黒いけれども美しい


岡本雅文兄

(大阪福音集会、2006/06/04)

引用聖句:雅歌1章5節
5エルサレムの娘たち。私はケダルの天幕のように、ソロモンの幕のように、黒いけれども美しい。

雅歌8:5
5自分の愛する者に寄りかかって、荒野から上って来るひとはだれでしょう。

今日、ひとつのことばを通して、ともにひとつの事がらを考えてみたいと思います。ひとつのことばというのは、今読んでいただきました、「黒いけれども美しい」という短いみことばであります。
このみことば自身が本日の題名としたいと思っていることばであります。そしてもうひとつ、先月吉祥寺の兄弟姉妹とともに同じように考えたことですけれども、「寄りかかって」、という題名のメッセージの続編として雅歌の8章の5節にありましたように、「自分の愛する者に寄りかかって」という副題と言いましょうか、それを付けたいというふうに考えています。

雅歌のこのみことばは、長い間大切に心に留めておいたことばであります。
あなたが何と言おうが、どのように見えようが、あなたは美しい。これが、イエス様が私たちを見てくださっている、自分を見てくださっている、これが私の確信であります。
雅歌のこの5節だけを見ると、花嫁が自分で自分のことを美しいと自画自賛しているようにもみえます。しかし聖書全体から、イエス様ご自身のご人格から判断して、イエス様は1章の15節のように、

雅歌1:15
15ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は鳩のようだ

このように私たちを愛してくださっていると、すなわち、聖書は語っていると固く信じております。

雅歌1:15
15ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は鳩のようだ

このみことば、このみこころ、これが、私が知っているイエス様のご真実であります。
私たちがどんなに黒くても、どんなに腐っていても、イエス様の呼びかけは、けれども美しい、というものであります。この短いひとことが、今日、何としてでもお伝えしたい、ともに考えてみたい、どうしても心の中に留めておきたいと思っている事がらであります。
愛する兄弟ラザロが死んで四日経ったときに、ラザロの姉妹であるマルタ、彼女はこう言ったのです。

ヨハネの福音書11:39
39死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」

イエス様はラザロが死んで四日目にその場に到着したのです。マルタは、愛する兄弟ラザロが、もう死んですでに腐っていると考えたのです。
しかし主イエス様は、彼は生きており、腐ってはいないと宣言してくださいました。43節を見ましょうか。

ヨハネの福音書11:43-44
43そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
44すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。

このように、私たちの見方とイエス様のお考えは全く違うということであります。
4月10日の日々の光の朝のみことば、ここに雅歌の1章5節が書いてあるのです。帰って見ていただきたいと思います。この4月10日の日々の光の、その全体を読み通したときに、聖書全体が何を語っているか。その一端を私たちに示しているように思うのです。
その日のタイトルは、「私は黒いけれども美しい」というものであります。

そしてその下に続いて記されている何篇かの聖書の個所は、その一部をお読みしますけれども、次のみことばであります。

詩篇51:5
5ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。

すなわち、私は黒いという彼女の花嫁である私たちの叫びであります。そしてそれに続いて、エゼキエル書の16章の14節にこのように書いてあると続いています。

エゼキエル書16:14
14その美しさのために、あなたの名は諸国の民の間に広まった。それは、わたしがあなたにまとわせたわたしの飾り物が完全であったからだ。――神である主の御告げ。――

つまり、けれどもあなたは美しい、という花婿である主イエス様の呼びかけもまた同時にそこにあるのです。イエス様ご自身が飾ってくださった。完全な者としてくださったのであります。
私たち自身が自分のことを何と言っても、だれが何と言っても、イエス様はきっぱりと、けれどもあなたは美しい。聞く耳を持たないように、けれどもあなたは美しい。心からこのように言ってくださっています。
日々の光の編者は、続けてこのように言いました。ルカの福音書5章の8節で、主よ。わたしは、罪深い人間です。ここでもペテロは、私は黒いとイエス様に向かって表明したのです。主よ。私は罪深い人間です。そしてそのペテロの叫びに応えて、

