へりくだり、ゆだねなさい


小川泰徳兄

(四国・西条家庭集会)

引用聖句:ペテロの手紙第I、5章6節-9節
6ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。
7あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
8身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
9堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。

今日のテーマということにつきましては、よく聞く言葉、「ゆだねる」という言葉です。
「神にゆだねれば」っていう言葉を聞くんですけども、私は主に引き寄せられてからと言いますか、救われてから結構時間経つんですけれども、神にゆだねるという言葉はよく聞くんですが、そのゆだねるっていうのは一体どういうことなんだということを、本当の意味では今でもまだわかっていないかもしれません。

しかし私なりに「ゆだねる」っていうことはどういうことかっていうことを、聖書の中から学ばせられたと言いますか、主から教えられたことを今日はお伝えしたい。
ということですから、あるいは違ってるかもしれません。みなさんの感覚と違うかもしれません。しかし「ゆだねる」ということについては、私は結論を申し上げれば、常に主に感謝して、祈ることができる、そして常に主に自分をあわれんでくださいと、祈ることができる、その状態を「ゆだねる」ということだろうと思うんですね。
国語辞典に載っている意味の「ゆだねる」ということからいきますと、ゆだねるとは、全部ともかく神さまにお任せ、そしてあとは待つだけだというふうにもとれますけども、実はそんな簡単なもんではないと思うんですね。

一番いい例が、ゆだねるということで何かがあったときに、ありのままに放っておく、放っておいて結果を待つ、これも「ゆだねる」かもしれません。
しかしそれは、本当の意味の「ゆだねる」ではないんじゃないか。よく話を聞いてるとそういうふうに仰る方もいるんですね。「もう何もしないんだ。ただ、待ってるんだ。」、ということはよく聞きますけれども、私が学ばされた、「ゆだねる」っていうのは、もっと奥が深いものが本当の意味の「ゆだねる」じゃないかな、というふうに思いますので、前置きはそのくらいにして早速、聖書の方に入っていきたいと思います。

今、兄弟から読んでもらいました箇所をもう一度、吟味しながらというか、大事な言葉をいくつか強調しながらもう一度読み直してみたいと思うんですね。
ペテロの手紙第Iの5章の6節からですね。

ペテロの手紙第I、5:6
6ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。

ここで、まず一つですね。へりくだりなさい。

ペテロの手紙第I、5:6
6神が、ちょうど良い時に、

これが、時の問題ですね。ちょうど良い時に、

ペテロの手紙第I、5:6
6あなたがたを高くしてくださるためです。

高くしてくださるというのは、ちょうど良い時に、一番いい方法を主がなしてくださるという意味の、高くしてくださる。

ペテロの手紙第I、5:7
7あなたがたの思い煩いを、いっさい

ここで「いっさい」、全ていっさい。後でも出て来ますけども、自分の都合のいいことだけじゃない、やっぱりこの言葉の今日の学びのポイントだろうと。「いっさい」、なんですね。

ペテロの手紙第I、5:7-9
7神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
8身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
9堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。

だから、堅く信仰に立って、そして悪魔に立ち向かいなさい。

ペテロの手紙第I、5:9
9ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。

もう一度言いますと、「へりくだり」、「時が」、「いっさい」、そして「身を慎み、目をさましていなさい」、「堅い信仰に立ってこの悪魔に立ち向かいなさい」
こんだけの短いところに、神の私たちに対するこれほど非常にすばらしいみことばが凝縮されているなあというふうに思うのが、今日の学びの箇所です。順次見ていきたいと思います。

私たち、まず最初の「へりくだりなさい」という言葉なんですが、本当にへりくだるってことは難しい。これが本当に難しいことですね。ある人は言いました、「へりくだり過ぎ」というのは、それは傲慢だ。
本当に言い得て妙なるっていいますか、へりくだり過ぎは傲慢である、それは最初はぼくもわからなかったんですね。へりくだり過ぎは傲慢だってどういうことなんだろうというふうに考えてた結果、今ちょうど兄弟と話してて、このことだなあと思ったんですが、要するに同じへりくだりでも、自分が無理をしてへりくだってる場合と、自然にへりくだってる場合と二つございます。
むしろ無理をしてへりくだってる時に、本来は自分はそうしたいんだけれども無理してへりくだると、必ずその反動が来るといいますか、その裏に必ずその反動がありますね。

