2つの願い


岡本雅文兄

(若者キャンプ、2010/08/14)

引用聖句:ヘブル人への手紙11章6節
6信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

まず初めに、皆さんに謝らなければなりません。大人たちの1人として、若い方々に、本当に心から申し訳ないと思っています。
この世に生を受けた時に、白紙のような状態であったあなた方に、真実を、真理をお伝えすることが出来ない、そういうことが出来ていないと思うからであります。むしろ私たち大人が、皆さんを惑わしていると思うからであります。
この世の大人たちの多くが、私たちも含めてかつては、「人に見つからなければOK。」、このような生き方をしているからであります。

たぶん皆さんも、多くのことを見てこられたことでしょう。見つからなければ大丈夫、このような人生を送っている大人たちがたくさんいます。
イエス様をお伝えしているつもりでいる私たち、イエス様を信じていると言っている私たちそのものが、自分たちの生まれつきの性質とか、配慮のない言葉で、かえって皆さんを傷つけたり、混乱に陥れている場合が多いということもよく知っています。
ですから、初めに心から謝りたいと思うのです。

そして、もう1つ許してもらいたい。私たち大人も、皆さんと同じように迷って来たからであります。
私自信も、大いに悩みながら、本当のものを求めてまいりました。そしてそのこと、戦いと言ってもいいと思うんですけれども、その戦いを通して、聖書のことばが真実であったこと、本当であったこと、そのことをあらゆる機会を通して知らされてまいりました。
その中で、本日は特に若い皆さんにお伝えしたい2つのことについて、ご一緒に考えてみたいと思っています。

聖書には、先ほど読んでいただいたみことばのように、次のように書かれています。ヘブル人への手紙11章6節ですけれども、ちょっと堅い表現をしていますけれど、

ヘブル人への手紙11:6
6信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

ここに、2つのことが書かれています。言い換えればこの2つのことが、神様に喜ばれることであると言うことができます。
すなわち、信仰というむずかしい言葉が使われていますけれど、そういうことではなくて、本当に大切なことがここに書かれている。2つのことが書かれている。
1つは、神がおられること。もう1つは、神を求める者には、報いてくださる方であること。この2つであります。

まず最初の、神がおられることについて、しばらく考えてみたいと思います。
皆さんの中には、神を信じることは、非科学的であると考えている人がおられるのではないでしょうか。あるいは、人に軽蔑的な目で見られるのは、恥ずかしいと思っている人がおられるかもしれません。
神を信じるということに関して、心の中でモヤモヤしたまま、納得できないまま、窮屈な思いをしておられるということはないでしょうか。少なくとも私は、そうだったんです。恥ずかしいという思いがありました。

ところが20代の中頃になって、自分で聖書と、その当時、もう30年以上前になりますけども、最先端の科学の両方を冷静に調べ始めると、今まできちんと知らされていなかった事実、目をみはるばかりの驚くべき事実を次々と知らされるようになりました。
今でも、世の中で報道されている内容を聞いていると、神は死んだとか、すべての物は偶然に出来上がったというふうな、表現、報道を聞くこともあるでしょう。
しかし、現代の一流の科学者たちの真実なる見解は、次のようなものであります。

これは、私が言っているのではなくて、一流の最先端をいっている科学者たちの多くの意見です。
偶然の積み重ねで、例えば偶然の突然変異の繰り返しで、と言い換えてもいいでしょう、偶然の積み重ねで、大きな進化が起きるには、あまりにも時間が足らない。
すなわち、宇宙の年齢は若すぎる。この宇宙とその中に存在するすべての被造物、造られたものが出来上がるには、1つの方向に向かわせる、何か大きな力が必要であるという見解です。これを多くのほとんどの学者、科学者が認めているのです。

科学の進歩によって、自然の神秘は、ベールが次々と剥がされていると報道されていますけれど、事実は反対であります。ますます不思議さは深まっているんです。
緻密な知性、驚くべき計画性がそこに見られます。デザイナーが存在するとしか考えられない。
これが多くの冷静な科学者たちの理解しているところであります。これが科学的な洞察というものであるんです。

皆さん、もう1度言いますよ。現代の科学で言えることは、その大きな力が、何かを証明し尽くすことはできませんけれども、1つの方向に、秩序という1つの方向に向かわせる意思、あるいは英知と言ってもよい何者かが存在するということなんです。
これを多く、本当に調べ尽くした科学者たちが信じています。
このことを否定する人も、もちろんいくらかはいます。しかし、客観的な科学的な事実は、そのような見解は無知の産物であると告げているんです。

