引用聖句:箴言2章4節-5節
先週の土曜日、9月6日の朝、「日々の光」を読みましたらひとつのみことばが目に飛び込んで来たんですね。 詩篇143:8
この短い箇所だったのです。1年前の9月6日の朝は長女が天に召された日だったのですけど、このみことばは自分の中に一年間残っていなかったみことばだったのです。 しかしその日は、朝ゆっくり読む時間がなくて、朝の6時からばたばたとしておりました。あの日の朝にこのみことばが用意されていたのは、一年後のその朝に気がついたのですけど、もうすでに用意されていたのだなあと思います。 「朝にあなたの恵みを聞かせてください。」 そしてその夜からは、この一年間ずっと何度も何度も思い起こしたみことばです。 イザヤ書21:41
また二年目に入りましたけれども、このふたつのみことばは、天にいる娘が残してくれたみことばとして心に残ることができました。個人的に、明らかにひとつひとつのみことばを通して刻み込まれるのだなあと思うのですね。 先ほども食事をしている時の交わりの中で、僕は最近よく思うのですけど、こんなに厚い聖書の中で、イエス様が語りたいと思われていることは、ほんとうにわずかだと思います。 ですから、どうしてこんなにたくさんのみことばがあるのかなあと思うのは、性格も違い、思ってることも違う私たちに、心に刻み込めるような印象的なそのような言葉でもって、同じイエス様の愛を語っておられるのではないかと思います。 私にとっては、娘の死を通してこのみことばが今年もつけ加わるようになります。天に娘を返した時に、恵みを聞かせてくださいという、そのことの応えがあるということであります。 鈍い私にとって、その内容をこの1年かかって少し味わってきたように思います。今日ご一緒に、私たちひとりひとりに与えられたまことの恵みについて、「銀のつつみ」という題名で考えてみたいと思います。 思いがけないことが起こります。これは私たちが経験する事実ではないでしょうか。今日ここに参ったときも、三木の兄弟のことを聞きました。ほんとうに最近、彼の脳に癌がはびこっていた。そしてもうこの地上の命が限られているということを、彼も突然告げ知らされるようになった。もう意識も薄くなっていってると聞いています。 4000年前に、イスラエルとエジプトで起きたこともそうだったのです。ヤコブと12人の子供たちに起きたことであります。創世記の37章から、45章まで。 長いところですけれども、そこにはヤコブの家族に起こった出来事が私たちに大切な事柄として告げ知らされています。 要約して申し上げますと、ヤコブには12人の息子がいましたけれども、11番目の息子ヨセフを非常に愛していたようです。他の兄たちはヨセフに嫉妬したのです。そしてある日、砂漠の中の水のない穴に突き落としてしまいました。そして銀20枚で、彼を砂漠を行き来する商人に売り飛ばしたのです。 異邦の地エジプトで、神はヨセフを祝福してついに王に次ぐ権力を持つものとなりました。そして来るべき飢饉に備えて穀物を蓄えるようにヨセフに指示を出すのです。 そして故郷のイスラエルも大きな飢饉に見まわれます。兄たちはエジプトに穀物を求めてやってきたのです。この大きな飢饉を通して、出来事を通して神様の大きな計画が明らかにされるようになりました。 兄たちが導かれた結果はつぎのようだったのです。連れて行かれたところはエジプトでした。エジプトはこの世を象徴する言葉としてたびたび出てきます。 ヨセフもエジプトに売られ、売り飛ばした兄たちもエジプトに行くようになりました。すなわち主の計画は、現実のこの世の中で明らかにされるということではないでしょうか。夢物語ではないのですね。 解決されるまで、祝福が与えられるまで、主の取り扱いは続きます。日々の生活のうちにすべてが取り扱われてるのではないかと思うのです。 私たちがこの世の中で悩み、苦しみ、その現実が与えられているのは、主イエス様の計画が成就するために与えられている、ということは間違いのない事実であります。 創世記42:1-4
主のご計画の奇しさに恐れを抱く箇所であります。ヨセフが死んだと思い続けていた父ヤコブは、12番目の息子ベニヤミンをヨセフに代わって愛するようになっていたのですね。ですから10人の兄たちも幸せではありませんでした。 長い期間彼らもまた不幸だったのです。嫉妬によって侵された罪と咎は、それは再び新しい嫉妬の中にあるように定められていたと言えます。生きているようでも、実は彼らは死んでいたのです。 どうしても罪が明らかにされる必要がありました。これが創世記が告げる真実のひとつであります。罪が明らかにされる必要がありました。喜びの訪れの条件でありました。つきることのない喜びが与えられるために、主は一人一人の心を探られます。 創世記42:15
ヨセフは10人の兄たちを試すようになります。さきほど司会の兄弟が試験と言われましたが、試験がここでされるようになるのです。このことで、あなたがたを試そう。 創世記42:18-21
「つぎのようにして生きよ。末の弟を連れて来なさい。」、神はいつもこのひとつの視点で私たちを見ておられます。末の弟を連れてきなさい。彼らにとって解決されなければならない罪の問題だったのです。 それから約2000年たちました。イエス様がひとりの女性に声をかけられた場所が記されています。ヤコブの井戸のほとりであります。ヤコブの子孫が、そのヤコブの井戸のほとりで2000年前に示された罪を明らかにされる問いかけがなされました。 ヨハネの福音書4:16
