何よりもまず


岡本雅文兄

(西神福音集会、2010/08/01)

引用聖句:ペテロの手紙第I、4章7節-8節
7万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
8何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

昨日、本当に久しぶりに、自分の部屋を一歩も出ないで、聖書を読む時間が与えられました。
一年に何回かあるかという時だったんですけれど、本当に外に一歩も出ないで、ずっと朝から先ほどまで、朝の4時か5時頃までずーっと。
何かどんどん冴えてきて、結局、少し横にならないといけないと思うと、今度はつい寝坊したということになりました。

私自身は、小学校の低学年の頃にイエス様を知るようになりました。それから約50年がたってしまいました。
その間にたくさんの悲しみとか、喜びを経験してまいりましたけれど、その中で最も大きな不幸というのは、キリスト者そのものの中に、多くの争いが見られてきたということであります。
この世の人と同じように、かたくなな心が、そのままで私たちの間に存在しているという事実を、たくさん見てまいりました。真の教会、栄光の教会の大切さを聖書から学んでも、私たちの間には、熱いものが流れない、冷ややかな状態が続いている、そういう多くの群れを見てまいりました。

そして、地方で過ごしたときも、やはり本当に一人ひとりいろいろな問題をかかえて、そして群れそのものも、たくさんの問題をかかえているということを、吉祥寺にいる時以上に考えるように、感じるようになりました。
そして、このようなことが起こる原因が、起こる心が、イエス様を殺したということができます。
ですから、大切なみことばが2,000年間、このように告げてこられましたけれども、それにもかかわらず、先ほど読んでいただいたみことばは、何と無視されてきたことでありましょうか。もう一度お読みいたしましょうか。2つお読みいたします。

ペテロの手紙第I、4:7-8
7万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
8何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

ヨハネの手紙第I、3:11
11互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。

初めから充分に聞いている教えだと、ヨハネは書きました。

ヨハネの手紙第I、3:14-15
14私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。
15兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。

当時ペテロもヨハネも、このような手紙を書かざるをえなかったと言えます。イエス様を信じるようになった者が、最も大きな問題として残されていることがらとは、こういうことだったのではないかと思うのですね。
そしてこのことこそ、人を殺す者である、すなわちイエス様を十字架につけた、そのような心であるとペテロもヨハネも語っています。

私たちは、このみことばをどのように読んでいるのでしょうか。
兄弟姉妹を憎む者は、もう論外であります。しかし、兄弟姉妹を愛さない者はと書いてあるこの一言は、非常に大切であります。
兄弟姉妹を愛さない者は、死のうちにどどまっているというみことばを、私たちは本当に毎日、知って思いおこしているのでしょうか。

この人が、イエス様を殺したとヨハネは書きました。永遠のいのちではなく、死のうちにとどまっている。重いことばであります。
この心がイエス様を十字架につけた。「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだあの心とは、こういう心であるとヨハネもパウロもペテロも、皆当時の弟子たちは考えていたのであります。
私たちは、このみことばと血を流すまで戦ったことがあるでしょうか。ヘブル人への手紙の著者は、私たちが罪と血を流すほどまでに戦ったことがあるかと語っています。このみことばと戦ったことがあるかどうか、これが大きな問題ではないでしょうか。

今日、このようなテーマを取り上げたのは、私自身も、御霊に探っていただきたいと考えたからであります。
この混乱の今の時代にあって闇の力、すなわち悪魔ともサタンとも呼ばれる闇の力は、巧妙な策略を立てて、キリスト者の群れを陥れようとしているということは、聖書から明らかであります。
パウロはエペソ人への手紙6章11節、12節で次のように告げています。

エペソ人への手紙6:11-12
11悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
12私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

パウロが考えていた暗闇の力とは、私たち一人ひとりが思っているような、そういうレベルのものではなかったのであります。
主なる神に訴え続けたヨブという男は、最後に主なる神に出会う時がやってまいりました。その時、語られたことばは次の言葉であります。何度も引用した箇所であります。

ヨブ記38:1-3
1主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。
2知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。
3さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。

「あなたはわたしの裁きを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。」、すなわち、「自分が正しいと言い張って、わたしを殺すのか。わたしを十字架につけるのか。」ということではないでしょうか。
勇士のように腰に帯を締めよ。そして、ヨブがこの主なる神のことばを聞くにあたって、腰に帯を締めよと言われました。
真実を認める勇気が与えられるように、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして耳を傾けるようにと告げられたのではないでしょうか。

