引用聖句:エペソ人への手紙4章4節-6節、16節
この私たちに与えられている、地上で一人一人に与えられている喜びというのは、一つになる喜びではないかと思います。 先日の日曜日、吉祥寺の礼拝で、一人の兄弟が、今読んでくださったみことばを読まれたんですね。そのとき、それを聞いていた私は、本当に嬉しくなったんです。嬉しさがこみ上げてきたと言いましょうか。 一つになる喜びは、地上で経験したことのない喜びであります。先ほど歌っていただいた、「日々の歌」88番、そして212番。一つになる喜び、そしてその源はみことばによる。今日、ご一緒に考えてみたいと思ってることすべて、言い尽くしたような賛美でありました。 パウロはこの喜びの大きさを、よく知っていた兄弟でありました。コリント人への手紙第Iで、このように彼は書いています。 コリント人への手紙第I、12:26-27
このみことばのとおり、からだ全体の一つの部分としての喜びであります。この喜びのあるところが、まことの教会の特徴であると、聖書を紐解く度に思わされることであります。 今日、私たちが集ったこの集まりは、一つになる喜びの集いではないかと思います。 かつて、私たちの目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの。そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。ヨハネが手紙で書いたとおりの、このような方に出会う集いであります。この方と一つになる喜び。この喜びを知る集いと言ってもいいかもしれません。 そして、すでにこの方に出会った兄弟姉妹たちにとっては、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手で触ったもの、すなわちいのちのことばについて証しすると、ヨハネが語ったとおりの集いであります。 初めて私たちが一人の方に出会う喜び。そして出会ったのちに、再びその出会った方、聞いた方、触った方の証しをする。そのような集いではないかと思います。 ヨハネは、ヨハネの手紙第Iの中で、「私たちの喜びが全きものとなる。そのために、私はこの喜びを伝えている。」と書いています。福音書の記者は、このみことばのとおりに自分自身が見たもの、聞いたもの、そして触ったもの、私たちに聖書の中で示されたとおりに彼ら自身が経験をしたその証しを語ってくれています。 今日はこの、いのちのことばの証しを、一人一人が心にたくわえる集いであります。 医者であったルカは、ルカの福音書で、ヨハネやパウロと同じ喜びを心に受けたようであります。彼は、ヨハネの語るとおりに、いのちのことばをこのような表現をもって、証しをいたしました。 ルカの福音書18:35-43
この人は、聞いたことのないものを聞いたんですね。そして、目で見たことのないものを見るようになりました。ルカはこの記事を、大切な宝物のように後世に残したと言えます。ルカも、この盲人と同じように心の闇が取り払われ、そして、イエス様を一つになる喜びを与えられたに違いありません。 この聖書の箇所、すなわちみことばは、私たちに何一つ要求していません。ただ一つ、この人がしたのは、イエス様に向かって、叫び立てたことだけであります。 唯一彼がしたこと、ルカが宝物のようにそこの場面を切り取って、そして2,000年間、ずっと私たちに伝えてくれたこの証しは、「叫び立てた」ということであります。このみことばだけを頼りに、主イエス様を心に受け入れるとき、イエス様と一つになる喜びが訪れるようになります。 みことばに心を探られる。詩篇の作者も語っていますけれども、みことばに心を探られて、単純な、幼子のような信頼へと導かれるときに、私たちは本当に初めて、見たこともない、聞いたこともない、触ったこともない喜びに、幸せに浸るようになります。 そして、私たちにこの証しが伝えられている理由は、この盲人の与えられた喜びと同じ大きさの喜びが必ず与えられる、という約束であります。主に向かって叫びたてると、この喜びが与えられるという証しであります。 続いて、ルカの福音書の19章の1節は、そののちにまた、ルカが特別に大切にした証しであります。 ルカの福音書19:1-6
ザアカイも、あの盲人と同じように、見たことのない方を木に登って、じっと見たんですね。ルカも、このザアカイと同じように、心の奥深く潜んでいる孤独から解放され、主とともに一つとなる喜びを与えられたに違いありません。 ですからルカは、この証しを本当に大切な証しとして、いのちのことばの証しとして、私たちに残してくれました。 このザアカイという人は、だれからも顧みられることのない人であったようであります。しかし主の思いは、私たちの思いとまったく違って、こう語っています。 ルカの福音書19:9
