引用聖句:マタイの福音書22章1節-14節
今、嵐がやって来ようとしていますけど、聖書の中で嵐と言いますのは神様のことを考える、神様から御言葉を頂く時として、非常にふさわしい機会ではないかと思います。 詩篇148:8
本当に心に残る御言葉があります。御言葉を行う嵐。そしてヨブ記では、本当にヨブが悩み苦しんだ最後の時に嵐の中から主なる神は仰せられた。ヨブに最後の最後に御心を明らかにしてくださったのは、嵐の中からでありました。 今日もこうして、兄弟姉妹がこの場に集って、そしてイエス様からの御心を、すなわち御言葉をお聞きするのに本当にふさわしい時ではないかと思いながら来たわけであります。 私自身のことを少し話せて頂きますと、最近仕事がうまくいきません。仕事が多いと夢を見るという伝道者の書の5章の3節に御言葉があります。 伝道者の書5:3
この通り、夢の中で仕事をしている。そういう夢をよく見るようになりました。毎日のように問題が起きるのですね。 最近、新しい仕事をするようになって、もうこれ以上悪くならないだろうと思っても、まだ下がある。もうそろそろと思っても。どうしたら良いかわからない状態が今でも続いています。 私の部下のひとりは、私と同じようにこの問題に巻き込まれて、悩むようになりました。最近の一週間は、一日も会社に来ることができませんでした。 毎日、朝メールをみるんです。そうすると、彼の自宅からメールが入って、今日は起きあがれませんと五日間連続でメールがありました。申し訳ない。恥ずかしいけど起きあがれません。こう言うメールが毎日来ているんです。 彼の気持ちもよくわかります。自分も夢の中で仕事をするくらいですので、彼の気持ちもよくわかります。睡眠時間が少なくなると、起きるのもきつくなります。気力も弱くなります。 望みがもしなければ私自身もたぶんそうなるでしょう。ですから、御言葉にしっかりと結びつかなければ起きあがることができません。起きあがれません。 このような状態で数ヶ月過ごしておりましたけど、悩みつつ、解放されつつ、祈りつつ仕事ができるということは、本当に幸いであります。 人は、生きるために希望が必要であります。望みが、必要です。望みとは、イエス様ご自身です。聖書は、はっきり書いてあるのです。 希望とは、イエス様ご自身です。自分の事を振り返っても、この望みにしっかりと結びつくために、このような状況を与えてくださって、そして特別に取り扱って下さっていると、御言葉を見る時に、御言葉に書いてあるから、そのように確信することができます。 また、同僚の悩みを共に悩むためにも、このようなことが起こされているのだと信じることができます。 これは、この状況が与えられているのは、主からのプレゼントである。これは負け惜しみでもなんでもなく聖書に書いてあるその通りであると思うのです。そう思うと、喜びが湧き上がってまいります。 イエス様を信じる信仰を与えられた人は幸いであります。なぜならば、望みがあるからであります。イエス様がすべてを知っておられるからであります。ですから大丈夫であります。 彼が、イエス様が許されて起こっていることだから心配ないのです。彼の計画は間違いないと書いてあるから、間違いありません。 詩篇25:3
そう書かれているから。御言葉が聖書の中に書かれているから、間違いありません。 詩篇4:3
そう書かれているから間違いない。主イエス様がおられなかったら、私たちはどうして新しい日を迎えることができるでしょうか。どうして、起きあがることができるでしょうか。 多くの場合私たちの人生はうまくいきません。次から次へと問題が起こります。悩みますし、苦します。そして悲しみで立ち上がることができない、そのような状況が起こって参ります。 イエス様を信じてからも、状況は同じように見えます。 しかし主なる神の判断は、それが、すなわち私たちの思うようにうまくいっていないことが、うまくいっているということなのであると聖書は語っていると思うのです。 最初はそこに目がいきません。しかし、何度も何度も叩かれ、苦しめられ、そして涙を流すようになると、うまくいっていないということは、うまくいっていると確信せざるを得ません。 真理は見える所にあるのではなくて、見えない所にあるからであります。 コリント人への手紙第II、4:18
聖書には、このようにはっきりとわかるように書かれています。見えないものとはどういうことなのでありましょうか。それは、心に思い浮かんだことのないもの。 見えないと言うことは、そう言うことではないかと思うのです。考えることもできないということではないでしょうか。今まで一度も考えた事がないこと、それほど素晴らしいものであります。理解できないものであります。今まで知らなかったものです。経験したことのない喜びであります。次元の異なる事柄です。 ですから、説明できないのです。信じる以外に触れることのできない、そう言うものであります。 イエス様に出会うと言うことは、イエス様に触れることであると聖書を見ると教えられます。触れるとは信頼することであり、つながるということでもあり、留まるということでもあると思うのです。 信頼できる方に出会うことこそが、人生の目的ではないでしょうか。生きる意味、そのものではないでしょうか。 生きているということは、そういうことではないかと思うのです。 