吉祥寺福音集会メッセージ


岡本雅文兄

(吉祥寺福音集会、2003/05/18)

引用聖句:コリント人への手紙第II、4章6節-7節
6「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
7私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

心から信頼しているひとりの兄弟が、よく言われる言葉があります。すぐに分かると思うんですけれども、こういう言葉なんですね。
「ピンとくるから信じるのではない。」という言葉ですね。「ただ聖書に書いてあるから信じるのです。」こういう言葉であります。

初めにこの集いに来るようになって、全く分かりませんでした。何を言っておられるのか分からなかったんです。どうしてこんな訳の分からないことを言われるのかなあ。大胆に言われるなあ。と、思っていたんですね。
分からないものをどうして信じることができるのだろうか、という疑問です。ピンとくるからこそ信じるのではないかと、そういうふうに思っておりました。
ピンとこないのに信じるなら、あるいはまたよく分からないのに信じるなら、「イワシの頭にも信心」と同じではないかと。ま、そういうふうに、その言葉を聞くたびに悩んでいたんですね。それは新興宗教を信じることと何が違うんだろうか、訳が分からない思いでした。これが偽らざる思いだったんです。

イエス様とともに歩み始めてちょうど18年になる今、言うことができるのは、「ピンとくるから信じるのではない。」ということですね。
みことばだけがともしびであるということ。みことばだけが光であり、命綱であるということ。最近「命綱」という思いが非常にします。みことばから離れると、まっさかさまに落ち込んでしまう。こういう思いであります。
そして18年間、決して裏切られることがなかったということなんですね。ただみことばがこう言っているから信じている、としか言いようがない。

彼がずうっと言い続けてきたひとつの言葉でありますけども、聖書の言葉ではありませんけども、信頼する兄弟がそういう表現をもって示してくださったその言葉が、そのとおりだなあと思うんです。それ以上に言葉を添えることができないんですね。
信じる、あるいは信頼するということは、やはりこうとしか言えない、こういうことではないかと思います。正しいのか、正しくないのか。理解できるのか、理解できないか。
今賛美した通り、そういうことではやっぱりなかったということなんです。決して裏切られない。失望させられたことがない。イエス様とはそのような方であります。

そしてイエス様を信じるということは、漠然としたことではありません。それは聖書の言葉を、すなわちみことばを信じるということではないかと思うんです。
「イエス様を信じる」ということと、「みことばを信じる」ということは同じことではないかと思います。ごまかすことができません。そして混ぜものをすることもできません。
「みことばがこう言っているから、そのとおり信じている。」
18年前の私と同じように、初めてこのような言葉を聞かれる方は、「何を言っているのか」と思われるに違いありません。しかしそうなんですね。

聖書の呼びかけに初めて出会った時「ピンときた」というような場面が、あるいはあったかも知れません。しかしそれだけでイエス様に信頼し続けるというのは難しいということだと思うんですね。
確かに「あ、この方だ!」というふうに思われた方がおられるかも知れません。それは言葉でいえば「ピンとくる」ということかも知れません。しかしそれだけで、何年・何十年とイエス様とともに歩むことは、本当に難しいことであります。
一度イエス様に出会ったはずなのに、何と多くの人が彼のもとを去っていったことでしょう。多くの兄弟、多くの姉妹たちに出会い、そしてまた多くの人が離れていかれました。

私たちに必要なことは「絶えざる喜び」ではないかと思います。イエス様に出会うまで一度も聞いたことのない喜び、見たことのない喜びを、何度も何度も与え続けられることが、どうしても私たちに必要ではないかと思うんですね。

信頼するということは、イエス様の言われる言葉に従うことであります。みことばに従うから、従ったからその結果がどこから来たかということを知るようになります。みことばに従わなければ、どこから来たのか、またその結果がどうだったのか、知ることができません。
「みことばはこう言っている。しかしこれだけはどうしても受け入れられない。」・・・これが祝福されない原因であるということを、私たちは何度も聞いております。
もし祝福されなかったとすれば、みことばどおりに信頼しなかったから。この一言に尽きます。

しかし聖書のみことばに触れると、こう言っていると思うんですね。「聖書の言葉、みことばを本当に信じたいと心から願うようになった、その日から変わります。」
聖書を読むたびに思うんですけど、信じることができないと何年も思い続けてまいりました。自分で信じることができなかったんですけれども、しかし方法があったら信じたいという願いだけが、良しと認められたのかなあと思うんですね。
「聖書の言葉、みことばを本当に信じたいと心から願うようになった、その日から変わります。」
この一点を、聖書は私たちに伝えているのではないかと思うんです。

