引用聖句:コリント人への手紙第I、13章1節-3節
今読んでいただいたコリント人への手紙第Iの13章は、イエス様を紹介している、本当に大切な個所ではないかと思います。 ここを読むたびに深く考えさせられる、そういう場所でもあります。 生まれつきの私たちは、何の役にも立たないと、この個所を読むと、何度もそこに立ち変えざるを得ません。 ・愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。 ・愛がないなら、何の値うちもありません。 ・愛がなければ、何の役にも立ちません。 三度、このように語られています。これが聖書の結論でありましょう。どんな賜物を持っていても、愛がなければ、どんな信仰を持っていても、どんな施しをするような人であっても、愛がなければ、何の値打ちもない。これが聖書の結論であります。 この愛こそ、私たち自身のどこを探しても、見つからないものであります。この愛こそ、私たちが探し求めていたものであると思うのです。 それは見たこともないものでありますし、聞いたことも、自分で想像することもできない、そういうものであります。 しかしながら、人は聖書で語っている本当の愛ではないものを愛であると勘違いをして、追い求めている。これが真実の世界。聖書が告げている真実ではないかと思います。 まことの愛とは、聖書ではイエス様ご自身であると語っています。どこを開いても、愛とはイエス様ご自身である。 私たちが生まれつき考えている、そのような愛とは全く異なります。 未信者は、イエス様を知らない方は、もちろん聖書が告げている本当の愛を知りません。ですから未信者であります。 しかし、多くの信者も、イエス様に出会った私たちも、すでにまことの愛に出会ったにも関わらず、本当の愛を再び自分の愛、生まれながらに考えている愛と取り違えている、すり替えているということはないでしょうか。聖書はそのことを度々思い起こさせてくれています。 今一度、初めの愛に立ち返る時である、と聖書は手紙をもって私たちに、当時の兄弟姉妹と同じように、私たちにも語りかけてくれています。手紙は、聖書の中の手紙は、そのために書かれたと言えます。 愛とは、先ほども申し上げましたように、イエス様ご自身であります。神の愛そのものであります。ですから、イエス様が語られないところには愛はありません。 私たちが本当に絶望する時とは、私たちの内側に愛がないということだ、弁解の余地がないほど、イエス様によって打ちのめされる時ではないかと思うのです。 外側の試練は、肉の試練や病気やあらゆる試練が襲い掛かってきますけれども、外側の試練は確かにつらいものであります。悩み多き苦しみであります。 しかし私たちは内側の絶望、すなわち私たちのどこを探しても、内側の隅々まで探しても、愛のかけらが全くないということを認める時に、たましいの救いへと導かれるのではないかと思うのです。ここに目を留め続ける人は少ない、と聖書は指摘しています。 私たちはこのような集いでも、あるときは信仰について、またあるときは希望について語ります。ですけれども聖書はいつでも愛を土台としています。 私たちは口が一つしかありませんので、一つのことしか語ることができません。しかしイエス様はいつでもその土台に、何を語られても土台に愛がある、と言えます。コリント人への手紙第Iの13章の13節。最後の個所ですけれども。 コリント人への手紙第I、13:13
信仰、そして希望、そして愛と、三つのみことばが出てきます。しかし、その中で一番すぐれているのは愛です。疑いようもない、はっきりとした宣言であります。 もっとも大切なのはイエス・キリストである、ということであります。 もちろん、信仰はどうしても必要であります。パウロは彼の手紙で、信仰の大切さを何度も何度も繰り返し書いています。 例えば、「信仰から出ていないことは、みな罪です。」とローマの人々に14章の23節で語っていますし、「信仰から出ていないことは、みな罪です。」、「信仰が大切である。」、と語りました。 それにも関わらず、信仰という名のもとに多くの悲劇が生じてまいりました。それは、人が愛そのものを追い求めることをせずに、信仰や希望、すなわち、望みを追い求めるようになるからではないかと思うのです。 これは人の悲しい性質。悲しい性格そのものであります。だれが悪いということではなくて、人はこのような愛を知りませんので、信仰とか希望とか、分かりやすい言葉に惹かれていくものではないかと思います。 しかし、このような性格を前提にして神は私たちに介入してくださっています。ルカの福音書の18章をちょっと見てみましょうか。 有名な個所ですので、もう十分ご存知の個所だと思います。 ルカの福音書18:9-14
