みんなも呼びな


岡本雅文兄

(広島喜びの集い、2010/09/04)

引用聖句:ピリピ人への手紙4章1節、4節
1そういうわけですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。どうか、このように主にあってしっかりと立ってください。私の愛する人たち。
4いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

このようなメッセージの時に、私はよく詩をご紹介するんですね。詩が非常に好きで、その中でも、八木重吉兄弟の詩を引用させてもらっています。
なぜかというと、彼の詩は、特に叫びそのものであり、また祈りでもあり、感謝であり、そして静かな喜びの証しそのものであるからであります。
本日も初めに、大好きな彼の詩の一つをご紹介して、それから初めさせていただきたいと思います。「みんなも呼びな」という題名がついています。それで、テーマの題名も「みんなも呼びな」ということにさせていただきました。

さて、赤んぼうは、なぜに
アンアンアンアン泣くのだろうか
ほんとに、うるせいよ。

アンアンアンアンアンアンアンアン
うるさかないよ、うるさかないよ。
呼んでるんだよ、神様を呼んでるんだよ。
みんなも呼びな、あんなにひつっこく呼びな。

聖書のメッセージは、「みんなも呼びな、あんなにひつっこく呼びな」、こういうものであると思うんですね。すなわち、「みんなも子供のように、あんなにひつっこく、わたしを呼べ」と言っておられるのではないかと思います。
これも信頼するということ、信じるということであると思うからであります。
主なる神の願いは、決して私たちがむずかしい理論を、また解釈を議論しあうことではありません。子供が最も神様に近く、喜ばれるものであると言っておられるように思うんですね。

聖書を何度見ても、子供のように、私たちが子供を考えておられる、そういう子供ではなくて、素直なそのような子供、ひつっこい子供、それを言っておられるのではないかと思います。
ですから、最も幸いな人とは、子供のように信頼できる方を知っている人ということができます。
あの方ならどんな時でも大丈夫、決して裏切ることはなさらない、昨日も今日もいつまでも同じだからと、子供のように信じて疑うことのない人、このような人ではないかと思うんですね。

イエス様は、今日来られた、お一人お一人にとってそのようなお方でありましょうか。
ルカは、ルカの福音書18章で、不正な裁判官にひつっこく願ったやもめの女性を通して、「みんなも呼びな、あんなにひつっこく呼びな」という重吉兄の詩のとおりを、克明に私たちに告げています。
そしてまたパウロもまた、牢獄の中から喜びが与えられる秘訣。喜びの秘訣は、ひつっこく喜ぶことですと私たちにメッセージを送っています。

正確にみことばのように言うと、「いつも主にあって喜ぶこと、すなわちひつっこく主にあって喜ぶこと」、こう語っているのではないかと思うんですね。
私自身のささやかな信仰生活をとおして、知ったこともこのみことばの通りでありました。
イエス様とは、本当に不思議な助言者、アドバイザーであります。この方こそ、イエス様こそ、信頼できるお方であります。このイエス様を「みんなも呼びな、ひつっこく呼びな」と子供の国のことばは語っています。

聖書は、子供の国のことばではないか、子供の心を綴ったことばではないかと思います。
パウロという信仰者は、大人になってしまった者に対して、すなわち私たちに対して、子供の心を大人のことばで手紙に書きました。子供の心が伝わらなくなった者のために、その子供の心を大人のことばで、書かざるを得なかったと言えるのではないかと思うんですね。
最初に読んでいただいたみことばが、パウロのことばであります。子供の心を、彼が精一杯、大人のことばで書き記したみことばであります。ピリピ人への手紙4章4節を読んでみましょうか。

ピリピ人への手紙4:4
4いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

よく御存知のみことばであります。喜びなさいと書かれているから、喜ぶのであります。すなわちイエス様が、パウロを通して言われているから、命令されているから喜ぼうと、主に期待をこめて、すなわち意識して、ひつっこく祈るのであります。願うのであります。
喜べるように、助けを求めるのですね。アンアンアンアン泣くのであります。
そして、「もう一度言います。喜びなさい。」とパウロは続けて書きました。そのように書かれているから、もう一度喜ぼうと願い求めるのであります。再び願い求めるのであります。

喜べなくても、それでももう一度書かれているからもう一度、顔を天に向けて喜ぶのであります。そうすれば、必ず喜べるようになりますと、私たちは約束を与えられています。約束だからであります。
主なる神は、神の権威にかかわること、主の神の権威にかかわることだからであります。信頼するというのは、主の権威に結びつくことではないかと思うんですね。
主が提供されているその権威が約束していること、主のご権威そのものに結びつくこと、しがみついて離れないこと、彼の権威にかかっていること、それが約束ではないでしょうか。これこそが、私たちが知りたいと願っていることではないでしょうか。

