引用聖句:ヨハネの福音書15章4節、7節、11節
何年も前からになりますが、3人の兄弟を思い続けています。それは癌で召された兄弟たちですが、本当に親しくさせて頂きました。何度も思い起こす兄弟たちです。 彼らは52歳で、みんな次々と天国に帰って行きました。そのことは非常に心によく覚えています。そして個人的で恐縮ですが、52歳は自分にとってひとつの起点になる歳ではないかと思っていました。 今週私も52歳になります。司会の兄弟も52歳と言われましたが、今年どういうことになるかなあと思います。今週から私にとって新しい年の始まりです。 かなり歳をとりましたが、最近ある年輩の兄弟にある本を頂いたのです。その中で慰められる言葉がありました。 「40にして迷わず、60にして矩を踰えずと言った聖人を対象とせず、40で迷い、60でも罪の奴隷であることを知る者が主の対象である。」 こういう言葉の入った本を頂きました。本当にそうだなあと思うのです。 いつも考えさせられるのは、本当に貴重な時間を費やして集ってくださる方々と、本当に考えるべきことは何かということです。それは自分にとって、今何が必要であるかということでもあると思います。今日も考えさせらて参りました。 考えてみると、神学に関する資格を一切持たない者が、こういう場で語っています。それは世の常識からすれば、確かに恐ろしいことでもあります。よく指摘されることです。 しかし神は、人の権威によらず、ただみことばと聖霊の導きにより、真理を伝えようとされていることを聖書から知る時に、安心して頼って福音を語ることができます。 それは、本当の意味で大胆な不思議なことだなと思うのです。そういうことを思いめぐらせながら、今回も準備する時が与えられました。 そして本日は、イエス様が愛された一人の弟子ヨハネが、生きる力を与えられた命のことを一緒に考えてみたいと思います。すなわちヨハネが、イエス様から直接聞いて、個人的に彼が体験して、そうしてどうしても私たちに伝えたいと手紙に書き残した事柄についてであります。 とどまりなさいと言うみことばは、聖書を通してイエス様が御心を明らかにされている重要な言葉だと思います。この言葉はすでに何度も聞いておられるはずであります。 中でもヨハネの福音書15章は、特に有名な、「わたしにとどまりなさい」と何度も出てくる箇所であります。そして私たちは、言葉としてはよーく聞いて知っています。 とどまるというのは、主にとどまること。みことばにとどまることと聞いて知っています。しかし本当にこのみことばを心に受けて実行して、全き喜びが与えられているか考えさせられるのであります。 私自身、ヨハネが手紙に書いたように、私たちの喜びが全き者となっているという状態ではなくて、喜べない時があります。これは事実あるんです。一方、約束された喜びが何度も何度も与えられるのも事実であります。 しかしいつも、いつでも喜び続けているとは言えません。油断すると本当にだめなのです。ですから自分のためにも、今日このようなテーマを選びました。 私たちがパウロからもらった手紙には、いつも主にあって喜びなさいと書いてあります。彼も喜びについて手紙に書きました。地上の命を終えるまで、このような喜びで満たされたいと、自分は本当にことあるたびに考えるようになりました。 聖書が私に、また兄弟姉妹に与えようとしている喜びは、今私たちが与えられている喜びより、はるかにもっともっと大きいと思うのです。自分が今与えられている喜びを遙かに越えて、本当はもっともっと大きい、こんなものではないと思うのです。 自分の現実の生活や、多くの兄弟姉妹の交わりの中で不完全なもの、すなわち全き喜びの欠如を見いだします。地方の兄弟姉妹、たくさんの兄弟姉妹とお会いする機会が与えられて、その中にも、自分の中にも、喜びの欠如を見いだします。 ですからこう思うのです。私たちの希望は、ヨハネが手紙に書いたように、私たちの喜びが全きものとなるという約束だと思います。望みだと思います。なぜなら、それはイエス様が命をかけて、今日もご一緒に礼拝、賛美したように、イエス様は命をかけてこの喜びを伝えられたからだと思います。 ヨハネも同じように、命をかけて伝えました。パウロもペテロも、この喜びの福音に命をかけたとわかります。 「とどまりなさい」というみことば、すなわち神の種、主の御心が、私たちのうちに本当の意味でとどまる時に、この約束は実現しますと聖書は語っています。なぜなら、主が語られたことは必ず実現すると、マリアが賛美した通りであります。 キリストの内にとどまることの大切さについて、ヨハネは次のように記しています。 ヨハネの手紙第I、2:28
ヨハネの手紙第I、3:6、9
キリストのうちにとどまるとはどういうことなのでしょうか。 ヨハネは、キリストのうちにとどまることについて、一貫して兄弟姉妹を愛することと断言しています。兄弟姉妹を愛することが、キリストのうちにとどまること、みことばに留まること、主の命令に従うことであると書いています。 これはヨハネの福音書、手紙を読むと一貫してこのことが書かれています。兄弟姉妹を愛することは、考えられないほど大切なことであることがわかります。 私たちが普通考えることのできるレベルとは、全く異なっているとはいえないでしょうか。 ヨハネの手紙第I、3:14
