耳を傾ける者


岡本兄

(山口喜びの集い、2003/05/10)

引用聖句:ヤコブの手紙4章9節
9あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。

岡本と申します。吉祥寺から参りました。先ほど兄弟がメッセージのことを少しお話しくださいましたので、いつもお話ししていることですけれども、いつも思っていることですので、少しお話しさせていただきたいと思うんですね。
メッセージは先ほど兄弟が言われたとおり、その時によって本当に大変なんですけれども、メッセージをあまりにも重く考えすぎているところがあると思うんですね。兄弟たち、特にメッセージをされる兄弟たちは、自分も本当にそうなんですけども、危ないんですよね。そしてメッセージがどうだ、こうだということは無いと僕は思うようになりました。

一番集いの中で大切なのは、これは集会というのは集うから集会と言っているわけで、本当に喜びの集いの中で大切なのは、隣におられる方との交わり、そして新しく来られた方との交わり、その中でイエス様が語られてそして共に主を仰ぐ、そのことがもう本当に大切です。中心の問題なんですね。
そしてこのようにメッセージさせていただく場というのは、その前の準備段階のようなもの、目を天に向けるための、心を整えるためのそういうひとつの時ではないかなあと思います。
そういう意味で、今日もしばらくの時をご一緒に聖書のことばから考えてみたいと思います。

本当に久しぶりに出会った方が、今回の集いはたくさんおられるんです。九州に以前集わせていただいたことがあるんですけども、福岡の集いには一度も行ったことがございませんし、多くの方が初めて会う方が多いんですね。
そして10年ぐらい会っておられない方とか、たくさんの方とも今日お会いいたしました。本当に嬉しい思いであります。
そして不思議なことに、この宇部市というのは僕が学生時代に3年間住んでいた土地なんですね。それもこの常盤公園のすぐ近くですので、歩いても行けるような所なんです。まさか宇部でこのような集いが持たれるとは思ってもみませんでした。
その当時は飲んだくれで、そのへんに転がっていたような者なんですけども、30年ちょっと経ってまさかクリスチャンとして帰ってくるとは思ってもみませんでした。

今日ご一緒に考えてみたい箇所は、今読んでいただいた所なんですね。

ヤコブの手紙4:9
9あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。

これが天地万物を創造された主なる神のことばです。神の勧めと言ってもいいと思うんです。
これは学問の勧めではないんです。永遠のいのち、まことのいのちへの勧めであります。それは、これらのことを通してのみ、苦しみや悲しみや涙を通してのみ、私たちはみことばに耳を傾けるようになるからであります。
耳を傾ける、聞く耳を持つ、そのときに喜びが訪れます。声の主(ぬし)とそのとき出会うようになります。これは間違いのない事実なんです。

使徒の働きの14章ですけども、お読みいたします。

使徒の働14:8-10
8ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった。
9この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、
10大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい。」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。

聖書はこの箇所で、ひとつの真実を告げています。「いやされる信仰」とはどういう信仰であるか、ということについてであります。
いやされる信仰とは、この生まれながらの足なえが持っていた何ものかなのであります。それは「彼は耳を傾けていた。」
聖書が告げる真実はこの一言ではないかと思うんです。「彼は耳を傾けていた。」この短いことばの中に、みことばの中に、喜びの訪れの秘密が隠されています。

パウロは、同じ新約聖書のローマ人への手紙の10章に、このように記しています。

ローマ人への手紙10:13-14、17
13「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。
14しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
17そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

全ては「聞くことから始まる」んですね。聞くことから始まる。パウロはこのように告げています。そして「聞くことは、キリストについてのみことばによる」
今日の集いの目的もそうではないかと思います。今日の集いはそのためのものでもあると思うんです。
「聞くことから始まる」
聖書のことば、すなわちみことばに耳を傾ける人は、必ず主の御名を呼び求めるようになります。これは聖書の約束です。
耳を傾ける者は必ず主の御名を呼び求めるようになります。そうすればみな救われます。これが聖書の約束であります。みことばの約束であります。

