引用聖句:創世記18章9節-15節
もう何ヶ月か前になりますけれども、喜びの集いの日、私はある兄弟の証しをお聴きしたあと、食事を挟んでメッセージをすることになりました。そしてそのときも、朝方までかかって準備したその原稿の三分の二ぐらいだったでしょうか、お話をさせていただいたときに、全く先に進むことができなくなりました。 こういうことは、似たようなことが二度あったのです。そして今回は、全く先に、一歩も進めなくなったのです。みことばを読みながら喜びが消え失せていってしまったのです。原稿は目の前にありましたけれども、ただ意味のない文字が並んでいるだけ。白紙同然のそのような原稿になってしまったのです。 もう本当に原稿を前にして、文字は書いてありますけれども、話すべきことばをもう失ってしまったのです。準備した後半の部分を全て省略して、脈絡なく学びを終えて壇を下りたのです。 兄弟の真実な証し、それから、彼の人生の内側に働かれた主イエス様への感謝にあふれた証し、それは私がその前の晩に眠い目をこすりながら、そしてその一週間の仕事の合間を避けて何とか時間を見つけて準備した学びと、もう、次元の異なるものだったのです。 この日のことは、兄弟の証しといっしょに、二度と忘れるはないと思うのです。 主を恐れるということを疎かにしていた。そういう者にイエス様が与えてくださった恵みとしか、今では言いようがありません。 娘が取られたときに、この世の一切のものが無意味となりました。しかし再び、じゃあいいよ、とぜい肉がついて来ていたということがはっきりとわかります。 創世記の今読んでいただいた18章の13節。 創世記18:13
サラはなぜ笑うのか。このように主は問いかけられたのです。そして15節に、 創世記18:15
こう言いました。打ち消したのです。恐ろしかったのであると書いてあります。しかし主は、「いや、確かにあなたは笑った。」、この短いくだりは本当に心にずっと響いていた個所であります。 数年前に、死んで天国に帰って行った娘の名前はサラといいました。そしてこの個所は、私が彼女によく読んで聞かせた個所であるのです。サラという同じ名前で昔から、小さいときからこの個所を事ある度に彼女に紹介していた箇所でもあります。 しかし今は反対に主を恐れるように、私に残してくれたみことばの一つとなっています。 絶望の淵を歩んでいたときには、イエス様の衣の裾をしっかりと握りしめる、そういう者でしたけれども、しかし嵐が治まって凪になると、再び自分の足で歩き出す。このような者であります。 聖書に書いてあるがごとく、主よ、主よ、と言いながら、主のよくしてくださったことを忘れてしまう、そういう者であります。 今日、再びしばらくぶりにお会いした兄弟姉妹とごいっしょにこのみことばを、創世記の18章のこのみことばをともに味わうことができるのは本当に幸いであります。 そして、アブラハムの妻であるサラのように主を恐れて、主に祝福していただければどんなに幸いであるかと思うのです。 サラが与えられた祝福というのは次のようなものでありました。21章にあります。 創世記21:1-2
創世記21:5-6
サラは、主の約束を軽く考えていたのです。不可能であると心の内で思って、彼女は笑ったと18章で記されています。 しかし主のご真実に触れたときに、心の底から彼女は恐れるようになりました。この体験を彼女は死ぬまで忘れることができなかったに違いありません。 主に出会うとき、私たちは彼女と同じように、主を恐れるということがどういうことなのか学ぶようになります。一切を見通しておられます。隠し通すことは決して出来ません。 しかしそれでも主は、イエス様は、その不信の罪、その日の罪をも帳消しにして、祝福の道に私たちを導こうと、何度も何度もサインを送り続けておられる。これが、私たちが聖書を通して、みことばを通して与えられている真実であります。 そして彼女は導かれて、サラは導かれて喜びと感謝にあふれて、心から笑う恵み、同じ「笑う」という表現をされていますけれども、最初の笑いと21章の笑いは大きく違います。心からの笑う恵みを与えられました。 そして彼女が導かれたところは、自由と平安が支配する、園のような広いところであります。こうしてサラは主を恐れることを学んで、その結果、大きな大きな祝福を与えられました。 ヘブル人への手紙の著者は、この聖書の最初に書かれたこの事実を新約聖書の最後のほうで、こう語っています。 創世記のこの出来事をヘブル人への手紙の著者はこのように説明しています。 ヘブル人への手紙11:11
このように書いてあるのです。 ヘブル人への手紙11:12