主は、偏りなく見られるお方であります。このザアカイも、あの盲人と同じように心の内側で叫んでいたという事実を、イエス様は大切にしてくださいました。 4節の、「それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。」、これは彼の叫びであります。彼の全身で表わしている叫び。盲人が叫び立てたという箇所とまったく同じ、彼の心の内側の状態であります。 これをイエス様は見てくださっています。主が来られた目的は、失われた人を捜して、救うためと、この箇所でもご自身ではっきりと語っておられます。 「きょう、救いが私の家に来た。」と言える人は、本当に幸いであります。このいのちのことばを握って、...聖書はあらゆるところで、このいのちのことばを握ってという思いを隠しているのではないかと思います...、このいのちのことばを握って、彼らのように新しく歩み始めたいと叫び立てる人たちは、イエス様に捜し求められている人であります。 道に迷って、助けを求め、叫び立てている一匹の羊のような人を、イエス様は待っておられると、ルカの福音書は私たちに告げています。 ヨハネの福音書20:24-29
ヨハネだけが伝えている証しであります。手で触ったものであります。ヨハネは一切の恵みの証しの最後の最後に、イエス様の傷跡の証しを残しています。 「イエス様の愛を伝えたい。」、これこそ、ヨハネの最も望んだことではなかったかと思います。ヨハネの福音書、そしてヨハネの手紙、その最初から最後まで、いのちについて、ひとりの方について、その方のご愛について、一貫して伝えています。 今日、兄弟姉妹とともにご一緒に、2,000年前のあの日、トマス、彼が新しく歩み始めたように、そしてまたその光景を一生涯心に留めたヨハネのように、同じ主のご愛に留まる恵みにあずかれるのは、本当に幸いです。 聖書のみことばに触れるときに、長い年月をとおして、2,000年前のあの日の、あの夜の、トマスとヨハネと同じ喜びを与えられる恵みが、私たちには与えられています。ヨハネはこの日の、この証しを胸に秘めて、手紙を書いたに違いありません。 ヨハネの手紙第I、4:9-11
ヨハネは多くの証しを福音書に残しました。彼の目で見、彼の耳で聞き、そして手で触ったその証しの最後に、傷跡の証し、主のご愛の証しを記したんですね。そして、彼はそのご愛を手紙の中で兄弟たちに告げ知らせました。 「主の愛のうちに留まってほしい。」、これがヨハネがどうしても、兄弟たち、姉妹たちに伝えたかったことであります。主とひとつになる、全き喜びの中に生きてもらいたいと、メッセージを送ってくれています。 ヨハネをとおして残された、このみことばのとおりに従いたいと願い続けるとき、本当に不思議ですけれども、全き喜びの海に浸るようになります。これが聖書の確かな約束です。 「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。」、「ここに愛があるのです。」 ヨハネは、何度も何度もこの光景を思い浮かべたに違いありません。彼は手紙を書きながら、トマスとともに心に刻んだこの恵みの証し、いのちのことばの証しを思い起こしたのではないかと思います。これがヨハネの土台であります。 私たちが、このヨハネの土台を共有することができれば、本当に幸いであります。 このみことばの種が芽を出し、成長し、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶと、聖書は証ししてくれています。私たちは神のみことばが、神の種が蒔かれる神の畑であると、手紙をとおして私たちが知るようになりました。 今日、もう一つ考えてみたいのは、この喜びは、どのようにして訪れるのかという問いについてであります。 私たちは、今日引用しました聖書のみことばを、何度も聞いています。しかし、最も大切なのは、日々、毎日毎日の生活の中で、どのようにこの喜びを与えられ続けるか、ということではないかと思います。 頭で理解することをはるかに超えて、実際にどのようにすればよいかという問いであります。 今日私たちは、2,000年前のように、イエス様と顔と顔とを合わせて出会うことはできません。ただ、みことばをとおして、この喜びの訪れを経験するようになります。 あの盲人とイエス様との出会いは、今日、みことばに耳を傾けるときに訪れるようになります。みことばに静かに向かうとき、心の中の叫びが、叫び立てたあの心の中の叫びが、聞かれているという確信を与えられるようになります。知るようになると言ったほうがいいかもしれません。信仰の恵みにあずかるようになります。 ザアカイとイエス様との出会いは、今日私たちにとって、みことばの中にあります。みことばを静かに味わうとき、内側から、自分の内側から確かさが湧き上がってくるようになります。 この地上で、唯一確かなものは、みことばだけではないかと思うんですね。私たちが感じている、はるかにはるかに大きな意味をもって、みことばは私たちを導いてくれます。あまりにもみことばの力を小さく見すぎているので、本当に喜びが私たちには与えられていないのではないかと思います。 自分ではいつもそう思うんですね。しかし目を転じて、みことばに目を向けて、分からなくてもそこに目を留め続けるときに、不思議な、大きな安らぎと大きな喜びの海に浸るということが、度々本当に何度もあります。 聖書は私たちに、からし種ほどの信仰でいいよと、はっきりと宣言してくださっています。ここを見てみましょうか。 ルカの福音書17:5-6
