私たちは、聞いたとおりを、そのまま見た


岡本雅文兄

(岡山喜びの集い、2006/07/15)

引用聖句:詩篇48篇8節
8私たちは、聞いたとおりを、そのまま見た。万軍の主の都、われらの神の都で。神は都を、とこしえに堅く建てられる。セラ

兄弟姉妹とイエス様によって結ばれるという、ただこの一点を持って、このように親しくしていただいているのは、本当に感謝であります。
このように、久しぶりですけれども、兄弟姉妹と会えるというのは、私たちの生き甲斐でもあります。決して大袈裟なことばではありません。
今日は、ごいっしょに、今読んでいただいた詩篇の48篇の8節から、「私たちは、聞いたとおりを、そのまま見た」というテーマで考えてみたいと思います。

この個所は数週間前、吉祥寺の祈り会で兄弟が読んでくださったその個所であります。
そのみことばのとおり、私は、聞いたとおりを、そのまま見たと、本当に兄弟の学びを通して、祈りを通して、心から感謝せざるを得なかったのです。
「私たちはキリストに会った。」、これこそ聖書の中に満ち満ちている証しであります。また、証言であります。

今日はみなさんとごいっしょに、ゼベダイの子ヨハネの証しを中心に考えてみたいと思っております。
彼こそ、ヨハネこそ、初めから最後までイエス様がなさった一切を見てきた証人であるからであります。
晩年のヨハネの証しは次の通りであります。ヨハネの手紙第Iの1章。よくご存知の証しだと思います。

ヨハネの手紙第I、1:2
2――このいのちが現われ、私たちはそれを見た

という証しであります。この決定的な出会いを、ヨハネは、何十年も経った晩年に、老年に手紙を残しました。
ヨハネにとって、主イエス様こそいのちそのものであったからであります。そして彼は続いてこう書いています。

ヨハネの手紙第I、1:2
2それを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。

このいのちは、ヨハネの言ういのちは、単なるいのちではありません。永遠のいのちであります。死んでも生きているいのちであります。
ヨハネは老年になっても、最初の日のことをはっきりと、彼の瞼と彼の心に焼き付けておりました。忘れることなど、彼にとって決してできませんでした。
そして、今日私たちもヨハネと同じように、この永遠のいのちに出会う。このような恵みにあずかっています。

若き日のヨハネが初めて主イエス様に出会った、あの日のことを彼は、ヨハネの福音書の1章に記しています。
ヨハネは当時、多くの民衆に尊敬されて、慕われていた、バプテスマのヨハネ、名前は同じヨハネですけれども、別人であります。このバプテスマのヨハネの弟子のひとりであったようです。
はっきり書いてありませんけれども、バプテスマのヨハネの弟子のようでありました。まず最初に32節から34節をお読みしましょうか。ヨハネの師である、先生であるバプテスマのヨハネが主イエス様に出会ったのです。

ヨハネの福音書1:32-34
32またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。
33私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』
34私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」

これが、バプテスマのヨハネが証しをしている個所であります。イエス様に出会った個所であります。
私はそれを見たとバプテスマのヨハネは言いました。だから、それで、この方が神の子であると証言しているのです。このように証しをしたのです。
それを見たとは、彼が聞いた、そのとおりを見たということであります。すなわち、聖霊がイエス様の上に下って、その上にとどまられるのを見たのであります。

彼は聞いたとおりをそのまま見て、証しをいたしました。そして、その次に初めてヨハネが登場いたします。福音書の著者であるヨハネが見た証しが続きます。
これが彼の原点。いのちの始まりであります。35節から。

ヨハネの福音書1:35-39
35その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、
36イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。
37ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
38イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」
39イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は十時ごろであった。