まことの信仰、そして希望と愛の関係をよく表わしている個所ではないかと思います。 ここでは、信仰者であると自任している者が、イエス様によって退けられているのです。すなわち、自分を高くする者は低くされる、とあります。 反対に、信仰がないと主の前にくず折れる者をイエス様は受け入れてくださったのであります。すなわち、自分を低くする者は高くされる。聖書の中心的なメッセージであります。 イエス様というお方はこのようなお方であります。私たちが信じている方はこういう判断をされる方であります。この方に私たちは出会って、信じるようになったのであります。 取税人は自分の内側に信仰がないことを認めました。自分の力ではどうしようもないことを、愛そのものであるお方に、イエス様に心を注ぎ出して告白し、祈ったのであります。 彼の、取税人の希望は、ただ愛のうちにだけあった、と言えます。彼の希望は愛そのものであったわけであります。イエス様そのものであったわけであります。 彼にとって主なる神とは、すなわち主イエス様とは、望みの神であります。 パウロも同じようにイエス様を望みの神と呼びました。ローマ人への手紙の15章です。 ローマ人への手紙15:13
望みの神が、とパウロもローマの人々に手紙を書きました。 そして15章の、前のところの4節から。 ローマ人への手紙15:4-5
望みの神が、 ローマ人への手紙15:5-6
パウロも取税人もこのように告白をいたしました。 今ご一緒に読んだルカの福音書18章も、ローマ人への手紙の15章も、まことの愛なる方がおられなければ全く意味のない個所であります。ですから聖書のテーマは、愛そのものであります。 「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」、とパウロは語りました。 ここで、今までお話したことを少し整理すると、次のように言えるのではないかと思います。 ローマ人への手紙14章、先ほどお読みした「信仰から出ていないことは、みな罪です。」、というみことばは、「愛がないなら、何の値うちもありません。」、というコリント人への手紙第Iの13章のみことばと同時に語られなければなりません。片方だけ強調するということでは決してありません。 「信仰から出ていないことは、みな罪です。」、しかし、「愛がないなら、何の値うちもありません。」、そうでなければ的外れの、実体のない、そのような信仰に陥ってしまう危険性が常に私たちには存在いたします。 パウロは「信仰による義」ということをただ強調しているのではありません。 ものの本にはたくさん、パウロは信仰による義、信仰のみという表現がよく目にされますけれども、むしろパウロはその土台である愛そのものを兄弟姉妹に語り続けたと言えます。 「愛がなければ。」、これがパウロと当時の兄弟姉妹たちの合言葉であります。愛がなければ、ということであります。 あるひとりの兄弟が昔書かれた本の中で、次のような文章に出会ったことがあります。 信仰とは、キリストの望まれているものを具体化する貴重な能力である。とひとりの兄弟は自分の言葉で語られました。 彼は、信仰とは能力である、と認識していたようであります。目的ではありません。私たちが追い求めるものは信仰ではなく、愛そのものでなければならない、と彼は認識していたに違いありません。 パウロはコリント人への手紙第Iの13章に続いて、14章の1節で、すぐそのあとで、「愛を追い求めなさい。」、と書き記しています。 キリストの望まれているものとは、みことばのうちに隠されている主ご自身である愛が私たちの内側に宿り、キリストの喜びが私たちの喜びとして満たされる、ということではないかと思います。 これはヨハネの福音書15章の11節にこういう意味のことが書かれています。 イエス様ご自身が、イエス様ご自身が私たちの内側に宿って、主の喜びが私たちの喜びとして満たされる。それをイエス様は弟子たちに語ってくださいました。 わたしの喜びをともに喜んでくれ、とマタイの福音書でも語られています。ヘブル人への手紙の著者は4章の2節でこういう表現をしています。 ヘブル人への手紙4:2
こういう表現をしております。 みことばは、信仰によって、結びつけられるのであります。そのために、結びつけられるために、信仰がある、と言えます。 同じヘブル人への手紙の著者は11章の1節、よく引用される個所ですけれども、 ヘブル人への手紙11:1
目的そのものではなくて、望んでいる事がらを保証するものである。目に見えないものを確信させるものである、と語っています。 先ほどの兄弟はそれを能力という表現をいたしました。キリストの望まれているものと、私たちが追い求めているものが一つとなる時、私たちの心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。こうヨハネは書いています。 これはヨハネの福音書7章の38節に書かれた事がらですけれども、このみことばが信仰によって結びつけられた結果、その結果を私たちは味わうようになります。 信仰によって、みことばが私たちに結びつけられる、ということはそのとおりに私たちの身に起こるということであります。 この喜びを見つける者は本当に幸せな者と言えます。心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。これが事実となるということであります。 ヘブル人への手紙の著者は続いて、12章の2節で、 ヘブル人への手紙12:2