雅歌4:1
1ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。

このように、日々の光の編者はみことばを記しています。もう説明は不要なのではないかと思うのです。ただ問題は私たちがこの事実を信じていないという、この一点にかかっています。
中国における伝道者としてよく知られているハドソン・テーラー。彼はこの雅歌を本当に心ゆくまで読み尽くした兄弟のひとりであります。
彼が書いた本の中で、雅歌の1章の5節をこのように記しているのです。

「彼女は、(私は、という表現をした彼女は、花嫁は、)王の御顔を見ました。
そして昇る太陽が暗黒の中に隠されていたのを現わすように王の光は彼女に自分の暗黒を現わしました。
『ああ、私は黒い。』と彼女は叫びます。『けれども美しい。』と花婿は例えようのない恵みと優しさをもってさえぎります。
彼女は、『いいえ。私はケダルの天幕のように、黒い。』とさらに続けます。
それに対して花婿なる主は、『けれどもあなたはわたしにとって、ソロモンのとばりのように美しい。』と答えるのです。」

ハドソン・テーラーはこのように記しています。主のみこころを彼はこのように受け取ったのです。それは、イエス様が私たちをどのように見ておられるか、という主のみこころであります。
今日、私たちがみことばを通して、聖書のすべてを通して、イエス様ご自身の人格を通して導かれているように、彼も、そして日々の光の編者も導かれたのです。

今の雅歌というのは本当に色々な聖書の訳がありますけれども、だれが語ったのかというのは聖書によって表現が少しずつ違います。
それほど私たちが、花嫁が語ったのか、花婿が語ったのか。本当にもう、一つになっていると言いましょうか。そういう聖書の個所であります。
このことばが花嫁の口を通して語られたのか、花婿なる主の口から発せられたのかは、大きな問題ではありません。真実は、けれどもあなたは美しい。ここにあるのです。ただこれだけが聖書の真実であります。

もし花嫁が、私は美しい。と語ったとしても、それはイエス様のみこころの反映であります。主のことば、主のみこころを受けた喜びを鏡のように映し出している、そのことにほかなりません。
もう一度申し上げますと、イエス様はこのように私たちを見ておられます。ここに留まらなければ、私たちの信仰、それは一切がむなしいのではないかと思うのです。決して主の喜びを知ることがありません。
イエス様にとって、わたしの喜び、主人の喜びをともに喜んでくれとマタイの福音書25章で二回も語っているのです。25章の21節、23節で、「主人の喜びをともに喜んでくれ。」と、二度繰り返して語っています。主の喜びとは、私たち自身のことであります。

イエス様が聖書の中で、わたしの喜び、主の喜び、と語られることは、私たち自身を指しています。
黒いけれども、わたしの喜び、冠よ。このように聖書は言われています。ですから、難しいことは横に置いて、もう本当にゴチャゴチャ言わないで、ただこの方のご愛を信じる人は、本当に幸いであります。この愛に、この愛の中にとどまる人は幸いであります。
ヨハネの福音書15章の9節から12節の中で、9節にこのような個所がございます。

ヨハネの福音書15:9
9わたしの愛の中にとどまりなさい。

わたしの愛の中にとどまりなさい。イエス様ご自身が語られたことばであります。
この愛に、イエス様が語られたこの愛にとどまらなければ何も始まりません。一生涯、この愛の中に、愛のうちにとどまる者だけが勝利者である。
この囲いの中に住んで、牧者に導かれて、ともに門から出入りする、すなわち生活する、そのような者だけが幸いである。救われた者の幸せはここにあります。そして12節に、