ですから、何1つ恥じることはありません。調べれば解かります。ただ、神を信じたくないという、そういう思いを持っている人だけが、事実を客観的に評価することができずに、「神はいない」と言い続けているのであります。
これこそが、現代人として恥ずかしいことではないでしょうか。私は、皆さんにこの問題に大切な時間をかけていただきたくないんです。私自身が、何年も何年もこの問題にかかわったからであります。約9年ぐらい、毎日、毎日このことについて本を読みました。
しかし、皆さんにはもうこのようなことから、さっと手を引いていただきたい。さっと通り過ぎていただきたいんです。ですから今日、お話したいと思っています。具体的な事実を2つだけお話して、第1の問題は終わりにいたしましょう。

1つは、宇宙の始まりについて、聖書の第1ページ目には、「光よあれ」という主なる神のことばとともに歴史が始まった、そういう経緯が書かれています。

創世記1:3
3そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

と創世記の1ページ目にあります。この聖書の記事は、多くの人がおとぎ話であると考えていたようであります。
しかし20世紀後半になって、私たちが住んでいる宇宙は、聖書が言うとおり、ある時を、ある1点を境として突然はじまったと考えられるようになったんです。
現在のほとんどの科学者が支持しているビッグバン理論。聞いたことがあるでしょう、ビッグバン理論。これは聖書のみことば通り、宇宙は一瞬にして始まったことを指し示しているんです。

私の言葉では信用できないでしょうから、ノーベル物理学賞を受賞した、スティーブン・ワインバーグという人がいます。
彼は、宇宙の始まりを「初めに爆発があった」このような言葉から書物を書いているんです。誕生直後の宇宙全体の大きさ、これは爆発した瞬間、そのほんのすぐ後にはピンポン玉よりも小さかったと、この理論は説明しています。
こんな小さな物そこから、この宇宙が始まったんです。

測定することはできませんから、爆発したそのすぐ後、このように論文にも書いてあります、爆発とともに、すなわち光とともに「光よあれ」というみことばと共に、宇宙が出現し、そして私たちが知っているすべての秩序ある被造物が、創造されたということを告げています。これが、現代科学の最先端の見解であります。
人が住む環境として、これ以上には考えられないほどまでに整えられた地球も、またあるいは想像することさえできない緻密さで造り上げられた、生命の知的なデザイナー、すなわち造り主によって計画され、そしてまた造られたとしか考えられない。これは皆さんにもお解かりでしょう。何を見ても、こんなに不思議なものができるはずがない。
ビッグバン理論の登場は、聖書を否定していた科学者たちを、混乱に陥れたようであります。

もちろん理論ですから、むやみに断定することや議論することは、避けるべきだと私も思っているんです。ですから、普通はあまりこの話はいたしません。
ですけれども、若い方々にこのような問題のことで、神様から遠ざかってほしくないと思っています。確からしさ、確率という数学の方法をもってしても、この問題は神がおられるとしか言いようがありません。
同じように、20世紀の中頃に発見されたDNAという言葉をご存知でしょう。ディオキシリボ核酸というのが正式な名前ですけれども、DNAについても全く同じです。

体の基本をなす、すべてのたんぱく質を作り出すのに必要な、遺伝子情報を提供するそのしくみも、また驚くべき驚嘆するべき事実であります。
そのみごとさは、想像を絶しているんです。突然できあがるとか、何かわからないある力が働くというレベルで考えられる内容ではありません。
そこに知的なデザイナー、造り主がおられることを考えないことこそ、愚かなことではないでしょうか。聖書はこう言っています。

詩篇14:1
1愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。

そしてもう1つ、私が20代の時に出会ったみことば、

ローマ人への手紙1:19-20
19なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。
20神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

これで第1の問題は終わりにいたしましょう。
次に第2の問題、「神を求める者には報いてくださる方であること」、このことについて少しだけ考えてみたいと思います。
報いてくださる方、すなわちイエス様とは、どのようなお方なのでありましょうか。聖書は次のように言っています。

ローマ人への手紙4:3-5
3聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。
4働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。
5何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

