引用聖句:イザヤ書40章6節-8節
ちょうど先週、吉祥寺の礼拝は本当に少なかったんですね。いつもはごった返してるあの集会が、兄弟が本当に手で数えるくらいです。一桁ぐらいの兄弟。その位の集会だったんですね。 そして礼拝でも、ポツポツとお祈りをささげる兄弟がいたぐらいですけども、その中で一人の兄弟が、今読んでいただいた箇所を読まれたんですね。兄弟が読まれた箇所を聞きながら、本当にそうだなあと思いました。 自分で歩んできたちょうど半世紀少しと、これから先残された時、そのことを静かに数人の兄弟姉妹たちと考えさせられたんですね。 すべての人は草、だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。自分の、本当の意味で弱い所と、そしてどうしようもない、そういう色々なことに出くわしながら、何とかやって、そういう自分と全然別のところに、まったく変わらない神の言葉が永遠に立つ。しみじみと味わったわけですけども、そのときに同時に思い起こした神の言葉というのは、伝道者の書2章だったんですね。 伝道者の書2:11-12
こういう箇所であります。私たちはどうしてむなしさを感じるのか、あるいは心が萎えてしまうということがあるのか、また狂気にさらされるのか。これは、人間が、私たちがむかしから遭遇してきた謎だと思うんですけれども、この謎について聖書を通して、今私たちは知る特権を与えられてると言ってもいいと思うんですね。 さっき兄弟が言ってくださいましたけども、私たちは非常に恵まれてるなあ、というのは、聖書が私たちに提供してるっていうのは、強制するのではなくて、本当に有史以来何千年もの間、脈々と語り継がれている神の知恵と言いますか、私たちがどうしても解くことのできない謎について、静かに語ってくれてるということではないかと思います。特権と言ってもいいと思いますね。 この伝道者の書を記したと言われている人は、約3,000年ほど前に、当時もっとも栄華をきわめたソロモン王と言われています。イスラエルの王様であったソロモン王。 彼がこの書の著者だと言われてますけども、彼自身悩むようになったようです。当時もっとも栄華をきわめた、何一つ不自由なく、すべてのことが思い通りにできたその人間が、この書を書いたと言われています。しかしその彼が悩むようになった。一歩も前に進むことができなくなった。そういうときに書かれたものだと思います。 それは生きていることに理由を見いだすことができなかった。その彼の悩みを、その嵐が過ぎ去ったときに、彼はこの書を神の霊によって書き記したと言えます。 ソロモン王は、この世を不公平だと、そのように見てたようですね。この世の実態を不公平な世の中であると、その当時どうしても思わざるを得なかった。そして、むなしさに支配されるようになったと言えます。 この世の実態はどのようなものか。3,000年前のソロモンはこう記してるんですね。 伝道者の書7:15
3,000年前に一人の王様は、このようにこの世の実態を、彼が彼の目で見た事実を書き記しています。そして彼は、この箇所に続いて、この世の中でもっとも悪いこととして、次の事実を挙げているんですね。 3,000年間、私たちはこの箇所を読んでもまったく変わっていないこの世の人の人間の実態を見ることができます。 伝道者の書9:2-3
これが、当時むなしさを感じるようになった、栄華をきわめたソロモンの見てきたことであります。これはその後、1,000年後に同じイスラエルに死んだパウロも別の表現をしてるんですね。彼はこう言っています。 コリント人への手紙第I、15:32
と、その当時の、2,000年前のその風潮、人の考え、思いを書き記しています。3,000年前も、2,000年前もそしてこの世で現代実際に見ることができる考え方は、まったく変わっていないと言えます。 不公平に見えるこの世の現実を味わい尽くした伝道者ソロモンは、長ーい間悩んだ後に希望に導かれるようになりました。 今日考えてみたいみことばはこういうものです。今の伝道者の書9章の4節。実態を彼は見て、そしてむなしさに心をしめられた、その次の箇所ですね。 伝道者の書9:4