このふたりの弟子のひとりがヨハネであったかどうかは明らかにされていません。しかし私は個人的にこれは、このひとりはヨハネ本人に違いないと思っています。
いつもヨハネは自分自身をこのような目撃者として、また、あるいは、側にいる者として聖書の中に登場させているからであります。そして、このふたりのうちのもうひとりは、ペテロの兄弟アンデレでありました。アンデレははっきりと書いてあるのです。
このときの彼らふたりの思いは、彼らふたりがイエス様について行った思いは、イエス様の質問で明らかになっています。38節です。

ヨハネの福音書1:38
38「あなたがたは何を求めているのですか。」

という質問であります。これに対して、彼らふたりの答えは、「先生。今どこにお泊まりですか。」というものでありました。居場所を聞いたのです。すぐに行こう!という強い志を持っていたというわけではないようであります。
居場所さえ聞いておけばいつでも行ける。あとでも行けるというぐらいにしか思っていなかったのではないかと思うのです。
しかしイエス様の答えは、いますぐというものでありました。「来なさい。」これこそイエス様の命令であります。「来なさい。そうすればわかります。」これがイエス様の答えであります。こうして、ヨハネとアンデレはその日、幸いに出会いました。まことの恵みのことば、まことのいのちのことばに出会ったのです。

その日は彼らにとって、ヨハネとアンデレにとって一生涯忘れることができない日となりました。
今日、集った私たちをイエス様は全く同じように取り扱ってくださっています。「来なさい。そうすればわかります。」、こういう呼びかけであります。
2,000年間、彼は、イエス様は毎日、私たちに、「来なさい。そうすればわかります。」、これだけを語ってくださっています。

ヨハネとアンデレはついて行きました。この声に従ってついて行きました。何にもわかりませんでしたけれども、彼らはついて行った。と記されてあります。
そしてその日、彼らは、ヨハネとアンデレは主とともに、イエス様とともに過ごしたのです。そのつもりではなかったかもしれません。しかし彼らは羊のように牧者である主の声に聞き従ったと記録されています。
その日彼らはイエス様と語らいを持ち、そしてイエス様の人格に触れる恵みにあずかりました。

そこで何があったか、ひとことも書いてありません。先ほどお読みした個所だけであります。しかし彼らはわかったのです。ふたりはわかったのです。聞いていたとおりだったのです。彼らは見たのであります。
「私たちはメシヤ、すなわちキリストに会った。」、彼らの証しはこういうものでした。短い証しであります。これが始まりでありました。
そしてこの証しをアンデレは自分の兄弟シモン・ペテロに告げました。私たちはキリストに会った。聞いたとおりであったと告げました。そしてシモン・ペテロをイエス様のもとに連れて来たのです。そのときイエス様は、シモン・ペテロに目を留めてくださいました。

出会いとはいつでも、このようにシンプルなものであります。これはヨハネの証しでもあります。記述されていませんけれども、ヨハネ自身のことは彼の心のうちに、アンデレのあかしのうちに隠されていると思うのです。彼も全く同じ思いです。
アンデレがペテロに伝えたように、ヨハネは自分の兄弟ヤコブに告げたに違いありません。そしてヤコブも主イエス様に会いました。イエス様はヤコブにも目を留めてくださいました。
今日、初めて来られた方がおられるかもしれません。もしそうであれば、その方はアンデレに連れて来られた彼の兄弟ペテロであります。そしてまた、ヨハネに連れて来られた彼の兄弟ヤコブではないかと思うのです。もっとも愛する人に、もっとも親しい人に、もっとも近い人に、この方に会った喜びをどうしても伝えたい。ただこの一心で私たちはイエス様に会った喜びを伝えたいと思うようになります。

そしてここに登場する兄弟たちは余分なことばを一切、ひとことも語っていないのです。ただ、「私はキリストに会った。」と告げました。これが喜びの訪れであります。始まりでありました。
今日が、2,000年前、その恵みのあの日の、同じような恵みが私たちに訪れるとすれば、本当に幸いであります。
翌日もヨハネは見たのです。イエス様はピリポに目を留められました。彼も、ピリポも、聞いたとおりを見たとナタナエルに告げました。同じように彼も証しをしたのです。ヨハネの福音書1章の45節をお読みいたします。