本来自分はそのことをしたいとか、そうなりたいと思いながら無理してへりくだる、そうするとそこに、その立場にその人がいったときに、必ずそれはへりくだりながら、本当のへりくだりのない場合にはねたみとか、誹謗したりそういったものになって出てくるんじゃないかと思うんですね。
そこに、そのへりくだりの難しさっていうのがあると思うんです。
そしてもう一つ、へりくだりということで言えば、私たちは神の前には簡単にへりくだることができるんですね。それは絶対的な違いを知っているからなんです。しかし人の前に、私たちがへりくだろうということは、すっごく難しいことですね。そして人間てのは、元々、容易に傲慢っていうか、譲りたくたいわけですね。

で、昨日でしたか、教育テレビ見てましたら、たまたまインドの宗教、それから世界の宗教、そしてもちろんキリスト教。どちらかというとキリスト教を中心にして、他の宗教と比較してると言いますか、どこの学者だったか知りませんが、私の大好きなところなんですが、創世記のところで、アダムとエバが最初に神のいいつけを破って、エバに、何故あなたは取って食べてはならないと言った木の実を食べたんだって言ったらですね、いやそれは、最初アダムに怒るんだね、そしたらアダムが何と言い訳したか、それはあなたが創ったこの女が私をそそのかしたんです。そういう言い訳してるんですね。
あなたが創った女じゃないか。確かに聖書で見るとそう書いてあるんですね。そして今度は女に怒ると、その女は何と言ったかって言ったら、この蛇が悪い。蛇が騙したという記事がありますね。見てみると面白いです。創世記の始めの始めにありますから。後で見てみてくださくぃ。

人間には、元々へりくだろうという気持ちはあまりないんですね。そういうところからすると、そのように創られてると言ったらいいのか、アダムとエバの罪によってそういう者になってしまったんですね。
そしたら神は、「わかった」、そこに神の忍耐、すごい忍耐です。そんな自分が創ったものからそういうこと言われても、主は忍耐してくれる。

われわれの罪ってのは、主が忍耐してくださらなかったら一日たりとも生きていけないんだと、それだけのことを思っても、われわれは知ってるから、神の前にはへりくだれるんですね。
こうして、主のもとに引き寄せられた私たちでさえ、と言ったらおかしいかもしれませんが、主を知ってるから主の前にへりくだれる。けれども、人の前にはなかなかへりくだることができない。で、ぼくはどんどんいつも、話がはずれちゃって、全然原稿と関係ないことを言っちゃうのは、そこは勘弁してください。それは主の導きと思って。

ある友達はこういうことを言ったんですね。電車でよく帰る友達なんですが、今日は辛かったっていう話を誰かがしますね。そうすると、非常に痛烈なことを言うんです。どういうかと言うと、「いや。それだけ辛かったってことは、自分が本当はそこまで出来るのに、相手が認めてくれなかったと、要するに自分を認めてない。自分は高くしてるからそういう、辛かったとか、不満が出るんだよ。」っていうことを、それはクリスチャンじゃないんですけども。
すごいことを言うなあと思ったんですね。
まさにそうなんですね。へりくだりっていうのは、高ぶりと本当に裏腹と言いますか、隣りあわせといいますか、まさにそういうことだろうと思うんです。
世の中でサラリーマンってのは、酒を飲んで一杯愚痴をこぼすとか、その愚痴を聞いてるとほとんど話題は自分、自分、自分、自分。全部その話の中心は自分なんですね。

で、自分というものを中心として話をするときには、必ず自分は悪くない。そういう言葉は使いませんけれども、相手が悪いんだとか、規則が悪いとか、今のアダムとエバの神に対する言い訳と結局同じことを言ってるんですね。
規則が悪いんだ、もう社長がワンマンなんだとか、私がこう言ったんだけども相手はそういうふうに理解をしてくれなかった。三十喋って、やっと一つか二つ、いやけれどもぼくも悪いんだけれどもねっと、こういう話あるんです。
本当に思ってるのかどうか、ちょっとよくその辺はわからない話ってのは、結構世の中に多いんじゃないかと思うんですね。