ローマ人への手紙10:11
11聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

聖書は次々と私たちを導いて、このようにその秘密を明らかにしています。イエス様は何をおいてもまず第一に、ただみことばに耳を傾けることだけを勧められているんですね。聖書を読んで研究するようにということを勧めていないんです。親切をするようにとも勧めていないんです。まず第一にですよ。
まず第一に勧めておられるのは、施しをするようにということでもありません。献金をするようにでもありません。集会に集うようにということでもありません。奉仕をするようにということでもありません。
これらのことは全て耳を傾けた後に、喜びの訪れとともに導かれた結果であります。決して人からの強制や、人の努力によってなされる事柄ではありません。

聖書はどこをひらいても、そのように私たちに明らかにしています。イエス様が願っておられるのは自発的な事柄です。そして人の目に見えない、隠された領域に属する事柄であります。ですから先ほどのメッセージのことについても、ここで明らかになっていることは、本当に氷山の一角であります。
自分のうちにどのような恵みがあったか、そのことがすべてであります。

これら一切が聞くことから始まるんですね。「キリストについてのみことば」を聞くことから、すべてが始まります。

ここで、もう一度、初めのみことばをお読みいたします。

ヤコブの手紙4:9
9あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。

これは主なる神、イエス様の私たちに対する愛のあらわれのことばであります。十字架のことばと言ってもいいでしょう。
私たちが主の前にへりくだる唯一の道であるからです。ヤコブは続いてこう言ってるんですね。10節であります。

ヤコブの手紙4:10
10主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。

苦しみ・悲しみ・涙。これはヤコブにとってへりくだる準備でありました。私たちが今は分からないかも知れません。けれども、後で必ず分かるようになります。これも聖書の約束です。
苦しむ時・悲しむ時・泣く時初めて私たちは、これまで長いあいだ自分の考えに縛られて生活してきた、そのような牢獄の中から、広いところに通じる出口に導かれるようになるんですね。

人の思いはこのみことばと全く反対です。自分の思い通りに生きる生活こそ自由であると思い込んでいます。しかしそれは錯覚であります。夢の物語です。それは気ままであり、わがままであり、独り善がりであります。
ま、先ほども申し上げましたけども、30年ちょっと前この土地で学生生活を送っていた時はそう思っておりました。自分の思い通りのことをする、それが自由だと思っていました。家をそのような思いで出ました。
しかし30年経って、同じ場所で確信を持って言えるのは、それは本当は自由ではなかったということであります。狭い部屋に閉じこもっていたということであります。

よく今日ご一緒に考えてみたいと思うんですね。喜びとは何かということであります。
聖書は喜びについて語っているんですね。喜びとはへりくだることだといえます。喜びとは悔い改めることです、と聖書は語っています。
ま、直結しない言葉です。しかしへりくだることが喜びになる時が来ます。悔い改めるときに喜びが沸き上がるという経験をするようになります。
そのとき私たちは、信頼できる方と出会うという事実に遭遇するんですね。そして主の御名を呼び求めるように私たちは必ずなります。
そのために必要なことがあるんです。苦しみ・悲しみ、そして涙であります。自分の心の秘密が明らかにされる必要がどうしてもあるんですね。
自分の内側にあるわがままであります。ズルさであります。そして弱さ、それから醜さです。喜びの前にどうしても必要なんですね。

イエス様は別のところで、「わたしは平和を与えるために来たのではない」と言われました。
「争いを与えるために来た。剣を与えるために来た。」剣を投げ込まれたんですね。そして家族を分裂させ、お互いに憎みあわせ、その後に一人一人の心の内側をみことばをもって探られて、自分の実態が明らかになるようになります。
それは喜びのためなんですね。本当の意味の平和が来るために剣が与えられます。苦しみが与えられます。悲しみも涙も与えられるんですね。これがヤコブの証しであります。

4月の中旬のことですけれども、地方の兄弟姉妹のところに参りました。
そのときひとつの願いを持っていたのです。時間が与えられれば、一人の兄弟をお見舞いしたいと願っていたんですね。すでに彼はガンの摘出手術を過去に行なって、その後も転移をして、その転移した箇所を治療されていたんですね。そのときは自宅療養で、そして次第にまたガンの転移が濃厚になったという時期だったんですね。
わずかな時間が与えられて、自宅を二人の兄弟姉妹と共にお訪ねしたんです。ちょうど明日が再検査という前の日だったんですね。それは本当に楽しい交わりでした。嬉しい交わりだったんです。
帰り際にみんなでみことばを読みました。それはそのみことばは、私が今年の初めから支えられ続けてきた箇所であったんです。耳を傾け続けてきた箇所でもあります。何度も恵みを与えられた箇所なんです。

