引用聖句:エペソ人への手紙1章10節-14節
先週の土曜日に、ガンが再発された、告知を受けた兄弟のところをお尋ねいたしました。彼は、痛みで祈ることもできないことがあると言われたのであります。心の奥に平安が与えられていたとしても、生身の体は、力が萎えることがあります。 聖書を開くことも、祈ることさえできないこともあるのですね。心は燃えていても、肉体は弱いからであります。 兄弟と別れる時に、みことばを残さずに帰ることはできませんでした。彼と彼の家族を、主とその恵みのみことばとに、おゆだねすることのできる、そういう幸いは本当に感謝なことでありました。 約2,000年前に、イエス様は天に旅立つ前に、すなわち昇天される前に、弱くて力のない弟子たちのために、父なる神に願ってくださいました。 ヨハネの福音書14:16
これがイエス様の祈り、イエス様の願い、またイエス様のみこころでありました。主は、天に旅立たれる前に、残していかれた恵みのみことばであります。 7日前の夕方、三つのことばを残させていただきました。そして帰ったんですね。この1年間、私自身があらゆる時に、支えられたみことばでもありますし、地方の兄弟姉妹たちと何度も味わったみことばでありました。 今日も、病でこのつどいの場に来ることのできない多くの兄弟姉妹がおられますけれども、彼らのためにもこのみことばを、お送りしたいと思います。 どのように祈ったらよいか、分からない時のために、次のみことばが、私たちに与えられています。 1つ目のみことばであります。 ローマ人への手紙8:26
どのように祈ったらよいか、分からない時のために、もう1人の助け主が与えられました。このような嵐の中で、私たちは御霊によって、主イエス様とつながっているということを知るようになります。 御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなして下さっているからであります。 これは旧約時代の初めから、聖書の始めから、創世記の始めから貫かれている、主の父なる神のみこころそのものであります。望みの約束、心からの私たちの慰めそのものであります。 創世記28:11-13、15
これは、ヤコブが夢で見た望みの約束であります。イエス様が、天と地を結ぶ、犠牲の梯子となってくださいました。 主の御霊が、この犠牲の梯子を行き来してくださるので、私たちは神との平和を持っています。これこそが、御霊の働きそのものではないでしょうか。 パウロは次のように語っています。 エペソ人への手紙2:18
梯子を上り下りしてくださる御霊によって、御霊において、父の御許に近づくことができるのです。これこそ、御霊の働きそのものではないでしょうか。 これはヤコブが、父と兄を騙して、家を出たその日の夜の出来事でありました。私たちは、自分の血の中で、もがいていた時の出来事だったんですね。 この約束が与えられたのは、私たちがもっとも激しく抵抗していた時、彼から遠く離れようとしていた時、先ほどのみことばの通り、死のうとしていた時、その時に与えられたみことばでありました。 これは、初めからの約束であります。そしてこれはまた、その後2,000年近くたった新約時代の幕開けに語られたみことばでもあります。ナタナエルが初めてイエス様に出会った日に、告げられた望みの約束でもあります。 ヨハネはそれを第1章に、彼が、イエス様のことを書き記したヨハネの福音書の1章に書かれています。 ヨハネの福音書1:51
2,000年たったその時、ヨハネは、梯子を人の子と記しています。まったく同じ約束のみことばそのものでありました。 イエス様は、この望みの約束である助け主、すなわち御霊、聖霊をサマリヤの女に、すなわち私たち異邦の民にも告げられました。 ヨハネはついに、そのようにこの約束が、今まさに成就しようとしていると告げ知らせたんですね。そして、最初に異邦の民に、サマリヤの女に告げられました。 ヨハネの福音書4:13-14
わたしが与える水とは、永遠のいのちに導いてくださる、主の御霊そのものではないでしょうか。 そしてこの女に語られたことを、その後で、群集にもはっきりとお語りになりました。 ヨハネの福音書7:37-39
私達は、主が旅立たれた今、これらすべてのみことばを聞きました。これらの約束が、もう一人の助け主、御霊によって私達の内に実現しているということを、知っております。 聖書こそ、保証書そのもの、保証するものではないかと思うのですね。そしてその保証書が保証していることとは、御霊ご自身が与えられたという、良きおとずれではないでしょうか。 パウロはコリント人への手紙第IIの1章22節で、 コリント人への手紙第II、1:22