ヨハネの福音書15:12
12わたしがあなたがたを愛したように、

ヨハネは何度もこのことばを用いました。彼の記憶の中にこのことばが本当にとどまっていたからに違いありません。

ヨハネの福音書15:12
12わたしがあなたがたを愛したように、

この愛を知らなければ、ここにとどまることはできません。この愛が大切である。ヨハネはこう確信したのです。ですからヨハネは手紙にこう書きました。

ヨハネの手紙第I、4:7-8
7愛のある者はみな...、神を知っています。
8愛のない者に、神はわかりません。

ヨハネの手紙第Iの4章の7節から11節の間で、彼はこのように語ったのです。

ヨハネの手紙第I、4:7-8
7愛のある者はみな...、神を知っています。
8愛のない者に、神はわかりません。

この愛を知ることこそ本当に大切であり、この愛を知らなければ何も始まらない。これが、ヨハネがどうしても私たちに伝えたいと思った一字であります。この神の愛とは、黒いけれども美しい、という愛であります。
あなたがどんなに黒くても美しい。そのように、本当にイエス様ご自身が渇いた者のように願い求めてくださっている、そのようなご愛であります。
羊のためにいのちを捨ててくださったよい牧者とは、このような方であります。

この「愛」、私は「愛」ということばを本当によく使いますけれども、この「愛」は雅歌で明らかにされているような主の愛であります。
ヘブル人への手紙の12章を見てみましょうか。ヘブル人への手紙の著者は、12章の2節でこう記しています。

ヘブル人への手紙12:2
2信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

イエス様はご自身の前に置かれた喜びのゆえに、彼が十字架のあの丘の上に一歩一歩、近づいて行かれる、その心の内側にあったその喜びとは、私たち自身でありました。
ほふり場に向かわれたイエス様の前に置かれた喜びとは、黒いけれども美しい私たちであります。
ただ、イエス様は絶対に、私たちが何と言おうと聞かれない。耳を閉ざして。けれども美しい。けれども美しい。ただこのひとことだけを繰り返して語られるお方であります。

先週、ちょうど日曜日、一週間前に、礼拝が終わって、その日に初めて来られた20代の青年を囲んで小さな交わりがあったのです。初めてお会いした方でした。
そしてその方を連れて来られた古い兄弟がひとりおられて、その兄弟は鬱の症状を持っておられるのです。そして、その交わりの中で兄弟は、こう話をしてくださったのです。
別のある兄弟は、学生時代、勉強が本当に嫌いで、成績はいつでもビリから二番目だったそうなのです。そして自分の後ろに一人だけいたのです。ビリから二番目ですから、あと一人自分の後ろに自分よりも成績の悪い人がいた。

そして彼は「ヤツがいなかったら俺はやっていられなかっただろう。」と集会に来られるようになって、救われて、そう言われたのです。「ヤツがいたからやってきたのだ。」こう言われたそうなのです。
それを兄弟は聞いて、こう思ったと言われたのです。「ぼくはそれを聞いて、ビリの人を心から尊敬した。」と言われたのです。「彼はそのクラス全員を支えているのだから。」、こういうふうに、そのとき直感で、すぐに、即座にそう思ったと言われたのです。
そして、ずーっとそれを心にとどめて、その日、先週の日曜日にそこに集った数人の兄弟姉妹、そして初めて来られた青年の前で証をしてくださいました。

それは彼が受けた真実な証しなのです。そしてそれを聞いたひとりの姉妹が、「本当に兄弟がそのビリの人を尊敬しているのですか。」と聞いたのです。真剣に彼は言ってくださったので、「本当ですか。」と。
「尊敬ということは、本当に尊敬しておられるのですか。」と聞いたのです。そして彼は、兄弟は、きっぱりと「尊敬します。」「ただ、彼が存在する、いるというだけで尊敬します。」と本当に答えてくださったのです。
私もその場にいて、即座に、一匹の羊の尊さが伝わってくるようでありました。ルカの福音書15章を見ましょうか。

ルカの福音書15:3-6
3そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
4「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
5見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
6帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。

