そのパウロの喜びを私たちも共に頂くことができる。 ピリピ人への手紙4:4
そして、 ピリピ人への手紙4:18
これが、パウロの喜びです。 最近ひとりの兄弟が、今日申し上げたことと同じような思いを語ってくださったので、御言葉とともに紹介して終わりにしたいと思います。兄弟が語ってくださった言葉のひとつはこういうものなのです。 「神の友であるモーゼ、神の御心にかなうダビデ、力に満ちた預言者エリヤに臨んだのと同じ御霊が今日、ひとりひとりに内住している。 御霊の賜物により、現代のすべての本当のキリスト者は、旧約聖書において主に特別に選び分かたれた主の器と同じ水準に、同じ立場に置かれる。」 最後にピリピ人への手紙の4章を開いて終わりたいと思います。 ピリピ人への手紙4:1、4、20-23
|