私たちの堅い思いや律法的な信仰の態度と、イエス様の自由が、本当の人格から与えられている思いの違いが、ここにあります。「信仰を増してください。」と、私たちは信仰についてこのような態度を取っています。もっと信仰を与えてほしい。 しかしイエス様は、そう答えておられません。からし種ほどの信仰で十分であると、彼は答えてくださっています。小さなみことばには、小さな種には、大きな力が宿っています。 からし種ほどの信仰とは、「神が約束されたことは必ず成し遂げられる。」という信頼ではないかなと思うようになりました。 昔この箇所を読むと、何かホッとする箇所でありました。しかし、本当に力が与えられるのは、その意味が私たちの心の中に結び付くときであります。 神は約束されたことを必ず成就される。聖書のみことばは必ず実現する。そのような信頼であります。証明できる、できないということではありません。個人的な恵みそのものであります。 聖書の知識ではなくて、ごまかしのないみことばの約束に堅くつながっているという一点が、最も大切ではないかと思うんですね。 聖書を読むと、聖書の字づらではなくて、その背後に隠されている、イエス様の人格がどのように語っておられるか。 「私たちがどんなに逆立ちしても、信仰を増し加えることはできない。」、イエス様のみことばに目を向けて、そして、自分の思いをはるかに超えたイエス様の思いに、一切をあけ渡すときに、私たちは必ず導かれ、そしてみことばのとおりになると、心に与えられるようになります。その事実を知るようになります。そしてその喜びにあずかることができるようになります。 先日、吉祥寺の日曜日の礼拝が終わったときに、三人の若い方が僕のところに来られたんですね。初めて見るお顔だったんですけれども。二十代でしょうか。二人の女性の方と、男性が一人来られたんですね。そして質問をされました。 ある教会に集っておられる方だと、自己紹介をされました。そして、教会をもう一度建て直したいんだということを言われたんですね。 そしてちょうどそのとき、僕は当番でしたので、僕のところに来たんだと思うんですね。そして、キリスト集会には何か秘訣があるに違いないと思われたのかもしれません。人がたくさん集うという、何かあるのかもしれないと思われたんでしょう。 じっと聞き耳を立てて、何か参考になることを聞きたいと言われたんですね。みことばに耳を傾ければ、その秘訣が分かります。何を建て上げようとしているのか。私たちが、何を建て上げようとしているのか。聖書のみことばに触れると、明らかになります。 目で見える教会であるか、それとも、二人三人が主を中心として、主のみことばを中心として、集まる教会であるのか。 聖書は、私たちにはっきりと導きを与えてくださいます。彼らは、そこはボヤーッとしてるようでした。最も悪いのは、人が支えようとすることであると、聖書は私たちにはっきりと示してくれるようになります。 必要のないものを、私たちが必死で担おうとしたときに、最も悪い状態になります。むしろ、必要のないものを支えるのは、罪ではないかと導かれるようになります。 私たち自身も、そのことを聞きながら、もう一度静かにみことばに向かって考える必要があるなと、僕自身も思いました。 からし種ほどの信仰があれば、まことの教会が建て上げられると、イエス様はこの箇所をとおしても語っておられるように思います。 ひとつひとつ、こうしよう、ああしようということではなくて、まず座って、イエス様の確かさ、イエス様のみことばの偉大さに目を留めて、そして私たちの思いをはるかに超えた主に心をあけ渡すことがどんなに大切か。ヨハネもパウロもペテロも語っています。 私たちが、どのように理性的に考えたにしても、主の約束だけが成し遂げられることに目を向けましょう。これが2,000年前に兄弟たちが私たちに伝えてくださった、メッセージであります。 たとえ信じることができなくても、それでも諦めずに、意識して、主の御心であり、主ご自身であるみことばにじっと目を注ぎ続けましょう。これが手紙の内容であります。必ずそのときが来ます。 (テープ A面 →B面) 従う喜びを知るようになります。 最後に、約束のいのちのことばを、ご一緒にお読みして終わりにいたします。聖書の言葉は、一つ一つ「約束」であります。 ヨハネの福音書14:23
最後に、 ヨハネの福音書17:23-26
終わります。 |