引用聖句:マタイの福音書25章14節-16節、19節-23節
しばらくの間、今読んでいただきましたマタイの福音書25章を中心にして考えてみたいと思います。 先週は、「メサイア」コンサートがありました。これはすでに多くの兄弟姉妹がご存知ですから、今日は、わずかな人しか知らない「小さな音楽会」のことをご紹介したいと思っています。 少し前のことなんですけれども、ある地方の兄弟姉妹に会いに行ったんですね。半年前にイエス様を信じるようになられた若い姉妹から、事前に招待状、これはプログラムなんですけれども、もらっていたんです。 そのプログラムには、「小さな音楽会」という名前がついていました。救われたばかりの若い姉妹は、イエス様に救われた喜びを自分の身近な人に伝えたいと願うようになったようです。押し付けではなくて、福音を身近な人に伝えたい。そのように願うようになったそうです。 そして、地方の兄弟姉妹に相談をして祈り始めたようです。彼女は、数人の小さな、ほんとに数人なんですけども、小さな子どもたちにピアノを教えておられたんです。ピアノの発表会を兼ねて、イエス様がともにその場におられるような、「小さな音楽会」を開こうと心に決められたんですね。まだ半年ぐらいで、何をしていいか具体的に分からない。そういう状態だったようです。 ともに祈っておられる姉妹から、東京の私たちの自宅に、参加予定のお母さんたちの名前が、少し説明つきでファックスされてきました。その地方の兄弟姉妹の熱い思いが伝わってくるようだったんです。 そしてその日に、喜んで出かけて行きました。その日の礼拝の後なんですけども、何人かの兄弟姉妹たちと連れ立って行きました。小さな、素朴な、本当に素朴なピアノを中心とした発表会だったんですね。 前半の第1部は、その最後に、なぜかフラダンスの披露があったんですね。「小さな音楽会」を開いた娘を通して、イエス様を信じるようになられたお母さんが踊ったんですね。民族衣装を着けて。 小さな子どもたちのピアノの演奏会ですけれども、演奏会らしくない、そういう踊りに、はじめはみんな戸惑っていたんですね。最初はちょっとした笑いもありました。しかしその戸惑いも、2つ踊られるうちに、感嘆の声に変わっていきました。私たちが思っているフラダンスとは違って、本当に民族の踊りで素晴らしいものでありました。 このフラダンスというのは、彼女の母の生きがいの1つだったそうです。小さな音楽会が終わった時に、彼女の母は次のように私に言ってくれました。 「これが最後のような気がします。もう変装しなくてもよくなったから」と言われたんですね。どういう意味か、それは詳しくお聞きしませんでしたけれども、「変装しなくていい」という言葉が、非常に心に残ったんです。 もう外側、見えるものに何かを求める必要はなくなった、ということでしょうか。変わらない新しい生きがいを見つけた喜びを、全身で最後の証しとして現わしてくださったように思います。 「小さな音楽会」の終わり近くになった時に、リコーダーとピアノの演奏があったんです。これも、ピアノの発表会と直接は関係のない、集会の2人の兄弟姉妹による控えめな演奏だったんですね。 曲名は、バッハのマタイ受難曲でした。演奏の前に、兄弟がこの曲の説明を、聖書からゆっくりと丁寧に、本当に丁寧にされました。わかり易い説明だったんですね。たぶん、みなさん初めて聞かれたことだろうと思います。 しかし演奏するには非常に難しい曲でありました。途中で、大きなミスがあったんですね。そしてはじめから、もう1度やり直しされたんです。2度目は、最後まで演奏されました。聞く私たちも、兄弟姉妹も、ハラハラしながら、祈りながら聞かざるを得ない、そのような演奏だったんです。しかし、彼らはその時、本当にりっぱに見えました。 「りっぱな」という言葉は、聖書の中で何箇所かありますけれども、その時に初めて、ローマ人への手紙の10章の言葉が、「あ、こういうことなのか」というふうに思ったんですね。 ローマ人への手紙10:15
僕は何かその、「りっぱだ」というのは、福音を伝えるということと、何かこうピタっと今までこなかったんです。けれどもこの時、この地方の兄弟が、聖書からその音楽会で説明され、間違いながらも本当に毅然として、最後まで演奏を続けられた、その証しそのものを見させていただいた時に、「りっぱだな」と本当に思いました。 小さな子どもの若い両親や、おばあさんと思われる人に、必死でイエス様を証しする姿を見ながら、またそれを聞きながら、僕は涙がにじんでくるのを今でも覚えているんですね。 演奏が終わった時に、イエス様が喜んでくださっているというのは、手にとるように分かりました。小さな兄弟姉妹たちが自分に与えられたタラントを精一杯用いて、ひとりの方を紹介しようと心をこめて、祈りをこめて、開かれた音楽会だったなと思います。 最後の曲もなぜか、「神の御子がベツレヘムで」という曲が選曲されておりました。