愛する者と別れた人に


岡本雅文兄

(近江八幡喜びの集い、2010/12/04)

引用聖句:ヨブ記1章1節-2節、13節-19節
1ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。
2彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。
13ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、
14使いがヨブのところに来て言った。「牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、
15シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
16この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
17この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
18この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。
19そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです。」

今日、タイトルは、「愛する者と別れた人に」というタイトルでお話したいと思います。
マタイの福音書5章4節では、「悲しむ者は幸いです」とイエス様は宣言されました。聖書が告げるこの悲しみは、この世の悲しみではありません。喜怒哀楽と表現できるような、感情が支配する悲しみではないと思うんですね。
結論から申し上げますと、聖書で語る悲しみとは、自分の心の内側の惨めさに気がついて、自分の哀れな状態、その状態を心から悲しむように導かれること、そこから生じる悲しみではないかと思います。

聖書が告げているのは、御心に添った悲しみとコリント人への手紙第II、7章10節で書いてあるとおりであると思うんですね。
昼も兄弟たちが語ってくださった、イエス様から与えられた色々なことを通して、私たちの心の奥底を私たちが本当に認めるようになる時に、自分自身の心の内側に悲しむべきものがあると、このような悲しみではないかと思います。
そしてこの悲しみを通して私たちは、真理であるイエス様に出会うようになります。

しかしそうであってもなお、ご一緒に考えてみなければなりません。目の前から愛する者が失せる悲しみは、とてもとても深いのであります。悲しくて切ないそのような悲しみであります。
ですから、イエス様を知らない方々にとっては勿論ですけれども、イエス様を信頼している者にとっても、悲しみは悲しみであります。大きな大きな悲しみが、私たちのこの人生の内にやってまいります。
このような時に、いやこのような時にこそと言った方がいいかも知れません。聖書のみことばによって、イエス様の深い取り扱いの中に、私たち自身を包んでいただかなければなりません。

この一ヶ月ちかくの間に2つの葬儀がありました。2つの葬儀に参列いたしました。1つは、ずっと祈り合ってきた若い兄弟の葬儀でありました。
そしてもう1つは叔母さんの葬儀でありました。数日前、今週行ってきたんですね。そして、年老いた夫とそして、心を病んでいる一人娘、二人残されていたんですね。
今週もそこから帰ってくるのに、本当に心ひかれる思いで帰ってまいりました。本当に悲惨であります。私は今、彼らを助けてほしいと主に祈っています。

大きく異なる死が存在いたします。大きく異なる悲しみも存在いたします。望みのある死と悲しみ、暗闇に漂う死と悲しみの二通りであります。
どうしても、イエス様に出会ってもらいたいと心から願わざるを得ません。何としても、イエス様をお伝えしたい、この方を紹介したい、これだけが、先にイエス様に出会った者たちのただ一つの仕事、ただ一つの願いではないでしょうか。
もう一つは、イエス様が、愛する者との別れをどのように慰めてくださるのか、聖書を通して、主なる神の御心をご一緒に尋ねてみたいと思います。

先ほど読んでいただいた箇所のヨブ記1章18節、19節では、使いが父親ヨブの所にまいりました。そして、次のように言ったんですね。「皆様は死なれました。」
皆様とは、ヨブの10人の子供たちであります。「皆様は死なれました。」
ヨブは、この知らせを聞いた時に、続いて次のように言いました。

ヨブ記1:20-21
20このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、
21そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

ここに、一人の主なる神を信じている人が紹介されています。彼は、ヨブは主なる神を知っていたから幸いでした。しかし、こう言わざるを得ません。
父親ヨブのその後の悩みの状態から推察すると、この時父親ヨブは、大きな、そして底なしの深い悲しみの中で、このみことばに必死でしがみついていたと言った方が事実に近いのではないかと思うのであります。
平然とこのみことばを言ったのではないと思うんですね。そこには、真理の道が備えられていることを知っている者の幸いが、確かに示されていますけれども、本当の主なる神の取り扱いはここから始まりました。