もう聖書はずっと、この事実について沈黙していましたけれども、聖書の最後に、このように、サラの内側に起こった、そしてアブラハムに起こったこの奇蹟を説き明かしています。 彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたのです。サラの霊的な子孫はマリヤではないかと思うのです。 ルカの福音書1:45
サラと同じ確信を彼女も持つようになりました。マリヤも不安と恐れの中で、主にある確信を持つようになったのです。ですから、サラの子孫はマリヤのような人であります。 主を恐れざるを得ないという最も大きな理由は次の一事ではないでしょうか。ひとこと、一つの事がらではないかと思うのです。 それは詩篇の130篇の4節に書いてあります。私たちは主を恐れる。と、よくこのことばを用いますけれども、 詩篇130:4
このひとことが、この一節が「恐れ」というものの真実を語ってくれています。 赦す権威を持っておられる方を恐れるときに、私たちは本当に幸せが訪れるようになります。 詩篇の作者は続いてこのように言っています。5節からお読みいたしましょうか。 詩篇130:5-8
私は4節と、それから5、6節を別に別に覚えておりました。ずっと。昨日までそうだったのです。どちらも本当に心から好きなみことばだったのです。 4節と5、6節。5節、6節は特に、先ほど申し上げた、娘のサラが天に召された日の日々の光に記されたみことばであったからであります。 彼女は天を目指して飛び立ったあの日の都上りの歌として、私の心にずっと残っているみことばであります。「都上りの歌」と書いてあるとおりであったのです。そしてこれは、四年弱の間、よろめく者の杖となっているみことばであったのです。 しかしこのみことばは、昨日学びをしているときに、ハッとしたのです。 それは、主が赦してくださるからこそ、私たちは主を心から恐れ、心から待ち望むようになると、そういうことだったのだなぁと新たに主のみこころを知る恵みを与えられました。主は赦してくださるからこそ、であります。 ヨハネの福音書8章は有名な、よく読んでおられる個所であります。姦淫の女としてよく読まれている個所であります。この姦淫の現場でとらえられた女性は最も、聖書の中で最も幸いな女性として記されています。 なぜなら、赦されたからであります。現場でつかまえられたからであります。それは弁解できないからであります。 彼女にとって、「でも、」とか「しかし、」とか、「今はちょっと、」とか、決して言うことの出来ない、そういう状態にあったからであります。ですから彼女は、聖書は幸せであると語っています。ひとことも弁解の出来ない現場でとらえられること。このことこそ祝福のみなもとであります。 ですから、創世記に出て来るあのサラは現場でとらえられた姦淫の女であります。「いや、あなたは笑った。」、ひとこと、主は言って去って行かれたのです。 彼女の心の奥底を見透かされていた、見通されていた主が、サラにあのとき、「いや、あなたは笑った。」、このひとことは本当に心にくさびを打ち込まれるような、そのような恐れるべきみことばであります。 聖書の中で、私が最も怖いと感じるみことばのひとつであります。 彼女は恐れたのです。初めて、恐れをサラは知るようになりました。サラはその日、姦淫の女であったと認めたのです。彼女の記念すべき喜びの訪れが始まる日となりました。 そして一年ののち、サラは先ほどのように、すでに罪赦された女として私たちに紹介されました。 私もサラとは違いますけれども、三月の初めに姦淫の女ではなくて、姦淫の男としてあの現場でつかまえられました。とらえられました。隠された不信の罪。なまぬるく、熱くも冷たくもない、そのような罪でとらえられたと思っています。 ダビデも現場でとらえられたのです。「それはおまえだ。」と預言者ナタンに指摘されました。そこからダビデの祝福が始まったのです。 ペテロも現場でとらえられました。彼がとらえられた現場とは、つかまえられた現場とは、あの日のことであります。主が、イエス様がとらえられた夜にたき火にあたりながら、「いや、違います。」と、「主を知らない。」と偽った、そのときであります。そこからペテロも祝福されました。 私たちはみな、罪の現場で、その場でとらえられる幸いを経験する恵みをひとりひとり与えられています。その人にとって罪が大きいほど、罪が深いほどより多く、またより高く赦されるのではないかと思うのです。聖書はそう言っています。 つらいけれども、幸いがそこにあります。 ルカの福音書7章を読んでみましょうか。 ルカの福音書7:47-48