こういうみことばがあるのですね。自分が死から命に移ったことを知っている。それは兄弟を愛しているからである。その時死から命に移ったことを知るようになる。 このみことばの意味することは、本当に大切なことではないでしょうか。兄弟姉妹を愛さない者には、決して命を知ることはできないとヨハネは手紙に書き記しました。 すなわち死の内にとどまっている、死んでいる。本日このことをもう一度、一緒に考えてみたかったのです。 兄弟姉妹を愛することを、私たちはただ頭で知っているだけではないかということについてであります。 ヨハネの手紙第I、3:15
このみことばの重大さを私たちは理解しているのでしょうか。 モーセの十戒に「殺してはならない。」とあります。兄弟姉妹を憎む者は殺していると聖書は語っています。これは神の判断だと思うのです。 マタイの福音書5:21-24
主を礼拝する捧げものをする前にやることがある。すなわちそれこそが、礼拝であると言えるかもしれません。 イエス様は律法を外側のこと、外から見えることではなく、内側の問題として明らかにしてくださいました。律法は、出エジプトで語られたモーセの十戒として語られたものが、このように成就されます。 イエス様は新しい律法として、新しい意味を持って本質を明らかにされました。 兄弟姉妹に腹を立てる者は人殺しであると、イエス様は語れています。けなす者も人殺しです。憎まれることをする者も人殺しです。私は今3つ申し上げました。 このような事柄、兄弟姉妹に腹をたてる、けなす、恨まれることをする。これを兄弟姉妹の間で何度も聞いたり見たりして参りました。 振り返ると、私自身も全く自信がありません。このようなことは、私たちの間にはびこる癌のようなもので、私には関係ないと言える人は一人もいないのではないでしょうか。 私たち自身が、主の福音を阻害していることが本当に多いです。決して兄弟姉妹を殺してはなりません。これがイエス様の切なる願いであり、それを受けた弟子であるヨハネは、手紙に何度も何度も書いたのです。 それだけ危険であり、危ないことだと言えます。そしてさらに、もっと私たちが気がついていないことがあるのです。「憎む」という言葉はいろいろな意味で使われていますが、無視することでもあると思うのです。無視していることにも気がつかないことであります。 それは兄弟姉妹を愛していないということです。 私たちに無関係ではありません。そのままでは命を相続できない、そのままでは主にとどまっていない、聖書を読むと本当に恐れるばかりであります。 ヨハネの手紙第I、3:14
愛さない者は死のうちにとどまっている。このみことばも重大なみことばです。兄弟姉妹を愛さない者は憎んでいる、殺している。覚えるべきみことばです。 イエス様の前ではごまかすことはできません。全てが明らかになります。本当に主を恐れなければなりません。 兄弟姉妹を愛するとはどういうことなのでしょう。まことの交わりを持つとは、いったいどういうことなのでしょう。 「まことの交わり」ヨハネはあなたがたも、私たちと交わりを持つようになるためですと書いています。手紙の最初に書いたのです。私たちの交わりとは、御父、および御子イエス・キリストとの交わりです。 ヨハネが交わりと言ったのは、こういう交わりでありました。 わたしたちの中では、「交わり」というのは本当によく使う言葉です。集会用語と言って良いかもしれません。しかし考えてみると、仲の良い兄弟姉妹は確かにいます。 しかしそのような交わりではありません。ヨハネが交わりと称したのはそうではありません。交わりの相手がいつも一緒にいるとか、気が合うとかあわないとかいうことでもありません。この世の生活のレベルが似通っているということでもありません。趣味や嗜好が同じであるというもとでもありません。 このような交わりが悪いということではありません。しかしヨハネの告げる交わりとは別のものです。 私たちはもちろんこのようなことを頭で理解していると思います。しかし実態はどうですかと、聖書は私たちに問いかけています。愛することができる兄弟姉妹だけを愛しているのではないか?本当に心探られるみことばです。 イエス様が私たちに、主の喜びを与えるための命令は、つぎのようなものだと思うのです。 マタイの福音書25:40
このみことばは、聖書全体を支えるみことばでもあるように思います。主にとどまる、死から命に移る、兄弟姉妹を愛する、というみことばは、このような交わり、このような愛にほかなりません。 兄弟姉妹の中で最も小さい者が大切ですと、イエス様は何度も何度も語られました。間違いありません。気の合う兄弟姉妹ではありません。 私たちの多くの交わりは、生まれつきの性質で可能です。でもその交わりでは、確かに喜びもほどほどにあります。そして適度に福音的で満足感もあるでしょう。けれども聖書の告げる交わり、兄弟姉妹を心から愛する交わりは違います。 自分と全く異なる、意識しないと無視してしまう兄弟姉妹が本当に大切です。そこにイエス様との交わりが隠されていると思うのです。決して自分の力でこの交わりを行い続けることはできません。 聖書のマタイの福音書25章40節に書いてあるような愛を、注ぎ続けることはできません。しかしそれでも、たとえ狭くても永遠の命に続く道は、この道しかないのです。心してすべきみことばではないかと思います。 このような、兄弟姉妹とひとつになることなくして本当の祝福は決してありません。 マタイの福音書25:45
