心を尽くし、あなたの神である主を愛しなさい


岡崎龍夫兄

(大分福音集会、2013/04/21)

引用聖句:ヨハネの福音書15章7節
7あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

日本人が手を合わせて祈る時、何に祈っているのでしょう。
祈ると何か良くして下さる神がいる。神妙な気持ちで手を合わせて、心の中で申し上げるなら、この願いは聞かれるだろうと思っている。
運転には事故が起こる。もしそれが自分に起こると困る。この不安を失くしたいから祈祷をお願いし、お金を払い、お賽銭も投げ入れ、交通安全のお札を貰って帰ると何となく安心する。

また、埼玉県には、昔、武蔵の国と呼ばれていた地域があります。今は秩父と呼ばれています。そこで、8世紀初めに自然銅が発見され、これを喜んだ朝廷は年号を和銅と改め、最初の流通通貨として和銅開珎を発行しました。
和銅開珎ゆかりの神社は「銭神さま」と呼ばれています。金運上昇、宝くじ当せん、パチンコ必勝の絵馬が奉納されています。サマージャンボでも年末ジャンボでも、両方ならもっとありがたい。一心不乱に祈ったから願いは通じただろう。これが新聞の地方版に載っていた記事です。日本人の神様とは何者でしょうか・・。
日本人は、祈る対象として、自分に近い存在を神と考えているように思います。将来、災いが起こらない、お金が儲かりたいという願いの気持ちが行動になっているだけのように思います。

日々の生活の中で、神とはどのような存在なのかを考える必要のない歴史が400年以上も続いてきました。ですから、神はいると思いながらも、その神の存在は自分が気にするほどのものではないと感じているのようです。
目の前に見えることや感じる世界だけが存在する。死んだ後に裁きがあるなど嘘のようにしか感じないのでしょう。
いつまでたっても、真実の神を求める心が生まれて来ません。霊的に死んでいるとは、五感に感じることしか存在しないと思う心しか持っていないと云うことでしょう。

肉体を持って生きるということは、自分たちには、死ぬことしか存在しないと感じて、それを信じて、あきらめて生きることなのでしょう。ですから益々死が日本人の魂を支配していくように思います。
信仰を持っても成長しない原因は、私達が、真実の神を求めない歴史の中で生きて来たことと、感じる世界しか無いと思って生きてきたことによるのではないでしょうか。
聖書の神様を知り、祈りがどんなに大きな力となるかを頭で理解できても、この見えるものを重視する性質が、祈る気力を消してしまうのでしょう。

そこで、「祈りと信仰」について、聖書が語っているのはどんなことなのか、知りたくなりました。
皆さんと、しばらく一緒に考えて見たいと思いました。

今からお話しする、相談する方とその答えとは、ある月刊誌から一部を引用しました。一人の婦人が聖書にとても詳しい二人の方に、同じような相談を致しました。
私は、夫が難病のためどうしても癒してほしいという願いがあります。マルコの福音書11章の22節とヨハネの福音書15章の7節に「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」、願いが全て叶う方法が書かれています。
「わたしがあなたがたにとどまるという意味は、互いに愛し合うという掟を実践することが条件になるということでしょうか。」、正しい解釈と病の癒しのために取るべきことを教えてください。

一人の方の答えです。その方は、聖書の知識にとても詳しい方で、長い間、神学や多くの方々からそして、沢山の本から学ばれた方です。
聖書の中から、いかに神の恵みが大きいかを話され、最終的にこのようにまとめられました

『難病との戦いは、本当に大変だと思います。すでに祈りを積み上げて来られたので、神様はその祈りをご存知です。癒しの祈りによって癒された方も、癒されなかった方も知っています。私は、どちらの祈りも究極的には聞かれていると信じています。結果は、神に委ねることが大切だと思います。
神が愛に溢れた方であることを思い起こしてください。御名を称え、賛美することも大切です。
詩篇34篇の1節にダビデは「私はあらゆる時に主を褒め称える。私の口にはいつも主への賛美がある。」これはダビデが敵に追われている時に詠んだ歌です。願わくは、この祈りが私たちのものとなりますように。』

