引用聖句:ヨハネの黙示録22章17節
昨日の集いの中でも、最後頃に導かれたことは、イエス様が考えておられることは、すなわち聖書の言葉ですけれども、聖書に書かれてある事柄が、私達にとって本当に喜びになれば素晴らしいなということだと思うんですね。 今、兄弟が祈りのことを言ってくださいましたけれども、祈りをささげることが本当に心からの喜びになれば素晴らしい。祈らなければならないというのは、私たちの、人間の思いだと思うんですね。 多くの過去の歴史をみても、聖書そのものがつまずきになったということがあります。それは聖書の中に書かれてあることが、やらなければならない一つの教えのようなものになったからだと思います。 ぼくたちが、イエス様に人生をささげるようになった本当の意味は、そのひとつひとつのことばが、まったく今まで見ていたことと違って、イエス様の喜びが自分の喜びになるときに、本当に人生が変わると言いますか、価値観が変わるということだろうと思うんですね。 ですから、兄弟姉妹に会うことがこの世の喜びではなくて、会うこと自体に、そのひとつになること自身をイエス様は喜んでくださってる。そこに目を留めたときに、本当に喜びが満たされる。そういう少し違った喜びではないかと思います。 ちょうどこの一年間は、もうしばらくすると、娘が天に召されたときなんですね。11ヶ月半ぐらい経ちましたけれども、ちょうど去年の夏、今頃ですけども、振り返ってみるとこの頃から、恵みが少しずつ少しずつ準備されていた。ですけどその時には全くわからなかったんですけれども、娘が取られた後に振り返ってみると、もうすでにそれは始まっていたんだなというのを、今は思い返すことができます。 それは、はっきりとわかったことではありません。今でもはっきりとはわかってはないんですけれども、ひとつひとつの光が点のように連なって、それをずっと辿って行くと、小さな道が続いているというのを思い起こすんですね。 そして、それはどういうことだろうかなと思ったときに、今日読んで頂いた箇所、聖書の最後の最後に書いてあるページなんですけども、渇く者になるように、そういうことではないかなと。 最近、静かに考える時が与えられていますけども、そのときに渇く者になりなさい、渇く者は来なさい、いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい、これが聖書全体の呼びかけであって、それでひとりひとりの人生の中に突如として与えられる。 色々な出来事を通して渇くように、もう一生涯、私たちがこの地上にいる間、渇く者でありなさい、その言葉が聖書の呼びかけではないかと思います。 これこそ、限りない愛をもって呼びかけられていることがらではないでしょうか。渇く者を捜しておられる。これが聖書の最初から最後まで、一貫したテーマではないかと思います。 聖書が語っているのは、私たち自身が渇く者であるかどうか、その一点を問いかけられているのではないかと思うんですね。あなたは渇く者であってほしい。願い。だと思います。 聖書というのは、教えるものではなくて、願いだと思うんですね。神の願いの書物ではないかと思います。 ある兄弟は、祈りへの招待状だというふうな表現をされました。それは願いですね。来てほしいという願いであります。これは聖書のメッセージではないかと思うんです。 どんなに私たち自身が弱くても、そして心が萎えることがあっても、それであっても渇く者であってほしい。いのちの水を求める者であってもらいたい。イエス様の願いというのは、こういうものでないかなと思います。 この地上の出来事が耐え難いからこそ、また逃げ出したくなるからこそ、渇く心を失わないでもらいたい。最後のページに至るまで、聖書が訴えている呼びかけであると思うんです。渇くということは、主の御名を呼び求めるということだと、パウロはある手紙で語りました。 イエス様ご自身は、ただ渇く者を求めて旅を続けられたといいます。そして、この主の呼びかけを聞いて従った者たちがみな、渇く者たちだったなと思うんですね。聖書を紐解いて、その登場人物一人一人をみるときに、従った者は渇く者であった、そのように思わされています。 ヨハネの福音書の4章、兄弟姉妹は何度も読んだことがある箇所ではないかと思います。有名なサマリヤの女性が出てくる箇所なんですね。しかし聖書というのは、私たち人間の解説を一切望んでいない書物であります。ですからこの箇所を、多くの兄弟たちがメッセージをしたと思うんですね。しかしそのメッセージそのものは、大したことはありません。ただこの箇所が、一人一人にどう訴えているかということの方が、大切なことがらだと思うんです。 聖書自身が別の箇所でこう言っています。この箇所をどのように読んだでしょうかということなんですね。どのように読んでいますかと、常に語りかけられています。 ここにひとりの渇いた女性が紹介されております。私たちは、ここに登場するサマリヤの女のように、イエス様ご自身と会話したかどうかが大切だと言えます。ヨハネの福音書の4章の13節・14節は、イエス様とひとりの渇いた者との会話です。 ヨハネの福音書4:13-14
このように、イエス様から直接、私たちは言葉を、彼の言葉を聞いたでしょうか。そして、 ヨハネの福音書4:15
