引用聖句:マルコの福音書5章35節-41節
もうこの前、ここに(広島)来させていただいて3ヶ月近くになります。 久しぶりに兄弟姉妹にお会いして、やはり娘のことを心配してくださり、いろいろな表現で慰めて下さいました。 このことについて、少しお話ししたいと思いますのは、昨日もそうでしたし、今日も少しお話ししましたが、親しい者を天に送る。そのことをなかなか忘れることができない。それは事実なんですね。けれども、普通、私たちが考えているのは、時間と共にそれが薄れていく。それは、ひとつの恵みではないか。そして、それを忘れさせてくれるというのは、よく聞かれることなんですね。 人によっては、数年、または何十年そのことにひきずられているのも現実であると思います。このことについて聞かれた時に、僕はだいたい大丈夫ですと言う表現をするのですけれど、そのことでは、それが、どういうことであるか、伝わりにくいと思います。そう思って少し補足させて頂きたいと思うのですね。 僕自身が強いから、そういうことを言うわけではありません。ぜんぜん変わらないし、人が弱くて自分が強いということは全然ありません。 本当に、救われてて良かったということは、実際の弱い自分の中ではそれが事実で、そこに目を向けると思い出がわき上がってくるのですけれども、そういう所に目を留めるのではなくて、聖書の約束、そこに目を留める時に、大きく変わってくる。そういう意味で、大丈夫ということなんです。 そういう意味では、本当に数日で回復致しました。何度も何度も、それは行ったり来たりでありますが、いつもそこに立ち返ることができる。それは、奇跡というほかは、ありません。 全然レベルが違うかもしれませんが、パウロも弱かったというのは、本当にそうだったんじゃないかなと、わかるような気がします。 そして今、リクエストしてくださった99匹の羊は、娘が召されたときすぐに思い出した聖歌ですし、聖書の中では、ルカの福音書15章。これはその通りだったんです。 今も歌っていて、その羊の鳴き声をたよりにと言うところは、本当にそうだなぁーと思ったのです。これは、祈り、叫びを、私たちの祈りや叫びをたよりに、イエス様は、私たちを捜し求めていたくださっているんだなーと、本当に、そういうふうに思います。 これは、ひとつひとつのみことばそのものではありませんけど、御心が十分に現れている歌だなーと思います。 そして、僕の子供は5人いましたので、最初ほんとうに、ひとりぐらい天に送っても、まだ4人いるじゃないかという思いもそうではなくて、ひとりひとりが、すべてである。イエス様の思いが、よくわかる思いです。 イエス様が、ひとりの迷った羊、それはここにある通り、死んでいた者が生き返るという大きなテーマを取り上げて、それはまた、私たちの人生にも体験する事実であることを覚えました。 17年前に、初めて吉祥寺の集会に行ったのです。ま、2月2日だったと思います。 その時、ひとりの兄弟の言葉が、いまも忘れられません。聖書の中心は、十字架ですと言われたのです。 僕がその時理解することができないということをよく知ったうえで、その兄弟は語られたと思うのです。こんなことを言っても、その時の僕には理解できない。 聖書の中心は十字架である。しかも、イエス様を信じていない者に対してこう言われたのです。いまだに、その深さは到底知ることはできませんけど、その後に遭遇するひとつひとつの出来事、目に見えることを通して、心の中に刻まれていったひとつひとつの出来事を通して、少しづつ、少しづつ感謝できるようになりました。 十字架のイエス様、彼は、私たちが死のうとしているのを見て、本当に心から悲しまれた。というふうに、思うようになりました。 私たちは現実にことの重大さに気がついていなかったと思うのです。死のうとしている私たちは、死に向かっている。そのように、イエス様は、本当につらい思いで見ておられたのだなと思います。 エゼキエル書18:31