どんどん話がはずれていっちゃうと、収拾がつかなくなりますので、この辺で元へ戻しますと、いっさいをゆだねるということの絶対条件は、だからへりくだりがまず第一だ、ということですね。
われわれは神によって創られた、本当にひとつのちっちゃなもんにしか過ぎないんですね。常に私たちは、神さまと競おうとする傲慢な態度があります。しかし主は、へりくだる者を高くしてくださる、そしてちょうど良いときに高くしてくださるという約束。
で、神さまっていうのは、主というのは、基本的には私たちの、主を認めないとき、主の前にへりくだらないときには主は働かれないんです。無理強いしないんですね。

よく使うみことばにこういう言葉がありますね。私たちの主は、聖書を見ると、私たち人類をすべてを救いたい、すべてに愛をかけたいと、主は思っておられる、というみことばがいくつかありますね。
問題は私たちが主を受け入れるか受け入れないかで、このようにして、救われていくかそれとも救われないかということなんです。で、聖書のヨハネの黙示録の中にこういう言葉ことばがありますね。有名な言葉ですからもうおわかりと思うんですが、

ヨハネの黙示録3:20
20見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

主はトマスのときには壁を通り抜けて入って来られたとか色々ありますけれども、決して主は基本的なところでその人たちの愛、救い、恵みってのは、今主を知ってる人、知らない人に対しても、みんなもっておられるわけですね。
しかし本当の意味で救いを受ける、本当の意味で主の支配を受けたいと思うならば、必ずドアを自分で開けなければいけないんです。主は無理強いして立ち入らないというか、無理矢理入り込んでその人の意思を曲げてってことはしないんですね。それが神と私たちの絶対的な、神の関与を受けるか受けないかの絶対条件であろうと思うんです。

そして最初に結論を言っちゃうようですけども、へりくだり、ゆだねたときには、私たちの行動に現われてくるわけですね。それは、ゆだねた、本当にゆだねたときには、非常に耳に痛い言葉です。これは自分自身に言ってると思ってください。私自身に言ってると思ってください。
私はもうゆだねましたという言葉は、人に対して言うこと、一切必要ないんですね。誰にも公開する必要ないんです。
例えば私の子どもが就職、去年したわけですけども、するときにも、そりゃ親として考えないわけは別にありません。しかし子どもとの意見が合わなかったりしますよね。そのときに主にゆだねたのっていう言葉は、他人に対してって言いますか、言う必要は一切ないとぼくは思うんです。その分、祈ることだろうと思うんですね。それがゆだねることなんですね。

そして今、私たちの家族の状態も主はすべて知ってくださっていますね。もう主を信じてるわけですから。だから祈りっていうのは、ゆだねのときの祈りっていうのは、ぼくは「主よ。あなたが、今、私の子どもの状態をすべて知ってくださっておりますから、感謝します。本当に感謝します。主は一番いいときに、」...先ほどありましたね...「ちょうど良いときに高くしてくださる、すなわち一番いい方法をとってくださる。そのことを私たちが知らせてくださっておりますことを感謝します。」、これがゆだねの証しだろうと思うんですね。
それ以外に、ゆだねてるとかそういう言葉は一切必要ないと思うんですね。

神に対する感謝。知ってくださってることの感謝。感謝。感謝の祈りと、どうぞ主よこうしてくださいじゃないんですね。彼はここへ、こういうところへ行きたいと言っているから、どうかこうしてください。たとえその前に、主の御心ならと付けたって、それは駄目なんですね。ぼくは駄目だと思う。そんなことじゃないと思うんですね。
知ってくださっていることを感謝します。そして主は、いつもあわれんでくださるから、それも感謝します。恵んでくださるから感謝します。願わくば、私たちが主の御心をそのまま受け取ること、素直に受け取ることができるように、私自身をあわれんでください。祈る私をあわれんでください。
それが「へりくだり」だろうと思うんです。よくぼくもわかりませんけども、こういう学びをして得た結論っていうのは、やっぱりそういうことだろうと思うんです。