ヨハネの福音書1:45
45彼はナタナエルを見つけて言った。

ピリポに言ったのです。

ヨハネの福音書1:45
45「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」

私は会った。ナタナエルは反論いたしました。しかしピリポは再び言ったのです。

ヨハネの福音書1:46
46「来て、そして、見なさい。」

46節にこのようにあります。

ヨハネの福音書1:46
46ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」

彼は聖書をよく知っていたのです。

ヨハネの福音書1:46
46ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」

私たちもこれしか言えません。上手く説明できません。ただ、彼に会えばわかります。言えるのはこれだけであります。
主に出会ったナタナエルは、即座に知るようになりました。主イエス様は全てを、一切を知っておられるという事実であります。
同じヨハネの福音書の4章の28節、29節をちょっと開いていただけますでしょうか。ここでは、五人の夫をもっていたサマリヤの女性のあかしが記されています。

ヨハネの福音書4:28-29
28女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。
29「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」

私は待ったということであります。一切を知っておられる方がいる。この女性は、この驚きを、この喜びを町の人々に告げました。そしてこの女性は、この方に出会ったとき、イエス様に出会ったとき、自分の水がめを、すなわち、自分で一生懸命生きて来たつもりの、自分でたてたストーリーや計画をそこに置いて、新しく生きるようになりました。
このことがナタナエルはわかったときに、こう言ったのです。「あなたは神の子です。イスラエルの王です。」このようにナタナエルは言いました。
こうして彼らは、兄弟たちは2,000年前に救われました。従うようになりました。そして私たちも同じように、全く同じようにイエス様に呼ばれています。「来なさい。」ということです。「そうすればわかります。」、短いことばですけれども、私たちが呼ばれていることばであります。

これらのことがあったのち、約3年半に亘って、ヨハネはイエス様と寝食をともにいたしました。そしてその間、見たのです。主がなさった、ありとあらゆる奇蹟、ありとあらゆるしるしを見ました。
ヨハネはこの福音書に七つの奇蹟を、七つのしるしとして記しています。
そしてユダが銀貨三十枚でイエス様を売ったとき、主とともに、彼もゲッセマネの園におりました。イエス様が捕えられる一部始終を全て見たのであります。

その夜、ペテロが、主を知らないと三度否んだときに、彼も同じ庭におりました。
ローマの総督ピラトによってイエス様が十字架に引き渡されたときも、ゴルゴダへの丘の道中も、十字架につけられたときも彼はそこにいたのです。
ヨハネは見たのであります。そして彼は、日々の歌にあるように、釘を打つ音を聞きました。十字架の下にいたのです。

イエス様が息を引き取られる直前まで、ヨハネは主の側にいたと記されています。
イエス様はその最後のとき、母マリヤをヨハネに託しました。そのとき、イエス様は全てのことが完了したのを知られたとあります。
初めから終わりまでヨハネは一切を見てまいりました。ヨハネの福音書19章をちょっと見ましょうか。十字架につけられたイエス様の側での記述であります。

ヨハネの福音書19:25-28
25兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
26イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。
27それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
28この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。

このように記されています。私は、このヨハネの証言を無視することは出来ません。この聖書に書かれた、今日ごいっしょに見て来たひとつひとつの事実は、私の小さな人生の経験など、全く比較にならないほど確かな、大切な事実であります。
彼の書いた、ヨハネの書いた福音書、そして手紙、また黙示録を通して、私が出会ったヨハネの人格を疑うことは出来ません。彼の証言は真実であります。私が知っているこのヨハネは、決して嘘をつける人格ではありません。
そして、このヨハネが証言する主イエス様を、決して否定することが出来ません。