そむきの罪。イエス様から離れている罪、背を向けている罪、ひとりで生きようとする罪。よく聞いている言葉ですけど、聖書にはっきり、「なぜ、あなたがたは、死のうとしているのか。」とはっきり書かれているのです。 これが聖書の私たちへの警告であった。私たち人間は、イエス様に背をむけて生きていくことがどのようなことか、はっきり知っていないのです。 このことは主にとって、私たちが死ぬということなんですね。あまり自覚することはできません。頭では確かに、ふんふんそうかなと思いますけど、イエス様にとっては、本当に重大なことなんです。私たちが、死ぬっていうことなんです。 私たちが、イエス様から目を離してひとりで生きようとしていることは、永久に失われる、二度と帰って来ないということです。 愛する者が二度と帰って来ない。愛する者を失うことはつらいことです。これが、十字架の上でイエス様が、悲しまれた悲しみではないかなと、断言することはもちろんできませんが、そうではないかなーと本当に、私自身思うようになりました。 つらさ、苦しみです。そして、イエス様に私たちが立ち返るということは、主にとって、愛する者を永久に取り戻すということ、再び永久にですよ。すなわち、生き返るということ。 ですから、聖書に書いてあるとおり、主にとってまた天において、私たちが生き返るという喜びは本当に大きいと、書いてある通りだと思います。 永久に失われる悲しみと、永久に取り戻す喜びについて、今回この3ヶ月少しの間、今まで以上に、考えるようになりました。 イエス様の十字架は、私たちが生き返るために備えられたと言えます。聖書の大切なテーマのひとつは、死人が生き返るというテーマではないか。と思うのです。 最近ずっとそれに関連したことを兄弟姉妹と考えているのです。さきほどの、マルコの福音書5章を23節から少しづつ見て行きたいと思います。 23節には12歳の娘、ヤイロというひとりの男の娘が死にかけていたという事実が報告されています。この箇所を通して記録されていることは、イエス様が到着される前に死んだということなのです。35節にはっきり書かれています。 マルコの福音書5:35
ところが、39節でイエス様は言われたのです。 マルコの福音書5:39
ま、そして彼女は起きあがって生き返った。この物語の要旨であります。 この箇所を読んで思うのです。イエス様にある者の死は、主にあって眠っているということなのです。主にあって起きあがるということなのです。 この物語は、単なる寓話ではありません。この2000年間ずっと私たちに告げ知らされた事実であります。すなわち、生き返るということ。聖書の重大なテーマであります。 主にあっては死んでいないということであります。主にあって、眠っているということなのです。2000年前のこの出来事は、意味なく私たちに伝えられていることではなくて、親しい者たちにまた弟子達にひとつのことを知ってもらいたかったに違いありません。 35節に、「あなたのお嬢さんは亡くなりました。」短い言葉です。36節に「恐れないで、ただ信じていなさい。」このふたつの言葉があります。これがすべてではないかと思うのです。 いま、この短い言葉の重みを受け取るようになりました。聖書を読んで知っているということと、本当に知るようになることの間には、大きなへだたりがあるなーと思うのです。 ひとつひとつの言葉を個人的に与えられて語りかけられるのだなあ、ということも思うのです。みことばが事実になるということがあるのです。 みことばは、先に私たちに届けられて、心の畑に蒔かれていて、ある時芽が出るというのは事実になることである。 35節に、父親のヤイロがこの報告を聞きました。それを聞いた時の彼の気持ちを、わたしは今まで本当に知らなかったのだろうなあと思うのですね。これほど大きな報告は、自分は、何度も読んでいましたが、気がつかずにいました。 これほど残酷で、しかも同時に喜びの訪れを告げる言葉はないと思います。「あなたのお嬢さんは、亡くなりました。」ま、悲しいことだろうなあ、たいへんだろうなあと思ってはいましたけれど、どういうことなのか。 このひとつの言葉は、どういうことなのか。ひとつの面で見ると、これほど残酷な言葉はありません。しかし、もうひとつの面で見ると、これほど喜びの訪れを告げる言葉はありません。 もう一度見ますと、「あなたのお嬢さんは、亡くなりました。」