この女性も恐れを感じていたに違いありません。主が赦される方であるからこそ、恐れられるお方であります。主が赦してくださるからこそ、私たちは主を恐れ、主をほめたたえるようになります。 聖書は何ヶ所かで、もう罪を犯さないように、この短いことばを語っています。特にヨハネがこのことばを心に、本当に大切に大切に思っていたに違いないと思うのです。語っているのです。 ヨハネはいつもイエス様のそばにはべっていたのです。ですから、イエス様からこの命令を心に本当にしっかりと受けていたのではないかと思います。ヨハネの福音書8章の先ほどの姦淫の女性が最後にイエス様に言われた個所もその一つです。 ヨハネの福音書8:10-11
このように語っておられます。そして、その答えは、12節にあるのです。 ヨハネの福音書8:12
罪を犯してはなりませんと言われたイエス様は、その罪を犯さない方法をこのように語っておられます。ただ、「わたしに従いなさい。」、それだけが答えであります。 そして、同じようにヨハネは手紙を書きました。ヨハネはこのひとつひとつのメッセージを私たちに伝えるために福音書を書き表わし、そして手紙を書いたとも言えるように思うのです。 ヨハネの手紙第I、2:1
この手紙を書くのは、 ヨハネの手紙第I、2:1
ヨハネはこうして福音書と手紙に同じみことばを書き記しました。そして続いてこう書いてあるのです。 ヨハネの手紙第I、2:1
だれかが。私かもしれませんし、兄弟姉妹かもしれません。 ヨハネの手紙第I、2:1
赦してくださるのです。再び、赦してくださると書いてあります。さらに赦してくださる。このように、ヨハネはイエス様から受け取ったに違いありません。 創世記の18章。先ほどの続きですけれども、18章に引き続いて、こういう個所があります。 サラに現われた主は、アブラハムとこのような会話をしているのです。 創世記の18:22
神の使い、主と言ってもいいと思うのです。 創世記の18:22-26
そしてアブラハムはもう一度尋ねるのです。29節。 創世記の18:29
その前に、四十五人とありますけれども。 創世記の18:29
そして次に、また三十人。「滅ぼすまい。その三十人のために。」と主は仰せられます。そして、再び、二十人。そして、十人と。「滅ぼすまい。その二十人のために。」「滅ぼすまい。その十人のために。」 ここで、33節に 創世記の18:33
とあるのです。この個所は、再び赦してくださり、さらに赦してくださる主ご自身のご愛を表わしているように思います。 サラの夫であるアブラハムが主に尋ねたように、義なる赦し主は、「滅ぼすまい。」、「滅ぼすまい。」、「滅ぼすまい。」と、私たちが尋ねる度に、限りなく答え続けて、赦し続けてくださっています。 アブラハムは十人までお頼みしたとき、もうそれ以上願うことをやめました。主が、限りなく赦してくださる方であるということを知って、主を心から恐れる者となったのです。 そののち、創世記は、主なる神はアブラハムの願いに応えて、ソドムの町に住む、このソドムの町に住むただ一人の、ただ一人いた義人ロトを救い出してくださったと記しています。 そして19章の17節を見てみましょうか。ロトとその家族を救い出したのです。一人の義人のために、「滅ぼすまい。十人のために。」と言ったその主は、その一人のロトのために救いの手を伸べてくださいました。そして、「いのちがけで逃げなさい。」こう仰ったのです。 霊的な意味で、今、あなたの住んでいる町からいのちがけで逃げなさいと神は言われています。口先だけで、平安だ、平安だと言っている夢の世界から逃げなさいとイエス様は語ってくださっています。先ほど兄弟が語ってくださったように、世の嵐を見て、恐れる不安からいのちがけで逃げなさいと主は命令されています。 私たちがとらえられた、つかまえられた現場は、どこでありましょうか。 (テープ A面 → B面) ・・・いまだに巧妙に逃げ回っているとすれば、本当にかわいそうであると聖書は語っています。現場でとらえられることが、本当に幸いの、幸せの訪れが待ち構えているということであります。 聖書は私たちに、弁解の余地は無いとあらゆるところで語っているのです。 今日、私たちが心の奥に覚えるべきひとつは、主は赦してくださるからこそ、恐れられる、そのような方であるということであります。 そして、私たちが本当に、ひとことも弁解する余地の無い、そのような者として恵みを与えられるときに、幸いが訪れて来るという事実であります。 最後に二ヶ所お読みしたいと思います。一ヶ所は先ほどお読みした、ヨハネの手紙第Iの1章の8節からお読みします。 ヨハネの手紙第I、1:8-10、2:1-2
そして最後に、詩篇の77篇の19節。 詩篇77:19
それでは終わります。 |