ここに、聖書が告げる、私たちが尽くすべき愛があります。
私たちが語る愛というのは、感覚的な、人情的な、そのような愛が第一にあげられるのではないでしょうか。
しかし、聖書が語る愛とは、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして耳をそして心を主に傾けるように、そのように尽くすべき愛、そのことを聖書全編が語っています。

パウロは、ヨブ記を何度も思い起こしたのではないかと思うんですね。なぜならば、悪魔がヨブに対するように、策略をもってパウロに近づいてきた時に、神の武具として、ヨブと同じように、腰には真理の帯を締めました。
すなわち、真理なるイエス様ご自身を帯として、そして立ち向かったのであります。ヨブは、最後に自分の一切を明らかにされた時、「勇士のように腰に帯を締めよ、そのように心を整え、身を整えて主を仰いで、そして聞くように。」と諭されたのであります。

パウロも同じように、悪魔の策略に立ち向かう時、腰には真理の帯を締めたのですね。エペソ人への手紙6章14節から18節は、ヨブ記を知っているパウロが、さらに主から与えられた武具を身に着けて、サタンに相対したと語っている所であります。
パウロは、真理の帯の上に、胸には正義の胸当てを着けました。足には平和の福音の備えを履きました。これらすべてのものの上に、信仰の大盾をとり、救いのかぶとをかぶり、御霊の与える剣である神のことばを受け取ったのですね。
そして、すべての祈りと願いを用いて、どんな時にも御霊によって祈ったのであります。これが、パウロの人生そのものでありました。

パウロは、最後に次のように書いています。「そのために絶えず目を覚ましていて、聖徒のために、すなわち兄弟姉妹のために忍耐の限りを尽くし、また祈った。」、と書かれています。
彼がそのように実行したからこそ、手紙で兄弟姉妹に書いたのであります。
これが、パウロの人生そのもの、祝福の秘訣そのものでありました。

ヨブに与えられた主の忍耐と恵みのみことばを目を凝らし、耳を傾けて、彼が実際に実行に移した結果そのものであります。
私たちは、確かにイエス様の訪れの足音を耳で聞いたことでありましょう。
多くの兄弟姉妹たちと集う喜びにも恵まれました。そして、イエス様のみことばを毎日読んでいますけれど、最も大切な、心の内側は、イエス様と関係のない、自分を喜ばせたいという生活、そのような人生を送っている時が多いのではないでしょうか。

ヨブもパウロも主に出会ってからは、命がけで主を愛し通したといえます。すなわち、命がけで兄弟姉妹を愛したと言えます。彼らは、ヨブもパウロもそしてヨハネもペテロも、兄弟姉妹を愛することの中に、主を愛することを知ったからであります。
言い換えると、そのことの中にだけ、主を愛するということがあると言えるのではないでしょうか。
ですから、もし兄弟姉妹のうちの、たった一人でも愛したくない思いがそのままになっているとすれば、イエス様はどんなに悲しまれるでありましょうか。

福音書の中にも、祭壇に供え物をする時、もし人に恨まれているということを思いついたなら、祭壇に供え物をするのをそのまま止めて、そしてその人の所に行って謝りなさいと書きました。
礼拝よりも、もっと大切な本当の礼拝があるとイエス様は語っておられます。
私には、いつでもイエス様が叫んでおられる叫びがあるんですね。いつでも思い起こすみことばがあります。それは、エゼキエル書18章31節、32節であります。

エゼキエル書18:31-32
31あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。
32わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ。――だから、悔い改めて、生きよ。

このみことばは、いつでも心に湧いてくるみことばであります。すなわち、「兄弟姉妹を愛したいと心を定めて生きよ。」というみことばではないでしょうか。
「悔い改めて、生きよ。」、ただ、空念仏ではありません。具体的にイエス様が私たちに示しておられる、最も大切な事柄は、「兄弟姉妹を心から愛したいと心を定めて、ダニエルのように心を定めて、生きよ。」、そういうことではないでしょうか。

