引用聖句:ヤコブの手紙1章21節-22節
ルカの福音書10:41-42
新大阪に着いて兄弟姉妹と車の中で、話をしている時に、やはりワールドカップの話になりましたよね。そこでひとつだけ思わされたのは、サッカーでためになることは、彼らは本当にひとつのボールを必死で、その時間のあいだ追い回し、追い求めていると思うんですね。 ですから私たちも、今日限られた時間、ひとつのみことば、ひとつの御心を彼ら以上に追い求めて、そして最後までそこから目を離さない、そういうことをサッカーから学ぶことができたらと思います。 今日、おかしなタイトルになりましたけれども、その2というのは僕だけの整理の中で、先週の土曜日、ちょうど今頃の時間に、ある地方で家庭集会があったんです。その時のタイトルが「家庭集会」だったんです。 そして、前半はその家庭集会で、先週お話したことの要約、要旨をお話した上で、それから少し、家庭集会についてもう少し、今日の家庭集会について考えてみたいと思っています。その意味でその2とつけさせていただきました。 先週の要旨とはこういうことでありました。 ルカの福音書10章ですが、「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」これが、先ほど読んでいただいた中のこの御心、このみことばが、約2,000年前に、イスラエルのベタニヤという村で、イエス様を迎えて開かれた家庭集会で明らかにされた、主のイエス様の御心そのものではないかと思うんですね。 この箇所を2,000年前にベタニヤの村で開かれた、家庭集会と思うようになったのは、最近のことなのです。 そのような思いで読んだことはなかったんですけれども、家庭集会に行くたびに、この箇所を思うようになりました。 マルタに言われたひとつだけとは、もちろんここに書いてあるとおり、主の足元にすわって、みことばに聞き入るという1人の姉妹の態度だったんですね。マリアという妹の態度でありました。 そして、主の足元にすわって、みことばに聞き入る、そのような者を聖書全編をとおして、さらに次のように導いてくださっています。 このみことばは、先ほど読んでいただいたヤコブの手紙1章21節、22節です。 ヤコブの手紙1:21-22
このヤコブの手紙に書いてあるみことばは、マリヤが心に植えつけられたみことばを、その後にどのように実行に移したか、もちろん家庭集会でも、そのとおりにしたわけですけれども、その後のマリヤの全人生を、言いあらわしているようなみことばであります。 マルタとマリヤの物語を学ぶ前に、すぐ前の書かれたもうひとつの物語をも味わってみる必要があるのではないかと思うんですね。 聖書というのは、脈絡なく書かれたものではなくて、必要なものを必要なように配置した、そのような書物であると思います。ルカの福音書10章25節から始まる、有名な良きサマリヤ人のたとえとして知られている箇所であります。 ルカの福音書10:25
というイエス様に対する質問で始まる、こういう物語であります。 このサマリヤ人のたとえは、この質問から始まりました。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるか。律法の専門家の質問に対するイエス様の答えは、その人自身が答えた聖書のみことばそのものだったんですね。 質問したその人自身が、自分で答えを答えるようにと導かれました。不思議な箇所のひとつであります。 27節ですけれども、イエス様の答えは、まず『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』このような2つの戒めを答えとして語られたんですね。 イエス様は続けて次のように言われました。 ルカの福音書10:28
すなわちそのみことばを ルカの福音書10:28
これが、私たちがいのちを得るための手順であると、イエス様は語られました。そしてこの手順そのものは、先ほどのヤコブの手紙そのものでもあります。 さらに29節になりますと「では、私の隣人とは、だれのことですか。」という律法の専門家の質問に対して、イエス様は何とお答えになったでありましょうか。 良きサマリヤ人の答えそのものをもって、イエス様はお答えになったようであります。短い断片的な答えではなかったんですね。たとえそのものを通して、イエス様はこの質問にお答えになりました。長いですが、ちょっと読みましょうか。 ルカの福音書10:30-36
このたとえを話してくださったイエス様は、最後に次のように聞かれたんですね。36節、だれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。 この問いこそ、イエス様が私たちに深く考えてもらいたいと思っておられることであります。 律法の専門家は答えたんですね。37節、「その人にあわれみをかけてやった人です。」このように彼は答えました。 もし、そうであれば、私の隣人とは誰なのか。これがこの箇所の一番大切な問いかけであります。 もし、その人にあわれみをかけてやった人、サマリヤ人が私の、その人の隣人であるならば、私たち自身の隣人とは、私を助けてくれた人、犠牲を払ってくれた人、すなわちイエス様ご自身であるとこの箇所は語っているように思うんですね。 そうすると、「あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ」という第二の戒めは、どのようになるでしょうか。「あなたの隣人である主イエス様を、あなた自身のように愛せよ」とならなければなりません。 ですから「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くしてあなたの神であり、隣人である主を愛せよ」とならなければなりません。 