私は、ヨハネが信じた同じ主イエス様を信じています。聖書の一字一句を信じるようになりました。
わがままで、家出同然であった私や、今日、集っておられる兄弟姉妹は、同じ思いだと思いますけれども、イエス様は、一番良い着物を持って来て、この子に着せてやりなさい。このように語られる、ただひとりの主であります。
昔、創世記で、彼らの先祖、私たちの信仰の先輩であるヤコブは、ひとつの約束を夢で見ました。創世記の28章の10節からお読みいたします。

創世記28:10-12
10ヤコブはベエル・シェバを立って、カランへと旅立った。
11ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。
12そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。

しかしヨハネたちは夢ではなくて、直接イエス様の約束を聞いたと記されています。
先ほどのヨハネの福音書1章の最後の個所であります。はるかに時が流れて、ヨハネはこうナタナエルとともに聞きました。

ヨハネの福音書1:51
51「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

ヤコブは夢でこの約束を見ましたけれども、ヨハネたちは、弟子たちは、イエス様から直接この約束をはっきりと聞きました。
はしごとは、人の子主イエス様ご自身であると、この個所を見てわかります。イエス様を通してのみ、天と地は結ばれていると言います。主を通して聖霊が上り下りし、私たちは導かれるようになります。
聖霊とは、別のことばで言えば、キリストの心と言ってもいいかもしれません。父なる神のみこころ。主イエス様が死んで、地に残された一粒の麦から生まれた助け主であります。聖霊に導かれて、主にあって、私たち自身が神の宿る神殿であるという、この奇蹟を、この奥義を私たちは知るようになります。

理解できなくても、これが新しい約束であります。わからなくても、事実であります。神の奥義であります。
二ヶ所お読みしましょうか。コリント人への手紙第Iの3章の16節、17節。私たちの心に思い浮かんだことのない思いであります。

コリント人への手紙第I、3:16
16あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

17節の最後のところで、

コリント人への手紙第I、3:17
17あなたがたがその神殿です。

そして、コリント人への手紙第II、4章5節から。

コリント人への手紙第II、4:5-7
5私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。
6「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
7私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

私たちのような土の器。汚れた、壊れやすい土の器に、主が住まいとして、今すでに住んでくださっていると、新しい約束を与えられています。
主に従う者は、主を信じる者は、その人自身が神の住まいであり、神殿そのものであると、私たちには決して理解できない、考えたこともない、そのような約束が事実として与えられました。
この恵みの約束が私たちのうちに実現された。これが福音であります。主は私たちとともにおられる。という約束であります。

最後にもう一度申し上げたいことは、私たちもキリストに会ったということであります。私たちも、聞いたとおりを、そのまま見たと言いたいと思うのです。
聖書のひとつひとつのことばが事実であった。そのとおりであった。これが、ヨハネと同じように、私たちの証しそのものであります。
この私の内側に主イエス様が住んでくださっていると、みことばのとおりに、そのとおりであったと申し上げたいと思うのです。そしていつも、みことばのとおりに、相談相手になってくださっていると証しをしたいと思います。みことばのとおりに、全てのことを働かせて、益としてくださったからであります。

二ヶ所お読みして終わりにしたいと思います。最初に詩篇の46篇の4節から7節。

詩篇46:4-7
4川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。
5神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。
6国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発せられると、地は溶けた。
7万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。

そして最後に、最初に読んでいただいた詩篇の48篇を飛び飛びにお読みいたします。

詩篇48:1-3
1主は大いなる方。大いにほめたたえらるべき方。その聖なる山、われらの神の都において。
2高嶺の麗しさは、全地の喜び。北の端なるシオンの山は大王の都。
3神は、その宮殿で、ご自身をやぐらとして示された。

そして8節。

詩篇48:8
8私たちは、聞いたとおりを、そのまま見た。万軍の主の都、われらの神の都で。神は都を、とこしえに堅く建てられる。セラ

そして12節から。

詩篇48:12-14
12シオンを巡り、その回りを歩け。そのやぐらを数えよ。
13その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために。
14この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神であられる。神は私たちをとこしえに導かれる。

どうもありがとうございました。




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