愛せない理由を並べたてて、弁解すればするほど、ぶどうの木から遠ざかってまいります。福音書に出てくる永遠のいのちを口にしながら、イエス様を目の前にしながら、悲しみながら立ち去っていった人のようであります。
マルコの福音書10章22節に出てくる人のようであります。永遠のいのちが欲しいと心で、本当に思っていたのかどうか、私たちは、その箇所を見て、その行動をみて、その実をみて、疑いを持つようになります。
実をみて判断しなさいと、イエス様は語ってくださいました。実際に私たちは、何を望んでいるのでありましょうか。何を目標として、すなわち何を的として、生きているのでしょうか。言葉を変えて言えば、何のために集っているのでしょうか。

今日、ご一緒に考えてきたことを二人の兄弟たちは手紙に書きました。
パウロは、愛するテモテに書いた別の手紙の中で次のように言っています。

テモテへの手紙第I、1:5
5この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。

パウロの生きる目標は、はっきりしています。愛でありました。生まれつきの、彼の内側には見出すことのできない愛だったんですね。
ただ、木から枝に流れてくる、そういう愛でありました。ただ、主イエス様のご支配の中に歩む時にのみ可能となる、そういう目標でありました。彼が、今まで知らない愛でありました。
すなわち、御霊によって歩むという目標、そのうちに導かれる愛であります。ただ、御霊に支えられて、聖徒のために、兄弟姉妹のために、忍耐の限りを尽くし、また祈るという生き方であります。

ペテロも当時の兄弟姉妹にあてて、心からのメッセージを送りました。先ほどの箇所ですね。

ペテロの手紙第I、4:7-8
7万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
8何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

「何よりもまず」、本日のタイトルであります。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。これこそ、私たちが覚えるべきみことば、御心ではないでしょうか。なぜなら、何よりもまずと言われているからであります。
その理由は、ペテロによれば、万物の終わりが近づいたからであります。そして、祈りのために、心を整え身を慎むためでありました。そのために、何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさいと、ペテロもパウロと同じように書いたのであります。
そうでなければ、祈れないからであります。そうでなければ、祈りとならないからとペテロは、考えたのであります。

互いにとありますけども、パウロもペテロも相手から何1つ要求しませんでした。一人ひとりが、主ご自身と契約する。それが互いにということであります。
もう明らかなように、イエス様を信じるということ、あるいは、イエス様を愛するということは、とりもなおさず、何よりもまず、互いに熱心に愛し合っているということの中に、見られる事実であります。
私たちは、概念として愛を告げられているのでは決してありません。主なる神は、私たちに解かるように、また実行できるように、この愛を備えてくださいました。

それは、兄弟姉妹の中に備えてくださいました。聖書は、このような愛であふれているのですね。ですから、真実を申し上げたいと思います。兄弟姉妹を愛していないならば、イエス様の愛にとどまっていない。これが聖書の結論であります。
当然、イエス様の命令に従っていません。ですから、永遠のいのちというぶどうの木ではなくて、死にとどまっている。私たちに弁解の余地はありません。あの人やこの人が、どのようであるかどうかは、いっさい聖書には語られていません。
ただ、あなたはどうですか。これだけが、イエス様の問いかけであります。この一点が戦場、すなわち戦いの場となっている人は、本当に幸いであります。

どうか、一人の兄弟姉妹も無関心ということがないように。このようなサタンの罠、策略から逃れてもらいたい。すなわち、死んでほしくない、これがイエス様の心からの祈りであります。
十字架の上で、願い求めてくださった祈りとは、「どうしてあなたがたは、死のうとするのか。死んでもらいたくない。死にとどまってもらいたくない。」
イエス様は、次のように祈ってくださいました。その時イエスはこう言われた。

ルカの福音書23:34
34「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

ルカの福音書23章34節にあるみことばであります。
彼らは、死に向かおうとしているということが、どういうことなのか解からないのです。何をしているのか自分で解からないのです。
彼らは、死に向かっている、死のうとしている、死にとどまっているそのように言ってくださいました。

人にはできないことが、神にはできると信じきった人は、何と幸いでしょうとルカは語っています。
ヨブも責め続けられた3人の友のために、祈りをささげた時、すなわち兄弟たちを許した時、回復されました。死からいのちの木につぎ木されたと言うんですね。
そしてヨブを責め続けた3人の友を、主が命じられたように、ヨブの前にへりくだった時、受け入れられました。

ヨブ記42:9-10
9テマン人エリファズと、シュアハ人ビルダデと、ナアマ人ツォファルが行って、主の彼らに命じたようにすると、主はヨブの祈りを受け入れられた。
10ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにし、さらに主はヨブの所有物をすべて二倍に増された。