3,000年前に彼はこのように言いました。生きている者に連なっている者。生きている者とは、誰でしょうか。聖書は3,000年間、この問いを私たちに語り続けています。そしてこの方を、生きている者、生きている方、この方を紹介するために、今日私もここに参りましたし、一人一人が集ったと言えます。 3,000年前のソロモンと同様に、私たちはこの生きている方に出会うために、またこの方に愛されてることを知るために、今日も生かされていると言えるのではないかなあと思うんですね。 聖書の言葉を借りれば、狂気から正気に戻るために、私たちは旅を続け、そしてひとりの方と出会うと言えます。 この方に連なっていない者、生きている者に連なっていない者、それが死んだ者。聖書はちょっと回りくどい言い方ですけども、そのように言っています。死んだ者というのは、生きている方に連なっていない者と言えます。その次にもう一つ見ましょうか。 伝道者の書9:5
生きている者に連なっていない者は、何も知らない。 伝道者の書9:5
このように彼は言っているんですね。この方に連なっていないとき心に狂気が満ちる。すなわち神を知らないという歩みは、心に狂気が訪れる。もっとストレートな言い方をすると、神から離れたとき人は狂っていると聖書は言ってるんですね。神に立ち返るとき正気に戻る。 このような意味合いで、聖書は書き記しています。 ソロモンは、空の空、すべては空、日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。これが伝道者の書の最初に書いてある言葉ですね。彼がこの書を書き始めたときの最初の句です。 伝道者の書1:1-3
彼は王として生まれ、むなしさを経験するようになりました。このように彼の人生観は、導かれたソロモン自身が、それが人に何の益になろうと、むなしさとそして自分の理屈の中で呻いていた伝道者が、生きている方に出会って、まことの知恵を与えられるようになった、その証しの書であります。 この書は、本当に私たちに同じレベルで書き記された書であると言えます。彼が得た知恵というのは、次のようなものだったんですね。 1018ページ。7章の16節からちょっとお読みしましょうか。 伝道者の書7:16-18、21
彼は、自分の知恵、自分の悟りに頼るな、両極端に陥るな。時は主のみぞ知る。彼は人生のあらゆる局面で、このように知恵を得るようになりました。生きている方に出会って、そして知恵を与えられるようになったと言えます。 伝道者は、彼は長ーい間一歩も踏み出すことができなかったんですね。その書物を見ればわかります。自分の頭の中がグルグル回っていて、そして一歩も歩み、踏み出すことができませんでした。しかしついに一歩踏み出すようになったんですね。 私たちも今日、彼が3,000年前に踏み出すようになった小道に導かれていると言えます。彼が導かれて歩み始めた小道、その道っていうのはこういう道でありました。 伝道者の書9:11
彼は一歩踏み出したと言えます。一歩踏み出すというのはどういうことをいうのか、この箇所を通して私たちが示唆されているように思うんですね。聖書全体からこの箇所をながめて見たときに、ぼく自身はこういうふうに思っています。 パウロが、先ほども引用しましたけども、パウロがローマの人々に書き送った手紙の言葉ですけれども、よーくご存知の言葉です。神を愛する人々のためには、神がすべてのことを働かせて、益としてくださる。8章の28節にあることばですけども、偶然はないという確信の中に生きるようになったパウロが書き記した言葉です。 神がすべてのことを働かせて、益としてくださる。このみことばを頼りとして歩み始めることではないかなあと思います。 真っ暗な暗やみの中に、かすかな光に目を凝らして歩くように、このみことばの指し示す道から離れることなく歩もうと、願い求めることではないかと思います。 できる、できないということではないですね、聖書はいつも思いますけれども、聖書に書いてある字面を読むと、できるかできないかというふうにとらえてしまいます。しかし聖書全体からイエス様が語っておられることは、できるできないではなくて、願い求めるということが、常に最も大切なこととして書かれています。 このソロモンは、以前このように言いました。それが人に何の益になろう。どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。このように語った者が、すべてのことを働かせて益としてくださる、180度違った確信を持つようになります。 この伝道者の約1,000年後に来たパウロも、本当に悩んだ男でしたけども、一切をこのように主にゆだねることによって、一歩踏み出すことができるようになりました。すべてのことを神が働かせて益としてくださる。短いみことばは本当に大きな力であります。歴史を動かしたと言ってもいい言葉かもしれません。 偶然はないということですね。すべてのことですね。すべてのすべてを働かせてひとつとして洩らすことなく益としてくださる、というみことばであります。 彼は、パウロもまた、まことの知恵を与えられました。そしてこのように歩むことによって、パウロはよくご存知のローマ人への手紙の7章、この言葉は説明できない言葉でありますが、説明すればするほど本質から遠ざかっていく言葉と言ってもいいと思います。 ローマ人への手紙7:24-25