全員で合唱したんですね。全く不自然ではありませんでした。そして小冊子、「主は生きておられる」、これを最後に一人一人に心をこめて、自分の思いを託して、手渡して送り出したんですね。 これが終わった時に、僕は本当の福音集会そのものだなと思ったんですね。くどい説明はありませんでした。しかし最初から最後まで、イエス様がともにおられたという思いの、小さな小さな音楽会だったんですね。 そして、その日初めて礼拝に来られた方も、この「小さな音楽会」に集うことができました。「主にある喜びとは、どのようなものか」、福音集会で、僕はメッセージの当番でしたけれども、言葉でお伝えできなかった部分を、この音楽会で補ってくれたように思います。 先週の「メサイア」コンサートは、多くの人々に福音が伝わった、ある意味では5タラントの人に似ているかもしれません。「小さな音楽会」は、2タラントの人ではないかなと思うんですね。 マタイの福音書25:21
これが、私たちが与えられているものを100%、もう存分なく主にささげる時に、このように同じ言葉を使われるんだなと、今日も思っています。その日、天からこのようなみことばを言われたような気がします。 「小さな音楽会」の前夜、一日前の土曜日でしたけれども、小さな交わり会がありました。それはメッセージがあるわけでもなく、ただ集まっただけだったんですね。私もそこに行きました。初めての方も来られたんです。遅れて来られた若い兄弟が、救われて何年も経ったその時、今新しく主に出会った証しをしてくださったんですね。 もうその交わりの会も終わりに近づいた時だったんですけれども。兄弟の証しの後に、その母も促されるように、心からの悔い改めと、そしてそれに続いて与えられた大きな喜びを話してくださいました。 そして続いて今度は奥さんが、夫の内側で主が生きてほんとに働かれた様子を身近でずうっと見て来られた、その奥さんが、声をつまらせて証ししてくださったんですね。それは、夫と義理の母の悔い改めを見て、今まで自分を正しいとしてきた罪を示された、そういう証しだったんですね。 あふれるような、主との新しい出会いの証しをそばで聞きながら、聖書の言う通り、一人一人の心の奥底から生ける水、聖霊が流れ出しているようだったんです。 その時、みことばが心にうかんでまいりました。僕は、証しに代えて、むしろ「証しとして」と言った方がいいかもしれませんけども、次の聖書の箇所をその時にお読みしたいと思って、長いですけれどもお読みしたんですね。 今日も、少し長いんですけれども、お読みしたいと思います。 詩篇46:4-5
エゼキエル書47:1-9
エゼキエル書47:12
その時、「本当にそうだな」と思ったんですね。 翌日の朝、「昨日初めて来られた方が、今日の礼拝に来たいと言われた」ということを聞きました。彼女は、交わり会を開いてくださった兄弟姉妹と、同じマンションに住んでおられる方だったんですね。 もう長い間、その地方の教会を離れておられたんです。いろいろなことが彼女にもありました。そして初めて来られたんですね。昨夜、夜遅くまで最後まで残ってくださって後片付けをしてくださったんですね。 そして、僕はその時いませんでしたけれども、「あなたたちが行っている所に行ってみたい。明日、連れていって欲しい」と話されたということでした。本当に、それを聞いて嬉しかったんです。交わり会で、誰と何を話されたか分かりません。しかし、「あなたたちが行っている所に行ってみたい」と、同じマンションに住む兄弟姉妹にこう言ってくださったんですね。そのように思ってくださったその日の集いは、イエス様も喜んでくださったに違いないと思うんです。 私は、何年も前にそのはじめて来られた方の名前を聞いていたんです。彼女のことを祈っていたというと、嘘になります。手帳に控えた彼女の名前を、おりにふれ、思い出していたんですね。 どういうご計画を立てておられるのか、全く想像もつきませんでしたけれども、時折手帳を開くたび見ていた名前だったんです。主が決して忘れてはおられないと、新たに心に刻むことができた一日でもありました。 その夜の集いは、特定の兄弟がメッセージと称して何か学んだわけではありません。それにはるかに勝るメッセージが、彼女に届いたという事実があります。主にある兄弟姉妹の交わりは、メッセージそのものなんですね。証しそのものであります。 ですから、「すべての者が、すべての人が、最も価値のあるメッセージを、交わりを通して伝えることができる」と、これは確信して言うことができます。「最も価値のある証しを交わりを通して伝えることができる」、これはイエス様の思いではないかと思うんですね。 小さな交わり会に来てくださったこの若い女性は、その日の朝、日曜日の朝、私たちと同じ車で語りながら集会に来ました。礼拝、福音集会、そして最後に先ほど紹介した「小さな音楽会」にも、さらなる恵みにも、あずかりました。 今日お話したことの中で難しいことは一つもないはずであります。「イエス様だけが喜んでくだされば、十分です」ということだけが、私たちの目標になった時に、神の国が実現する。聖書の言葉をよく知っている兄弟を呼んでくる必要はないんですね。長い信仰を持っているらしい姉妹に、応援を頼む必要もありません。 「主に喜んでもらいたい」と願う者たちの真ん中に、人よりもはるかにすぐれた主がともにいてくださるという、聖書のメッセージ通りの1〜2日でありました。ルカの福音書17章21節にある言葉通りであります。 ルカの福音書17:21
