引用聖句:ヨブ記2章1節-6節
最近の新聞のことですけども、七月の新聞であったと思います。側に復興した奥尻島の写真が載っていたんですね。青内地区の全貌がわかる航空写真ではないかと思うんですけども、ちょうど十年前の夏に地震と津波と、そしてその後に起こった火事で、一瞬に二百人以上の人たちと、町と一瞬にして本当に一切がなくなった、その場所の写真でありました。 ぼくは丁度その十年前の夏に、これは七月に起こりましたけれども、その後八月に入ってすぐ、奥尻島に仕事で派遣されました。一面焼け野原だったんですね。瓦礫の山。そして見渡す限り何もないんですね。そこの真ん中に立ったときに不思議な思いにおおわれました。 丁度、焼け跡の向こう側に水平線が見えるんですね。そしてそこに大きな、本当に大きな夕日が橙色で、真ん丸い大きな夕日が静かに静かにその水平線の中に沈んでいったんですね。それは瓦礫の、その焼け跡のその向こう側の出来事だったんです。それは今でも胸の奥に焼きついている光景であります。 少し前に、荒れ狂う嵐の中を人々が逃げ惑った、そういう様子などまったく何もなかったように、大きな太陽が沈んでいく様が不思議な光景でありました。その時に突如、心の中に思わされた思いというのは、神がおられるという非常にインパクトのある思いだったんですね。一切を支配しておられる方がいる。 それはちょっと言葉で言い表わせませんけれども、少し前ここで起こった出来事とまったく関係ないように、それを何知らぬよう、太陽が沈んでいく様を見たときに、ぼく自身の心の中に浮かんだ思いであります。 有無を言わさない、圧倒的な厳しさがありました。そしてそれと同時にすべてを見ておられる方がいるということ。こういう状態であっても、不公平なことはなさらない方がおられる。そして今、理由はわかりませんけれども、必ずそこには意味があるに違いない。 これは、自分の信じてきたものが何であったか、そのことと重なって思わされたことだと思います。そこには月並みな言葉で言い表わせない、厳しさとそして穏やかさがあったのを覚えています。 そのとき以来十年になりますけども、ニュースを見る度に一つのみことばを思い起こすようになりました。それは詩篇の104篇ですね。 詩篇の104:9
聖書は、このような自然を介して私たちが帰る所を示しています。人は帰る所を知らないのに、自然を通して、神は私たちに帰る所を知らしておられる。このみことばは、夕日を見る度に思い起こすみことばとなりました。 奥尻から帰ってしばらくしたときに、地方の集いに伺いました。そして天上の会議というタイトルでメッセージをさせていただいたんですね。丁度十年前であります。 それは、理由もないのに何故このようなことが起こるのかということを、その島に行った後にずっと考えていたからであります。そしてその思いを整理してみたいと、そのように思わされて「天上の会議」というテーマでメッセージをさせていただいたんですね。 丁度十年が経ちました。その日メッセージを聞いてくださった地方の兄弟は、今全身を蝕む癌と闘っておられます。そして語った私は、昨年娘をとられました。十年前とまったく同じテーマですけれども、「天上の会議」というタイトルをつけてみことばを味わってみたいと思っています。 ヨブ記9:17
神はあらしをもって私を打ち砕く。理由もないのに私の傷を増し加える。十年前に深く思いを与えられた聖書の言葉であります。このヨブの叫びは私たちの叫びと言ってもいいのではないかと思います。 神を信じる者にとっても、信じない者にとっても、理由もないのに、あるいは何故このようなことが起きたのかという思いがあらゆる局面で繰り返し繰り返し襲ってきます。そしてそれは、今からも、何度も遭遇するようになると思います。 ヨブにふりかかった災いというのは、次のようなものだったんですね。よくご存知の通りでございます。 彼は十人の子どものいのちを一瞬にして失いました。そしてその日、足の裏から頭の頂まで悪性の腫物で打たれたとあります。そしてそのとき、唯一地上で慰めを受けるべき妻や、親友たちからさげすまれるようになりました。そして一人で悩むようになったんですね。 一言で言うと、彼は自分が所有していた幸いと名のつく一切のものをすべてのものを取り去られたと言えます。ヨブの悩みの原因について、また理由について聖書は語っています。先ほど読んでいただいたヨブ記の2章の3節であります。 ヨブ記2:3
