引用聖句:ヨハネの手紙第I、4章8節-11節
今年の元旦礼拝で、一人の兄弟が「愛し合う集会になろう。」と語ってくださいました。この一年、ことあるごとに考えさせられたことばであります。そして一年が終わろうとしている今日も、このことばが私の胸の中では大きく響いております。 「愛し合う集会になろう。」ということばは、ヨハネが福音書や手紙で書いたメッセージでもあると思います。「愛のないものに愛はわかりません。」と今の箇所でも読んでいただきました。 従って、愛のない私たちは決して自分からほんとうの愛を知ることはできない。これが聖書の告げる真実であります。 私たちは永久にほんとうの愛がわからない存在の者でありました。ですから、ヨハネは続けてこのように書きました。 ヨハネの手紙第I、4:9
すなわち、愛 ヨハネの手紙第I、4:9
イエス様から示されました。 一方的に愛が現われたとヨハネは手紙に書きました。ここに愛があるのです。ここに目を留めなければ、この愛を心に迎えなければ愛はわかりません。これが聖書の結論であります。 ですから、「愛し合う集会になろう。」は今年一年の限定スローガンではありません。 二日後に新しい年を迎えようとしておりますが、そこで語られるメッセージも、多分、新たな目標を掲げて「一年間頑張ろう。」というものではないでしょう。決して決起集会ではありません。 聖書のメッセージは永遠に変わりません。昨日も今日もいつまでも同じです。イエス様そのものでございます。 ヨハネは更に続けて次のように書きました。 ヨハネの手紙第I、4:10
みことばの通り、ここに愛があります。ここ以外に愛はありません。従ってみこころは明確であります。 ヨハネは手紙に繰り返し、くどいほどにこのことを書きました。みこころはここにということでございます。 私たちが年の初めに聞いたことばは、主イエス様の、切なる願いそのものであります。ヨハネは更に11節にこのように書きました。 ヨハネの手紙第I、4:11
すなわち、私たち ヨハネの手紙第I、4:11
つまり、この手紙は私たちも「愛し合う集会になろう。」とヨハネが書いているのであります。これが主イエス様の命令であります。ヨハネが一生涯心に刻み込んだ主イエス様の命令であります。 ヨハネの福音書から手紙までは長い年月あったようですけど、ヨハネは常に、愛について語り続けました。「ここに愛があるのです。」とヨハネは繰り返し、繰り返し、ことばを少しずつ変えながらも愛ひとすじに綴ってきたのであります。 神を愛するとは、神の命令を守ることです。 ヨハネの手紙第I、5:3
「愛し合う集会になろう。」と言うのは、主イエス様のメッセージそのものではないかと思います。 この命令に従いたいと、へりくだって心定めるならば、必ずそのように導かれるとヨハネは書きました。 ヨハネの手紙第I、4:19
ヨハネは、主を愛する集会を望んだ兄弟の一人であります。 彼は福音書の最後に次のように書きました。ヨハネの福音書の21章15、16節、17節に共通した一つのみことばがあります。それは「あなたはわたしを愛しますか。」です。 イエス様はご自分を裏切ったペテロに3度、このことばをかけられました。 ペテロとは、イエス様が捕らえられて裁判にかけられるとき、つまり十字架に掛けられることを決定しているその最中に主を否んだ男であります。 自分の内側に潜んでいるほんとうの自分の姿に出会って、その夜、ぺっちゃんこになりました。そのペテロにイエス様が呼びかけられたことばであります。「問いかけ」というよりも「呼びかけ」と言った方がいいと思います。 この問いかけ、呼びかけの中に、イエス様のご愛が満ち溢れるばかりに隠されております。 今年の初めに「愛し合う集会になろう。」とお聞きしましたけれども、一年を通して思わされることは、主がいっさいを赦し、すべてを知っておられるということ、すべてを包んでくださっているという感謝と喜びであります。 「あなたはわたしを愛しますか。」と問いかけられているその後ろには、「わたしはあなたを愛している。」というイエス様の心が聞こえてまいります。 ペテロも3度、このことばを聞きました。直接、イエス様から聞きました。「あなたはわたしを愛しますか。」の一つひとつのそのことばの裏側に「わたしはあなたを愛している。」とおっしゃいます。 最初にイエス様が私たちを愛された。ここに愛があるのです。ヨハネはその思いを込めて、福音書のこの箇所に書いたのではないかと思います。 ペテロはこの日、イエス様のご愛に包まれて、初めて貧しい心に導かれたに違いありません。 自分の内側に、一つも誇るべきものがないことを、イエス様のご愛によって気づかされました。その証しのことばが次のみことばです。 ヨハネの福音書21:17