又、もう一人の方は、神の愛について、長い間追い求めて来られた方でした。その方はこう答えました。
『祈りましょう。御言葉の通り、神様の奇跡がなされるように祈りましょう。ヨハネの福音書15章の7節に書かれたことは、心をこめて神に祈り続けるなら、どんなことも神様が解決を用意されることを示しているのです。』
そして、心をこめてしばらくの間、夫人と共に夫人の夫が癒されるように祈りました。

さてどちらの答えがこの夫人の願いに答えたのでしょう。
後者の方は、夫人の心を慰め、ひと時、悩みの疲れを癒したでしょう。では始の方は正しくなかったのでしょうか。二人の答えは、どちらも正しいと思います。
それでは聖書の答えは、どのように理解したら良いのでしょうか。そこで、聖書の中の「祈りと信仰」について、この二人の話で説明されていない部分を探してみたいと思いました。そうすれば、二人の勧めが一つになり祈りの意味が悟れるのではないかと思いました。

初めの方は、ダビデは「私はあらゆる時に主を褒め称える。私の口にはいつも主への賛美がある。」、これはダビデが敵に追われている時に詠んだ歌です。
この祈りが私たちのものとなることを願います。このように答えられました。それでは、ダビデが何故、苦しみの中で賛美の祈りを選んだのか考えて見る必要があると思いました。
困難や苦難の中で、賛美の祈りとはどんな意味を持っているのでしょう。ダビデが敵に追われている時に、なぜ神を賛美すると告白したのでしょう。

歴代誌第IIの20章21節から23節に書かれたことですが。祭司たちが民の前に歩み神を賛美し始めた時、イスラエルに攻めてきた敵が互いに同士討ちを始め、ついには全てが死に絶えたと記録されています。
また、イエス様に出会った人に住み着いた悪霊は「もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。」、イエス様は「行け」と言われた。すると彼らは出て行って豚に入った。すると、見よ、その群れ全体がどっと崖から湖へ駆け降りて行って、水におぼれて死んでしまいました。
とマルコの福音書5章10節から13節に、悪霊に支配された豚が暴走して湖になだれ込んで、全てがおぼれ死んだと書かれています。何が起こったのでしょう。

ルカの福音書8章31節に同じ出来事が書かれています。この時、悪霊どもがイエスに、「底知れぬ所に行け。」、とはお命じになりませんようにと願った。と書かれています。彼等に、どのようなことが起こると、錯乱状態に陥るのでしょう。
彼らはサタンと同じように偽りの性質を持った者達です。真理に逆らうものとなったからです。彼らの中にある神の裁きの恐れは、普段は偽りの性質によって覆い隠されているでしょう。
しかし、神の権威が現れたとき、覆い隠された恐怖があらわになり、自分が行っていたことを、自分で破滅してしまうほどの錯乱状態が生まれるのではないでしょうか。そのため、イスラエルに攻めてきた敵は互いに殺し合い、悪霊が入った豚は狂ったように湖になだれ込んで死んでいきました。

また、聖書はルカの福音書10章17から18節には、さて70人が喜んで帰ってきて、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」
イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」
これらの御言葉が明かにしていることは、神の権威が現れるとき、悪霊の中に恐怖が生まれると言うことでしょう。神の権威が現れる時とはどのような時でしょうか、神を敬う礼拝が、天に於いて神の御心が行われるように、この地上で受け入れられる時だと思います。

このことが荒野におけるイエス様とサタンのやり取りから解ります。マタイの福音書4章8節から11節に、今度は悪魔は、イエス様を非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々と栄華を見せて、言った。「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使い達が近づいてきて仕えた。
イエス様が試みを受けた最後に「神である主を拝み、主にだけ仕えよ。」と神を第一とする決断を言い表された時、神の主権を敬うことが明かに言い表された時です。神の権威が現れ、サタンの存在できる場所は、完全になくなりました。そして御使い達が使えることのできる状態が回復されました。