聖書の中で、何度も立ち返る価値のあるみことばではないかと思います。パウロの全人格を一言で表わすとしたら、この箇所ではないかと思うんですね。この箇所をお読みするだけで、彼がどのような確信に基づいて、どのように生きるようになったかわかります。 この死のからだから、だれが私を救い出してくれるのでしょうか。一言も説明できません。私たちの主イエス・キリストのゆえに、彼のゆえにただ神に感謝します。これがパウロの全生涯を表わしている言葉ではないかと思います。 彼は、死んでいたと、生きている者に連なっていない生活をしていた、この自分をだれが救い出してくれるのでしょうか。そこには大きな転換があります。 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。これだけで聖書全体を表わしているといえます。この彼が、その次の8章の28節に先ほどお読みしたみことばをローマの兄弟姉妹たちに書き送りました。 ローマ人への手紙8:28
このひとつのみことばだけを握って生きる人は、聖書全体を知っている人と言っても過言ではないと思います。パウロも、ソロモンもこういう確信をもって生きるようになったと言えます。 この地上を見たときに、不公平なこの世の中。悪者が長生きし、そして正しい者が滅びる。見るところによれば、そのような世の中で彼らはむなしさを覚えるようになりましたけれども、しかし主イエス・キリストのゆえにただ神に感謝しますと言うようになりました。 それは、すべてのことを通して私たちは益とされると、パウロの確信のとおりに彼らは生きたと言えます。こうしてパウロは、以前は死んでいましたけれども、生きている方に連なるようになったと言えます。 パウロの得た希望というのは、益としてくださるという単純な、本当に単純な希望だったんですね。 信頼というのは、こういうことだと思います。彼がすべてのことを働かせて益としてくださる。いくらでも疑問をはさむことができます。しかしパウロは、このひとつの言葉を子どものように信じて、この聖書の、新約聖書の多くの部分を残した、そのような男になりました。 彼に信頼するというのは、こういう、子どもでもわかる言葉であります。こういうことだったと言えます。かならず益としてくださる、決して失望することはないということであります。それは、生きておられる方のゆえにただ神に感謝するようになったんですね。 これは不思議なことですけども、聖書のみことばに触れたときに心に受ける事柄であります。自分に絶望した者だけが与えられる恵みです。自分の弱さを知るようになった者だけが与えられる恵みであります。ここに目を留めるようになった者に備えられた希望であります。 ほかに理由はありません。説明できない事柄ですね。突然パウロは、このような思いだったんですね。 私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから私を救い出してくれるのでしょうか。突然彼は言うようになりました。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。脈絡も何にもありません。 しかし心の内側で道が備えられていたと言えます。このようなシンプルな生き方が、私たちに用意されてると言えます。パウロに与えられた恵みが、私たち一人一人に与えられていないはずがありません。 掴んでいるものを手放す時が来て、ソロモンの言葉によると、両極端に走るなという知恵を彼は得ました。しかし自分自身の計画の中で、掴んでるものを手放すときが来ていると、聖書を読むたびに心に問いかけられます。ソロモンもこう言いました。 すべては神のみわざであることがわかった。パウロもソロモンも、あらゆる出来事を経験して、そして一つの結論に導かれるようになりました。 聖書はどこの箇所を紐解いても、信仰の先輩たちはみな同じような道を通って来たと、証ししています。この伝道者の書の結論として、ソロモンは書き残しています。 伝道者の書12:13-14