聖書はこう言っています。

マラキ書3:10
10わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

これは旧約聖書の最後の箇所、マラキ書の3章の10節にあるみことばです。旧約聖書の最後の最後にこの勧めがあります。

マラキ書3:10
10わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

この呼びかけののちに、イエス様が来られました。新しい契約、「新約」の時代が始まったんですね。
私たちが今日、ひとつの事実を知るようになれば幸いであると思います。
新しい契約が与えられています。今日も共にパンとぶどう液をいただきましたけれども、それは「新しい契約」。「血は新しい契約」と、はっきりとみことばが示しています。
私たちは新しい契約を与えられる。今までと違う、ということであります。

新約聖書の始まりの言葉は、こういうものであります。マタイの福音書の4章の15節から17節ですけれども、

マタイの福音書4:15-17
15「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。
16暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」
17この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

新約聖書に目を留めると、イエス様の言葉どおりに従った者はみな祝福されるようになりました。
ペテロもヨハネも、イエス様の言葉を理解したわけでは決してありません。事実、イエス様が十字架にかかって死んでくださるまで、彼らはイエス様の言葉の意味を最後まで理解することはありませんでした。
3年半近くともに毎日イエス様と出会っていたにもかかわらず、イエス様の語りたかった、告げたかったそのことを理解することができなかったと聖書は記しております。
しかし理解できなくても、彼らは従うようになったんですね。理解できなくても3年半の間、彼らはイエス様に付き従ったんです。聖書にはその理由が明確には書かれておりません。しかしこれだけは言えると思うんですね。理解できなくても、彼らはペテロもヨハネも、そしてのちのパウロも、毎日イエス様と出会い、毎日交わりを持ち、そしてイエス様の人格を信頼したに違いありません。

ところが彼らは、イエス様が捕らえられた時にひとり残らず逃げたと聖書は記しています。イエス様が彼らの目の前から消え去った時絶望したんですね。そして彼らの信頼は崩れ去りました。主を信じるということ、信頼するというのはどのようなことであるか、彼らはそのとき知らなかったに違いないんですね。
ところがイエス様が十字架にかかって死なれたのちに、彼らはいっぺんに変えられていきました。約束どおりに聖霊が、キリストの心が彼らに与えられました。そして彼らは聖霊に導かれて、イエス様が語られたことをひとつずつ、ひとつずつ思い起こしたとあります。
そのときから、本気でみことばのとおりに従うようになったんですね。「従うことができた」というよりも、「従いたい」と心から願うようになったに違いありません。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」という、一番最初に聞いたみことばから始まる、ひとつひとつのイエス様の言葉が、新しく意味を持って聞こえてきたに違いないと思います。そしてみことばだけが彼らの足のともしび、道の光となりました。
私たちは新約聖書の福音書や、使徒の働きをみてそのことを知るようになりました。

みことばを通して、旧約聖書が伝える律法が新しい自由の律法になったと彼らは証ししています。みことばを通して、神の人格、すなわちイエス様との新しい交わりが与えられたと彼らは言っています。「みことばを通して」なんですね。
イエス様が死なれて、この地上から見えなくなって、目の前からいっさいが見えなくなった時に、彼らは新しく「みことばを通して」イエス様と交わりを持つようになりました。イエス様とともに歩んでいた時には分からなかったことが、彼らにとっては事実になるようになりました。

「みことばどおり従いたい」と願い始める時、それは始まります。旧約聖書のダニエル書の10章の12節。

ダニエル書10:12
12「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。

このように、みことばが約束してくださっています。「あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたの言葉は聞かれているからだ。」
私たちが「へりくだったから」という過去形ではありません。「へりくだろうと心に定めたとき」、そのことを主が良しとされて、そして私たちを導いて、その結果を私たちはあとで知るようになる、ということではないかと思います。
「いっさいが、はじめに終わっている。」聖書を読むたびにそう思います。

これは昔の、どこか遠くの地方の話です。「本当に弱い、自分には無理だと思う人は、それで終わりです。何もはじまりません。」
弱いから、彼に頼るのではないかと思うんですね。汚い、もろい、価値のない、「土の器」だから、主が必要であります。イエス様は、土の器を選んでその中に住んでくださっていると、みことばを通して思わされます。