歴代誌第II、20章であります。何度も地方の兄弟姉妹とお読みした箇所なんですね。そのときもこのみことばを共に読みました。

歴代誌第II、20:12、15、17
12私たちの神よ。あなたは彼らをさばいてくださらないのですか。私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」
15彼は言った。「ユダのすべての人々とエルサレムの住民およびヨシャパテ王よ。よく聞きなさい。主はあなたがたにこう仰せられます。『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。
17この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにいる。』」

読み終えた時に兄弟の顔に力がみなぎってきたのを覚えています。明日この世の中でも検査という、ちょうどその時に与えられたみことばであります。
急に訪問した兄弟から、このようなみことばをその時に受けるとは、彼も思っていなかったと思うんですね。

イエス様が、主なる神が、いま自分の代わりに戦ってくださっているという信頼であります。そして今日ではなくて「あす」その結果を見に行くようにという、みことばであります。
主の戦いの終わった結果を見に行くようにというみことばであります。主の戦いをじっと立って動かずにいよ、というみことばなんですね。そして終わった時、その結果だけを見に行くように。それが聖書のメッセージであります。そこには人間的な思いが入り込む余地はなかったんですね。
このみことばを互いに読んで、そして何も説明が要りませんでした。ガンが再発しているのか、いないのかということでは全然ないんですね。そういうことではないんです。ただ主がともにおられるということ、そして彼が一切を支配してくださっているという確信であります。

ま、今日もある兄弟が確信のことを言ってくださいましたけど、「確信」であります。分かりません。ですけど確信が与えられるんですね。みことばに耳を傾ける時に確信が与えられるようになります。
主の戦いの結果は、必ず私たちにとって益となるという確信であります。みことばの通りの確信であります。「私たちの思いではなく、ただ主のみこころがなりますように」と祈らざるを得ない確信であります。
このとき私たちの心の奥に、喜びが湧き上がるようになるんですね。

そしてその日、最後にもう一箇所、共にみことばを読んで別れたんです。詩篇の119篇の25節です。この箇所はもう何度も何度も、今年の正月から今まで、あらゆるところでお読みしてきたみことばなんですね。そして多くの喜びを与えられたみことばであります。

詩篇119:25
25私のたましいは、ちりに打ち伏しています。あなたのみことばのとおりに私を生かしてください。

信頼というのは、みことばの通りに信じるということだと思います。それ以外に考えようがありません。
何も分かりませんけども、みことばをとおしてイエス様の人格と出会うことができて、そしてみことばを通して約束が語られ、そのみことばを信じるということであります。

そして少しそのまま時が経って今週の日曜日、久しぶりに東京の集会に来ました。そこで聞いたんですね。先ほどの訪問した地方の兄弟は5月9日、昨日ですか、手術をされるということだったんですね。
祈るようにとイエス様が教えてくださったのだと、そのとき思わされたのです。再び同じみことばを便りで送らせていただきました。みことばだけが力であります。
「この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。」
「恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにいる。」
「あなたのみことばのとおりに私を生かしてください。」

このみことばが彼に伝わったかどうか分かりません。しかしそれもどうでもいいんです。祈ったら聞かれる。それが真実であります。
まことのいのち。生きるとは何か。私たちはそのことを知るようになります。
私たちも、そして彼も、このみことばを耳を傾けて聞いたから主を呼び求めるようになりました。このみことばの約束がどのようなものか、知る恵みに預かる者とお互いにされたんですね。

主なる神、イエス様は見せかけの平和を与えるために来られたのではありません。ほんものの、ゆるぎない永遠の平和を与えるために来られたと聖書は証ししています。
本当の解決は神とひとつになることであります。「神との平和」ということばはそういうことです。
自分の内側にふたつの国があります。ジキルとハイドのように、ふたつの人格があるような思いです。本当に目を下に向けると、どうしようもありません。どこまでも落ちていきます。しかし意識をして目を転じると、救いがあります。

神との平和こそ、主の願いであります。そして私たちが知らずに願っていた、まことの平和・平安・愛・喜びであると思うんですね。
私たちは知らずに願っていたんです。イエス様と出会うまでは「平和になりたい」「愛されたい」「喜びを与えられたい」と、同じ言葉で願っています。しかしその実体が分からずに願っておりました。
イエス様に出会った時、みことばに出会った時にその意味が明らかにされます。神との平和こそ、全ての喜び・愛・平安・親切・慈愛、そのようなものであります。
そのためにこそ、それほど大切なものであるからこそ、大きな罪であったからこそ、イエス様が身代わりに死ななければならなかったと聖書は証しをしています。

