引用聖句:ゼカリヤ書4章5節
しばらく間、ともに聖書のみことばを味わってみたいと思っています。 今日は、昼の納骨の集いで五人の方々の納骨があったわけですけれども、その中には、親しくしていただいた兄弟姉妹、その方そのものの納骨、あるいは、そのご家族の方の納骨。そのような集いでありました。 天国に愛する者を送った人に与えられる幸せというのは、特別なものであります。その幸せとは、私たちの国籍は天国であるという確信を強く強く与えられるということであります。天と地は、聖書でははしごで結ばれている。 今朝、兄弟が学んでくださったヤコブの個所に、ヤコブが夢の中で見たという個所がございます。そこにはしごが天から地に向けて立てられている。そういう個所がございます。 ちょっと見てみましょうか。 創世記28:12
ヤコブは 創世記28:12
天と地ははしごで結ばれていると聖書は私たちに示しています。そしてヤコブが見たこの夢が、確信できる。そのようなときが来るから幸せであります。 一言で、愛する者を天に送った幸せを言い尽くすことは、もちろん出来ません。しかし、ここに目をとどめ続けることは、主イエス様の衣のすそをそっと触っている、触り続けているということにほかなりません。 この世の中では、愛する者を天に送る。先に送るということは、早くその悲しみから目を避けるように、その悲しみを心から消し去るように、そうしてもらいたいと願います。 しかしイエス様に信頼を置く者は、その悲しみをこそ忘れたくないと思うようになるものであります。 すなわちそれはなぜかと申しますと、その悲しみを超えて、はるかに超えて喜びが、幸いが訪れる。そのためにも、その悲しみの大きさを決して忘れてはいけないと心に刻むようになるものであります。 言い換えると、寂しい思いが襲って来るたびに、天国の確かさを確認する。そういう幸いにあずかるようになるからであります。 今日、昼のそのような集いの中で、おひとりおひとりが証しをされておりましたけれども、そのような幸いをもうすでに受け取っておられる方、そしてまだ戦いの最中にある方。それぞれの思いをもって聞かせていただきました。 もし愛する者がどこに行ったのか分からなければ、私たちの人生はむなしいのではないでしょうか。もし愛する者がどこにいるのか分からなければ、私たちの望みは無いと言ってもいいのではないかと思うのです。 まだ私たち、この地上にいる者は、その天の御国をこの目で見たことはありませんけれども、彼が、あるいは彼女がそこにいる。これこそ私たちの人生の最も大きな望みなのではないかと思うのです。 私たちの信仰の友、もうすでに聖書の中に記されている信仰の友、そして聖書には記されていないけれども、もうすでに天の御国に凱旋した友はみな、このような望みを確かなものにするために、この地上を歩んだと言えます。 ヘブル人への手紙の11章をちょっと見てみましょうか。11章の13節から。 ヘブル人への手紙11:13-16
確かに都が私たちには用意されている。これこそ聖書が私たちに告げている真実ではないでしょうか。 今夜、ご一緒にこの約束を与えてくださった主イエス様の声に、素直に従う恵み、幸いについて短く考えてみたいと思います。 先ほど、ヤコブのはしごの個所を引用しましたけれども、ヨハネの福音書の1章の最後は、全く同じみことばであります。兄弟が読んでくださったちょっとあとであります。 ヨハネの福音書1:51
この個所を通して、はしごとはイエス様ご自身であるということが分かります。 ヤコブに与えられた夢が、今日も、私たち兄弟姉妹にとっては、事実となると聖書は確かな約束を与えてくださっています。 ヨハネの福音書の中には、主を、イエス様を愛する人が素直に自分の欠乏、自分の内に何も無いこと、このことを申し上げた個所が幾つかございます。そしてこの福音書の中では、イエス様が命じられたとおりに従って、幸せを得た人々が登場しているのです。 先ほども兄弟の学んでくださったとおりであります。ヨハネの福音書2章のカナの婚礼に出て来るイエス様の母親、マリヤもそのひとりであります。 この個所は私事ですけれども、信仰を持った最初から不思議な個所として、本当に不思議な個所としてずっと心の中でひとつの場所を占めている、そういうみことばであります。1節から5節をお読みいたします。 ヨハネの福音書2:1
それから、というのは、天が開くのを見るようになる。という約束が与えられてから。 ヨハネの福音書2:1-5
「ぶどう酒がありません。」、マリヤは欠乏をそのまま主に申し上げました。本当に素直な祈りそのものであります。このような素直な祈りをささげる者は、幸いを得るようになると聖書ははっきりと約束しています。 4節で、イエス様に拒絶されても、そのときはまだわたしのときではないとイエス様に断られても、彼女は信頼し続けたと聖書は記しています。心に覚えるべき、主が喜ばれるマリヤの心そのものであります。 この信頼に応えて、イエス様はただの水をぶどう酒に、すなわち、まことのいのちに変える恵みを私たちに明らかに示してくださいました。 ヨハネの福音書2:6
このように書いています。石の水がめによって示されるように、当時のユダヤも現代の日本と同じようにしきたりが支配していたようであります。そして外側だけが、石の水がめのそのような立派な外見だけが、評価される世の中であります。 しかしこの中にあって、主に信頼する者、すなわち、自分たちの不足を訴える者に、主のことばどおりに従う者に、真実をイエス様は示してくださいました。 マリヤのように、「ぶどう酒がありません。」そしてまた、そののち、使いの者たちに手伝いの者たちがイエス様のみことばのとおりに、マリヤがお願いしたそのことばのとおりに、イエス様の手伝いによって水がぶどう酒に変わるのを一部始終見ていた人たちが聖書に登場いたします。この名もない手伝いの人たちを、この奇蹟を目撃した者として聖書は記しています。 ヨハネの福音書2:9