「聖書が告げるこの事実を、本当に心から信じますか?」これが、聖書が私たちひとりひとりに問いかけている質問であります。
私たちの祝福は、この一点にかかっているのではないかと思うんですね。
先ほど兄弟が読んでくださった箇所、コリント人への手紙第II、4章の6節・7節をもういちどお読みいたします。

コリント人への手紙第II、4:6-7
6「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
7私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

私たちの思いと全く違う言葉であります。土の器の中に宝がある。汚い、もろい、そのような土の器の中にこそある。
弱さのうちに恵みは十分にある。弱いからこそ強い。パウロはいつも、この恵みを受けて生活したと言えます。

ちょうど1週間前になりますけども、地方で行なわれた喜びの集いに行かせていただいたんです。実はそこに行くために、今日の当番を替えていただいたんですけれども…。集会場に着くやいなや、その地方の姉妹が笑顔で話しかけられたんですね。その3週間前、今から1ヶ月前ですけれども、自宅に遠慮がちに電話をしてこられた方だったんです。
親しい姉妹のご主人が、末期ガンで入院されている。ところが誰とも会うことを拒否されている、ということだったんですね。その地方の姉妹たちの必死の祈りにもかかわらず、告知することさえもできない。そしてお見舞いに行くべきかどうかも分からない。
主にゆだねるということということと、何もしないでいることとは何か違うような気がする。しかし一歩も前に進めない。どうしたらいいのか…。そして悩んだ末に電話をしてこられました。

そのとき、直接お答えすることは避けて、「証し」をしたんですね。それは、私自身がたぶん何年も前にこの場所でも証しをさせていただいたかも知れません。あらゆるところで、自分自身の「土の器」の中から輝き出てくださった「宝」に出会った証しです。
何年も、もう10年近くも何度も何度も思い起こす証しだったんですけれども、その姉妹にも、以前お話ししていたはずだったんですね。しかしそのときにもういちどお話ししたいと思うようになりました。そして電話で、長い電話でしたけども、お話ししたんですね。

ずいぶん前のことであります。10年近く前のことでありますけども、遠いところに住んでおられる兄弟から電話があったんです。兄弟のお父さんが、東京の病院に入院しておられるので、見舞ってほしいということだったんですね。
しかし問題がありました。集会を本当に嫌っておられるお母さんが、いつも付き添っているということだったんです。彼女の前では、集会のシュの字も出せないというんですね。それでもいのちがもう長くないので、何とか行ってほしいと頼まれました。

行きました。病院は駅から約10分ほどの道のりだったんです。初めて降りる駅で、そして地図を見ながら行きました。歩き始めるにつれて、僕は暗い気持ちになっていったんです。引き返したい思いになりました。
病院に向かう途中で、心の中に問いかけられたんですね。自分は今、何をしに行こうとしているんだろうか。どうしてこんなに重い気持ちなんだろうか。
そういう問いかけが始まりでありました。心の中が探られていったんです。
自分の状態が少しずつ明らかにされていきました。今自分が暗い、重い気分になっているのは、門前払いをされたり、バツの悪い思いを与えられたりして、恥をかきたくないだけではないだろうか。ただイエス様の話ができて、目に見えるところは良い交わりが与えられて、祈りでもできて、気持ちよく帰ることができれば、自分は満足するのではないか。
僕は、結局よく考えてみれば、自分のためだけのことを考えているのではないだろうか。

ま、心の中が少しずつ整理されていったんですね。そして、イエス様が望んでおられることはどういうことだろうか。よい交わりであったとか、祈ることができたとか、そういうことを本当にイエス様は望んでおられるだろうか。
心の中で次々と展開していきました。
そのとき、ふいにみことばが心を占めたんですね。「わたしが病気をしたとき、わたしを見舞ってくれたからです。」という短いフレーズだったんです。その前後もちょっと見てみましょうか。
マタイの福音書の25章であります。それ以来、何度も何度も心に浮かんでくる箇所であります。飛び飛びにお読みしたいと思います。

マタイの福音書25:34-36、39-40
34『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
35あなたがたは、...
36わたしが病気をしたとき、わたしを見舞(って)...くれたからです。』
39いつ、私たちは、あなたのご病気...を見て、おたずねしましたか。』
40『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