イエス様は、九十九匹全部の価値と同じ価値をこの失われた一匹の羊においてくださっていたと、理解することができたのです。この一匹が九十九匹を支えている。そのようなことなのです。
一匹の黒い羊は、雪のように白い。これが、イエス様が考えておられる思いそのものであります。主にとってそうなのです。私たちがどんなにいようが、どんなに考えようが、それは関係なく、黒い羊は白いということであります。
イエス様も私たちをそういう意味で尊敬してくださっている。ただいるだけで、よしと認めてくださっている。ここに私たちが立たなければ、何にも始まりません。

あの兄弟が語った、尊敬という意味はこういう意味ではないかと思うのです。価値ある者。私たちは価値ある者。
聖書は何度も、何度も、私たちが分かるまでそのことを認めるまで、語り続けてくださっています。この愛の中にとどまるときに、本当に、本当に幸せであります。
私たちではなくて、イエス様のがわが、主ご自身が願い求めてくださっている。これが、世々隠された真実であります。

雅歌に戻って、雅歌の5章の2節にこのように歌っています。

雅歌5:2
2戸をたたいている愛する方の声。「わが妹、わが愛する者よ。戸をあけておくれ。私の鳩よ。汚れのないものよ。私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれている。」

このイエス様のご愛が聖書全篇をおおっています。イエス様は外にいて露にぬれ、そして私たちはぬくぬくと部屋の中にいる。
この愛は私たちひとりひとりに注がれているということであります。そして、それだけにとどまっているのではなくて、この雅歌の、そしてまた、聖書全篇が語っていることは、花婿と花嫁とは、イエス様と教会の関係であります。
今日も兄弟が教会のことを話してくださいましたけれども、教会とは、救われた私たちそのものであります。そして、私たち救われた者が本当に、主のご愛のように、主が愛してくださったように、ともに愛するときに、本当に、黒くても美しいと互いに愛することができるときに、私たちがこの世の中で味わったことのない、そのような喜びをいただくようになります。

主の望みは、私たちの喜びが全きものとなることであります。ですから聖書は最後にもう一度、雅歌のこのみことばを引き継いだように最後のヨハネの黙示録でこう語っています。ヨハネの黙示録の3章です。
兄弟姉妹が、もうよくご存知のヨハネの黙示録の3章は、こうして旧約聖書から引き継がれた聖書全体のみことばであると言うことができます。

ヨハネの黙示録3:20-22
20見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
21勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
22耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

ヨハネの黙示録は、雅歌の5章の2節を受けて、このように続けているのです。
主は、イエス様が悲しい思いで、私たちが戸を閉めて、そして自分の思い通りに生きている、そのことを見ながら、悲しい思いでこのように語ってくださいました。
主の忍耐は救いである。ペテロは、ペテロの手紙第IIの3章の15節で彼自身が身を持って体験した証しであります。彼は戸の外で露にぬれて、そしてたたき続け、私たちが戸を開けるまで、私たちが美しいと、イエス様が本当に問いかけてくださっている、その御声を受け取るまで、忍耐をしてくださっているとあります。

主の忍耐は救いである。これがペテロの証しであります。わが愛する者よ。戸をあけておくれ。私の鳩よ。今日もイエス様はここの真ん中に見ることはできませんけれども、みことばを通して存在しておられ、臨在しておられて、このように語っておられます。
わが愛する者よ。戸をあけておくれ。私の鳩よ。これがイエス様のみこころであり、そして呼びかけであります。
旧約聖書の最後の巻は、結論としてこのように語っています。