これが聖書の説明であります。何の理由もないのに彼を滅ぼそうとした。聖書はヨブ自身に理由があったのではなくて、また原因があったのではないと言っています。サタンが何の理由もないのに滅ぼそうとした。こう語っているんですね。 まったく潔白で、神を恐れ、悪から遠ざかっていた人に何の理由もないのに、考えられる限りの嵐、嘆きの現実が襲ってきたと聖書は語っています。人として、まったく非の打ちどころがない人にも、このような状態が訪れたと言えます。これが聖書が告げている事実であります。 聖書の字づらだけをたどっても理解出来ません。私たちの感情をはるかに超えた厳粛な天上の会議で決定された事実であると、聖書はヨブ記を通してこの全編を通して語っています。 今日ご一緒に考えてみたいと思っているのは、天上で会議が開かれているという一点であります。私たちにふりかかる嵐をめぐって、天上で会議が開かれている。ヨブ記の1章、2章にその会議の模様が詳しく書かれてます。あとで見ていただきたいと思いますが、第一回目はヨブ記1章の6節から12節。そして二回目は、今読んでいただいた2章の1節から6節であります。 読んでいただいたところは、ヨブの十人の子どもたちが一瞬にしてとられたのちに開かれた会議であります。1節をちょっと見ましょうか。 ヨブ記2:1
これが会議の始めです。ヨブが滅ぼされるべき何の理由もないのに、サタンはヨブを滅ぼそうと天上の会議で訴えた。これが隠された事実であります。サタンは人を落とし入れようとして、主なる神に訴え続けています。 私たちの心が責められるということがあると思うんですね。心が責められるというのは、この訴えのためではないかと思います。サタンはあらゆる手を使って、私たちから望みを取り去り、心を萎えさせようとします。これがサタンの目的であり、ヨブを訴えた理由であります。主なる神から私たちを離れさせようともくろんでいます。 パウロは、エペソ人への手紙の6章の12節でこのように語っています。 エペソ人への手紙6:12
サタンとか、悪魔という言葉は、初めて聞く方にとっては理解し難いものだと思います。そしてまた、ある意味では象徴的に聞こえる言葉かもしれません。 しかし聖書が告げているその実態は、サタンの実態は私たちがイメージしているものと大いに異なっています。聖書ははっきりとサタンについて説明しています。 ヨハネの黙示録12:10
告発する者、訴える者、サタンとはこのような霊的な存在であります。 天上の会議とは霊的な会議であります。私たちは決して立ち入ることのできない会議であります。そしてヨブも私たちも、この会議で何が決議されたか、決定されたか事前に知ることはできません。ヨブは3章の20節でこのように語っています。 ヨブ記3:20-21
ヨブが経験した悩み、苦しみというのがこういうものであります。死を待ち望んでも、死は来ない。ヨブは自分の義の中で、聖書の告げる罪の中で次第にもがくようになっていきました。そのとき彼は初めて、天上で会議がもたらされてるということを知るようになります。 ヨブ記15:8
ヨブが神に訴え始めたとき、声が聞こえるようになりました。あなたは神の会議にあずかったことがあるのかということであります。エレミヤも同じように、あるとき同じ声を聞いたとあります。 エレミヤ書23:18
ひとりひとり、私たちは自分の思いを主に訴え始めたときに声を聞くようになります。あなたは神の会議にあずかり、あなたは知恵をひとり占めにしているのか。いったいだれが、主の会議に連なり、主のことばを見聞きしたか。これが神の答えであります。 天上で会議が開かれていると、ヨブは悩みの中で次第に導かれるようになりました。出席したことのない天上の会議の内容を、彼は嵐の中で知るようになりました。それはひとりの人格を通して知るようになりました。 ヨブもエレミヤも、そしてパウロも暗やみの中に脱出の道が備えられているという、新約聖書にあるみことば通り導かれているのを見ることができます。 ヨブ記の16章の19節。ヨブが天上で会議が開かれている、そこに自分は参列したことがないとはっきり知るようになったときに、このようなみことばが与えられています。 ヨブ記16:19-21