ヨブは、主のご真実をこの時から、子供たちが取られた時から新たに知るようになったのであります。こうして、ヨブは悲しみの人となりました。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。しかし、私は悲しいのです。主よ、助けてください。」
これこそ、彼の偽らざる魂の叫びだったのではないかと思うんですね。ヨブの望みは、魂の安らぎでありました。
ヨブは、ヨブ記42章全編にわたって、主の厳しい取り扱いを受けました。そして、ついにヨブは、回復の時を向かえたんですね。42章に書かれています。最後の章、42章であります。

ヨブには新しい10人の子供たちが与えられたと記されています。ですから、死んだ10人の子供たちの死は、新しく与えられた10人の子供たちによって、回復されたように見えます。
しかしこの記述は、私自身の魂が慰められない箇所の1つでもあったんです。納得がいきませんでした。死んだ10人の子供たちは、帰ってきません。
新しく10人の子供たちが与えられたとしても、欠けた穴は、それですなわち10人の新しい子供たちで埋め合わせることは、到底できません。

そのような数合わせのような慰めではなくて、主の慰めは、さらに深い所にあるにちがいないという思いと願いを、長い間私自身心に秘めておりました。
娘が死んだ時、私もヨブと全く同じでありました。この時、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭を剃り、地にひれ伏して礼拝し、そして言った「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
ヨブのように、頭こそ剃ることはしませんでしたけれども、みことばがそのように言っているのだから、この御心に留まっていようと、必死でしがみついていたと言った方がいいんですね。

みことばが、錨のような役目を果たすと聖書に書かれているのは本当であります。
ヘブル人への手紙6章19節に「この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです。」と書かれています。
嵐の時、色々な出来事が襲ってくる時、このみことばの通り、主のみことばだけが、主の望みだけが、主の約束だけが、錨の役を果たしてくれます。みことばによって、私たちは支えられてまいります。神の慰めの中に包まれるという経験をいたします。

こうして私たちは、夜明けを待ち望むそういう航路に導かれてまいります。「夜回りよ。今は、夜の何時か。」と首を長くして、夜明けを待ち望むように導かれるんですね。これは、導かれるとしか言いようがありません。イザヤ21章11節にあるみことばであります。
そして、また詩篇の作者が語るように、同じようにまた導かれてまいります。詩篇130編5節、6節のように、まだ見ぬ望みを抱いて、朝を待ち望む者は、本当に幸いであると私たちは知るようになります。
キリスト者の特徴とは、まだ見ぬものを見る前にいただくこと、そのような幸いであります。

詩篇130:5-6
5私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。
6私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。

ヨブもイザヤや詩篇の作者と同じように、夜明けを待つ夜回りのように、いやそれにも勝って、夜明けを待つ者になりました。
ヨブ自身のみことば、これはエリフから聞いた、そういうみことばですけれど、ヨブ記37章21節、22節では、こう書いてあります。

ヨブ記37:21-22
21今、雨雲の中に輝いている光を見ることはできない。しかし、風が吹き去るとこれをきよめる。
22北から黄金の輝きが現われ、神の回りには恐るべき尊厳がある。

見上げるべき方向は、指し示されていましたけれども、光はまだ雨雲の中だったんですね。ヨブ記全編が示しているのは、光そのものでありました。しかしその光は、最後の最後まで、ヨブには見ることはできませんでした。
それでも光は、その中にすでに存在している、これがヨブ記のメッセージではないでしょうか。
その時は、見ることのできない光は、時が満ちると私自信にも、差し込んでまいりました。

ヨブ記42章10節には、こう書いてあります。「主はヨブの所有物をすべて二倍に増された。」ヨブが持っていた物を2倍に増やされた。一切を失ったヨブに、以前よりも2倍の物を与えられたと書いてあります。
そして、12節では、彼の所有物である家畜を正確に、2倍に増し加えられました。克明に、克明に記述されているんですね。
羊7千頭が一万四千頭、これは1章で書かれたことが、42章で2倍になっています。らくだ3千頭が6千頭に、牛5百くびきが1千くびき、雌ロバ5百頭が1千頭というように2倍にされました。ところが、13節では、「また、息子七人、娘三人を持った。」と書かれているのですね。