イエス様のうちに、すべてが隠されています。聖書はそう語っています。イエス様のうちにすべてが隠されている答えがある。決して、彼に信頼する者は、失望させられることがありませんとパウロは言いました。裏切られることがありません。 私も短いですけれども、20数年。小学校の時に出会った時から数えると50年弱の間、イエス様と共にいろんな所で出会って参りました。 しかし、一度も彼には、彼だけには裏切られたことがない。そうなんです。 イエス様から離れていた時も、唯一「イエスさまー」と言う言葉は何度も口にしたと、そういう思いがあります。イエス様こそ、私たちの望み、希望そのものであります。 よく知られている12年間病気で苦しんでいた女性。長血の女性と聖書は紹介していますけど、彼女がイエス様に触れたときに、彼女は本当の幸せを見つけました。 マルコの福音書5:24-34
長血が治ったとは、病気が治ったとは、息を吹きかけられた、すなわち生き返ったということではないかと思うのです。まことの命、永遠の命を得たということであります。 そこに、この娘とイエス様の間が信頼の糸で結びつけられた、そのような状況がありありと浮かびます。そこに信頼があったということであります。触れることができたのです。 あなたの信仰があなたを治したのですと、イエス様は語られました。彼女が信じたからであります。彼女がイエス様を下さった信仰と言う礼服を持って、婚礼の席に、すなわちイエス様の前に出て行ったと言えます。これは、本当に聖書が私たちに提供している祝福そのものであります。 この御言葉の後に、イエス様はこの娘に語ってくださいました。「病気にかからず、すこやかでいなさい。」と言う御言葉は、私たちが、記憶を失うように弱くなった時に、何度も思い超すべき恵みの御言葉ではないかと思うのです。 病気にかかるとはイエス様から離れることであります。病気にかからずすこやかでいるためには、イエス様に触れ続けなければなりません。 御言葉の通りに、御心の通りに祈り続ける必要がどうしてもあります。そして、すでに聞いてくださったことを見る前に感謝して喜ぶ、そのような喜びに私たちが満ちあふれなければ、おかしいのではないかと思うのです。 聖書は、いつも語っています。ダビデは詩篇で、「御心の通りに私を支えて下さい。御心の通りに、御言葉の通りに。」と、この言葉を何度も繰り返しながら祈りました。 御言葉とは、主の御心であり、御心とは御言葉そのものであります。信じること以外にイエス様に触れることはできません。 今日私たちが集められた目的は、この方に出会うことであります。すでに信じて出会って信じてる人々も、今日再び出会うために集められたと言えます。 先ほど読んで頂いた、マタイの福音書22章の1節2節は、私たちが主に出会った様子が記されています。 マタイの福音書22:1-2
はじめに結婚の披露宴に招待された人がいたと書かれています。それは私たちではありませんでした。イスラエルの民でありました。 しかし彼らは来たがらなかったのであります。それで、しもべ達は通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者を皆集めたとあります。 異邦人である私たちはこうして恵みを受けました。私たちが良い人だったからではありません。良い人でも悪い人でも、出会った者を皆集めたと書いてあるからであります。私たちが良いか悪いか関係ありません。皆、招待されました。一方的に招待されました。 パウロはそのことをローマ人への手紙の4章で、こういう表現をして手紙に書きました。 ローマ人への手紙4:3
それが彼の義とみなされた。アブラハムは神を信じた。短い言葉であります。 「神を信じる」それしかイエス様に触れることができません。信頼する、それ以外にイエス様に触れることはできません。 ローマ人への手紙4:4-5
これだけであります。信じる以外に方法はありません。イスラエルから遠く離れた世界の果ての私たち異邦の民にも、招待状が届いています。 純正種のオリーブの木に雑種の我々が接ぎ木された。聖書はこのように記しています。 まずイスラエルの民が招かれました。そしてその後に彼らは来たがらなかったので、私たちが招待されました。 私たちは、異邦の民の中でも最も遠く離れた異邦人の中の異邦人であります。そしてまた私たちもまた、あの長血で苦しんでいた娘さんのように、主の宴会に招かれ、選び分かたれた者であります。 長血の女のように恐れつつ、しかも大胆にイエス様の衣の裾に触れることができたら、この嵐の近づく集いは本当に祝福されたものとなるに違いありません。 それは御言葉に耳を傾けることであり、御言葉を行う実行することではないかと思うのです。 数週間前に吉祥寺の礼拝で、ひとつの御言葉に圧倒される思いでありました。それはこういう御言葉です。 ペテロの手紙第II、1:10
この御言葉であります。礼拝の祈りの中で召されたこととは、主イエス様の十字架の御業であると導かれていきました。感謝が心の内から湧きだして満たされたのであります。 イエス様は、すべての人を招待してくださいました。すべての人が救われることを望んで死なれたからであります。私たちを主ご自身の婚礼の席に招待するために、イエス様ご自身が死んでくださった。それが、聖書のテーマであります。 あらゆるたとえがこのために語られています。あらゆる手紙がこのために書かれました。 ゼカリヤ書3:3-4