この短い聖書の個所に本当の真理が隠されているように思います。 この個所以外に、もう出ることもない、名もない手伝いの人たちこそ、イエス様の成してくださった奇蹟を本当に素直に従うことによって、目撃する者となりました。さりげなく、みことばは示しています。 主の思いは、パウロがコリント人への手紙第Iの1章で語ったようなものだと思うのです。 コリント人への手紙第I、1:26-30
このカナの婚礼でパウロが示してくれた、手紙に書いてくれたこの真理は、さりげなく書かれています。 こうして主の約束どおり、最初のしるしとして、弟子たちにご自身を明らかにしてくださいました。私たちも今日、当時の幸いな人々と同じように良いぶどう酒を、すなわち、永遠のいのちを同じように提供されています。 ヨハネは福音書を終えるにあたって、この21章に亘る福音書を終えるにあたって、もう一度このイエス様に子どものように信頼する幸いを記しています。私は、ヨハネの福音書の2章のカナの婚礼と、この21章の最後の個所、4節からの幾行かのみことばを本当に不思議な個所として、この情景をそのまま心に与えられました。 ヨハネの福音書21:4-6
淡々と書かれた個所であります。 マリヤが、「ぶどう酒がありません。」と訴えたように、弟子たちもまた素直に答えたのです。「はい。ありません。」 最初にゼカリヤ書で引用させていただいたあの個所も、「はい。知りません。」ということばでありました。 今日、私は兄弟姉妹とご一緒に、私たちの内側の欠乏、私たちの心の中の貧しさをそのまま主に訴えるとき、必ず大きな喜びが与えられるようになる。そのことをお伝えしたい、ご一緒に考えてみたいと思ったのであります。 この弟子たちに与えられた恵みが、そしてマリヤに与えられた恵みが、私たちの人生にも同じように与えられると信じる幸い。 そして主に信頼する人は、マリヤや弟子たちや、あの手伝いの人たちと同じように、奇蹟を見る。そのような約束が、確かな約束が与えられていると確信するようになります。 信じるということは、私たち大人にとって戦いであります。子どものときは何でもなかった信頼ということが、歳を取るにしたがって、本当に困難なことになってまいります。 何度も主に目を注ぐ戦いであります。子どものようになる戦い。それが私たちの残された人生そのものではないかと思うのです。 夜が明けそめたとき、今私たちに新しい歩みが始まろうとしているとき、そのとき、イエスは岸べに立たれたと聖書は記しています。一切をイエス様は見定めようと、私たちのその全行程を岸べに立って、見てくださっておられます。 ですから、この地上の全ての生活は大丈夫であると確信をもって言うことができます。この方が今、愛する者とともに天におられる。ですから、私たちの国籍は天にあると言えます。望みが、ですからあるのです。 この方、主イエス様がこの世に来てくださったから、また、この方、イエス様が私たちの代わりに死んでくださったから、天には栄光、地には平和があると聖書が賛美しているとおりであります。 天には栄光の主がおられ、地にも平和の君、助け主がおられると、私たちはその神の隠された奥義を知るようになります。 イエス様が地上に来られたときに、ルカは次のように記しています。御使いと天の軍勢が賛美したという個所です。 ルカの福音書2:14
こうして恵みが、光がこの地上にまいりました。 そしてヨハネはひとつひとつ、その出来事を正確に、心で受けたその恵みを書き記し、そして最後の21章で、夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれたと。 私たちが、絶対に大丈夫である。どんなことがあっても忘れられることはないと、昔から言い続けられたこのみことばを、ヨハネは新しいことばで私たちに伝えています。 最近、久しぶりにある地方にまいりました。もう九年ぶりぐらいに行った地方で、ちょうど私が行かなくなったその頃に、一人息子を天に送った姉妹から幸いな証しを聞きました。 希望を全く失って、そして本当に悲しみが、その深さが、悲しみの深さがその姉妹を支配していた、そのようなとき、あるとき伝道者の書の3章の11節をお読みになったということだったのです。 伝道者の書3:11
彼女もこのみことばをずっと、よく知っているみことばであったようですけれども、そのとき、どうしてか、このみことばをお読みになったそうであります。そして、急にこのみことばが心を支配したと語ってくださいました。 そのときから、本当にそのとおりである。心が平安に満たされるようになったと語ってくださいました。理由はわかりません。しかし、このみことばがそのとおりであった。 今日、この少し前からお読みして、そしてもう一ヶ所お読みして終わりにしたいと思います。 伝道者の書3:1-8
伝道者の書3:11
そして最後に、詩篇の145篇15節、16節です。 イエス様は母マリヤに、「わたしの時はまだ来ていません。」と語られましたけれども、すでにその時は来て、そして私たちは再び主の来られる時を待ち望んでいる、そのような時であります。 詩篇145:15-16
どうもありがとうございました。 |