ゆだねるということは、何もしないことじゃない。祈ることが、ゆだねることではないかと思います。
それからもう一つ、

ペテロの手紙第I、5:7
7あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。

これも非常に厳しい言葉ですね。これはみんな私のことと思ってください。思い煩いのいっさいなんですね。例えばさっきの子どものことがありましたね。
そのときに、そのことだけを頼むんですね。自分がうまくいってるときには祈らない。いいときには祈らなくて、自分がうまくいっているときにはゆだねないで、そして困ったときだけゆだねる。人間ってそんなもんだろうと思うんです。ほとんどそうだろうと思うんです。
昨日なんかでも、社長のとこへ、どうしてもいい仕事の印鑑をもらいに行かなきゃならなくて、社長が機嫌が悪くて、思わず祈ってますね。本当にまさに。
じゃあいつもゆだねてるかって言えば、非常にあやしくって、そのときにはやっぱり短い時間であっても、でも主はそのこともご存知だからっていう、もちろん安心感はありますけれども、本当にここで噛みしめなきゃいかんのは、あなたがたの思い煩いをいっさい!です、都合のいいときだけ、部分だけ、じゃないんですね。いっさいだから、常に、いつもということなんです。
今回ゆだねましたっていう言葉は、ぼくはとんでもない話だと思いますね。

ペテロの手紙第I、5:7
7あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

と、ありますね。聖書の中にこういうみことばがあります。ちょっと今日引きませんけども、「神があなたがたのことを心配してくださるからです」と、今のことばを受けて、

哀歌3:22
22私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。

そして、

哀歌3:23
23それは朝ごとに新しい。

とありますね。だから私たちはいっさいでなくて、部分的にゆだねたり、非常に勝手なことをしてるに対して、神はさっき言った、私たちの身勝手さに対する忍耐、忍耐してくださるから、私たちが滅びうせなかったんですね。
それは主のまことの恵みによる。そして主のあわれみは、毎日、毎日尽きないから、私たちはこのようにして生きておれる。そして最も言いたいのは次なんですね。

哀歌3:23
23それは朝ごとに新しい。

なんです。私たちは忘れてます。私は本当に毎日主のことを思ってるのか。朝、食事の時に祈って会社へ出て行きますね。しかし本当にそれは形式的な祈りになってないか。もうほとんど形式的に近いもんですね。
家族のために祈り、今日一日のために祈っては出て行きます。本当にどれだけ心が入っているか、それに対して主は、私たちの罪、傲慢、へりくだりのなさに対して、私たちが滅びうせなかったのは主の恵みなんだ、あわれみなんだ、そのあわれみは尽きないからだ、そしてそれは朝ごとに私たちのことを主は新しく覚えていてくれるっていうんですね。
その神に私たちは、ゆだねない手はないんですね。

私たちがいっさいゆだねてるかどうかってのは、主は霊を通してみんなわかっているんですね。

ローマ人への手紙8:26-27
26御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
27人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

御霊はってのは、イエス様がこの世の中から二千年前に天に去るときに、わたしの代わりに御霊を残していきます。そしてその御霊が、今イエス様、天の神さまであるイエス様と私たちの思いの仲介者であられます。
それが今の、その聖霊であって、その聖霊がとりなしをするためには、私たちの心を探って、そして何を祈ったらいいのかもありました。何を祈ったらいいのか。私たちを助けるために、イエス様は聖霊を残されたわけですから、その霊が私たちひとりひとりの中に、私たちひとりひとりのことをすべて知っていなければ、とりなしをすることもできない。
従って、すべてを知っているんだっていうことを私たちは、いつもわかっていなければならない。

ある私の大好きなクリスチャンの兄弟がこう言いましたね。聖書のみことばなんですけども、神さまは決して侮ることができるような方ではありませんっていう、その言葉は非常に強い言葉ですね。
それから歴代誌の中にこういう言葉がありますね。主よ。あなたは私の心を探ってください。もし私の心の中にあなたに対するひどい思いがあるならば、罪があるならば、どうぞ今すぐこのいのちをとってください。
まさにそれは、主がすべてを知っておられるということを意識した祈りなんですね。

そして次に、身を慎み、目をさましていなさいというみことばがあります。サタンが狙っているのは、主に愛され恵みに溢れている人たちなんですね。これが非常に怖いことなんですね。だからさっき、あの聖書の中に出てきました、部分的ではない、ある時ではない、いっさいを常にって言ったのは、そういうことだと思うんですね。聖書にはそのように書かれてます。
なぜ「いっさい、」なのか、なぜ「いつも」なのか。それはうまくいってるときほど、サタンが狙ってます。ここで話したことありませんかね。ぼくが大好きなところで、またよく話すところで、ヨブの話を引いてみたいと思うんですね。サタンのすごさってのがわかるのは、創世記のさっき言ったところの比じゃないんですよね。ヨブ記なんです。

サタンの怖さってのは本当に凄まじいといいますか、サタンのすごさ、サタンの持ってる権威といいますか、権力といいますか、やっぱり再認識する必要があると思うんですね。

(テープ A面 → B面)