ダビデが敵に追われている時、ダビデは「私はあらゆる時に主を褒め称える。私の口にはいつも主への賛美がある。」と書き残しました。ダビデが選んだ神を賛美する生き方こそが、神の主権を喜ぶことを告白する、ダビデの祈りだと思います。
ですからイエス様が荒野でサタンに勝利されたと同じことが、ダビデにも与えられたのでしょう。賛美の祈りを捧げることこそ、ダビデが捉えていた人生の極意だったのではないでしょうか。賛美は、神の主権を喜び受け入れるダビデの信仰告白そのものだと思います。
賛美を祈りとして捧げることにより、賛美の祈りを通して心の中に、神の主権を喜ぶ性質が成長していきます。そうすると、神の権威が、信仰の成長と言う形で現れてきます。そのため、神が力を現すことができるようになるのだと思います。

なぜ神の権威が信仰の成長として現れるのかを、考えてみたいと思います。もう一箇所、ダビデの賛美の祈りの箇所を見てみましょう。
歴代誌第Iの29章11節から14節にダビデは全集団の前で、「主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。富と誉は御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。
今、私たちの神、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄に満ちた御名をほめたたえます。まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。」、ダビデはこのように、神を賛美する祈りを全会衆の前で捧げました。

このダビデの賛美は「まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。」、と言う彼の祈りこそ、全てのことで神に主権があることを告白する祈りではないでしょうか。
ここで、私たちを苦しめるサタンについて考えて見ましょう。
イザヤ書14章の13節と14節では、サタンが天使の長で在った地位から落とされた理由が書かれています。サタンの心に高ぶりが生まれて、「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北のはてにある会合の山に上ろう。密雲の頂きに上り、いと高き方のようになろう。」と高ぶりを心に抱いた時、サタンは、神の主権を認めない存在となってしまいました。
その結果、永遠に滅びるもの、神の主権が現れる時、存在できる場所がない者となってしまいました。

賛美の祈りが捧げられる心の中は、完全に神の主権が回復されています。そのため、同時に神の主権の現れとして神の権威も現れます。
その理由は、「主の祈り」の中に示されていると思います。

マタイの福音書6:9-10
9御名があがめられますように。
10...みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

と書かれた主の祈りが成り立つとき、神の主権が現れ、サタンの介入できる場所がなくなるということです。
そして、天使たちが私たちを助けることができる状態が生まれます。もしこのように日々、神の主権が私たちの心の中を支配し続けるならば、私たちの心は、神の愛を強く感じるように成長していきます。私たちは神を益々強く愛する者になっていくでしょう。
神の愛が強く捉えられるため信仰も強くなって行きます。こうして、どのような状況に在っても、勝利の人生を歩む力が、私たちのものとなります。その理由は、エペソ人への手紙1章3節に書かれています。

エペソ人への手紙1:3
3神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

と書かれた霊的な祝福が肉体をもって生きている私たちの霊の上に現れるからです。それは6節に書かれた、「それは、神がその愛する方によって私たちに与えて下さった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」と言う御言葉が私たちの心の性質となるために必要だからです。
そのため、天にある霊的祝福がこの地上で私たちの上に現れます。ダビデはこのことを、御霊さまから体験的に学んだのでしょう。
ですから彼の人生は多くの祝福にあふれたものとなりました。

それでは、もう一人の方の答えについて考えてみましょう。
「御言葉の通り、神様の奇跡がなされるように祈りましょう。ヨハネの福音書15章の7節に書かれたことは、心を籠めて神に祈り続けるなら、どんなことも神様が解決を用意されることを示しているのです。」
この答えについて、その意味を探してみましょう。この答えは、さまざまな苦難とは、主の祈りにある「御国が来ますように。」と言う祈りの答えを探す道と言えるでしょう。神の御国が心の中に実現することが、その答えであると思います。

そこで、心に生まれる、天の御国について考えて見ましょう。
苦しみの中から神に祈りが起こされるとき、人の心は力を尽くして神を訪ね求めます。聖書を何度も読むでしょう。しかし、どんなに祈っても願いが叶えられない時、自分には、隠された罪があるのだろう。と自分の生き方を吟味するようになるでしょう。
そして、自分の疑り深い不信仰が原因で願いが叶えられないのだろうと気付くでしょう。自分の疑り深さが、どのような罪の結果なのかを、聖書の中から一生懸命になって探すでしょう。