もう一度言わなければいけません。最も小さな兄弟姉妹が、本当に大切です。その兄弟姉妹が本当に大切です。 愛することのできる兄弟姉妹だけを愛している時、私たちは死のうちにとどまっていると言わざるを得ません。イエス様の目はここに注がれています。主を恐れる生活とは、こういう生活ではないでしょうか。 主を恐れる生活は全てのはじまりであると、箴言も別の言葉で語っています。 主は一切をご存知であります。ヨハネは大胆な言葉を残しています。ヨハネの手紙第Iです。 ヨハネの手紙第I、3:16
「ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」とんでもないと言わざるを得ない言葉ではないでしょうか。 愛が本当に欠けている私たちに対して、兄弟姉妹のために、いのちを捨てるべきであると命じられています。 私たちに不可能と思われるこの言葉を、ヨハネは大胆な言葉を用いて二千年間、私たちの中に届けてくれています。兄弟姉妹とともにこのことを考えてみたいのです。 ヨハネは、イエス様とともに歩んだ時のことを思いながら手紙を書いたと確信できます。 ヨハネの福音書15:11
ヨハネがイエス様から聞き、その通り自分の中で体験し、手紙に書きました。 ヨハネの福音書15:12-13
このイエス様からヨハネが聞いたみことばを、そしてその後にイエス様が命を捨ててくださったその全行程を見て、聞いて、そして手紙を書きました。 ヨハネの福音書12:24-25
命を捨てるという言葉は、ヨハネにとって革命的な言葉であったと思います。それはイエス様がご自身をむなしくされたということではないかと思います。イエス様がご自身を喜ばすことをなさらずに、徹底的に管となってくださったということと思います。 そういう意味で、イエス様は十字架についたからということではなくて、お生まれになった時から、最も小さい者のために命を捨ててくださっておられたと思います。 イエス様の全生涯は、十字架への道そのものでした。いつもその先に十字架の死がありました。自らむなしくなり、自分の命を憎んでくださったと言えます。 このみことばが、ヨハネの全生涯を決定付けたものと思います。ヨハネは書いています。 ヨハネの福音書15:9-10
この箇所を読むと三位一体という言葉を思い出します。何が先で何が後かわからない。そのようなみことばであります。主の愛にとどまりなさい、ここに愛があるのですと、このようなイエス様のみことばを何度も何度も思い起こして、そして手紙に書きました。 この愛にとどまりたいと思う者は、主と同じように最も小さい者のために命を捨てて下さいと、イエス様は十字架の言葉を持って語ってくださっています。 自分の命を憎んで、自分の魂を喜ばすことから解放されて、その命を保って永遠の命に結びついてもらいたい。これがみことばの意味ではないでしょうか。 主に愛された愛の中にとどまっていなさい。言葉をかえて何度も何度も繰り返されている言葉です。 今日もしみことばを聞くなら、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。旧約聖書も、新約聖書も語っています。その声に聞き従いたいと切に願うなら、最も小さな友を愛する中に、そのような交わりの中に、イエス様ご自身を見るように必ずなります。 自分の命を憎むことが、喜びに変わっている自分を必ず発見するようになります。 今日ご一緒に考えてきたことは、日頃私たちがよーく耳にする言葉であります。あまりにも耳慣れているために、かえって心に深くとどめることができなかった、そのような言葉ではないかと思います。 しかし私たちの集いを通して、イエス様の福音が伝えられるとしたら、そのために最も大切なことのひとつではないかと思うのです。 聖書は、教会を通して福音が伝えられると書いていますが、私たちが集うこの集いが、まことの教会であるとすれば、最も大切なことではないかと思います。 ですから最後にもう一度言いますと、 「最も小さい者にこそ、命を捨てるべきです。」 と、聖書は語っています。 ここに主の目が注がれているからです。ここに主が共におられるからです。 旅にでかけておられた主人が、収穫の刈り取りに来られる時が近付いています。その時最も小さい友のために、自分の命を憎みたいと願い求めている人は、本当に幸いです。 私たちのこの集いが、このような愛のためにともに悩み、本当に悩まざるを得ませんが、ともに祈りそして全き喜びに導き入れられる者たちの集いとなるべきではないかと思います。 私たちがここに集っている理由は、ただ小さな、誰にも知られないような兄弟姉妹が、最も大切にされるようなまことの教会に連なりたいと願うからではないでしょうか。 自分に与えられたタラントにふさわしく、ひとりひとりの小さな兄弟姉妹の名をあげて、奥まった部屋で祈りの交わりが始められる時、私たちの交わりは全き喜びの海に導き入れられるに違いありません。 最後にヨハネの手紙第Iを読んで終わります。 ヨハネの手紙第I、1:1-4
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