皆さん、あらゆる時にこのみことばを思い起こしてもらいたいと思います。当然支払われるべき報酬だけを、支払われる方ではないということ。何の働きもない者にこそ、恵みが与えられる。そのような方であるということ。
むずかしいかもしれません。当然働いた分だけの報酬を与えられるということだけではなくて、当然それはもらえますよ。ですけれども、何の働きもない者にこそ、恵みが与えられる。
今日は時間がありませんので、後でぜひマタイの福音書20章を読んでいただきたいと思います。ぶどう園のたとえという、有名な箇所です。これは、今お読みした手紙の差出人であるパウロが、この手紙の根拠としたイエス様の人格が、そこに現わされているからであります。

イエス様が用意してくださっている報いの大きさは、働きの大きさにかかわらず、心の内側の真実によると、聖書は私たちに語っているようです。ですから、後でマタイの福音書20章1節から16節までをぜひお読みになってください。
これは、実際にはどのようなことなのでしょうか。聖書を読むだけではなくて、このことが皆さんの生活の中にどういう影響をもたらすのか、少し考えてみたいと思います。
少しあとの、マタイの福音書25章14節、15節をお読みいたします。タラントのたとえとして有名な箇所です。

マタイの福音書25:14-15
14天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
15彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。

本当はその後もずっと読んでいただきたいんですけれども、天の御国とは、神の御支配と言えると思うんです。
そしてそれは、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようですと14節で言われているとおり、場所というよりも、人格を表していると解かります。不思議な箇所ですね。天の御国とは、こういう人のようですと人格を表現しています。
つまり天の御国とは、イエス様ご自身ともいえるのではないかと思うんです。ですから、イエス様を知るということが、天の御国を知るということ、そして神がご支配されるという、そのこと自身を皆さんが知ること、体験すること、喜びにあふれること、満たされること、そういうことではないかと思うんです。

いっさいの答えが、イエス様の内にあるといえます。イエス様とは、私たちの理解をはるかに超えたお方です。
そして私たちはこのイエス様の財産、すなわちイエス様が大切にしているもの、財産とは大切にしている物でしょ、ですからここで、イエス様の財産を預けたということは、イエス様が大切にしている物を預けているということが解かります。
私たち一人ひとりは、イエス様が本当に大切にしている物を預かっている、ということを表しているのではないかと思うんです。

能力に応じて1人には5タラント、1人には2タラン、もう1人には1タラントを渡されましたと書かれています。15節です。
当時の1タラントというのは、6,000デナリだと言われています。1デナリとは1日の賃金。したがって単純に計算すると、365で割ると16年ちょっとの賃金になります。
ですから、私たちが預けられたものが、いかに大きなものかが解かります。すなわち、一生を意味するいのちそのもの、一人ひとりのタラントとして、預けられたそれは本当に大きな財産、イエス様の大切にされているものと言えるのではないでしょうか。

さらに、イエス様をよく知っている人は、主が分け隔てをしない方であるということも知っています。ですから、能力とか異なるタラントは、決してその人の価値をはかるものではないということが解かります。
能力の違い、タラントの違いとは、個性の違いあるいは、名前のようなものと言ってもいいのではないでしょうか。
イエス様が一人ひとりの名前を呼んでくださる、そのようなもの、これがタラント、賜物その違いとはそういうものではないかと思うんです。

イエス様の人格とは、そういうような方であります。人の名前が異なるように、一人ひとり違う個性、すなわち賜物を持つようにお造りになりました。
一人ひとりに本当にふさわしいいのちを、また人生を預けられている。これが聖書をとおして私自信が確信していることであります。
この箇所で強調されていることは2つあるんです。

1つは預かったタラント、言い換えるといのちと言ってもいいかもしれません。人生と言ってもいいかもしれません。この預かったタラントを充分に使いきること。充分に用いること。これがこのたとえの1つのメッセージであります。
人との能力の違い、個性の違いにはよらず、預けられたタラントを一人ひとりのいのち、一人ひとりの人生を充分に用いた者には、等しい評価が与えられているんです。
マタイの福音書25章21節、23節を読むと、こう書いてあります。

マタイの福音書25:21、23
21,23その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

ところが、せっかく預けられた1タラント、16年ちょっとの賃金に相当する、そのようなタラントを預けられた人は、地の中に隠しておいたとあります。
その人は追い出されました。24節から28節に書いてあります。これが2つ目のことであります。
これは何を意味しているのでありましょう。