先ほど語ったとおり、取られた子供たち10人に対しては、20人ではありませんでした。10人のままだったんですね。子供たちだけは、2倍に増し加えられませんでした。
この箇所は私にとって長い間、堅い食物のようなものでありました。消化不良でそのまま何年も心の畑の中に土をかぶして、そして大切に隠してきたみことばであります。
いつか光が与えられるであろうと、期待しながら大切にしてきたみことばの1つでもあります。ある日、芽が出はじめました。取られた10人と同じ10人が与えられたという事実から芽が出たと言ってもいいと思うんですね。

主が取られた10人の子供たちは、ヨブの所有物ではないという光が差し込んでまいりました。失った数の2倍が、与えられた所有物ではなかった。ヨブ記がそのように語っているように思えるようになりました。
子供たちの価値は、目で見える価値、数えることのできるようなものではありません。失った10人の子供たちは、完全だったんですね。充分でありました。10人で充分だったんですね。こうして、みことばの戸が少しずつ開き始めました。
ご一緒に導かれるままに、耳をもう少し傾けてまいりましょう。この方は、私の魂に真の安らぎを与えてくださるに違いないという、熱き思い、熱き願いを持って耳を傾けること、これこそ聖書を読む心がまえではないかと思うんですね。

いつでも、聖書は、私たちに本当の魂の安らぎを与えてくださる御心である。そして、どこから読んでも十字架につながる、そのような御心である。イエス様のご愛につながる御心である。そのように熱い思いを持って聖書を読むと違います。
このみことばが保障している真実は、すなわちヨブ記が保障している真実は、マルコの福音書5章39節にありました。
「病死の娘が直って助かるようにしてください」と父親はイエス様にひれ伏して願った箇所であります。

その時イエス様は、「子どもは死んだのではない。眠っているのです。」、これがヨブ記の結論ではないでしょうか。私たちは、人にではなくて、みとこばによって導かれてまいります。
10人の死んだ子供たち、取られた子供たちは死んだのではありません。眠っているのです。これが、ヨブにも私にも、皆さんにも与えられた、主の取り扱いそのものではないでしょうか。死んではいないのであります。
ですからヨブは、20人の子供たちが与えられませんでした。10人は生きているのですから。ただ、私たちには、眠っているように思われるだけだからであります。

ルカの福音書10章20節では、「ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」、住民票が移っただけなのであります。もう決して移動することのない、麗しの国の住民として。
ある兄弟は、もうすでに天に召された兄弟は、娘を天に送った時に詩を書きました。その中の一部だけですけれども、次のように書きました。
「地の帳簿に一人の名は消えて、天の記録に一人の名は増えた。」、長い詩の一部でありますけど。

ですから、新しく与えられた10人は、死んだ子供たちの代わりではありません。死んだ子供たちは、何者によっても代えられることはできません。ですから、彼らは死んではいません。聖書はそのように告げているんですね。
イエス様が、よみがえられたことを信じることができなかったら、トマスに、復活のイエス様が、語りかけてくださいました。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」とヨハネの福音書20章27節にあるみことばです。
私はこのみことばどおり、ヨブ記のメッセージを信じています。そして福音書も、子供のように信じています。ですから、喜んでいるんですね。

新しく与えられた10人の子供たちは、ヨブにとってどのような存在なのかを、聖書は詳しく説明していません。しかし彼らは、新たにヨブの喜びとなったということがよく解かります。
私自身に与えられたことを考えてみても、天に住所を移した、一人の娘と同じ数の一人の娘をヨブのように、地上には、与えられていません。
ですけれども、最近多く思うんですね。地上では、まだ残された子供たちがいますけれども、その子供たちに加えて、新たに主にある霊の子供たちを与えられていると本当に感謝しています。