2000年前に10人の兄たちに、「あなたの末の弟を呼んで来なさい。」、彼女にとって、サマリヤの女性にとって、もっとも大切なものは何か、これがイエス様の質問の意味でした。 あなたにとっての夫とはなんでしょうか?恐るべき問いかけではないでしょうか。彼女は罪とは何か、はじめてそのとき光があてられるようになりました。 イエス様よりも、神よりも心を向けるもの、夫がいなくなった時、主の声が聞こえるようになったのです。彼女はこう言いました。「わたしには夫がありません。」、そのとき5人の夫のいたときには聞くことができなかった。そのとき、耳が開いて主の声を聞くようになりました。 その結果は、永遠の命の水が湧き出る泉を彼女の内側に持つようになったのです。その記事がヨハネの4章であります。 10人の兄たちも、つらく長い旅が与えられた後に計画が実行されるようになりました。心の中で観念的に考えていることではないのですね。痛みをともなう主の取り扱いがありました。 この私自身も一年間、同じ視点で心を探られるようになりました。罪とは何か、もっとも愛するものは何か、恐れるべき方は誰か、この一点が問いかけられたことであります。 だからこのように証しすることができるのです。娘の死を思い起こす時に力を与えられる。不思議なことなんですけど、ほんとうなんです。 それは望みがどこにあるのか、そのたびに明らかにされるからであります。整理されてそしてその本質を、その究極的な主の問いかけが再び湧き上がるからであります。限られた望みしかないこの地上の生活に尽きぬ泉が現れるようになります。 末の弟を連れてきなさい。あなたの夫をここに呼んで来なさい。夜回りよ。今は、夜の何時か。目をさましていなさい。 イエス様は私たちに個人的に心に刻まれるように、状況も、みことばも、ふさわしく備えてくださいます。胸に響き、銀のつつみを備えてくださいます。 罪が明らかにされるということは、災いではなくて祝福の訪れであります。これは間違いありません。 創世記42:25-28
銀のつつみが彼らの袋の中に返されていたのですね。銀がつつまれて返されていました。この銀のつつみを見て10人の兄たちは、銀20枚で売り渡した弟ヨセフのことを恐れをもって、心の底から恐れを持って思い起こすようになります。 しかし聖書で記されている返された銀のつつみは、罪の指摘と同時に、罪の赦しがその根底に隠されています。つつまれている、隠されている理由がはっきりわからなくても、神様は私たちにも、銀のつつみを備えてくださっています。必ずひとりひとりに銀のつつみを備えてくださっています。罪を明らかにするために、そして赦しを明らかにするためであります。 聖書全体から心を探られ私たちの思いよりも、はるかに高い主の御心に思いを向けることができれば本当に幸いであります。さきほど読んでいただいた箇所。 箴言2:3-5
マラキ書3:3-4
このみことばが成就するために大きな飢饉、問題が与えられています。それは銀のつつみとして与えられています。そこには罪の認識、罪の悔い改めと喜びが準備されているのですね。主を恐れることは幸せで、知識のはじめで、喜びであります。 私たちに理由のわからない、銀のつつみを見て恐れおののくものは幸いであります。それは計画がその先にあるからであります。父親のヤコブ自身もこのことを通して、この大きな飢饉を通して自分に与えられた銀のつつみを思い起こしたのではないかと思うのですね。 今日の結婚式でも引用しましたけど、ヤコブが旅に出るその前夜夢を見ました。そして再び帰る日に、彼はひとつの銀のつつみを頂くようになりました。 創世記32:9-12
帰る前夜、彼は恐れに身を震わせるようになりました。父ヤコブも昔、兄を陥れ父イサクをだまし、罪ある男として逃げてきました。しかし再び兄と再会する時、心に与えられた銀のつつみを開いたのであります。 創世記32:24-26
私達は銀のつつみを与えられています、それによって隠された罪、隠された夫、自分のもっとも大切にしている主以外の自分自身の心の内側を探られるようになります。そして隠された夫を、末の弟を心の中から放り出すように、主が命を犠牲にしてまで願っておられます。 エゼキエル書18:30-32
このために、心の奥底から自分の握っているものを放り出すために、ひとつひとつの出来事を与えられます。それは銀のつつみであります。本質は銀そのものであります。それを見ておそれおののき、そして主にすべてをゆだねることができる時幸いです。 ヤコブとはイスラエル、神の民のことなのです。わたしたちが今日この隠された確かな事実を、主が計画をもってひとりひとりに与えられたこと、銀のつつみとして恐れるならほんとうに価値のある銀として恐れるなら、ヤコブの息子たちのように必ず祝福されます。 聖書は狭き門として、一本しかない道、ひとつしかない門をくぐるように与えてくださっています。今日もう一度、兄弟姉妹と思い起こしてみたかったのは、自分の計画がうまくいかないのは祝福の前ぶれであること。どうにもならないのは、喜びの訪れが町近に迫っているということ。主のご計画が実現に向かって動き出した証拠であります。 私たちの心が喜べなくても真実であります。いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。パウロがピリピの人々に書いて宛てた内容です。このみことばには力があります。喜べる根拠がここにあります。私たちの心が喜べなくても、喜びの根拠がここにあるのです。 私達は、まだ罪と戦って血を流すまで抵抗したことはありませんと聖書は記しています。しかし血を流すまで戦われた方がおられる。しかも、それも自分の罪ではなくても、他人の罪のためにご自身の血を流された方がおられる。これが喜びの根拠であります。そのためにひとりひとりに銀のつつみが与えられています。 私たちには理解できません。どのような災いがふりかかるか恐れるようになってしまいます。しかし主にあって保身の恐れから解放されて、心から主ご自身を恐れるようになる時、大きな喜びが与えられます。最後にヘブル人への手紙からお読みして終わります。 ヘブル人への手紙12:4、2-3
どうもありがあとうございました。 |