ですから、ひつっこく呼ぶことが、無意味に終わるはずがありません。この、今短くご一緒に考えてきたこと、これこそがイエス様を信じているということの実態ではないかと思うんですね。
信じていると私たちは簡単に言いますけれども、信じているとは、ひつっこく聖書が書いているとおりに、喜べなくても、もう一度喜びなさいと言われるから、喜ぶのであります。主の権威がかかっている約束だからであります。
イエス様を信頼しているとはこういうことではないかと思うんですね。絵空事ではありません。

みことばを実行するということも、こういうことではないかと思うんですね。聖書に書いている一字一句を逃さずに、その通りに、私たちは喜べなくても喜ぶのであります。
そこに一切まがい物はありません。これが私たちが本当に願っている、信仰、信頼そのものであります。
そしてさらに言えば、これは聖霊によって、御霊によって歩んでいるということそのものではないでしょうか。

世の人でも、喜べるから喜ぶというのは出来ます。普通のことなんですね。喜べるから喜ぶ、うれしいから喜ぶ、これは普通のことであります。誰にでもできます。私たちは、主にあって喜べなくても喜ぶのではないでしょうか。
これは普通のことではありません。私たちは、一度も心に思い浮かべたことのないようなものをいただくのですから。これが私たちの第一の仕事ではないでしょうか。今私たちが、喜べる状態であるかどうかは一切関係ありません。
そのようなこと、すなわち私たちの状態のことは、聖書には一切書かれていないからであります。

パウロがピリピの人々、兄弟たちにあててこの手紙を書いたのは、よくご存知のように牢獄の中でありました。目に見えるところは、何一つ喜べる状態ではなかったんですね。それにもかかわらず、その時パウロは、ご一緒に読んだように書いたのであります。
牢獄の中においても、変わらず、本当の喜びであったものを彼は私たちに伝えてくれました。もう私たちは、パウロのこのことばを聞いているのですから、遊んでいるのをやめるべき時ではないでしょうか。遊園地の出口へ向かう時ではないかと思うんですね。
そして、もう上がったり下がったりしながら、毎日同じ風景を眺める、メリーゴーランドから降りる時ではないかと思うんですね。

そこから降りて、どのようにすればよいか、どこに向かえばよいかということについては、私たちはすでに、手紙を受け取っています。
もうその手紙を、私たち一人ひとりが開封したかどうかが問われています。そして、その封筒の中から、手紙を取り出して、一字一句、心を注いで読まれたでありましょうか。
パウロから私たちに差し出されたその手紙をもう一度、お読みいたします。

ピリピ人への手紙4:4
4いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

このような命令が書かれています。
喜びなさいというこの命令に続いて、書かれたみことばが6節にあります。

ピリピ人への手紙4:6
6何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

ですからこの手紙は、喜ぶための手順書であるといえます。

この中で、4つのことが書かれています。4つに分けられると思うんですね。
1つは、何も思い煩わないでということ、そして2つ目は、あらゆる場合に、そして3つ目には感謝をもってささげる祈りと願いによって、そして最後に、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。この4つです。
この4つのことばの後に、そうすればと書いています。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、私たちの心、ハートと思い、マインドとをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

ここに、よみがえりのイエス様が、約束してくださった手順とその結果が書かれています。
すなわち、私たちがよく慣れ親しんでいる、旧約聖書の詩篇37篇5節、

詩篇37:5
5あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。

という旧約の古いみことばを、パウロは新しい律法、自由の律法として、私たちに新たに伝えてくれています。
このようにして、主なる神の平安が、私たちにも与えられています。この約束が、この主の権威にかかった約束が、その通りかどうか、私たちは試してみたことがあるでしょうか。
旧約聖書の結論、命令は次のとおりであります。これもよく知っておられるみことばだと思うんですね。

マラキ書3:10
10十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

このみことばは、多くのキリスト者が献金を十一献金をするようにと、その根拠にしている箇所でもあります。
しかし、聖書全体から私たちが受け取る十分の一とは、感謝そのものではないかと思うんですね。主に対する感謝、この感謝をことごとく、主の前に携えて来て、わたしをためしてみよと言われています。
パウロは、この旧約聖書の結論、最後のみことばを受けて、そして彼の人生に適用いたしました。パウロは旧約聖書のこの結論を、彼自身の自分自身の人生に適用いたしました。もう一度、みことばを申しあげます。