旧約の時代に、ひとりの悩むヨブは主に出会うようになりました、人の子に出会うようになりました、贖ってくださる方に出会うようになりました。 その会議は、神を愛する人々のためには神がすべてのことを働かせて益としてくださるという、パウロがローマ人の手紙の8章の28節で語った通りの、そのような道に沿ったものであったと、ヨブも知るようになりました。 サタンの訴えさえも、悪魔の訴えそのものさえも、私たちの霊的な祝福のために用いられる会議であると、ヨブ記全編は私たちに語っています。すべてのことを益としてくださる会議であります。 始めは一切隠されている会議であります。十人の子どもが一瞬にして取られ、そして足の先から頭の頂まで腫物でおおわれたヨブにとって、すべてのことを益としてくださるという導きを得るようになりました。 パウロも同じであります。ヨブと同じ悩みの道を通してイエス様に出会って、天上の会議の内容を知るようになりました。主なる神に連なる者はみな、この道を通って導かれていったんですね。聖書はすべてそのように書いてます。 ヘブル人への手紙の11章も全部そうですね。この道を通っていったと聖書は書いています。私たちはその子孫であります。 ヨブ記36:15
ひとつひとつ、小道が用意されています。このみことばはただ耳障りがいいから価値があるのではありません。悩んでいるから意味があります。悩んでない者にとって、このみことばは意味をなしません。神は悩んでいる者をその悩みの中で助け出し、そのしいたげの中で彼らの耳を開かれる。短いこのみことばの中に一切が濃縮しております。 ダビデも同じ道をいきました。ダビデはこのように読んだ歌があります。 詩篇25:8-10
主人と息子に裏切られたダビデの賛美の歌であります。みずから姦淫の罪を犯したダビデの祈りであります。 以前僕自身、ヨブ記にはひとつの疑問がありました。疑問というよりも、何かしっくりこないと言った方がいい思いだったんですね。それは、神自身が彼のように、ヨブのように潔白で正しくて、神を恐れ、悪から遠ざかっていると認めているその人を、神自身が認めているその人を、そのような人をサタンのそそのかしにのって、十人の子どもたちを殺すという、そのようなことはあまりにも現実離れしているのではないか。どういうことなのだろうか。 そして死んだ子どもたちは一体どうなったんだろうか。このヨブ記の物語を目にしたときに、あらゆる色々な疑問がわいてまいりました。 しかし自分自身が、彼の嵐に比較すれば小さな嵐に投げ込まれたときに、ヨブ記は新たにイエス様と、主と出会う個人的なメッセージとなります。義人ヨブの中に、正しいヨブの中に、罪人ヨブを発見するときに、私たちは自分を義とする罪の深さ、その根強さ、それを心に焼き付けられるようになります。そして、神がどうしてそのことを忌み嫌われるのか、その理由がわかるようになります。 自分を正しいとする心は、死をもってしか解決できないほど根強いものであること、それを知らされるようになります。ヨブとともに憤り、彼とともに叫び、そしてついにはヨブとともに大きな喜びを心に与えられるようになります。 ヨブ記とはそのような箇所であります。ヨブに与えられた祝福というのは、絶対的な神の権威の前に頭を垂れることであったと言えます。 天上の会議の結果、理由もないのに嵐が与えられ、そして嵐ののちに望む港に導き入れられたヨブと同じように、私たちも嵐の真ん中に小道が備えられています。それは思いもよらなかった道であります。 自分の義、すなわち自分を正しいとする道から解放される道であります。神の支配につながる道であります。それは初め、まったく脈絡のない、そのような道であります。 自分の内側につながっている道と、言っていいかもしれません。自分が悪者であることを心から感謝できる、そのような道でもあります。悪者の心を自分の心の実態が明らかにされて、その悪者の心をキリストの心で覆い隠してくださる方と出会う道であります。 ヨブ記は、ひとつひとつ進むにつれてそのことが明らかにされ、そして道が備えられてることがわかる箇所であります。