この女性のようにイエス様に願い出たでしょうか。これが、この箇所を通して呼びかけられていることではないかと思うんですね。この言葉自身というよりも、その言葉を解説することよりも、このような問いかけが、そして応答、会話そのこと自身が大切ではないかと思います。 イエス様は、私たちにどのような質問をされたであろうかということなんですね。 ヨハネの福音書4:16
私たちにも行って、あなたの夫をここに呼んで来なさいと言われたのを聞いたかどうか。このことが大切です。そして私たちには今、夫がいるのか、夫がいないのか。その質問に対して一人一人が、心を彼の言葉に耳を傾けて、自分のこととして聞くことが望まれています。 ヨハネの福音書4:17
主を最後の夫として呼び求めているかどうか。このことを、このひとつひとつの会話のうちに私たちは見つけるようになります。なぜイエス様は、サマリヤの女にこのような謎めいた質問をされたのかどうか、私たちにはわかりません。 しかし一人一人の祈りを待っておられるからではないかというふうに、この箇所を見て思わされています。本当に謎のような問答なんですね。しかしこの箇所を通して、私たちがイエス様と会話をしていくということを、望んでおられるように思うんです。イエス様は渇く者を捜し求めておられる。聖書を通して、そのように私たちは呼びかけられています。 サマリヤの女として、イエス様に出会う人は幸いです。彼女は、決して渇くことのない、永遠のいのちへの水を求めていたんですね。それは渇いていたからです。この箇所が、イエス様との祈りの場となること、叫びの場となること、呼び求める所となれば、本当に幸いだと思います。 聖書に触れるというのは、そういうことではないかと思うんですね。このみことばのある井戸のほとりですね。ヤコブの井戸があった。これはずっと私たちの信仰の先輩、祖先からアブラハムの子どものヤコブの時代から、ずっとあったと言われています。 それはイエス様と出会った者たちの子孫が、いつでも立ち返ることのできるように備えられている井戸であります。 このみことばのある井戸のほとりが、私たちの礼拝の場所であります。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者はそれをただで受けなさいと、言われる方が今日、ここにもいます。 このみことばを、そのように私たちが素直に自分の思いを捨てて見るときに、この場所もヤコブの井戸のほとりになっていきます。礼拝の場所そのものであります。ヨハネの福音書の7章の37節は、もう少し先のところですけども、このようにみことばが備えられています。 ヨハネの福音書7:37-39
このように書かれています。 その後、それはサマリヤの女性がイエス様に出会った後、イエス様は大声で群集に言われたと記されています。この約束を、私たちはどのように受けているんでしょうか。その人の心の奥底から、生ける水の川が流れるようにという約束は、事実となっているのでしょうか。 これがこの箇所から、私たちが問いかけられていることがらであります。 ここでも、聖書の最後のページのその問いかけが語られています。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者はそれをただで受けなさい。イエス様は、この地上を歩かれたときに、このメッセージを私たち一人一人にかけてくださいました。 大きな声でイエス様が叫んでおられると書いてあるんですね。これは主の祈りであります。イエス様ご自身の祈りです。彼の願いであります。私たちはどうしてもこの水がほしいと、心から本当に願っているのかどうか、この箇所は私たちに問いかけています。 この箇所の内容は、サマリヤの女が後に受けた恵みの約束であります。サマリヤの女性は、そのときイエス様に出会いましたけれども、まだ御霊が注がれていなかった。しかしその後に彼女は、イエス様と出会ったことを頼りとして、そして約束どおり、このとおり心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになったと、証ししたに違いありません。 私たちが汗水流して井戸を掘るのではないと、先ほどの箇所もこの箇所も語っています。流れ出るようになるということであります。井戸はすでに用意されていると、聖書が語っています。 毎日汲みに行った井戸ではないんですね。それはヤコブの井戸と紹介されています。毎日、女性は水を汲みに行きました。生活のために水を汲みに行ったんですね。私たちが望む井戸は、提供されている井戸は、そう井戸から遠く離れた所にある井戸ではないということがわかります。 毎日汲みに行っている井戸の傍らにあったと、聖書は私たちに示しています。井戸の傍らにあった尽きない井戸であります。傍らに、私たちが毎日毎日汲みに行った井戸の傍らに、腰を下ろしておられる方が井戸であると、この箇所を通して二千年前に、一人の女性が経験するようになりました。 それは渇く者を待っておられる井戸なんですね。渇く者だけを待っている井戸であります。そして渇く者だけが会話することができる井戸であります。そしてこの井戸から、いのちの水を飲みたいと願えば、必ずかなえられる。そのような井戸だったんです。 本当にみことばのとおりに、水が心の奥底から流れ出るようになります。そうでなければ聖書は価値がありません。私たちが信じる、その理由もありません。この約束を渇くように待ち望み、渇くようにしたいと望んでいるかどうか。聖書を紐解くということは、その問いかけに出会うということではないかと思います。 ルカの福音書の23章32節。