第一の戒めと第二の戒めは、まったく同じ内容であることが解かります。結局どうしても必要なことは、わずかであります。いやひとつだけですと語られるみことば通りに、2つの戒めはだだひとつのことだけを言っているように思うんですね。 あなたの隣人である主の足元にすわって、みことばに聞き入ることだけ、これが、モーセの十戒や旧約聖書全体を通して語られるイエス様の御心そのもの、そしてその御心を引き継いだ新約の時代の私たちにとっても、もっとも大切なこと、ただひとつのことではないかと思うのですね。 ここまで私たちが導かれた時に、イエス様は次のように言われました。37節「あなたも行って同じようにしなさい。」 私たちはこのみことばを、どのように実行すればよいのでありましょうか。どこに行き、どのように同じようにすればよいのか、この聖書の箇所を読むたびに、このような疑問が湧いてまいります。 この良きサマリヤ人のたとえのイエス様の御心は、ベタニヤの家庭集会で明らかにされました。 マリヤは、聞いたとおり行って実行したのであります。マリヤが実行したのは、サマリヤ人のように、強盗に襲われた人を助けに出かけたのではありませんでした。ただひとつのことを行ったんですね。 まず、主の足元にすわって、みことばに聞き入ったのであります。強盗に襲われた人のようにしたんですね。サマリヤ人のようではありませんでした。 反対に強盗に襲われた人のように、マリヤは何を言われても主の足元から離れなかったのであります。主の御声だけに耳を傾け続けました。 ですからどうしても必要なことは、ただひとつであります。まず、あなたの罪の身代わりに死んでくださった隣人なる主イエス様の十字架のもとに行って、全生涯をかけて愛することであると、この箇所はルカの福音書10章は語っているのではないかと思うんですね。 マリヤのように、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして私の神であり、隣人である主イエス様を愛することであります。 約2,000年前、ベタニヤでイエス様を迎えて開かれた家庭集会は、良きサマリヤ人のたとえが実行に移された証しの交わり会そのものであったようであります。 今日、イエス様が喜んで、また望んでおられる家庭集会も、マリヤのように、みことばに静かに聞き入るという、このようなみことばを実行するつどい、そのものではないかと思うんですね。 最後までこのみことばから離れてはならないと、聖書記者はみことばを書き記してくれています。 ぶどうの木にとどまらなければならないと、ヨハネはことばを変えて書きました。すなわち、主のご人格に深く触れるつどい、そのものが家庭集会そのものではないでしょうか。これが、先週ある家庭集会でお話したことの要旨だったんですね。 これらのことから解かるように、家庭集会の目的はただひとつであります。それはルカの福音書10章の37節にある「あなたも行って同じようにしなさい。」というイエス様の命令をひとりひとりが、実行する集いそのものであります。 私たちはこのみことば、このイエス様の命令を今日どのように実行しようとして、ここに導かれているのでありましょうか。 イエス様が天に帰られた今日、私たちは現代に生きるマリヤとしてどこに行き、どのようにマリヤと同じようにすればよいのでありましょうか。 ベタニヤの家庭集会と本日の家庭集会で、決定的に異なるのは、イエス様を目で見ることができないということであります。ですから、いまやイエス様がこの世を去る時に語られたことばが、実行に移される時がまいりました。 すなわち、トマスに語られたことばであります。ヨハネの福音書20章27節何度もお読みになった箇所だと思うんですね。 ヨハネの福音書20:27
という命令であります。これは、イエス様がこの地上を去る時の遺言として、与えられた箇所であります。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」今は、目に見えない方を100%信じる信仰の時代、信頼の時代に移ったということではないでしょうか。 2,000年前と決定的に違うのは、この1点であります。もう、イエス様をこの目で、あの弟子たちのように見ることができない。時代が変わりました。 ですからパウロは、コリント人への手紙第II、4章18節で、 コリント人への手紙第II、4:18
と言ったんですね。目に見えないものとは何でありましょうか。このみことばは、私たちは、たくさん何度も読んでいる箇所であります。目に見えないものとは、主イエス様であり、永遠のいのちそのものであると、当時の弟子たちは聖書に書きました。 彼は、マリヤのように、実際にイエス様の足元にすわって、ただ主の声に聞き入ることはできませんでした。パウロもイエス様に出会って、直接イエス様の声を聞くことはできなかったんですね。 私たちと同じ立場におりました。見ることができなかったから、パウロはイエス様を信じることができたと言えます。 キリスト者を迫害するために、パウロはダマスコへ行く途中で与えられたイエス様のことばを、啓示を子供のように信じる者となったんですね。見えないから幸いでした。見えないから信頼し、信じることができたと言えます。 ですから、パウロも「見ずに信じる者は幸いである」というトマスに言われたとおりに信じて、そのみことば通り、大きな幸いを得ることができました。パウロはそのことを彼のことばでこのように表現しています。それまで、彼の心に思いうかんだことのない幸いであります。 