42章もあるあの長いヨブ記の最後に一言、このようにかかれました。ヨブは、自分、自分、自分と悩みの中で悩み尽くしましたけれども、ただ彼が回復されたのは、友のために祈るように導かれた時でありました。
そしてあの3人の友も、主の前にへりくだり、そしてヨブの所に行って、ヨブの前に人の前にもへりくだることができた時に、いっさいが終わったと書かれてあります。
この事実は何と大きなことでありましょうか。これだけが祝福の原則、その他は何一つありません。

ところがほとんどの群れで、ほとんどの兄弟姉妹のあいだで、この最も大切な主の命令が、実行に移されていないと私は思うのであります。主ご自身の判断も同じではないでしょうか。
聖書が言う愛するとは、普通のことではないからであります。私たちが知っているような愛のことを言っているのではありません。
もうすでに大人になってしまった者にとって、兄弟姉妹を愛するとは、戦いそのものであります。愛せない者を愛する戦いそのものであります。

創世記のあのヤコブが、ヤボクの渡しで戦った戦い、争いとはこのような戦いではなかったでしょうか。
兄エサウを愛することができない、恐れしかない、そのような人と人との戦いを、そしてそのこと自身が、神そのものとの戦いであったと創世記の記者はしるしています。
そして彼が心砕かれ、そして導かれ、そして神の前にへりくだった時、人の前にもへりくだるようになりました。

神にも勝ち、そして人にも勝ったと彼は判断されたのであります。愛せない者を愛する戦いそのもの、全人生をかけるに値する戦いそのものであります。それは自分に失望することから始まる、全く新しい試みであります。
心の内側に隠しもっている持ち物を売り払うという志を持った者が、祈り合うなら次のみことばが成就いたします。
マタイの福音書18章19節、20節です。これは単なるみことばではありません。志を持った者が、受けるみことばであります。

マタイの福音書18:19-20
19まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
20ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

わたしの名において集まるとは、戦う意思を戦う志を持った者の集いであります。
決して、生まれつき与えられた私たちの心では、愛することは絶対にできません。そのことをよく知った者たちが、それでも主の命令どおり、愛することができるようにと血を流してまで、戦うという志を持った者の集いです。
そうすれば、そういう所には必ず主が共におられ、そしてそれを叶えてくだると約束しておられます。そうでないならば、イエス様が言われるとおりに、取り扱われるのではないでしょうか。

マタイの福音書7:21-23
21わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
22その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
23しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

原因は、明らかであります。主のために行うのではなく、自分のために行おうとしているからであります。
人の心は陰険で、ただ自分を喜ばせたいだけであると聖書全編が語っています。主をいつわることは決してできません。
また、怒りはいつでも自分のために起こります。正義のためと言いながら、何と多くの人々が争っていることでしょうか。そこには、イエス様が流された血潮は一かけらも見当たりません。

本日は、言葉で語り尽くすことのできないテーマをあえて取り上げました。かえって混乱された方もおられるかもしれません。
ただ、イエス様を愛するという、最も私たちにとって大切なことは、兄弟姉妹の関係の中にあるということを共に考えてみたかったのであります。
長い間イエス様を信じて、多くの交わりを与えられ、多くの群れの中に身を投じることのできた幸いとともに、その中にイエス様が最も願っておられる、まことの愛が欠けているということも同時に見てまいりました。

今日ご一緒に考えたこと、これはほんの一部分ですけれども、これがきっかけとなって、主の前にそして主の前ということは、人の前にへりくだることができれば、本当にうれしいと思います。
最後に、子供のように素直になるということは、どのようなことかを、みことばを2箇所お読みして終わりたいと思います。イエス様は、愛するということと共にそれは同じことかもしれません。
子供のようにというみことばを私たち大人にくださっています。そのことをみことばを通して思いながら、今日の学びを終えたいと思います。

マルコの福音書10:15
15まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」

ですから子供のようになるとは、うれしい時は喜び、悲しい時には泣く、素直な心そのものではないでしょうか。
そして最後にヤコブの手紙5章12節、13節、16節を読んで終わりたいと思います。
ここにも、「何よりもまず」というみことばがありますので、ペテロのみことばと同じことを指しているのではないかと思うんですね。

ヤコブの手紙5:12-13、16
12私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい。」を「はい。」、「いいえ。」を「いいえ。」としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。
13あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。
16ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。




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