イエス様を宿したばかりの母マリヤも、神を賛美して、「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう、」と賛美しています。
イエス様は、マルコの福音書10章15節で、「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」と語られました。
ですから、幼子のように心を神に向けないと、不信仰から抜け出す答えが見つからないと言うことでしょう。子どものように素直に、神の国、神の言葉を受け入れるなら、神の言葉を信じる信仰の通りに叶えられるのでしょう。

問題はどうしたら、疑り深い自分が、幼子のような素直さを身に着けて、神の御言葉に全き信頼を置く者になれるかと言うことです。
神との関係がどのようになると、神に対して幼子のような信頼が育っていくのかと言うことが知りたいのではないでしょうか。
その道標として、コリント人への手紙第I、13章13節に、

コリント人への手紙第I、13:13
13いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

と書かれています。この一番すぐれた愛が育つ関係が神様との間に深まるなら自然と信仰や希望も強くなります。
なぜなら、信仰は信頼から生まれ、信頼は愛の関係から生まれます。そして愛は希望を生み出すからです。
ですから、愛を追い求めることが全てを得ることになります。神と、愛の関係が増し加わって行くには、神との間に、どのような交わりが必要になるのでしょう。

主の祈りの中には、「御国が来ますように。」と書かれています。果たして、この祈りは、やがて来る御国のことを示すだけでしょうか。
イエス様は、「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。そら、ここにあるとか、あそこにある、とか言えるようなものではありません。いいですか、あなたがたのただ中にあるのです。」とルカの福音書17章20節と21節で教えておられます。
これは、神の国がこの地上に生まれる場所は、神との交わり、心の中であるということでしょう。

天国は、祈りの交わりの中に生まれると言うことになります。神に祈る時間が、大好きな方と語り合う、とても楽しい時間となるなら、そこが天の御国であるということです。
しかし、反対に、祈りが喜びにならないなら、そこにこの世に生きる自分の考えがあり、この世が心を支配しているということになります。
いと高きお方が、まるで自分だけを愛して下さるお方であるかのように、大好きな、大好きな父様とお呼びしたくなる時、思いきって自分だけの愛するお方のように呼んでみてください。天国の喜びが心を包むでしょう。聖霊さまが深い喜びを与えて下さるでしょう。そして心の底から喜びが溢れだす天国の性質が育つでしょう。

パウロも、ローマ人への手紙14章17節で「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」と書いています。天の父やイエス様との愛による喜びが心に生まれることが、天国が心に生まれると言うことでしょう。
イエス様がいのちを捨てて求めて下さったものは、私達との愛の繋がりです。
神は、今この私たちの心に天の御国を創造しておられると思います。天国における永遠の変わらない品性はこの地上で形造られるからだと思います。

ペテロを見て下さい。あれ程の裏切りをしたのに、イエス様は二度「アガパオー」と言う神の永遠の愛の形で「あなたはわたしを愛しますか。」と聞かれました。神が二度同じ言葉で呼びかけられる時は、慈しみを現しておられるときです。二度まで神の方から愛を示されました。
三度目は神が人となられたからできる人間の愛の形「フィレオ‐」で「あなたは私が大好きですか。」とご自身への愛をペテロにお求になられました。
イエス様によって、はじめて神と人とが一つとなることができるようになったのです。天国はそこに形造られるのです。

ペテロは三度とも、人間の愛の形「フィレオ‐」と言う言葉を使って、私はあなたが大好きですと答えています。人間には「フィレオ‐」と言う愛しか現せないのです。神が謙って人の子となられたから、神と人とが一つになる世界が生まれました。この愛の関係を求めて下さる祈りこそが主の祈りの「御国がきますように。」という祈りだと思います。
この愛の関係が築かれるために、ペテロは裏切りと言う辛く悲しい自己破産によって、天国の品性を築くために必要な心、自信が崩れ落ち、自分の思いで生きることが全て崩れ落ち、神により頼む以外に何もできない心が生まれたのでしょう。
そのペテロに、イエス様は優しく「あなたは私が大好きですか」と「情け深い神」として、人の愛の形で、ペテロの心に寄り添って下さったのです。