もしこの人が、1タラントを充分に用いたいという志が与えられていたとすれば、2あるいは5タラント預けられた人と全く同じように、イエス様の持っておられる喜び、主の喜びに預かる恵みが与えられていたにちがいありません。
ここに、イエス様が喜んでくださる人生が示されています。本当の志がここに書いてあるんです。
イエス様の切なる願いが、この聖書のことばを通して、お一人お一人に語られています。

私は、この方をこのような人格を持った方を信頼しています。皆さんの中には、昨夜ビデオを見られた方も多いと思うんです。まばたきの詩人、水野源三さんの人生を綴ったビデオでした。
彼は小さい時、9歳の時に脳性まひにかかって、話すことも、書くことも、そして動くこともできなくなりました。47歳で天の御国に帰るまで、寝たきりだったんです。
しかし彼は、今日ご一緒に考えてきたとおりに生きて、すなわち聖書のことばの通りに自分の人生を使い尽くして、自分の与えられたタラントを使い尽くして、人との違いに目を向けずに、自分の与えられた人生を100%使い尽くして、天の御国に帰っていかれました。イエス様と1つになったんです。

昨日ビデオを見て、よくお解かりでしょう。彼の詩を紹介いたします。
昨日、読まれなかった詩と読まれた詩、1つ1つお読みいたします。1つは「誕生日」という詩です。

1月2日、私がこの世に生を受けてから43年
脳性まひになって、床に伏してから33年
キリストの愛にふれてから29年
この世におられるのは、あと何年かな、いや何ヶ月かな

この詩を読んだ4年後に、彼は、『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』と言われました。
もう1つは、昨日もビデオの中で紹介された「生きる」という詩であります。覚えておられると思います。

神様の大きな御手の中で、
かたつむりはかたつむりらしく歩み、
ほたる草はほたる草らしく咲き
雨蛙は雨蛙らしく鳴き
神様の大きな御手の中で、
わたしはわたしらしく生きる

イエス様は、彼に詩篇15篇2節の志を与えられたようであります。「心の中の真実を語る人」となる志であります。
「感謝と賛美をささげる人」となる志を、源三兄弟は与えられました。そして御心として、まばたきで文字を伝える恵みを与えられたんです。
これは、今お読みした詩は、そのようにして1文字1文字ひろって作られた詩であります。

「青年よ、大志をいだけ」という言葉を皆さんはよく知っておられるのではないでしょうか。Boys, be ambitious.という英語の方が有名かも知れません。
しかし、よく聞いてください。札幌農学校一期生の新渡戸稲造たちが、クラーク博士から聞いた言葉は、Boys, be ambitious in Christ.すなわち、キリストにあってだったんです。キリストになければ、イエス様になければ、成り立たない薦めであります。
イエス様にたよって、イエス様に相談して、彼とともに人生を歩むという大志をいだけ、これが真実だったんです。

ですから、神がおられることと、神を求める求める者には、報いてくださる方であることとを信じていただきたい。
主なる神様から預かった皆さんの、あなたがたのいのちを、すなわち人生を、100%発揮させてもらたいと祈りもとめるなら、必ずそのとおりになります。
それ以上でも、それ以下でもありません。100%預けられたものを100%発揮できるように、祈り求めるそのような人生に、是非なってもらいたい。それが本当に、主の前にへりくだるということではないでしょうか。

真の謙遜とは、いっさいの造り主なる、主なる神を恐れて、主から預けられた借り物のいのち、一時短い間、預かったいのち、預かった人生として与えられたタラントどおり、大胆に生きることではないでしょうか。
それこそが、私らしく生きるということではないかと思うんです。誰からも独立して、主と共に、また兄弟姉妹と共に、人生を使いきる恵み、真の報いを与えられるにちがいありません。
本日のメッセージを終わるにあたって、クラーク博士が土台にしたと思われる聖書のことばそのものを、若き皆さんに贈りたいとおもいます。2箇所お読みして、終わりにいたします。

1つは、ピリピ人への手紙2章13節です。パウロが牢獄の中で皆さんにあてた手紙であります。

ピリピ人への手紙2:13
13神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。

そしてもう1つは、旧約聖書のダニエル書10章12節。ダニエルと言われたことばに、ご自分の名前を入れて、何度も思い起こしていただきたいと思うんです。

ダニエル書10:12
12彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。




戻る