いっさいが意味を失った時です。いっさいが意味を失った時、その時主の言葉があったとこの箇所を見てわかります。 「恐れないで、ただ信じていなさい。」イエス様はこの報告を、この話の言葉を、そばでじっと聞いていてくださったとあります。 本当に、幸いなその喜びの訪れがここにあります。そして、その後に語りかけてくださったのです。このヤイロにとって、この時、これだけが意味ある事柄だったのです。すべてでありました。 「恐れないで、ただ信じていなさい。」 短い言葉ですけど、これだけが意味のある言葉だったのです。娘はこの言葉どおりに生き返ったのです。ですから、この箇所を読んで私も自分の娘が生き返っていると信じることができます。 そして、この一連の事柄を通して聖書にある別の言葉、新しい天、新しい地という言葉がありますが、聖書の約束が、身近に感じられるようになりました。 新しい天、新しい地。なにか、ぼやっとした言葉でありましたけれど本当にそれが新しくなる。天が地と非常に近くなる。それは言葉では言い尽くせない事実であります。 信じるということはこういうことなんだろうな、と今思っています。その時は、確かにわかりませんけど、わからない時に、その言葉をそのまま心の蔵に納めておけば、心に留めておけばということでしょうか。 イエス様の母のマリヤの最も素晴らしい特徴も、心に留めておけばということに思います。彼女は、たくさんわからないことがありました。イエス様を自分の息子として産んで、そして理解できないことが次々と起こりました。そのたびに彼女は心に留めて置いた。これこそ、彼女の祝福された根拠ではないかと思います。 その時、心の蔵に納めておけば、時が満ちて明らかにされます。その時、理解しようともがく必要はないということを彼女から知ることができます。 聖書に書いてある通り、そのように信じようとする時。理解しようとするのではなくて、わからないままに心に留めて置こうと信じる時に、いっさいが変わります。 ヨハネの福音書11章。この箇所は、ラザロとその姉妹達の物語があります。 イエス様が愛されたラザロ。彼もまた死にました。イエス様は、ここでも14節で「ラザロは、眠っている。」と言われました。ま、死んでいるけど眠っている。 ヨハネの福音書11:11
「眠っています。」ヤイロの娘と同じように、イエス様にとって主にある者の死は眠っている。しかし、この箇所はもうひとつのことが言われています。弟子達に、はっきり言われたのは14節です。 ヨハネの福音書11:14
人の目には、はっきりと死んで失われてしまいます。しかし、主にとって信じる者の死は、死んでも生きているということをはっきりさせるためにイエス様は、「ラザロは、死んだのです。」と言いました。 しかし、イエス様の思いはラザロは眠っていますという思いだったと思うのです。そして、彼も、生き返りました。 この長い記録の中で、ラザロは死んだ。しかし、彼は生き返りましたとあるのです。ヨハネの福音書の11章は、この聖書の中心的な生き返るという救いの復活のまことの命の復活の、永遠の命を頂くことの大切なテーマを伝えるひとつだと思います。 この3ヶ月の間、不思議な導きでドストエフスキーの「罪と罰」を読みました。内容は知っておりましたけれど、読んでことがなかったのです。しっかりと読んだことがなかったのです。 この「罪と罰」の土台となるテーマもヨハネの福音書の11章でした。生き返る。永遠の命。これが、あの放蕩を尽くしたドスとエフスキーの心の支えになっていたのがよくわかります。 愛する者の死は、地上の死で終わるだけのものでなく、神の栄光のためですとヨハネの福音書11章の冒頭で言われています。3節、4節、5節で、愛する者の死は、地上の死で終わるためのものでなく、神の栄光のためですとはっきり言っています。 これは、何を言っているかといいますと、神の権威がかかっているということです。単なる慰めではなくて、聖書全体、神の存在、神の権威にかかわる最も大切な事柄であります。この事実なくして神はありません。 ラザロの妹たちであったと思われるマルタとマリヤのその発言の中に、そして彼女たちの心の中に、心の向き、その嘆きの中に自分の心の内側にも、マルタやマリヤのような思いがあったことがよくわかります。