ここにふたりの犯罪人が出て来ます。イエス様がこの地上を去るときの話です。イエス様はこの地上を三年半の間、渇く者は来なさい、いのちの水がほしい者はそれをただで受けなさいと語り続けて、そしてその後に、その果てに、十字架につかれるようになりました。そしてそこにふたりの犯罪人が、一緒につけられたと、歴史は証明しているんですね。ひとりは右に、ひとりは左に。 聖書はいつも私たちを二つの種類に分けています。羊と山羊を分けるように、ひとりは右に、ひとりは左に。旧約聖書から新約聖書に至るまで、いつも私たちはひとりは右に、ひとりは左にと、二つの種類のどちらかに分類されるようです。 人の考えによる分類ではないんですね。正しいか正しくないか、良い人か悪い人かという分類でも、判断でもありません。ただ渇いているか渇いていないか、という分類であります。 このふたりの犯罪人の罪状は、まったく言及されておりません。そのようなことは、主にとって関係ないことだからです。このふたりの犯罪人のどちらが罪が重いか、どちらが軽いかということは、まったく聖書のあずかり知らない事柄であります。彼らの心が渇いているかどうかだけが問題とされています。 「イエス様。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」、42節で、ひとりの犯罪人がこう言いました。イエス様と、ひとり語ったんですね。この人が渇く者として、天に登録されました。この事実だけが二千年間、聖書が私たちに告げている事柄であります。 地上の彼の人生がすべて終わろうとしたとき、渇く者は見出されます。主にあって彼が義とみなされたと言えます。聖書をとおして、私たちがわかることは、いつもこのような視点であります。主にあって義とされたということですね。 あのザアカイというのは、義という意味だと言われています。私たちの目から見た判断ではないんですね。渇く者であるか、渇く者でないか。イエス様はこのように言われました。 43節ですね。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」たった一言の会話であります。ひとりの犯罪人の、全生涯の最後にひとつの会話だけで、彼は義とされました。渇く者としてみなされたんですね。 私たちが今日、彼の恵みに預かれるとすれば本当に幸いです。ひとつの会話で、ひとつの問いかけに対して、ひとつの思いがあれば、それで十分であります。 イエス様は、いつもこの視点で、この観点で人々を見ておられます。渇く者を捜すためにこの世に来られたということです。渇く者とは、いのちの水がほしい者のことなんですね。このひとりの犯罪人のような者のことであります。 ヨハネの福音書の9章に、ひとりの盲人が出てまいります。生まれつきの盲人ですね。生まれつきの盲目の人はイエス様に出会いました。そして目が見えるようになった後に、このような出会いがあったんですね。 ヨハネの福音書9:35-38
とあります。礼拝であります。 彼はこのとき、本当の礼拝を経験したといいます。生まれつきの盲目の人は渇く者だったんですね。この彼の態度こそ渇く者を示しているといえます。私がその方を信じることができますようにと、祈りも求める人は誰か。これが聖書の求めている人のことであります。 私たちは、信じることができないという態度を取ってます。何事でもそうですね。私たちの心の向きは、信じることができない。これは自分に焦点が当てられています。自分が中心となって考える考え方です。信じることができないという態度を取っています。 どんなに柔和な人でも、心の内は理解できないという思いが与えられます。信じることができないという領域でとどまっています。私たちの心というのは、そういうものであります。 それは渇いていないですね。自分の知恵におおわれている思いであります。人間の限界であります。 私たちが今日、心を静めて待ち望んでいるのは、理解することではありません。信じることができないということでとどまることではないんです。それは理解をしようという思いの延長線上のことであります。 そこには喜びがありません。聖書に出会って喜びを得るというのは、そういう喜びではないんですね。私たちの知恵で理解できることを、望みとはいいません。パウロはこのことをはっきりと言っています。 望みとはどういうものか。私たちの知恵で、頭の中で考えることのできるものではないということなんですね。ちょっと見てみましょうかね。 ローマ人への手紙8:24-25
まだ見ていないものを望んでいる。この生まれつきの盲人であった人は、まだ見ていないものを望んだんですね。それは何かというと、キリストの心、人格であります。それは、その方を信じることができますようにという言葉でわかります。その方を、キリストの心です、人格なんですね。見たことのない方であります。 その方を信じることができますように。信じることができないということではないんです。信じることができないのは当然だったんですね、彼は。しかしそのような望みではなく、信じることができますようにと導かれたと言えます。 信じるということは、人の領域のことがらではありません。みんな、私もそうでしたし、みんな考え違いをしています。信じることができない。これはわかりきったことなんです。その方を信じることができますようにという、この人は、この盲目の人は渇く者であったと言えます。 