そして、 マタイの福音書18:19-20
このみことばを心から疑わずに信じるなら、まことの教会が実現する。これがイエス様がご自分の口を通して語られた、御心であります。 今年の夏に、御代田の喜びの集い、バイブルキャンプがありましたけれども、先ほど紹介したフラダンスの姉妹にお会いしたんですね。その隣に、別の地方の姉妹が座っておられました。その取り合わせがなんとなく不思議だったので、どのようにして知り合われたか、ちょっと聞いてみたんですね。ちょっと失礼だとは思ったんですけれども、つい聞いてみたんですね。 隣に座っておられた姉妹が話し始められました。その数ヶ月前の地方の集いで、私が次のように話したらしいんですね。そのことが心に留まったと言われました。その内容とは、こういうものでありました。 「今、お話しているメッセージは、これから始まる喜びの集いの導入部に過ぎません。メッセージは、これから始まる交わりのために、ただみことばによって心を主に向けるためにある、と言ってもいいのではないのでしょうか。 最も大切なのは、今隣に座っておられる方との主にある心からの交わりです」。 確かこのようなことを申し上げたんですね。これを、その姉妹は聞いて、本当にそうだと思われたそうです。そしてすぐ隣を見られたんですね。そこにフラダンスの姉妹が座っておられたんです。心に受けた言葉通り、「主に喜んでもらいたい」と願いながら、隣の方との主にある交わりが与えられたそうであります。 その日、彼女の娘は洗礼を受け、そして彼女は救われたそうですね。この喜びを、嬉々として話してくださいました。彼女たちの宝物になるに違いありません。このような証しを聞くと、本当に嬉しいですね。本当にありがたいと思います。大きな恵みを私もともにいただきました。 ヤコブの手紙1:21-22
このみことば通り、実行すればイエス様が喜んでくださるということが分かっているのですから、この「いのちのことばをしっかり握って、期待して、実行したい」と願いましょう。これがヤコブのメッセージではないかと思います。 聞くだけの人にならないで、願い始めれば、必ず喜びがおとずれます。ヤコブが手紙を書いて2,000年間、この歴史を動かした言葉であります。願い始めれば、聞くだけの人にならないで願い始めれば、「実行したい」と、「みことばば通り実行したい」と願い始めれば、必ず喜びが訪れる。 ダニエル書10:12
「実行する」とヤコブが言ったのは、みことば通り願い求めるように心に決めることではないかと思います。ダニエル書を見ても、「へりくだろうと決めたその初めの日から」 へりくだるというのは、こういうことではないかなと思うんですね。みことば通り願い求めようと心に決める。へりくだるということは、「主に従おう」「主の御心に従おう」「主の御心に目を留めよう」、そのような心の向きをを決めることではないかと思います。結果の話ではありません。 最後にもう一度、兄弟姉妹とともに覚えておきたいこと、確認しておきたいことは、小さい者たちに主の目は注がれているという事実であります。ルカの福音書の12章に、明らかにされています。 ルカの福音書12:32
「御国をお与えになるからです」、「心の貧しい者は天の御国を与えられる」、これにも通じる言葉ではないかと思います。 みことばを実行したいと願い求める時に、イエス様を愛する喜びに出会うようになります。それは聖書が次のように語っているからであります。 ヨハネの手紙第I、5:3
この手紙に、はっきりと、神の御心の本質がはっきりと... 「神の御心を願い求める」と私たちは、よく言いますよね。確かに、具体的な一つ一つは示されていないことが多いと思います。しかし神の御心の本質は、聖書の中に明らかにされています。見るべき向きは、はっきりとされています。 すでに聞いている神の命令、すなわちみことばを、イエス様の人格に信頼しながら願い求める時に、私たちが今まで見たことも聞いたこともない喜びの海に浸るように、必ずなります。 最後に、今日ご一緒に考えていたことの根拠また、保証として、1箇所、聖書から読んで終わります。 ヨハネの手紙第I、5:14-15
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