私たちに語られたメッセージであります。 3,000年間、このメッセージは私たち人間の間で生きて働いたと言えます。ソロモンは別の箇所の箴言の1章7節でこのように言いました。 箴言1:7
自分の悟りに頼るなということだと思うんですね。私たちの神の言葉は永遠に立つ。最初に読んでいただいた箇所であります。イザヤが語った言葉です。私たちの神の言葉は永遠に立つ。神を恐れよ、神の命令を守れ。知者の言葉はこのようなものです。 これが初めであると言えます。知識の初め。若い者たちも、そして年老いた者もみんな悩んでいると言えます。それは誰でも望みが持てなくなるときが来るからだと思うんですね。そして悩みが訪れるときは、人それぞれ違うようにみえます。その深さも、その長さも異なるようにみえます。しかしみんな悩んでいます。 多くの人は、後にくる暗やみから目をそらしていますけれども、それはしかたがないことだと聖書は語っているんですね。それは知らされていないから、その暗やみの暗さを知らされていないからであると。そして暗やみの先に光があるってことも知らされていないからであります。 先ほどお読みしたところ、もう一度お読みします。 伝道者の書9:5
何も知らない。死んだ者、生きている者に連なっていない者は何も知らない。彼らにはもはや何の報いもなく、彼らの呼び名も忘れられる。 悩みのない人は一人もありません。そして同じ結果がすべての人に来るという、「死」というものに対する結末でありますけども、この点に関して聖書は決して不公平はないと告げています。 ソロモンは最初不公平だと感じました。しかし彼の結論は、不公平ではないという結論であります。生きている者に連なっている者には、希望が与えられるからである。悩みが大きければ大きいだけ、 (テープ A面 → B面) そして必ず訪れる死は、不平等ではなくてすべての人に等しく与えられ、みな同じように神に出会う。これが聖書の結論であります。そのとき弁解の余地はない。これは強制でもなく、淡々と語られている神の言葉であります。 有史以来私たち人が知らされている謎に対する答えであります。ひとりは右に、ひとりは左にと道が決まっています。聖書はいつもこのように、ひとりは右に、ひとりは左に。 伝道者の言葉は、私たちが理屈の迷路に迷いこまないように、前もって準備された言葉であります。 彼はこう言ってるんですね。私が見いだした次のことだけに目を留めよ。神は人を正しい者に創られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ。私たちの不幸の源は理屈を捜し求めたと、言えます。そしてその言葉通り、約束通り、ひとりの羊飼いが来られた。これがソロモンが、イエス様が来られる1,000年前に記した言葉であります。不思議な、不思議なことばが、この伝道者の書の最後に書いてます。 伝道者の書12:11
この箇所を解説してくれる本は見たことがないんですけども、この箇所を通して与えられるのは、編集されたもの、みことばが編集されたもの、聖書と言ってもいいかもしれません。それは釘のようなものである。 それは私たちをしっかりとつなぎとめる釘のようなもの、と言ってます。ひとりの羊飼いとして、主イエス様が取り次ぐために来られた。これが旧約聖書全体がしめ知らしている予言であります。 旧約聖書の目的というのは、ひとりの羊飼いが来られるという預言。すべての旧約がひとつの結論に向かっています。ソロモンもその結論へと導かれたようであります。これらはひとりの羊飼いによって与えられた。言葉は人となって私たちの間に住まわれた。これはヨハネの福音書の1章に出てくる言葉です。言葉は人となって私たちの間に住まわれた。 そして預言どおり、釘で地に打ち付けられた。これが新約聖書の私たちに告げているイエスであります。約束どおり、イエス様は私たちのために自分のために死なれたと聖書は告げています。私たちの悩みを一切背負って死なれた。 もう悩む理由がない。これが聖書のメッセージであります。一切が完了したからなんですね。不思議な言葉の連続であります。聖書は私たちの理解を超えた言葉を用いています。 一切が完了した。主イエス様が地の上で、十字架の上で宣言してくださった言葉ですね。完了した。