私たち一人一人は、主なる神に呼びかけられています。渇く者は来なさい。そうすればイエス様の願いどおりに渇く者になります。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。その方を信じることができますようにと導かれるようになります。 信じることができないということではないんです。もうわかりきったことなんですね。信じることができない。そこで私たちは、多くの場合とどまっています。信じることができますように。 聖書のみことばに触れるというのは、そういうことではないかと思います。私たちが考えることのできるのは、信じることができない。信じることができますように。これは、大ーきな飛躍であります。 渇く者は来なさいと、呼びかけられています。イエス様は、ただ唯一、渇く者を捜しておられます。もし私たちが、永遠の思いを心にいつも携えているとすれば、私たちは渇く者であります。しかし私たちの渇きが、もっともっと深い渇きになるようにと、イエス様は望んでおられるのではないかと思います。 先ほど、一年前のことを言いましたけれども、自分でもこの聖書の箇所を読んだときに、渇く者というのは自分もそうではないかと思っておりました。しかしイエス様は、そうではないと、そのとき思っておられたのだなと。もっともっと渇く者に、渇くように。私たちにふさわしいように、そのときに彼がふさわしいと思わされたことを、思われたことを計画なさる。それは、主を恐れるばかりであります。 私たちは必ず、みことばから水がわき出るという経験をするようになります。詩篇の46篇を見てみましょうか。もう三千年前にこのようなみことばが用意されています。 詩篇46:4-7
こういうみことばがすでに備えられています。どんなに元気がなくても、みことばに何とかしてたどり着くということが求められています。 (テープ A面 → B面) ・・・の思いを心から取り去ってもらうように、心の虫をなんとしてでも変えてもらいたいと、願うようになれば、これは幸いです。 イエス様のみことばをもう一度、先ほどちょっとご紹介しましたけど、見てみましょうか。ルカの福音書の10章であります。今日は時間があまりありませんので、ここは、帰ってまた一人一人ご自身で味わっていただきたいと思いますけども、ルカの福音書の10章の25節から30節までお読みいたしましょうか。 ルカの福音書10:25-30
ここからひとつの物語をイエス様は語ってくださるんですね。ここにもサマリヤの女が出てきます。律法には、すなわち聖書には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。この箇所は解説する箇所ではありません。このみことばのとおりに、私たちは問いかけを受けるべき箇所だと思うんですね。 あなたはどう読んでいますか。聖書には何と書いてありますか。これだけが、この箇所で私たちに問いかけていることがらであります。 これを私のメッセージの箇所にしたことがあります。しかし今思い返すと恥ずかしい思いなんですね。それは一人一人がこの言葉を受けて、そして一人一人の証しがあるべきです。 みことばは私たちの渇きを必ずいやしてくれます。私たちの思いを捨てて、みことばだけに耳を傾けるとき、何と書いてあるか、心の奥底から生ける水が流れるがごとく、主ご自身が、語りかけてくださるようになります。 それは必ず、主ご自身が私たちの本当の隣人としてともにいてくださるようになる。この結論だけははっきりしています。 ヨハネの福音書の19章。少し後ですね。よく松山の礼拝でも引用させていただく箇所でありますけれども、この箇所はイエス様ご自身が、どのような方であるかを示している箇所であります。 ヨハネの福音書19:28-30
イエス様ご自身が渇く者であったと言えます。私たちに対して、永遠の愛をもって渇いてくださったと、この箇所は明らかにしています。十字架の上で、最後まで私たちを呼び続けてくださった。渇いた思いをもっていてくださった。 「わたしは渇く。」と言って、一人一人、私たちを受け入れてくださったということであります。私たちはどのような者であるか。彼が最もよく知っておられるんですね。 私たちの実態はどのようなものかというと、盗む者であり、偽る者であり、誇る者であり、自己中心な者であります。今日、兄弟がエレミヤ書から引用してくださいましたけど、本当に陰険な者であります。 それでもイエス様は待っておられます。「さあ、来たれ。論じ合おう。」、イザヤ書の1章で、イエス様はこのように言われております。「さあ、来たれ。論じ合おう。」、「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」、「もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたはこの国の良い物を食べることができる。」 これが、イエス様ご自身の思いそのものであります。私たちには人の思いを、本当に人の心を思いやることはできません。しかしイエス様は、自分自身の一切を知っておられて、隠すこともできません。そして彼は、「さあ、来たれ。論じ合おう。」という言葉を語ってくださっています。 最後に二箇所お読みして終わりたいと思います。 ローマ人への手紙10:13
そして最後に、 エゼキエル書47:8-9
エゼキエル書47:12
エゼキエル書48:35
じゃあ、終わります。 |