言葉で聞いていた祝福を、事実として受けるべき時が来たとわかります。こうしてヨブもエレミヤもダビデもパウロも、そして私たちも、理由もないのに吹き荒れた嵐は主にあって意味を持つようになります。 天上の会議は、今日も開かれているに違いありません。会議の本当の目的は喜びの訪れであります。そしてその発端は、サタンのささやき、サタンの訴えから始まるそのような会議であります。しかしそれさえも主は支配されており、そしてその結果私たちは、彼と出会うようになります。それは、私たちが握っているものを手放す時、彼と出会うようになります。 天上の会議を終えるにあたって、どうしても触れなければならないことがあります。それは先に眠った者たちのことを、主ご自身から直接聞いておかなければなりません。 それは、私たちが何度も耳で聞いて、また目で見ているテサロニケ人への手紙第Iにあります。 テサロニケ人への手紙第I、4:13-18
このみことばから、僕はこう考えています。天に召された日がその人にとって再臨の日、喜びの日であるということであります。なぜなら、キリストの再臨のとき、キリストに属していることが確定された日と言えるからであります。 ですから、先に召された兄弟姉妹は、キリストにあって再臨を先取りしていると言ってもいいのではないかと思うんですね。 私たちもこのみことばを通して、天に召される日と、再臨のどちらが早くても喜べるのではないかと思います。同じ期待と主に対する恐れをもって。 最近特に思うんですね。天に召される日、それは再臨の日、喜びの日。ですから召される日と、再臨の日を区別する必要はないなあとよく思います。「然り、わたしは、すぐに来る。アーメン。主イエスよ。来てください。」、これが天上の会議を締めくくる決議文ではないかと思うんですね。 十年前に、嵐が吹き荒れた島で、神の許された現実の厳しさに圧倒されました。しかしみことばを通して、その神の支配される厳粛さの中で、厳しさに連なるまことの幸いと言いますか、祝福・恵みを望む喜びも与えられてまいりました。 しかし、そのまま望みを与えられながらも、ヨブが受けた悩みの大きさ、すなわち主イエス様が受けられた悩みの大きさ。ヨブ記というのは、そういうことでもあると思うんですね。 ヨブ記を通して、主イエス様が受けられた悩みの大きさ、そしてその栄光の大きさ、それは耳で聞いていただけでありました。 十年間を振り返って、兄弟姉妹には知っていただきたいことは、理由も無く決定されたかに見えるひとりひとりの嵐は、まことの理由があって、天上の会議で許された結果であるということであります。 それはみことばのうちに隠された真実であります。感情の嵐を鎮めるのはみことばしかありません。嵐の中に道があることを知るのもみことばによってであります。そして、沈む寸前の嵐の中にあって、そのみことばがからし種ほどの信仰によって結び付けられるとき、私たちは、みことばは真実であったと確信するようになります。 確信するということはよく使われますけども、確信するというのは、いつでも取り出せることができるということではないかと思うんですね。必要なときに、いつでも取り出せる。 福音書を通して、確信ということを考えてみると、鳥に取られないように、道端に落ちた種が鳥に取られないように、宝として知恵をもちいて隠しておくことではないかと思うんですね。その時々に、必要な時に、いつでも取り出せるように宝を隠しておく。これがみことばを通して私たちに伝えられてる知恵ではないかと思います。 先週、娘の納骨式を行なっていただきましたけれども、その挨拶のときに自分の思いに代えてヨブ記を引用させていただきました。42章の5節・6節だったんですね。 本日の私の思いとしても、やはりこの箇所以外にはありません。この箇所と、そして最後にイエス様ご自身の私たちに対する思いをゼパニヤ書から読んで終わりたいと思います。 ヨブ記42:5-6
以前この箇所をお読みしたときに、ひとりの姉妹は、「力がないときにこのみことばを喜ぶことができない」、と仰ったことを今でも覚えています。しかしそれであっても、イエス様ご自身はこのように願っておられると言えます。 ゼパニヤ書3:14-17
どうもありがとうございました。 |