と書いています。そして、同じ5章の5節で、 コリント人への手紙第II、5:5
この方が私達のために与えられている。このことを、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」とイエス様は私達1人1人に語ってくださっています。 たとえ理解できなくても、聖書が保証しているということであります。ですから聖書は、パウロは次のように言いました。「御霊を消してはなりません」これは、大切なみことばではないでしょうか。 テサロニケ人への手紙第I、5:19
御霊を消すと、保証内容を忘れると、喜びも祈りも、感謝も消えてしまうからであります。 ですからパウロは、喜びと、祈りと、感謝のみことばの後に、御霊を消してはいけません。御霊が消えると、すべてが消えてしまうと書いたのであります。 2つ目のみことばをお読みいたします。「目をさましていなさい」という命令であります。 マルコの福音書13:33-35
ここに登場する人物は、旅立つ人と、しもべと、門番であります。この箇所のテーマは、「気をつけなさい、目をさましていなさい、注意していなさい」という命令であります。 この命令は、この世の命令でも教えでもありません。まことの喜び、まことの開放への招きそのものであります。 このみことばは、私達がどのように気をつけるのか、どのように目をさましているのか、そしてまたどのように注意していればよいのかということを示しています。 ちょうどそれは、旅に立つ人が、出掛けに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任をもたせ、門番には、目をさましているように言いつけるようなものですと、イエス様は、語りはじめられました。 旅立つ人とは、もちろんイエス様であります。昇天される方、天に帰られる方であります。イエス様が、出掛けにしもべと、門番にそれぞれ言いつけられました。 出掛けにとは、イエス様が十字架にかかって死なれた時、帰られた時、この世を去る時に、主はこのみことばを残していかれました。 最初に門番に言いつけられたことを見てみたいと思います。それは次のことでありました。34節をもう一度、 マルコの福音書13:34
これは、私がはじめてこのみことばを読んだ時に、心から驚いたみことばの1つであります。 門番とは、羊の門、すなわちイエス様と1つとなって、働く方、すなわち御霊そのものではないでしょうか。門と門番が1つになって、働かれるのであります。 従って、目を覚ましていなさいという、聖書全体が警告するみこばは、しもべである私たちの力でなすべきことではありません。聖霊、御霊が担ってくださる役割ではないでしょうか。聖霊の仕事そのものではないでしょうか。 ですからこの根拠に立って、私たちは、イエス様がこのように言いつけられた助け主を送ってくださった、目をさましているようにといいつけられた、御霊、助け主を与えてくださっているという記述にもっともっと目をそそぐように命令されている、懇願されているのではないでしょうか。 このようにして生きよ、と言われているのではないでしょうか。 マタイの福音書25章1節から13節。これは、後でお読みになっていただきたい箇所ですけれども、ここに書かれているように、賢い5人の娘も、愚かな5人の娘も、全員がうとうとして、眠ってしまいました。同じように私たちもまた、弱くて、眠ってしまう者であるということを、イエス様はよく御存知であります。私たち以上にご存知であります。 ですから、たとえ私たちが、うとうとするようなことがあったとしても、決して眠ることのない御霊による恵みの道が、私たちには備えられていると言えます。 主を愛する私たちには、御霊の働きによって、この主を信頼する交わりに、導き入れられるのであります。 私たちは、どのように信頼していいのか分からない、そのような者ではないでしょうか。何度聖書を読んでも、何度信じるように言われても、信頼するように言われても、私たちにはピンときません。 しかし、この助け主が、その信頼の道をご自身が目を覚まして導いてくださる。ただこれだけが、真実ではないでしょうか。 そのためには、意識して1人の方を見上げる必要があります。私たちにできるただ1つのことは、意識してということではないでしょうか。ただ、このことだけが、考えられないほど大切であります。 3つ目のことばは、詩篇121篇1節から8節、都上りの歌と題された箇所であります。 御霊に助けられて、山を見上げる歌といってもいいかもしれません。 詩篇121:1-4