苦しみとは、この愛の関係が築かれる建設現場のような気がします。建設中の現場にいる時は、混とんとして何が何だか解らないでしょう、しかしその全てを、愛によって設計された方は私たちの永遠の父です。天の父はこのように宣言されているのです。
「わたしはあなたがたのために立てている計画を良くしっているからだ、それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」と、主のみ告げとして、エレミヤ書29章の11節に書かれました。

ところで、主の祈りにはもう一つの大きな課題があります。それは、「私たちの負いめをお許しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」この祈りが出来るようになることが、どうしても必要です。そのために罪の心を悔い改めなければなりません。
自分が許せない人たちのために神の憐みを祈り出すことです。すると、心の中に、神のお言葉に従う祈りがなされるため、神の主権を受け入れるのですから、神の支配が現れ、罪の支配が無くなって行きます。心からその人のために神の憐みを祈れるようになります。
キリスト者には、イエス様の十字架によりこのことが約束されているからです。古き人は十字架の上でイエス様と共に死んだとあります。自分に意地悪する人のために祈り出す時、神の支配が全てに及びます。天の御国で御心がなると同じように、私たちの心の中に御心が成るからです。

そして、この祈りによって地上に神の御心が成し遂げられる働きが生まれます。
御霊様が私たちと共に働くことが出来るようになります。天のお父様は、御霊様の働きは、With youですと申されます。また、主の祈りには「私たちを試みに会わせないで、悪からお救い下さい。」とも書かれています。何故このような祈りが必要なのでしょう。
この祈りが叶えられるために、一つ条件があるからでしょう。それは、謙る心を持って祈る者となることが必要だからです。その理由は、神は高ぶる者を退け、謙る者に恵みを与えられると言う神の宣言されているからです。

また、高ぶる心があればサタンは神の御言葉を盾に、その人を神に訴えて試みることを許されるでしょう。ヨブも彼の中に在る自分は正しく生きているという自分を主張する心が試みを招きました。
確かに、人は試みに会うと、神を求め自分の罪を悔い改めるでしょう。そして多くの恵みを頂くでしょう。しかし、試みに会って苦しみを通して成長する道より、愛によって成長する道の方がはるかに恵みに溢れ、喜びにあふれ、しかも軽いくびきしか存在しないのです。天の御父のお心に叶う道だからです。
ですから、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救い下さい。」と祈る意味は、謙って神に近づく祈りが必要であるということです。謙りの祈りは、アブラハムの祈りが良く表しています。ロトのために愛を持ってとりなし、謙くだって祈るアブラハムに、神は栄光のお姿、「憐れみ深い神」のお姿を示されました。

創世記18章27
27「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。

と謙って神に憐れみを祈り求めました。アブラハムの祈りから彼は謙る祈りの人であったと思います。
アブラハムは神様に、50人の義人がいてもソドムを滅ぼしますかと聞き、主は滅ぼさないとお答えになりました。何度も人数を少なくして憐れみを願い、最後には10人まで少なくしましたが、主は滅ぼさないとお答えになられました。
実際に、主はたった4人のロトの家族も滅ぼしませんでした。神はこのように憐れみ深いお方であることを示されました。

神はモーゼにもご自身のお姿を示されました。「わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」と語られました。その後で、ご自身の栄光のお姿を、主の名によって、「あわれみ深く、情け深い神、」と宣言されました。
しかし、イエス様以前に、憐れみ深い神としての記録はたくさんありますが、私達が理解できるかたちで「情け深い神」として表された出来事が見つかりません。
神が人の子となり、私たちと同じ肉を持つナザレのイエスとなられることで、初めて人の悲しみを、かわいそうに思われる、情け深いお心の神であることを現すことが出来たのではないでしょうか。ルカの福音書7章13節を見てみましょう。

ルカの福音書7章13-15
13主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。
14そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言われた。
15すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。