すなわち愛から ヘブル人への手紙12:2
と続けています。信仰が完成するとは、愛に出会うこと、そして愛に目を注ぎ続けるということに限りなく近い事がらではないかと思います。 私たちはどこまで行っても、愛そのものになりきることはできません。しかし私たちの内側に住んでくださる主、愛ご自身を内側に宿すことによって、大きな祝福を、先ほど兄弟が学んでくださったように、大きな祝福を約束されています。 彼の、イエス様のみそば近くにいることが私たちの喜びそのものであります。信仰の完成者に近くはべることこそ、ダビデの喜びであり、人生そのものであったと言えます。 愛とは私たちが頭で考えているような人情でもなければ、戒めによる信仰でもありません。 信仰は律法に引き寄せられやすいと言えます。そしてまた、愛は人情や感情に引き寄せられやすいと思うのです。 ですから弱い私たちには助け主が必要であると、イエス様は判断してくださり、そして彼が十字架についたのちに、天に帰られたのちに、弱い私たちに代わりに聖霊を送ってくださったと聖書は記しています。 この聖霊に導いてもらわなければ、私たちには無理であります。全然ダメなのです。 私たちの判断を主イエス様にゆだねるということはできません。導かれなければできません。すなわち、みことばに信頼するということが私たちの人生の目的でもあると思いますけれど、そのことは私たちの力では決してできません。 聖霊が必ず私たちの心を導いてくださると、そこに目を留める時、私たちは導かれているという現実を知るようになります。 私たちが信じているということは、こういうことではないかと思います。漠然としたことではありません。 目に見えないものを確信するようになる、とヘブル人への手紙の著者が語ったように、私たちは確信することができます。それは導かれるからであります。聖霊を送られているからであります。そのように聖書に書いてあるからであります。 この根拠はイエス様ご自身の真実であります。イエス様は愛だからであります。そのように聖書に書いてあるからであります。 私も昔ある兄弟に、聖書に書いてあるから信じるのだ、と何度も言われましたけれども、ピンと来ませんでした。そんな馬鹿な、そんな論理的ではないことをどうして信じることができるだろうか、と長い間思っておりました。 しかし、今、書いてあるから、そして彼は裏切ることのない方であるから。決して失望させられることがないから。彼は、今日ご一緒に考えてきたような、そういう方であるから。低い者を高く上げ、高い者を低くされる、そのような方であるから大丈夫である。そのように信じるようになりました。 ヘブル人への手紙の、先ほどの12章の2節の後半に示された愛が根拠であります。 ヘブル人への手紙12:2
すなわち、愛は、 ヘブル人への手紙12:2
ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、十字架の死のゆえに、私たちの代わりに死ぬことを喜びとされた、とヘブル人への手紙の著者はイエス様をこのように受け取ることができました。 ヨハネも手紙に次のように書きました。 ヨハネの手紙第I、4:10
ヨハネも、ここに愛があるのです、と書きました。 私たちの残された人生の、あるいは赦された人生の全ては、この愛から、この方から目を離さないでいることに尽きるのではないかと思います。 私たちの前には、あれもしたい、これもしたい。あれもある、これもある、と思いがちですけれども、その全ては小さなことであり、私たちに残された、赦された人生の一切は、この愛から目を離さないこと。イエス様の近くにいること。このことに尽きるのではないかと思います。 そのときに初めて私たちは聖霊を通して導かれる。イエス様ご自身の愛が私たちの内側に流れてくる。 あの長血の女性がイエス様の衣の裾にさわった時に、力が流れて、彼女のところにイエス様から力が流れ出したように、私たちはイエス様のご愛を知ることができます。 今日、兄弟姉妹とただ一つのこと、すなわちまことの愛に思いを寄せることができた幸いを心から感謝いたします。 私たちはあらゆる思い煩いから離れて、愛を追い求めている一つの群れであります。 最後に詩篇の91篇をお読みして終わりたいと思います。 詩篇91:1-3
詩篇91:15-16
どうもありがとうございます。 |