何も思い煩わないで、あらゆるばあいに感謝、十分の一をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、結果は決まっています。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、私たちの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
このように旧約聖書と新約聖書全体が、同じように約束しています。

ですから、メリーゴーランドを降りる時がやってまいりました。遊園地の出口に向かって歩き出すように、パウロはこのみことばを私たちに解かるように、読めば解かるように、心を開けば解かるように、手紙を差し出してくださったのであります。
聖書が告げるキーワードの一つは、見る前に与えられる喜びであります。祈っただけで、信頼しただけで与えられる平安であります。祈った時にすでに与えられる平安、喜び、すなわち見ずに信じる喜びであります。
ですから、そこに御霊の働きがあるという事実を、私たちは、はっきりと知ることができます。

見ずに信じることができるという奇跡を体験する人は幸いです。それは、私たちの心に思い浮かんだことのないものだからであります。みことば通りだからなんですね。そこに御霊が働いておられるという証明だからであります。
コリント人への手紙第I、2章9節では、パウロは

コリント人への手紙第I、2:9
9「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

と語りました。彼の心そのものであります。無上の喜びとは、この主にある喜びではないでしょうか。
見る前に飛ぶことができる喜び。聖書は何ひとつ、むずかしいことは告げてはいません。ただ私たちの心が、あれもこれも考えているから、疑いの心が支配するようになるのではないでしょうか。
そしてその結果、イエス様を信じるということは、むずかしいと勘違いするのであります。

子供は単純です。アンアンアンアン泣くだけであります。
今日、ご一緒に見てきた約束、すなわち牢獄から送られてきた、パウロの手紙に書かれた約束、「喜べなくても喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。喜べなくてもです。」とパウロはひつっこく手紙に書きまし。
このみことばが必ず与えられる、この約束が必ず与えられる。今、喜べなくても必ず喜べるようになる、この確信が、この信頼が与えられる時、何かが起こります。

この喜びをどうしても、私たち一人ひとりに受け取ってもらいたい、これはイエス様の切なる願いではないでしょうか。
これこそが、主にあってという信頼の実態、私たちが成すべき、みことばを実行するとはこのようなことではないかと思うんですね。
そしてこれこそが、御霊が働いておられる証拠であります。主は生きておられるという体験そのものであります。祈った時に、その時に与えられるという喜びであります。

本日の集いは、みことばを実行した結果、すなわちみことばを心から信頼した結果、どのように喜びが与えられたのか、あるいはどのように主にある平安が与えられたのかを、互いに語りあう、そういう時ではないでしょうか。
目に見える事柄の結果報告ではなくて、目に見えない事柄の証の時ではないかと思うんですね。喜びそのものではないかと思います。
マラキ書3章16節にこうあります。

マラキ書3:16-17
16そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。
17「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる。

本日はご一緒に、喜びとは見ずに信じることの中にある、ということについて考えてまいりました。
反対に、目に見える事柄が成就するということは、あくまでもおまけのようなものであると、私はいつも思うんですね。そうすると、再びおまけの喜びが湧いてまいります。
イエス様が与えてくださるものは、おまけの本体であります。見ずに信じる喜びそのものです。目に見えるおまけだけを期待する時、それはもう、おまけ、恵みではなくなります。

ですから、目に見えないものに価値を置く時、私たちは本当の喜びを経験するようになります。本当のものは目に見えないのであります。
イエス様は、決して裏切る方ではないと信頼しているから、見る前に喜べるのではないでしょうか。
本当に欲しいものが、すでに手に入ったも同然、このような喜びに、私たちは祈り終えた時に、いや祈る途中にもうすでに完了したという、大きな喜びを与えられるようになります。パウロは高々に証ししています。

コリント人への手紙第II、4:18
18私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

これは、ただ単にパウロが思いついて書いたみことばではありません。彼は喜んだんですね。
喜べない時に喜んだからこそ、彼は書きました。
もう一度いいます。喜びなさい。あらゆる時に喜べなくても、全然問題ないと、彼は自信を持って、このみことばを書き記したのではないでしょうか。

このみことばを、あらゆる場合に感謝して、みんなも呼びな、あんなにひつっこく呼びなとイエス様は、語りかけてくださっています。私たちも言いましょう。あなたの命令ですから、喜べなくても喜びたいと。
最後にみことばを一つ拝読して終わりにいたします。ヨハネが、私たちにも送ってくださった手紙を最後に書いたみことばであります。
終える前に書きとめたみことばであります。このみことばも、ヨハネが体験した証そのものであります。

ヨハネの手紙第I、5:14-15
14何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
15私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。

どうもありがとうございました。




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