今日は、イエス様とはどのようなお方であるのか?そして、私たちに何を望んでおられるのかということについて、ご一緒に考えてみたいと思います。 私自身は、本当の意味でイエス様に出会うまで、神がいるかいないか、あるいは科学は聖書の記述を否定しているのではないかということについて、何年も何年も自分なりに調べてまいりました。結論は、神を否定することはできないということでありました。 言葉を変えて言えば、神が存在すると考えたほうが合理的であるという結論に私自身は至ったのであります。 聖書は伝道者の書12章の13節でつぎのように言っています。 伝道者の書12:13
私たちの住むこの世の中では多くの人が神はいないと言っています。あるいは聖書を批判する人もいます。しかし、そのような人の多くは聖書を徹底して調べつくしたことのない人のように思えるのですね。 ほんとうに、聖書の言葉を真剣に、そして偏見なく調べた人には、聖書と主イエス様を否定する決意を持つことは本当に困難なことであります。 私自身は、この聖書と主イエス様を捨て去る決心をすることは結局できなかったのです。これは、20代の後半から30代の前半にかけてのことでありましたが、しかしですね、聖書の真実性を調べ尽くすだけで、まことの神である主イエス様を信じることができるようになるわけではありません。 真理そのものである主なる神は、知識とは別の道で、別の方法で私たちに語りかけて下さっていると思います。別の道と言うのは、私たちの人生の歩みの中で彼に出会うことによってであります。 主イエス様はひとりひとりに個人的に語りかけ、声をかけ、ひとりひとり救いへと導いてくださっているように思います。結局、主イエス様はどのような方なのか、この一点にかかっていると言っても過言ではないと思うのです。 「私はいかに生くべきか?」この問いかけは、よく聞く言葉ですけども、そうではないと思うのです。 私はいかに生きるべきかではなく、彼は、何者なのか?イエス様はどう言うお方なのか?これこそ人生の大問題であり、私達が生かされている意味そのものと言えるのではないかと思います。 今日、特に若い方々にイエス様に出会って欲しいと思っています。青年らしい正義感と、世の不純、不公平に悩み苦しんでいる若い魂が真実で出会って欲しいと思っています。 そして、また年配の人にも、主イエス様に出会って欲しいと思っています。理不尽な世の中で精一杯生きて来られた方々に、イエス様をご紹介したいと思っています。この世のもので満たされない思いを抱いている方にも本当のものを、お伝えできれば幸いです。 私たちの心が、どのような状態であっても、そのすべてを一切を知ってくださっている方がおられるということ、実は、私たちの考えがどうであるこうであると全く関係がなく、真理であります。私達が、知らなくても、彼は知っておられると聖書は宣言しています。 私達が、意識していなくてもこの方に出会うために今日、私達は集められたのではないかと思うのです。 そして、この方と本当に親しく交わりが与えられるために、そして、もっともっと、彼の事をよく知るために集められているのではないでしょうか。これ以上、大切な価値のあることが、ほかにはないと確信するようになりました。 聖書には様々な状態の人々が紹介されています。本日は3人の人を通して、イエス様はどのような方であるかということ、イエス様のご人格をご紹介できれば思います。 「3つの心を顧みてくださる主」と言うテーマで考えてみたいと思います。 まず第一に、主に向かって大きな叫び声を上げるときであります。 そして、第二番目に、そっと主に触るとき。 そして、最後に、ただ黙って何もできないでいるその時。 この3つの心について考えてみたいと思います。 最初に、マルコの福音書10章の46節から52節。この盲人の乞食の叫びの奥に、深い絶望と、最後の、最後の望みがこの箇所に凝縮しているように思います。 マルコの福音書10:46-52