「あなたはいっさいのことをご存知です。」とは、ことばにならないイエス様との交わりであります。イエス様との交わりとはこのようなものではないかと思います。 私たちの交わりとはこのように御父、御子および主イエス・キリストとの交わりです、とヨハネが手紙に書いたようにヨハネの証し、ペテロの証しが私たちの真の証しになれば、ほんとうに幸いであります。 その後、イエス様はペテロに次のように言われた、とあります。 ヨハネの福音書21:22
ヨハネの福音書の21章を見ると「従う」とは「愛することである。」と知ることができます。昨日もある兄弟が従うことの大切さを語ってくださいましたけれども、従うとは愛することであります。 「私はただあなたに従います。」と、このように備えられた道を、歩む始めることができれば、幸いであります。「愛する道を歩き始めた。」ということに他なりません。 イザヤは30章でこのように記しております。 イザヤ書30:21
決して「右に行け」とか「左に行け」というようなことばではありません。右に行くにも、左に行くにも、どちらに行くにもと書かれています。ただ従う道が備えられているということじゃないかと思います。左へ行っても、右へ行ってもいいのです。 私たちは「まっすぐ」という道を備えられています。パウロも「まっすぐ」という街路へ導かれました。それは従うという道であります。彼は目が盲目にされて、そして導かれて行きました。彼は素直に従ったとあります。従う道が備えられています。その道はうしろからこれが道だ、これに歩めということばと共に備えられております。 今年の終わりになって願うことは、私たちの集会がキリストの体として、ほんとうに主イエス様に喜んでもらえる集会にしていただきたいということです。 ダニエル書の6章から少し学んでみたいと思います。彼がどのような心の向きを持って、イエス様に従い、主を愛したか、短く見てから終わりたいと思います。 大臣や太守が嫉妬、妬みからダニエルを落としいれようとしていた陰謀を企て、それが実行に移されたことをダニエルが知ったところであります。 そのことを知った後にも、ダニエルはいつもとまったく変わらないように振舞ったと記されています。この箇所は事実だけが淡々と語られています。 ダニエル書6:9-10
短い箇所ですけど、この一連の一つひとつのみことばから、ダニエルがいつも喜んでいたとわかります。静かな喜びであります。そして、大きな喜びであります。 「日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。」とは、絶えず祈り、あらゆることに感謝していたと言い換えることができます。テサロニケのみことば「絶えず祈りなさい。」そのものであります。 それはとりもなおさず、イエス様、主なる神がいつも聞いておられるということを意味します。 「絶えず、祈れ。」とは、いつも聞いておられるということにほかなりません。何の気負いもなく、何の恐れもなく、信頼し、従うということがこれほどまでに魅力のあるものであるということを、この箇所のダニエルの信頼、振る舞いを通して知ることができます。 主に従うという行いの中に、主イエス様との嬉しい出会いがあります。導きがあります。 マタイも福音書の中で、神の支配の中に導かれることを記しております。 マタイの福音書5:10
愛のなかった私たちが、主に従いたいと心を定めて真剣に祈り始めるとき、すなわち屋上の窓をエルサレムに向かって開いていたダニエルと同じように、主に向かって祈ったとき、天の窓が開きます。 こうして、愛のない私たちに愛がはいり込んでくると聖書は約束しております。詩篇にも次のみことばがあります。 詩篇119:130
旧約聖書の最後にあるマラキ書は、次のように書かれて旧約聖書を締めくくっております。 マラキ書3:10、12
最後に詩篇の24編からお読みいたします。この箇所は、メサイアのコンサートで歌われている箇所です。 この聖句は、正に私たちの内側に、主がはいって来られる喜びを賛美している箇所であります。戸を開けて、彼、主がはいって来られると賛美している箇所であります。 詩篇24:7-10
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