引用聖句:ペテロの手紙第II、1章12節-15節
タイトルは「兄弟たちの仕事」とさせて頂きましたけども、集会の始まる前に思わされたのは、兄弟たちの仕事のまず初めは、前の席に座ることではないかと思わされました。 小さなことに忠実なこと、その具体的な一つではないかと思います。 兄弟たちの仕事と申しましても、今日はペテロを通して私たち、特に兄弟たち、そしてまた、それに連なる姉妹たちの仕事はどういうものか。聖書を通して考えてみたいと思っています。 ペテロは自分の幕屋、すなわちこの世のいのちを脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知ったときに、自分の仕事について、与えられた仕事について語っています。 ペテロの手紙第II、1:12
これがペテロがなすべきこと、すなわち彼の仕事でありました。 12節、13節のこの2節の間に3回、「これらのこと」と書かれています。そしてまた、8節から15節を見てみますと、この中には7回、「これらのこと」ということばが使われています。 「これらのこと」とはすぐ前の5節から7節に書かれていることではないかと思うんですね。 ペテロの手紙第II、1:5-7
この箇所には8つの項目が述べられています。 信仰、徳、知識、自制、忍耐、敬虔。7つ目は兄弟愛。そして最後の8つ目は愛でした。 ペテロの手紙第II、1:7
これらのことを私たちに思い起こさせること。これがペテロが生涯の仕事としたことではないかと思わされます。 旧約聖書の箴言の6章の16節から19節には興味深いみことばがあります。 箴言6:16-19
最後の、兄弟の間に争いを起こす者。これは特別に7番目として追加された主なる神のみこころでありました。 主の憎むものが六つあると最初に書かれています。いや、主ご自身の忌みきらうものが七つあると、ペテロの手紙と同じように7番目に兄弟愛を示唆するみことばが語られています。 新約聖書のヨハネの手紙第I、3章の14節、15節には、ペテロの同労者であったヨハネも兄弟たちへの手紙に書きました。 ヨハネの手紙第I、3:14-15
これらのみことばは、恐れなければならない主のみこころを告げています。兄弟を愛さない者は死んでいる、という意味ではないかと思うんですね。「憎む者」という表現だけではなくて、愛さない者は死んでいる。死のうちにある。 ヨハネは幾度も互いに愛すること、すなわち、兄弟愛、姉妹愛が主のみこころであると書きました。なぜならヨハネは自分の内側に兄弟愛が無いと、イエス様が死んでくださった後で知るようになったからではないかと思います。 ですから聖書全篇が告げている、主なる神の大切な願いのひとつは、兄弟愛、姉妹愛であります。そしてペテロは8番目に、兄弟愛には愛を加えなさいと付け加えました。 ペテロは、どうして兄弟愛の上に更に愛を加えるように手紙に書いたのでありましょうか。 おそらくペテロもヨハネと同じように心を刺されて、彼の心の秘密が明らかにされたからではないでしょうか。 ペテロはこれらのことを私たちに思い起こさせようと一生懸命、一生涯、励むようになりました。 今日はご一緒に、ペテロがどのようにしてこの仕事を与えられたか。聖書からたずねてみたいと思います。 なぜなら、ペテロに与えられた仕事は私たち兄弟、また姉妹たちに与えられた仕事でもあると考えるからであります。私たちも仮に、与えられた仕事がしたいと心から望むとすれば、ペテロに与えられた祝福は私たちの祝福となるのではないかと思わされるからであります。 イエス様は十字架におかかりになる日が近づいた時、弟子たちにご自分が死に、すなわち、十字架に向かっておられることを明らかにされるようになりました。そして、これから起こることを前もって弟子たちに告げられました。 どういうことかと言うと、イエス様が捕らえられる時、弟子たちが皆、主の前から逃げ去る。ということでした。 ルカの福音書の22章の31節から34節。149ページを見ますと、 ルカの福音書22:31-34
その数時間後のことでした。 イエス様のおことばどおり、ペテロは鶏が鳴く前に三度、「イエス様を知らない。」と言いました。「あなたの言うことは私にはわかりません。」と言ったんですね。 それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いたと、ルカの福音書22章の60節から62節の間に記録されています。 ルカの福音書22:61-62
こうして彼はイエス様を完全に否定いたしました。三度否んだのであります。「彼を知らない。」と言いました。 マルコの福音書では、14章の71節、72節にもっと激しく否定していると書かれています。 マルコの福音書14:71
のろいをかけて誓い始めた。と書かれています。 マルコの福音書14:72
二つの並行記事で、マルコはもっと激しくペテロは否んだと書かれています。 ペテロは鶏の声で我に返りました。イエス様のおことばを思い出しました。そして初めて自分の心の秘密を、そのとき初めて、生まれて初めて知りました。自分の弱さを初めて知りました。自分の思いや決心など何の役にも立たないことを、そのとき初めて知りました。こうして彼は絶望いたしました。 詩篇の102篇4節から7節は、この日のペテロの心そのものではないかと思います。 詩篇102:4-7
ペテロがイエス様を三度否んだとき、鶏が二度鳴きました。 以前、私は、どうして鶏は三度鳴かないのだろうかと不思議に思っておりました。どうして二度しか鶏は鳴かなかったんだろうか。このことを聖書は説明していませんけれども、イエス様は罪ある者のために三度目の鶏の告発の鳴き声に変えてご自身の声で知らせてくださったのではないかと思っています。 その声は、「完了した。」すなわち、わたしはあなたを赦した。わたしはあなたを愛しているという声であります。そのときヨハネが十字架のそばで見た事実は次のように書かれています。ヨハネの福音書の19章の28節、30節をお読みいたします。 ヨハネの福音書19:28、30