盲人の乞食。これでもかと言う表現であります。盲人であり乞食のこの人が、祝福される条件であります。これが、聖書が、私たちに示している祝福の条件であります。 主の前に、盲人だけが祝福を受ける。そういうことであります。主の前に、乞食だけが祝福を受けます。これが、主の定めであります。 私達が今日出会う方の思い、ご人格の一端ではないかと思います。単なる言葉だけではありません。この盲人の乞食にあった出来事が、この御言葉が、私たちの人生に深く関わるようになる時に喜びの訪れがやって参ります。 イエス様の声が心にその時、響いて来るようになるとこの箇所を見てわかります。私に何をして欲しいのかと言うイエス様の声です。子供のように素直に、目が見えるようになりたいと心から叫ぶ人は幸いです。 私は満たされいないと心の底から叫ぶ人は、幸いであります。 本当のものに出会いたいと願う人は幸いであります。そしてあなたが、イエス様が本物なら信じる思いを与えられたいと、導かれ祈ることのできる人は幸いであります。 聖書はバルテマイの記事を通して、主の前に盲人のように乞食のように叫ぶことだけが要求されている。そのほかの何一つ、要求されていないとわかります。 聖書では目の見えない人の記事がたくさん載っています。ヨハネの福音書9章では、私がその方を信じることができますようにと、心を導かれた盲人が出て参ります。 今日、私たちも同じように、私がその方を信じることができますようにと心から祈ることができましたら、本当に幸いです。 次にマタイの福音書の9章の20節から22節 マタイの福音書9:20-22
福音書では3つの福音書に記されている記事であります。そして、マルコの福音書が短くもっとも凝縮した形で伝えてくれています。 マルコの福音書では、「着物にさわった」とだけ書いてあります。しかし、マタイの福音書とルカの福音書は、「着物のふさにさわった」と記しています。非常に印象深い言葉です。「着物のふさ」に彼女はさわったのです。 12年の間、長血を患っていた女性であります。誰にも直してもらえなかった女性であります。この人が、イエス様の後ろにそっと近寄って、着物ふさに、着物のはしのはしに、そっとさわったのであります。 この箇所は、いつも慰められる箇所であります。そして、これは私自身のことですが、この箇所を読むたびにひとつの詩を思い出すのです。何度も、地方に行った時に、この詩をご紹介したことがあります。 八木重吉「ほんとうのもの」 どうして、わからなくなると さびしくてしかたなくなると さびしさの中へ手のひらをいれ ほんとうのものにそっとさわってみたくなる。 このような短い詩でありますけど、八木重吉兄は、長血を患っていた女性が、イエス様の着物のふさをそっとさわったのを、病床の中から、はるかに思い起こしてこの詩を歌ったのではなかったかと思います。 彼もこの女性も、触ることでもできればきっと治ると心のうちで考えていたのです。 このようなとき、イエス様は必ずこの長血の女性に振り向いてくださったように、私達にも必ず振り向いてくださいます。 「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを治したのです。」この声が、必ず聞こえてくる主の声であります。 イエス様が要求されている信仰と言うのは、これだけであります。 この箇所で、イエス様は私たちに「信仰」ということを教えてくださっています。心のうちできっと治る、すなわちイエス様に不可能なことはないと考えていることではないかと思うのです。 さわってみることであります。考えるだけではなくて、さわってみることであります。そっとでいいんです。着物のふさでいいんです。 聖書をそっと開いてみることであります。御言葉にそっと触れてみることであります。からし種ほどの信仰でいいと言われていることであります。これが、山をも動かすほどの信仰であります。信頼、そのものであります。 娘でなくてもいいんです。年をとっても、どんなに年をとっても結果は同じであります。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰が、あなたを治したのです。」 これが、イエス様が私達ひとりひとりにかけてくださるお声であります。 3番目に、ただ黙って何もできないでいる心についてみてみましょう。 ヨハネの福音書5:2-9