「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、心に思いうかんだことのないもの」そのような幸いをパウロは、目で見ることができなかったゆえに、信じるようになったんですね。 「あなたも行って同じようにしなさい。」という命令は、マリヤと同じように、見えない主の声であるみことば、このみことばに生きることではないでしょうか。 すなわち、目で見えるイエス様のかわりに、御霊、聖霊がそのみことばを用いて豊かに導いてくださることに信頼すること、この1点にかかっているのではないかと思うんですね。 もう、約束の御霊に導かれた経験を、お一人お一人がお持ちでありましょうか。聖書に書かれているとおり、お読みいたします。ヨハネの福音書7章37節から、ヨハネはイエス様が天に帰った後に、すなわち、今の私たちの時代に、どのように大きな恵みが与えられるのかということについて、書きしるしています。 ヨハネの福音書7:37-39
イエス様が約束してくださった、このとおりに、この生ける水の川、すなわちいのちが流れ下る経験をお持ちでありましょうか。 聖書を信じるということは、このみことばを100%信じるということ。この約束が、自分の身に実現しますようにとマリヤが感謝をもって祈ったように、私たちも願い求めることではないかと思うんですね。 イエス様は、兄弟姉妹が共に集う家庭集会で、この生けるいのちの流れの喜びを、与えたいと心から願っておられると思います。 私も行って同じようにしたいと渇いているなら、どうして生ける水、生ける命の川が流れ下らないはずがありましょうか。 ですから今、有名な詩篇の133篇は、今日も事実とならなければおかしいと言えます。ちょっとお読みしましょうか。 詩篇133:1-3
このみことばは、ただ読み流すにはあまりにももったいないみことばではないでしょうか。救われた兄弟姉妹の真ん中にイエス様がおられて、そしてこのとおりに実現すると語られた、約束そのものであります。 主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたと書かれています。必ずこのとおり実現するといえます。 私たちの性格がどんなに違っていたとしても、どのように個性が異なっていたとしても、もし互いに主イエス様を信じておられるなら、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くしてあなたの神であり、隣人である主を愛するように、その人をも隣人のように愛せよ。このようなかすかな声が、私たちの内側に御霊をとおして、御霊によって導かれないはずはありません。 愛せなくても、愛したいと願う祈りの心が与えられるように、必ずなります。また祈りの志し、川の流れのように、これらのものが次々と与えられなければおかしいのではないでしょうか。聖書はそのように言っているのですね。 圧倒的な御霊の導きの中で、主の御支配すなわち神の国を経験するようになると聖書は、聖書全編をとおして私たちに語っています。 パウロは、ピリピ人への手紙2章13節で次のように語っています。 ピリピ人への手紙2:13
この時、このように導かれた時、私の隣人とはイエス様ご自身であるだけではなくて、同じように互いに集うすべての兄弟姉妹であることがはっきりと解かります。 イエス様は、十字架に向かわれる前に次のように語ってくださいました。この箇所はイエス様が十字架におかかりになる直前に、私たちに大切な遺言として語られた箇所であります。 マタイの福音書25:34-40
そしてルカは次のように語っています。 ルカの福音書17:20-21
このように兄弟たちは、イエス様の御心をイエス様のことばを伝えてくださいました。このとおり、このみことばのとおり、渇く心で、行って実行しようと私たちは、心に深く思わされるならば幸いではないでしょうか。 むずかしい聖書の教理をいくら調べても、何一つ前進することはありません。兄弟姉妹の中で、もっとも小さな者のために心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くしてあなたの神である主を愛するように、その人を愛したい、愛せなくても愛し合いたいと願い始める時に、私たちの内側に霊的な最初のしるし、最初の奇跡が与えられるようになります。 そしてここから、ヨハネの福音書全編にわたる、いのちの水の川の物語が、私たちの人生そのものとなるのではないでしょうか。 ですから、家庭集会とは、見ずに信じた結果を互いに証しする喜びのつどいそのものとならなければおかしいと言えます。 すなわち今日は、私たちもこの主の声のとおりに行って実行した結果、どのように幸いを与えられているのか、また、悩みのふちにあっていかに支えられ、どのように豊かに取り扱われているのかを、互いに証ししあう、そのような時ではないかと思うんですね。 そして励ましあい、慰めあい、互いに赦しあう喜びの時、そのものではないでしょうか。家庭集会は、そのような場所であります。 終わりに、2つちょっと長い箇所もあるんですけどもお読みして終わりたいと思います。 救われた者の喜び、そして、私たちがこの地上におかれている意味、そのことをこの箇所は示しているのではないかと思うんですね。 よく引用させていただく箇所ですけれども、まず、詩篇46編4節、5節私たちに与えられた御霊とは、どのような味を持ったものであるか、どのような喜びを私たちに与えてくれるものであるか、そのことを聖書は、次のように、旧約の時代にすでに預言してくださっています。 詩篇46:4-5
エゼキエル書47:1、7、9、12
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