どういうことかというと、もう私たちがなすべき何事も残っていないということであります。 それが聖書の結論。一切のことを用いて益としてくださるということと同じです。 彼が宣言してくださったから、間違いなく完了した。私たちがどんな者であっても赦されている、ということであります。そして私たちの身に起こったすべてのこと。見えることも、見えないことも、すべてを働かせて益としてくださる方がおられる。これが伝道者の書の結論であり、パウロの手紙の結論である。聖書全体の示し合っている事柄であります。 それでも私たちはまだ、一歩を踏み出せないとすれば、もう一度静かに目を向けるべきではないだろうかと思います。過去は忘れて、今日新たにみことばを見ようというのが、聖書の言葉であります。 過去は忘れて、一切白紙になって、そして今からのことだけを問われる方であります。 キリスト者が楽天的だと言われるのは、こういうことだと思います。無責任とこの世では言うかもしれません。しかしイエス様はそういうお方です。一切を白紙に戻すために、自分が地に釘付けられたと、聖書は断言しています。 このこともあのことも、かならず益とされる。それでも心が責められることがあります。それはサタンが訴えていると聖書は言っているんですね。私たちの責任ではないと聖書はこのことも言っています。 パウロもあの悩みの中で語られるようになりました。その訴えさえも、サタンの訴えさえも、主の支配下にある。これが聖書のもう一つの結論ですね。ヨブ記全体が、このことを言っているんですね。 サタンは訴える者、という意味であります。いつもどのようなときにも、私たちを神の前に訴えて、私たちの罪を過去の罪を探り出し、そして自分の人間の弱さを神の前に訴えるのは、これがサタンであります。 そしてそのことも一切支配下にあると聖書は言っています。喜びなさい、もう一度言います、喜びなさい。聖書全体が語り告げているメッセージであります。 どのようなことにあっても大丈夫。喜びなさい。それは一切がクリアになっているからということなんですね。 私たちの短いこの世の営みは、悩みの海の連続であるといえます。そしてその一つ一つの悩みの先に横たわっているのは、永遠の暗やみではないかと思いますね。多くの人はうすうす気付いています。その先に永遠の暗やみが横たわっていることを多くの人は気付いています。 永遠への思いを与えられながら、後々来ようとしている都について深く考えることを後回しにする。それは先ほど言ったように、開かれていないからであります。しかし私たちには望みがある、と聖書は語っています。それは主によってこのように言われているからであります。 ヘブル人への手紙の11章というところは、多くの信仰の先輩たちがどのような道を歩んだか、克明に記されている箇所でもあります。 ヘブル人への手紙11:16
都を用意しておられる。これが神を求める一族の歩みです。聖書にはこのように書いてありますね。神を求める一族、と呼んでいます。もう一度繰り返してみますと、私たちが正しいとか、正しくないとか言っているのではないんですね。 生きている方に出会うとき、私たちがどのような者であっても関係ないっていうことであります。生きている方に出会うとき、この方を意識して見上げるとき、この方だけが頼りとしてしがみつくようになるとき、ソロモンのように、伝道者のように突如として感謝と望みに満たされるようになります。 パウロの証しのようになります。からだは罪のゆえに死んでいても、霊が義のゆえに生きています。 最後にローマ人への手紙をみましょうか。理解出来ないことばであります。 ローマ人への手紙8:10
からだは死んでいても霊が義のゆえに生きています。パウロの証しですね。からだは死んでいても大丈夫であるとパウロは悩みの中で知るようになりました。このことを覚えていて欲しいと、パウロは特別にローマの人々に手紙を出しました。この事実をどうしても伝えたかったんですね。 ローマ人への手紙8:11。
ですから、どんなに私たちが弱くても、一人の羊飼いに目を注ぐことだけが、私たちの生きがいになることができたら、パウロと同じように私たちは生きている者に連なっている者には希望があるというみことばがかならず語られます。最後に一つだけ読んで終わります。 ローマ人への手紙の15章4節から6節ですね。この箇所もソロモンの12章のあの編集されたものという箇所と同じ霊によって書かれた箇所であります。1,000年後に書かれた箇所です。 ローマ人への手紙15:4-6、13
|