ただ、黙って、何もできないでいる時であります。 長い間、臥せっている人は、ひとことも言わないのに、また何もしないのに、イエス様は彼に声をかけてくださいました。「よくなりたいか?」と言う声であります。 イエス様は、私たちの思いをすべてご存知であります。言葉で、うまく言えなくても大丈夫であります。わかっておられるのです。ただ、イエス様の声を聞いてくださいと聖書全編が叫んでいるように思います。 聞き耳をようく立てて、ようく聞きましょう。「起きて、床をとりあげて歩きなさい。」、そう言う声であります。 今日も、今も、御言葉がこのように語りかけています。38年間、立つことのできなかった人がこの声に聞き従いました。床を取り上げて、歩き出したのです。 主が、イエス様が命令されているのは、人には不可能と思われていることであります。自分のこれまでの経験だけに頼らずに起きて歩こうと御声に従う勇気。志が与えられるようになると、聖書は、私たちに本当のに心の底から溢れ出る勇気を志を与えてくださいます。 パウロを通して、語られた主の御声は次のようなものであります。 ピリピ人への手紙2:13
ピリピ人への手紙4:1
ピリピ人への手紙4:4-7
聖書の中から3箇所だけごいっしょに見て参りましたけれども、イエス様の一部をご紹介したにすぎません。しかし、私たちもこの方によって彼らと3人の人たちと同じように取り扱われています。 この方を、声を知っている人は、彼の羊であるとヨハネは語りました。 私も長い間、御言葉を聞くようになり、イエス様と個人的に出会うようになって、もはやこの方の人格を疑うことができません。 3人のように、本当に自分がどうしようもなくなった時に、彼の声が御言葉を通して響いて参ります。 そのような人格を持ったお方を、もはや疑うことができない。そのような思いがあります。 今日、共に集ってくださった方々に、もう一度、申し上げたいと思っていることはつぎの事柄であります。 主に叫ぶときも、主に人知れず触るときも、もちろん黙って沈黙しているときも、共に歩んでくださる方がおられると言うことであります。 失望とあきらめが、そこにある時こそ、彼が声をかけてくださいます。私達自身に希望のひとかけらもないとき、声をかけてくださいます。 「私に、何をして欲しいのか。しっかりしなさい。よくなりたいか?」 ひとりひとりに個人的にこのように声をかけてくださる方であります。今日も、今も、声をかけておられます。 出エジプト記33:14
「わたし自身がいっしょに行って、休ませよう。」、そう声をかけてくださる。本当の救い主であり、助け主であります。 ですから、私達がどのような状況であっても喜ぶ根拠があります。 いい加減な書物ではありません。イエス様が復活なさったときに500人の証人がいたと記されているそのような書物であります。 まだその当時、イエス様が葬られ甦られたときに、生き残った人がたくさんいたと書かれている。そのような、はっきりした証拠のある書物であります。 そして、この書物全体が、ひとりの人のご人格をはっきりと、私たちに示してくださっており、そして、この人格と私達が、ひとつひとつの生活を通して、歩みを通して、、交わりを通して、本当に慰められ志を与えられ、勇気を与えられています。 パウロは、「わたしは、本当にみじめな人間です。」主の前に乞食同然ですと、証ししています。 ローマ人への手紙7:24-25
パウロもこの方の故に、主イエス様の故に、彼の故に、ただ神に感謝するようになったと告白しています。この方の故にであります。 ここに私達が喜ぶ根拠があります。この方が罪ある私たちの代わりに死んで下さったからであります。この方が、わたしたちの代わりに葬られた方であります。ヨハネはここに愛があると語っています。 この方が私たちのために三日目に甦られた復活された方であります。そして、このイエス様がご自身で再び来られると約束されたその方であります。 どうかおひとりおひとりが、主イエス様と個人的に交わりをお持ちになって、彼の声を、イエス様の声を静かに聴こうと志を持つことができますように、心からお祈り申し上げます。 最後に、イエス様の声を共に聞いて終わりましょう。 サムエル記第I、25:29
わたしたちは、ひとりひとり、主のいのちの袋に、大切に大切にしまわれているのです。 ありがとうございました。 |