あの長血の娘は、ヨシュアのようにイエス様の前に立っていたと言えます。私たちも同じようにイエス様の前に立っています。汚れた服を着て立っています。自分で生きてきた結果、汚れた服であります。 マタイの福音書20章には、夕方まで一日中何も仕事ができずに立っていた労務者の例えが出てきます。彼も、以前は望みを持っていたに違いありません。しかし絶望してそこに立っていたのです。 彼は、心に思い浮かべることができない。希望も、望みも、何も思い浮かべることのできないそういう状態で立っていたようであります。 私たちができるのは、ただ主イエス・キリストのゆえに感謝すること。聖書を見るといつでも理由なく突然、主イエス・キリストのゆえに感謝しますと言う思いにひとりひとりが導かれています。 イエス様は彼の、彼女の、私たちの汚れた服を脱がせよと告げられました。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」と言われています。 礼服とは、主イエス様ご自身であります。パウロは、主イエス・キリストを着なさいと記しました。 ローマ人への手紙13:14
イエス様とは、ヨハネの黙示録によれば、血に染まった衣を着たお方であると紹介されています。彼だけが、イエス様だけが、血に染まっていなかったお方であります。 ヨハネの黙示録の19章では、その血に染まった衣を着た方の後ろに従っている者たちは、真っ白い、服を着て付き従ったとあります。 彼は血で染まった衣を着て、私たちは、主イエス様によって白くされています。 すべての方に、この方から招待状が届きました。私たちは、今この招待状を読んだのでありましょうか。 大きな試練があるとすれば、それが招待状であります。悩み、苦しみ、悲しみ涙と言う招待状の封を開けると礼服が入っています。マタイの福音書22章はそう言う箇所ではないかと思うのです。 血に染まった衣が招待状の封を切ると入っています。その服を持って、あるいはその服を着て宴会場の門をくぐりなさいとその招待状には書いてあります。どうか、今日、来られたおひとりおひとりは、その封を切ってくださいと思うのです。 最後に、選ばれたことについて、少し短くお話しして終わりたいと思います。 召されたことと、選ばれたことを確かなものとしなさい。 ペテロの手紙第II、1:10
召されたこととは、今申し上げたようにイエス様の十字架そのものであります。彼が死んでくださったから招待状が出されました。 血で染まった招待状であります。 マラキ書1:2
私たちは、ヤコブであります。理由は簡単です。すなわちイエス様が選んだ下さったからであります。 信じることのできない人は、「なぜ、神は、エサウを憎まれたのですか?」と問うでしょう。しかし、主に信頼する人は、パウロの手紙に目を留めるようになります。 理由は、私たちのこの世の知恵ではわかりません。 ローマ人への手紙9:11-13
善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず召してくださる方によると告げられました。いいとか、悪いとか、正しいとか、正しくないとかいうことでは決してありません。 ただ、主によるとパウロは、心から受け取ったのであります。 門から入るものはヤコブです。門とはイエス様ご自身であります。ヨハネもそのことをパウロと同じように、マラキと同じように聖書に記しました。 ヨハネの福音書10:7-9
このように、ヨハネはイエス様から聞いて書きました。主の宴会場に礼服を着ないで入ってきたものがあると、マタイは22章で記しています。 彼は門から入らないで、ほかの所を乗り越えてきた盗人であるとヨハネのこの箇所を見ればわかります。ほかの所とは、主イエス様以外のものであります。門以外のものであります。 似て非なるものはたくさんありますけど、イエス様以外のすべてであります。 人の知識や知恵で語る者。目で見えるものを追い求める者。魅力ある人間性を持ち出す者。いくらでも、私たちの周りにあります。 ただ、血に染まった衣を着た方の声だけに耳を傾けるようにと、ヨハネはこの10章を書きました。彼こそ、門であり、道であり、真理であり、命であります。 ですから選ばれたとは、私たちが受け取った招待状とともに届けられた礼服を着て、用意された祝宴の門を通ることでないかと思うのです。 ヨハネの福音書14:6
理由は申し上げることもできません。しかし彼に触れれば、彼を信じればわかります。すべてがわかります。彼は、決して失望させるようなお方ではありません。私たちは、決して裏切られません。 最後にパウロの手紙をお読みして、最後にしたいと思います。パウロは、ペテロと同じように、自分が召されたことと、選ばれたこととを確かなこととして一生を走り抜けた兄弟であります。 彼は、私はヤコブを愛したと言う言葉の中に真実を見つけた男であります。彼は、イエス様ご自身に出会ったから、すべてを棄てて、そのようになりました。 ローマ人への手紙9:14-16
私たちは、こうして選ばれました。 ローマ人への手紙9:21-25
ローマ人への手紙9:33
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