ふたつあります。 僕も、マルタのように頭ではずっとわかっていたのです。愛する者と、終わりの日、甦りの日に会えるということ。私たちはよく言います。語り合います。 いつか天国でまた再会できる。ヨハネの福音書11章の20節から、マルタがイエス様とずっと会話する箇所があります。愛する者と甦りの日に再び会えることを信じていますと、マルタは本当に信仰者としてふさわしい言葉を語りました。 これが信じることだと思っていたのです。僕も、そうでした。 そして、またあの日、娘がいなくなった日に、現実に愛する者の死を悲しみイエス様の力の及ばなかった、神の力の及ばなかったことを嘆いている自分も確かにあったのです。 ヨハネの福音書11章32節から35節に、マリヤの思いが切々と記されています。これも事実であります。イエス様はこの二人の心に十分に答えてくださいました。 イエス様は涙を流された。このように記されています。 ヨハネの福音書11:35
彼は、私たちのどうしようもない心に同情してくださる方であります。しかしただ、同情されるだけではないということがわかります。彼は、涙を流しただけではなく墓に来られた。死んだ者が葬られている墓に来られて、そしてラザロは生き返ったとこの箇所は証しをしています。 「私を信じる者は、決して死ぬことがありません。」これは、マルタが頭の中で必死に考え信じていたことをはるかに超えています。 「私を信じる者は決して死ぬことがありません。」マルタの、そして僕もそうでしたけれど、いつか会えるという思いをはるかに超えて現実に生き返った。 その時、今生き返った。そして、マリヤが深い悲しみに沈んでいた状態を、完全に回復させるに十分なことが起こったのです。この聖書の記事を通して、イエス様は、失った愛する者といつか再会させてくださるというマルタの思いを、はるかにはるかに超えて、今娘は生きていると告げ知らせる事実が聖書にあ あります。 これは、その当時のひとつの、私たちの今とは、目で見る所は違うように見えますけど、イエス様はいつも真実を語ってくださっています。 であるとすると、私の娘も生きている。これは事実であります。そのみことばを本当に、子供のように単純に確信できるのは感謝であります。幸いであります。 肉体はただ眠っているだけ。主は、呼びかけの声をすでに決めておられるということ。娘よ、起きなさい。娘よ出てきなさい。 本当のことは目に見えることとは違います。いつか再会するまで、我慢しなければならないというのではない。主が、備えてくださっている恵みは今からもう、始まっていると語っています。 これは、すべてのことに当てはまる原則であります。目で見えていることは、もう私たちにはそこしかわかりませんけど、もう始まっている。ということであります。 私たちは、それはもう今成就していると受け取ることができるかどうかは、そのことによって大きく現実が変わります。 今から、始まっています。もうすでに成就しています。平穏に漠然と生活している時、私たちが想像していることと全く違います。ま、今日ふたつの箇所で、生き返る場面を見てきました。これらは、個人的に私が与えられたところですけど、自分には大きな迫力で迫ってきた箇所です。 「見えるものは、一時的であり、見えないものは、いつまでも続くからです。」 コリント人への手紙第II、4:18
この言葉が事実になる。こういうことがあるんですね。確信するとはこういうことだと思います。 ヘブル人への手紙11:1