天に住む娘に加えて、地上にも主にあって娘たちを、また息子たちを与えられているということを、心から本当に感謝できるようになりました。
ですから、先に紹介した詩の一部、「地の帳簿に一人の名は消えて、天の記録に一人の名は増えた」という箇所は、本当は、次のように謳うべきではないかと思うんです。「天の記録に一人の名は増えて、地の帳簿にも一人の名は加わった。」
この方が今の私の思い、また聖書が語るメッセージにふさわしいように思います。地から一人が消えて、取られて、天に移ったというだけではなくて、天にも地にも、神の祝福は満ち満ちているのである。これこそヨブ記のメッセージではないかと思うんですね。

ヨブ記を通して、どのように主なる神が祝福してくださっているか、今日、静かに考えてみようではありませんか。ヨブ記は、私たちの生きた証しそのものとなれば、本当に幸いではないでしょうか。
本日ご一緒に、「愛する者と別れた方に」というテーマで考えてまいりました。最後にもう一言、申し上げておきたいことがございます。
悲しみが癒されるのは、また悲しみが慰められるのは、その悲しみが薄まるからではありません。その悲しみを忘れていくからでもありません。

この世の人々は、そのような道しかないでしょう。しかし、主イエス様に信頼する私たちには、別の道が備えられているんですね。その別の道とは、悲しみを共に悲しんでくださる方が慰めを与えてくださるという道であります。
「わたし自身が、いっしょに行って、あなたを休ませよう。」、出エジプト記33章14節です。
このように言われる方がおられる道、そしてこのように言われる方が保障される道、「悲しむだけ、悲しみなさい。わたしも共に悲しもう。だから、喜んでいなさい。」、これが、イエス様の私たちを取り扱われる方法であります。

私たちは、私たちにふさわしいヨブ記があります。悲しみが増すところには、慰めも増し加えられる。この通りのみことばはありませんけれども、罪が増し加えられるところにはとありますけれど、しかし聖書全編から私はそのように受け取ることができます。
これが、イエス様の愛の伝え方ではないでしょうか。私たちのためには、この方法しかないからであります。悲しみを通してしか、私たちは財産を捨てることができません。
昼も兄弟が学んでくださった、「財産」それは頭で何度理解しても、どのように読んでも、それは捨てることができません。

イエス様が、一方的に私たち一人ひとりに臨んでくださって、そしてふさしい導きに私たちを投げ込んでくださいます。そのことを通して私たちは、財産を捨てることができるようになるのではないでしょうか。
愛する者が死んだ時、その時初めて、心の中のすみずみまで、一切が空白になります。一切の価値がなくなります。こうして私たちは、初めて財産を捨てることの意味を知るようになるのではないでしょうか。
誰に教えられなくても、このようにして私たちは、導かれてまいります。

ですから、悲しむ者は幸いです。一切の財産を失った者は、幸いです。ただ悲しんでいるから、幸いなのではありません。ことばじりではありません。
悲しむ者とは、心貧しい者でもあるのではないでしょうか。その人は慰められ、そして御国はその人のものとなるのではないかと思うんですね。ですから、私たちの国籍も天にあるのであります。
パウロは福音書を通して、山上の垂訓を通して、自分の国籍は天にあるとはっきりと、解かるようになったのではないでしょうか。

それは悲しんだから、そして悲しみを通して、心貧しき者と導かれたから、慰められたから、そして、みことばの通りに御国を約束されたからではないでしょうか。
このように、みことばがみことばを私たち自身に紹介してくれます。
そして、私たちの人生そのものをみことばを用いて、イエス様は一人ひとりをふさわしく導いてくださいます。この幸いを、どうして受け取らないでいることができるでありましょうか。

こうして、新しい心と新しい霊を与えられると聖書は約束しています。新しい心、魂の安らぎ、それを私たちは、約束されています。それでもまだ、主の前を立ち去るのでありましょうか。
最後に一人の女性を紹介して終わりにいたします。この箇所は、主なる神を信じる女性に、年老いてから与えられた一人息子が死にました。
その時、預言者エリシャは使いをやって彼女に尋ねたんですね。その箇所であります。

列王記第II、4:26、30
26『あなたは無事ですか。あなたのご主人は無事ですか。お子さんは無事ですか。』と言いなさい。」それで彼女は答えた。「無事です。」
30「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを離しません。」




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