愛する兄弟が祈り続けてこられたご両親を、病院にお見舞いに行くという、そのこと、そのこと自身を主が喜んでくださっている!そういう思いが突然湧き上がりました。このこと自身が御心に違いない。だとすれば、恥をかいてもいいじゃないか。という思いで満たされてゆきました。
お見舞いした結果は問題ではないんじゃないか。僕のすべきことをするだけで充分ではないか。もうすでにイエス様は喜んでくださっているのではないか。
ま、次々と心の中が整理されていったんですね。

そして、導かれて心が定まった時に突如として、大きな、本当に大きな喜びが訪れました。嬉しくて嬉しくて、涙があふれてくるんですね。今でも本当にそのひとつひとつ、ひとこまひとこまを覚えております。
病院の玄関にたどり着いた時、いっさいがすでに終わっていたんです。心が平安に満たされておりました。そしてみことばに支えられて、病室に入ることができました。ほとんど門前払い同然に病室を出ましたけれども、心の内側に燃えた火は、消えることなく燃え続けていたんですね。それは今でも、熱い思いで覚えております。

そのときから私は、2千年前にエマオという村に行く途中でイエス様に出会った、弟子たちの喜びが分かるような気がするんですね。
ルカの福音書の24章の30節から32節をちょっと見てみましょうか。イエス様が十字架にかかって、そののち、弟子たちが意気消沈していたときのことであります。

ルカの福音書24:30-32
30彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
31それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
32そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」

「聖書を理解する」というのではありません。みことばから離れない時に主と出会うと思うんですね。みことばそのものに力があります。
自分の思いから離れて、みことばに導かれて歩む時、決して失望させられることがありません。みことばどおりであります。
このとき以来、病院を訪れるたびにこのときの喜びとともに、どのような手順で喜びが与えられたかを思い起こす恵みを与えられるようになりました。

──電話でこの証しをいたしました。すでに彼女にお話ししたことのある証しでありましたけれども、初めて聞くように真剣に聞いてくださいました。
電話の向こうの姉妹に、力が感じられるように思えたんですね。
最後に、姉妹は「もういちど祈ってみます。」と言われて電話を切られたんです。1ヶ月前のことであります。
そして、そのときから3週間後の先週、彼女にお会いいたしました。そしてこう言われたんですね。「兄弟が言われた喜びとはどのようなものか、味わうことができました。」と、本当に喜んで言われたんです。「そういうことだったんですね。」と言われました。

あれやこれや思い巡らして、一歩も踏み出せなかった姉妹が、みことばを頼りに、告知されていない末期ガンの、別の姉妹のご主人をお見舞いに行かれたんですね。それはある意味ではお節介と見られるかも知れません。ある意味ではやり過ぎと見られるかも知れません。彼女自身の中で本当に戦いがあったはずであります。
でもそういうことから離れて、そして不安と期待が入り混じった中で、彼女も同じように導かれ、大きな平安と大きな喜びを与えられた。その証しを嬉々として伝えてくださったんですね。

ま、そののちの喜びの報告もありました。しかし今日ご一緒に考えてみたいと思うのは、そののちの結果ということよりも、その姉妹が何も目で見ることのできない時に、みことばに頼って、みことばがどのように語っているのか、そして主が何を喜んでくださっているのか、そのことに目を留めはじめた時に、大きく変わって、そして始まりがあったということであります。

目で見える事柄ではありません。今日お話ししたかったのは、目で見えない事柄についてであります。「みことばのとおりに従いたい」と一点の曇りもなく願うなら、その言葉は、すなわちその思いはすでに聞かれているという事実であります。
聞くことと実行することは違います。何度聞いても聞くだけの者は、何も起こりません。「実行する」とはこの世の言葉ではありません。

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」
聖書の言う「実行する」というのは、こういうことではないかと思います。願うということであります。祈るということでもあります。みことばを信頼したいと心から願って、「からし種ほどの信仰」「からし種ほどの信頼」を願い求めるということではないかと思うんですね。
そうすれば、聖書のみことばどおりに、みことばの約束どおりに、見たことも聞いたこともない平安の海が、心を必ず満たしてくれます。そうでなければおかしいと言えます。静かで大きな喜びが満ちあふれるようになります。「そういうことだったのですね。」と必ず言うようになります。

最後に、1箇所読んで終わりたいと思います。

ヤコブの手紙1:21-25
21ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
22また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。
23みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。
24自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。
25ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。

どうもありがとうございました。




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