イエス様は、「わたしは渇く。」と、私たち自身を心から渇き求めてくださいました。裏切り、逃げた私たちを最後まで愛する者として取り扱ってくださったことがここに書かれています。酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われたんですね。 イエス様は甘い、甘いぶどうがなるのを待ち望んでおられたのに、私たちは酸いぶどうとなりました。そのままで、甘くならないままで、酸いそのままで受け取ってくださったとヨハネは十字架のそばで彼が見、そして心に一生涯残ったこの情景を福音書に記してくださいました。 こうして私たちは一人ひとり赦されたのではないでしょうか。そのままでわたしのところに来なさい。これが私たち自身も受けた十字架のことばであります。ペテロは理解を超えたイエス様のご愛を思い起こして手紙に書いています。ペテロの手紙第I、2章の23節になります。 ペテロの手紙第I、2:23
これがペテロの脳裏に焼き付いた主の、イエス様の姿であります。こういうわけで、ペテロはすべての上に愛を加えるようになりました。すなわちイエス様を加えるようになりました。何ひとつ自分には為すべき力が無いと知ったからでありましょう。 七番目に掲げられた大切な戒めである兄弟愛を実行できる何ものも自分の内には無いと彼が知るようになったからであります。ただ赦された。そのことだけが彼の全財産でありました。 イエス様は約束どおり、その後よみがえってくださいました。そしてペテロを特別に愛してくださったことが同労者ヨハネによって書かれています。その必要があったからでありましょう。最後にその場面を共に思い起こしつつ、考えてみたいと思います。 ペテロの、夜が明けた朝の記録であります。ヨハネの福音書の21章の1節、4節、5節、9節、12節、13節とお読みいたします。 ヨハネの福音書21:1、4-5、9、12-13
この日、弟子たちは以前ガリラヤで少しのパンと幾匹かの魚を、あるときは五千人、あるときは四千人。多くの人々に分け与えられた奇跡を思い起こしたに違いありません。しかし今やまことのパンであるよみがえりのイエス様がおられるだけで十分でありました。 これは一方的に主によってそなえられた礼拝そのもの。イエス様を心から礼拝した最初の礼拝ではないかとさえ思わされる光景であります。儀式ではない、霊とまことによる礼拝でありました。 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。 28年前、この喜びに私自身もあずかりました。ちょうど今夜と同じゴールデンウィークの夜でありました。旧軽井沢のバイブルキャンプだったんですね。このみことばどおり、静かに夜が明けました。 誰にすすめられることもなく、その日、日曜日の礼拝で聖餐の恵みにあずかりました。パンとぶどう液に。押し出された。教えられることはひとつもありませんでしたけれども、ふさわしいと導かれました。そのときから「夜が明けそめたとき、」このことばを聞くだけで心が震える思いがいたします。 あの静かな喜びをことばで表わすことはできません。礼拝そのものさえも、今日も主ご自身が用意して招いてくださっている。と確信いたします。 みことばはこのような主ご自身を礼拝する喜びを思い起こさせてくださいます。 みことばに触れると、ざわついていた心も波が静かになり、そして心からの礼拝を捧げたい、主をほめたたえたいと、このような者が導かれるのは奇跡そのものに他なりません。 こうして弟子たちの新しい歩みが始まりました。そして傷ついて絶望の淵を漂ったペテロに個人的に完了したことを知らせてくださいました。 ヨハネの福音書、21章の15節から17節は、三度否んだその傷跡を拭うように、三度イエス様のほうから語りかけてくださいました。「あなたはわたしを愛しますか。」、このひと言、ひと言にペテロは主のご愛を受け取るようになりました。 そしてすべての上に、すなわち私たちの陰険な心の上に主のご愛を加えることだけが自分の一生の仕事であると示されたのではないでしょうか。 ペテロが私たちに伝えた信仰、徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛の七つのことばは、八つ目の愛、すなわちイエス様の内にだけ見られる様々な面を表わしていると言えないでしょうか。一つとして私たちの内には無いものであります。 ですからパウロはこの手紙で信仰とは何か、徳とは何かと教えることはしませんでした。ただ愛そのもの、イエス様ご自身を思い起こすように、加えるように伝え続けたのではないかと思います。 こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を。信仰、徳、知識、自制、忍耐、敬虔。そして兄弟愛には愛を加えなさいと伝えざるを得なかったのであります。パウロもペテロのことばを補足するように、ガラテヤの兄弟たちに次のように書き送りました。ガラテヤ人への手紙の5章の6節ですね。 ガラテヤ人への手紙5:6
こうして私たちの心に蒔かれた、からし種ほどの信仰から始まり、主のご愛によって完了すると兄弟たちは手紙に書いたのではないでしょうか。 本日ご一緒に聖書から見てきたペテロの仕事とは、主のご愛を私たちに思い起こさせることによって奮い立たせることでありました。これはイエス様が聖霊、すなわち御霊に託された役割。聖霊ご自身が私たちを導いてくださる。そのこと、そのものでありました。 ペテロは御霊によって歩んだ結果、兄弟たちに、また姉妹たちにみことばを思い起こさせようとしたのであります。ペテロにとっては、これが兄弟愛に愛を加えることだったのではないでしょうか。最後にマルコの福音書、13章の33節から35節をお読みして終わることに致します。 マルコの福音書13:33-35
私たちは必ずウトウトしてしまいます。ですから、決して眠ることのない門番である御霊が私たちの内にイエス様によって送っていただきました。この御霊が私たちの内に住んでくださっているということを子どものように信じて確信することが出来るならば、本当に幸いであります。 そしてパウロのように導かれて、御霊に導かれてイエス様のご愛を兄弟姉妹の内に加える仕事に、すなわち、思い起こしてもらう仕事を責任を持って私たちも全うすることが出来るように互いに祈り合いましょう。 |