他にも、聖書の中で一番短くて深い意味を持つお心の現れが書かれています。イエス様はラザロの墓に向かわれる時です。「イエスは涙をながされた。」と書かれています。
イエス様はマリアとマルタから「あなたが愛している者が病です。」早く来て助けてくださいと願う手紙を貰いました。それなのに、マルタとマリアの願いを退け、ラザロが死んで、四日もたった後に来られたのです。
来るのを遅らせた理由は、神の栄光のお姿「情け深い神」としての、ご自身の栄光のお姿を現わされるためではないでしょうか。

イエス様は、人の子としてお生まれになられたのです。マリヤやマルタの苦しみは、心が痛くなるほど感じておられたことでしょう。神のご性質を持たれるイエス様には、遠くにいてもラザロの苦しむ様子が見えていたでしょう。ヨハネの福音書1章の48節のナタナエルのことで解ります。
マリアはイエス様にお会いした時、心には、愛するお方に裏切られたような悲しみが溢れていたでしょう。マリヤとマルタの悲しみがイエス様に伝わってきます。
イエス様には病で苦しみながら死んでいくラザロのこともずっと見えておられたでしょう。マリアの深い悲しみを伴った祈りも知っておられたでしょう。それなのに、愛する者に優しくできない、悲しみに耐えて四日を過ごしておられたのです。

そのような時、付いてきたユダヤ人がイエス様に「盲人の目を開けたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う心の思いを感じられたのです。
人の子として生まれ、人の悲しみが痛いほど解るイエス様が、四日間も悲しみを受け止めておられたのに、ユダヤ人達の心に、ラザロの死の悲しみより、癒しの力を論じる思いがあるのを感じて、憤りを覚えられたのでしょう。
そうした心の動揺から悲しみが涙となって溢れ出したのでしょう。「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、」そして「イエスは涙をながされた。」別の訳では「イエス泣きたもう。」と書かれています。

神様は、私たちに近づいて人間の感情である「情け深い神」として一人一人にご自身の愛の姿を現したいと切に願っておられるお方です。
すでに神は、イエス様を通して、ご自身を「情け深い神」としてお示しになられました。ですから、天におられる大好きな私のお父様、私の羊飼い、大好きなイエス様と祈る生活をしてほしいのです。
ペテロのように「フィレオ‐・大好きです」の言葉で三度でも四度でも、愛の交わりを告白してほしいのです。

もし、私たちが「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、あなたの神である主を愛せよ。」この戒めを守る生活をしようと思い、謙って、神の主権を喜ぶ賛美と感謝の祈りを捧げる生活をしていくなら、そしてその祈りが、「天におられる大好きなお父様、大好きなイエス様。」と愛の交わりを育てていくなら、神はその者を、ご自身の栄光が解るほどの近くに、導かれないでいられるでしょうか。
その者は神の偉大さを知る者となり、信仰が益々強められ、神が共に働いて、お力を現わされる器となることでしょう。神は喜びを持って奇跡をおこなわれるでしょう。
イエス様は「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」と語っておられるのです。あのイチジクの木がすぐに枯れた時、イエス様はこう語られました。

マタイの福音書21:21-22
21「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。
22あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」

このように、神を信頼する者に、主は喜びを現わされるお方です。
また神は、ご自身と愛し合う者を試みるようなお方ではありません。詩篇91篇の7節から9節に、千人があなたのかたわらに、万人があなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。あなたはただ、それを目にし、悪者への報いをみるだけである。それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。
この「いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。」と言うことは、いと高き方の愛を住まいとすることを意味しているでしょう。そして「あなたがたがわたしにとどまり」という意味も同じであると思います。

このような生き方をする人こそ、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救い下さい。」と言う祈りの人生を生きる人ではないでしょうか。
神と愛し合う祈りの中で信仰は強められ、天国の豊かさを、この地上で味あう者になるでしょう。ですから、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」と語られたのだと思います。
神と人との間に愛の関係が深まって行くなら、このお言葉の通りになると言うことを、天の父は解って欲しいのではないでしょうか。

神に対するこのような愛の人生を生きることが、「わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、」という意味であり、「力を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、あなたの神である主を愛しなさい。」と言う第一の戒めの意味ではないでしょうか。
また、イエス様が教えられた、「主の祈り」の意味でもあるように思います。




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