この言葉もその通りだったのです。その通りなのです。望んでいる事柄を保証する。保証するんです。この事が事実なったときに、このみことばが本当だったなとわかりました。 私たちの順番は、このみことばが先で何もわからない時、このみことばを蓄えます。心の蔵に一時、蓄えているようなものだと思います。そして時が満ちて、ある時、あ、そうかそうだったのかと、目に見えないものを確信させるとは、そういうことだったのかと。 昨日も少しお話しして、何度もお話ししていることですけど、葬儀の時の挨拶でも確か言ったように思います。娘が召される1年半前に、彼女が1册の本をわが家に持ち込んできたのですね。 「星の王子さま」という本でした。そして、大切なものは目に見えないんだよ、というこの本のテーマが、私たち家族のこの1年半のテーマになったんです。 ま、しかし彼女が死んで、死に落ちて、本当の実になったように思うのです。このテーマも、コリント人への手紙第II、4章18節も、それまではマルタのように耳で聞いていただけだったように思います。 今、みことばに静かに耳を傾けるときに、真実が告げられているのがわかります。心が喜びで満たされるからであります。 ヨハネの手紙第I、2:5
ま、みことばの内容はわからないものです。最初はよくわかりません。しかし、そのみことばがイエス様の御心だと思って大切にしている者は、守っている者は、律法的に守っているということではなくて、わからない時は心の蔵にしまって、喜んでそれを受け取る者は、その人のうちに神の愛が全うされ、それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。 ま、理解することのできないみことばのひとつでありますけど、こうして聖霊に導かれてという言葉と一緒だと思います。そして、喜びで満たされています。 私たちに、今必要なことは、このようにみことばの中に生きるということではないかと思います。みことばに留まるとは、主に留まることであります。すなわちみことばの中に生きるということ。そして、みことばの中に生きるということとは、主に留まることであります。 「みことばの中に生きる。」むつかしい言葉を使っていますけど、それは単純に言うなら、「恐れないで、ただ信じていること。」 あの時、イエス様がひとこと語られた言葉であります。ただ信じていなさい。それがみことばに留まること、主に留まること。その中に生きることではないかと思います。 「恐れないで ただ信じて」いる時、失った者が生き返る。のではないでしょうか。 天につながるとは、失った者とひとつになること。再びひとつになること。みことばを通してつながること。主の御翼の下に隠れること。主によって、このように覆われる幸せこそ、私たちが本当の意味で願っている最上のものではないかと思います。 私たちは、知らずに望んでいる幸せとは、主によって覆われるということ。主によってもたらせる喜びの海に浸ることではないかと思います。 娘が死んで、私は自分の中で、その存在が生きている時よりも本当に大きくなりました。生きている時には、直接会っている時しか彼女のことを思っていなかったなと思うのです。しかし彼女が逝って、本当に大きくなりました。家族や親族も同じだと思うのです。 娘が新しく生き始めたのがよくわかります。残された者が、自分の理解力を放棄して、約束されているイエス様の言葉の中に生きるようになる時、みことばが事実となって、芽生え始めます。 信じるというのは、それしかないということです。ほかにもまだ選択枝があるのではなくて、それしかないということです。キリストしかいない。イエス様しかいない。 今日、ご一緒に考えてみたかったことは、そのことなんですね。彼以外に道はない。 ここに心を定めることができたら、どんなに幸いかと思います。確かに、感情ではいろいろな思いがわき上がります。そこに目を向けると、その先は、どこに向かっていくかわかりません。 目を転じて彼に目を向けると、道はひとつだけ定まっています。「もう恐れるものは、ありません。恐れないで、ただ信じていなさい。」このように、聖書は勧めています。 私たちにとって、地上と天はすでにひとつのはしごでつながっています。これは、イエス様、ご自身であります。 最後に、パウロが、兄弟達と別れる時に語った言葉をお伝えして終わりたいと思います。 この箇所は、エペソの兄弟たちとパウロの地上での最後の交わりの時の言葉です。これで最後なのですね。この言葉の中に、パウロがみことばをどのように考えていたのか。そして、パウロが、イエス様によってどのように養われいたのかわかります。 この言葉の中に命の泉があった。この箇所を読んで終わりたいと思います。 使徒の働き20:32、36-38
|