マラキ書3:7
7わたしのところに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう。

マラキ書の3章の7節で、旧約聖書の締めくくりとしてこのように書いてあるのです。旧約聖書は私たちに、「帰れ。」と言ってくださっています。主の忍耐、主の救いはこのようなものであります。
最後にもう一度、繰り返しになりますけれど申し上げたいと思うのは、あなたは美しい、と語っておられるのです。そういう方がここにおられるということであります。無条件で、大胆にこの申し出を受けるようにと待ち続けて、彼自身が祈っておられるということであります。
黒いけれども美しい。このようにイエス様が私たちのことを、喜びそのものです。私たちを喜びそのものとして逃がしてくださっているということを今日、どうしても心にとどめて、心に焼き付けて帰りたいなぁと思うのです。

今日、ごいっしょに見てきたことは、主イエス様は、私たちを喜びそのものとして取り扱ってくださっているということ。
そして、どんなにいい加減な者であっても、どんなにレベルが低くても、どんなに陰険そのものであっても、あなたは、わたしにとって美しいと見ておられるという、そういうことであります。
そしてさらに主イエス様は、私たちひとりひとりと全くひとつになりたいと願って、求めておられるということ。そういうことであります。

ヨハネはそのことを私たちに伝えたいと、この手紙を書いてくれました。それは取りも直さず、かしらなる主イエス様は、彼らなる教会とまったくひとつとなりたいということであります。
私たちは今も罪・・・

(テープ A面 → B面)

・・・姦淫の罪、そむきの罪、主から目を離す罪であります。自分自身をイエス様よりも優先する罪であります。
しかし、その罪に気付いて、悔い改めて、悔い改めに導かれるときに、必ず、喜びの海に浸る如しという、昔歌っていた聖歌にあるように、喜びの海に浸るようになります。

まことの交わりの中で、私たちひとりひとりが与えられたその証しをもって、イエス様ご自身をもって、交わる交わりの中で、私たちは初めから約束されていたことを知るようになるのです。
耳で聞いていたことが自分の内側に起こったと、そういう喜び、感謝をもって集うようになります。
それは、旧約聖書が雅歌のあの、私たちがどんなに黒くても美しいと言ったそのことばをイザヤは、イザヤ書の1章でこういうふうな表現をしています。最後に何ヶ所か見て終わりましょうか。

イザヤ書1:18
18「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

彼は、イザヤは雅歌で私たちひとりひとりにイエス様が語られたように、あなたがどのように黒くても、どのように赤くても、雪のように白くなると心に、本当に覚えたのであります。
あと二ヶ所お読みしましょうか。雅歌の8章の5節、6節、7節。その部分をお読みいたします。先ほど兄弟に読んでいただいた二つ目のみことばであります。

雅歌8:5
5自分の愛する者に寄りかかって、荒野から上って来るひとはだれでしょう。

ちょうど先月に、吉祥寺で「寄りかかって」というひとつの事がらについてともに考えたのです。
ヤコブは死ぬとき、かしらなる杖に寄りかかって、主を礼拝した。彼の一生は、もものつがいを打たれて、そしてびっこになって、杖をつかざるを得なくなって、そして自分の足で歩けなくなって、杖をついて歩くようになったのです。そして、人生の最後に、かしらなる杖に寄りかかって、そして神を、主を礼拝した。
雅歌も、自分の愛する者に寄りかかって、荒野から上って来るひとはだれでしょうと聖書は語っています。そして6節は、

雅歌8:6
6愛は死のように強く、

そして7節では、

雅歌8:7
7大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。

このようにイエス様は私たちを愛してくださっています。
最後にピリピ人への手紙の4章の1節と4節をお読みして終わりたいと思います。
パウロも、私たちが今日、ごいっしょに見てきたように、イエス様の御声を聞いて、そして彼は教会である兄弟姉妹にこのように手紙を書いたのです。

ピリピ人への手紙4:1
1そういうわけですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。どうか、このように主にあってしっかりと立ってください。私の愛する人たち。

そして4節に、

ピリピ人への手紙4:4
4いつも主にあって

そういう主にあって、このように愛してくださっている、この愛をもってくださっている主にあって

ピリピ人への手紙4:4
4喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

ここで終わります。




戻る