これは、マルコが語ったように、まどろむことのない、目を覚ましている方は彼1人であり、そしてそのように命令され、私たちをその道に導いてくださる方は、御霊そのものであります。 私たちは、目を覚ましていることさえおぼつかないから、ですから助け主が必要であります。ですから、都上りの歌が、私たちのためにも歌われています。 私たちは、まどろむ者ですが、この方は違います。決してまどろむことがない方であります。私たちが、山に向かって目を上げるのは、主の山の上には、備えがあるからであります。 創世記22章14節に、 創世記22:14
主の山の上、丘の上には、十字架が立てられているからであります。 主の山の上、ゴルゴタの丘の上には、十字架につけられた方がおられるからであります。 パウロはコリント人への手紙第I、2章2節で証しています。 コリント人への手紙第I、2:2
パウロは、このようにして目を覚ましていました。このようにして御霊に導かれて、生きたのであります。ですから、私たちも意識して、山に向かって目を上げようではありませんか。 「目を覚ましていなさい」という命令は、まどろむことのない方、決して眠ることのない方、十字架につけられた方に信頼することができるように、意識して御霊によって歩みなさい、意識して御霊に導かれて生きよという命令ではないでしょうか。 この方に信頼をおく時に、私たちは初めて、安心して眠ることができます。 詩篇127篇2節は、本当にすばらしい箇所ではないでしょうか。 詩篇127:2
そして、脚注に別訳として、このようにあります。「主は愛する者に、眠りを与えられる」、私たちは、このように平安な眠りを与えられながら、目を覚ましていることができるのであります。 ただ、十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心する時、この主の恵みにあずかるようになるのではないでしょうか。 最後に、私たちに直接、命じられた仕事とは何かということを、見て終わりにさせていただきます。 先ほどお読みしましたマルコの福音書13章34節に「しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ」と書かれています。 別の箇所を通して、この箇所を考えてみると、1つはマタイの福音書25章13節から30節の、タラントの教えであります。一部だけお読みします。 マタイの福音書25:13-15
それから天に帰られた。この箇所全体から聞こえる主の声は、私たちが割り当てられた仕事とは、それぞれ違う額の、違う能力の、主の財産を100%使いきるという仕事であります。 本当は1タラントの人にも、1タラント100%使いきってもらいたかったのではないでしょうか。遠慮して使わなかったり、高ぶって能力以上に見せようとすることでは決してありません。 そしてもう1つの箇所、ルカの福音書16章1節から11節の、不正な管理人のたとえを通しても、このことを考えることができます。一部だけお読みします。 ルカの福音書16:3
私たちにまかされた仕事とは、管理する仕事、 ルカの福音書16:8-9
このみことばは、新約の都上りの歌と言えるのではないでしょうか。これらのみことばから示されることは、私たちに割り当てられた仕事とは、主の財産を管理する仕事であります。そしてとりもなおさず、不正の富を用いて、友を作る仕事ではないでしょうか。 なぜなら、私たちしもべに主があずけた財産とは、私たちの、この世のいのちそのものではないかと思うからであります。 このいのちは不正の富だからです。私たちのいのちは、自分のものではない、借り物の不正の財産、不正の富と言えるでしょう。 もちろんその中には、借り物の能力も不正の富の1つです。主は私たちを、不正の富を用いて、友を作る仕事を責任をもって行うように、世に送り出してくださいました。 すなわち、一時的に預かったこの世のいのちを用いて、短いいのちを用いて、御霊に導かれ、御霊によって歩み、主を心から信頼する、真の交わりの中に入れられることではないでしょうか。 終わりに、そのことを要約している、短いみことばを読んで終わりにいたします。このみことばは、兄弟姉妹1人1人にとって、またキリストを頭とするからだなる教会全体にとって、今一度立ち返るべきところではないかと思います。 マタイの福音書18:19-20
主がそこに、永久のいのちの祝福を命じられたからであります。 ここからいのちの水が流れ出し、都を目指して歩む私たちが、責任をもってなす仕事、福音を述べ伝えるというのは、こういうことではないでしょうか。 |