人生の秘密とは、このようなものではないかと思うんです。そしてこのみことばを耳を傾けて聞く者が、「生まれながらの足なえ」という表現で紹介されている人であります。
耳を傾けて聞く、このような人をイエス様は捜し求めておられる。生まれながらの足なえです。生まれたときから、ひとりで立つことのできない、そのような足なえです。自分では何にもすることのできない者を捜しておられます。

私たちが聖書のみことばに耳を傾ける時、そうすると本当の意味の自由が訪れてきます。教会であるとか集会であるとか、信者であるとか未信者であるとか、そのような外側のレッテルは関係ありません。関係なくなります。
内側だけが大切になるんですね。言葉ではありません。ただみことばに耳を傾けて聞くかどうかだけが、物差しになります。

主なる神、イエス様はそのような「生まれながらの足なえ」を捜しておられます。彼は、生まれながらの足なえは苦しみました。そして悲しみながら生活をしました。そしてたくさんの涙を流したはずであります。
彼は一度も自分で立ち上がって歩いたことがない。だから生まれながらの足なえなんですね。彼は何にもできなかったんですね。ですからみことばに耳を傾けるようになりました。ヤコブの証しと一緒であります。今まで一切のことが期待はずれだったんですね、彼にとって。もう、期待することすら忘れ果てていたことだと思います。
しかしみことばが、主の声が聞こえてきた時、彼はただひとつ耳を傾けた。これが2千年間、聖書が伝え続けてきた事実であります。私たちに願っている事実であります。
「耳を傾けてほしい」これだけがイエス様の願いです。そしてそれが良しと認められました。
まことの神はこのような方であります。このように考えておられる方だと思うんです。どうしても、ほんものの喜びを私たちに与えたいと願っておられます。
「ねたむほどに、私たちを愛しておられる」と聖書は記しています。

今日、私たちはひとつの呼びかけを神から受けているんですね。それは「生まれながらの足なえになりなさい」という呼びかけであります。
もう一度申し上げますと、そのために苦しみがあります。間違いありません。そのために苦しみがあります。そのために悲しみがあります。そのために涙があります。それは苦しみが喜びに変えられ、悲しみが慰めに変えられ、喜びの涙で満ちあふれるようになるためであります。これが聖書の約束であります。

生まれながらの足なえは、必ず次のように言うようになると思うんですね。パウロがそうでした。

コリント人への手紙第II、12:9-10
9しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
10ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

(テープA面→B面)

・・・しておられた兄弟は、本当にそうだったんですね。弱いから強い。それは聖書の中だけの話ではありません。ひとりひとりの兄弟姉妹が奇跡と言われるようになります。「私が弱いときにこそ、私は強い」。この通りのことが我が身に起こります。本当に奇跡としか言いようがありません。
ですからパウロはこう言いました。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」生まれつきの自分自身の性質では、けっして言うことができません。弱い者がこのような思いになるという奇跡が与えられます。

主から与えられたこの世の短いいのちは、借りもののいのちであります。自分のものではありません。不正な富、借りもののいのち、イエス様からある一定期間だけ預かっている、そのような財産であります。
主に出会うまで、私たちは生きているようですけれども実は死んでいるんですね。聖書はそのように断言しています。

聖書のメッセージは、聖書の願いは、私たちに「まことのいのちの中を生きてください」という切実な、切なる願いであります。
「まことのいのちを生きてください。」これがイエス様の願いであります。「信じない者にならないで、信じる者になってほしい」という、そのような願いです。イエス様のいのちを犠牲にされた願い、そのものであります。

最後に聖書がはるか数千年前から、イエス様がこの地上に来られる前から、私たちに願っている、そのみことばを読んで終わりにしたいと思います。
聖書は私たちをこのように見ておられ、神から目をそらした生活はこのようなものだと記しています。

エゼキエル書18:31
31イスラエルの家よ。

主の民よ。

エゼキエル書18:31-32
31なぜ、あなたがたは死のうとするのか。
32わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ。――だから、悔い改めて、生きよ。

ありがとうございました。




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