今話したことばをちょっと裏付けてみますと、ヨブ記の1章のところ...このヨブって人はすごい、主に対して忠実だったんですね。忠実であり本当に素晴らしかったために、サタンが目を付けるというところなんですね。

ヨブ記1:1-4
1ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。
2彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。
3彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。
4彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き、人をやって彼らの三人の姉妹も招き、彼らといっしょに飲み食いするのを常としていた。

これは、非常にですね、裕福な家庭。族長でしたからねー。あの、ヨブって
いうのは。羊を飼って、たくさんの人を使って、こんなにたくさん持って、
そして、家族もうまくいってたんですね。
行き来して、祝宴を開いた。って書いてますね。

ヨブ記1:5
5こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、

きっと自分の家をそれぞれ提供して、順番に回していったんでしょうね。これは非常に仲の良い、これ以上幸福はないんじゃないかと思う生活してたと思いますね。

ヨブ記1:5
5こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。

次ですね。

ヨブ記1:5
5ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。

表面上は本当に神に忠実で、そうしてても彼はそこまで主に対して従順で、本当に子どもたちのことを思ってしてた人だったんです!その次ですね。ヨブはいつものことでしたでしょ。

ヨブ記1:6
6ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。

このことをどう考えたらいいでしょうか。ある日、神の子らが主の前に立ったとき、サタンも来てその中にいた。追い返されなかったってことなんです。神の子と同等の権威力っていうか、なんていうんですかね、資格っていった方がいいかもしれませんね。神の子らと同等の資格を持って、神の前に立つことのできるのがサタンなんです。
ご存知のようにサタンは、前身は神に仕える天使だったと言われてますね。サタンも来てそん中にいた。

ヨブ記1:7
7主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」

だから巡視を、歩き回る権利とそれから神と堂々と話をする権利も与えられてるんですね。

ヨブ記1:8-12
8主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」
9サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
10あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。
11しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」
12主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。

ここはすごいことなんですね。サタンは主と、神さまと取り引きというか、そういうことまでできる権威を持ってる。権威っていうか、力を持ってるんですね。
ある意味では裏返しの神さまほどの力が、彼には備わっている。ここでヨブのように素晴らしい人を、よく素晴らしい、霊的に素晴らしい人は、うまくいくと、私たちは思いがちですね。そうじゃないんですね。祝福されたときこそ、それは気をつけなければいけない。そのことがここで非常によくわかると思うんですね。
神はいのちをとること、これはサタンにはさすがに与えていないんです。いのちをとるとらないは、これは神さましかないんです。だからいのちをとってはならない、けれどもそれ以外のことは何をしてもよろしい、ということでおまえの手に任せようということを神が言ってるんですね。
まさにこれがサタンなんですね。祝福されてる人、今うまくいってる人にサタンは入り込む。最もいい方法で入り込む。しかも主はそれをサタンが、そうしたときには主は赦さざるを得ないと言いますか、このヨブの例から見ますと、私たちにもそれが当てはまると思うんですね。
非常にそれは怖いことだと思うんです。

それから旧約聖書を見ると、きりが無いくらいたくさんありますね。歴代誌、ここもちょっと見てみたい。歴代誌第IIの16章なんですが、ここでアサ王って出てくるんですね。
このアサっていう王さまは、非常に神に、歴代誌をずっと読んでくとわかりますが、歴代の王さまの中では本当に主に対して忠実な王さまですね。ダビデの子孫ですか、ソロモンもそうなんですが、このアサ王ってのは非常にいい王さまだったんですね。
ところが忠実、素晴らしいアサ王が、あるときつまずいちゃうんですね。それは人間の目に見えること、すぐ側に起こったことのために、惑わされるんですね。ダビデもそうですね。人の奥さんに間違いを起こしちゃいます。
アサ王ってのは、

歴代誌第II、16:7
7そのとき、予見者ハナニがユダの王アサのもとに来て、彼に言った。「あなたはアラムの王に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでした。それゆえ、アラム王の軍勢はあなたの手からのがれ出たのです。

と、今まで全部主に従って、主が先頭に立ってアサ王のために戦われたために、アサ王は何の不自由もなく本当に平安のうちに王としてこの国を治めていくことができてたんですね。しかし16章の最初のところにあるように、イスラエルの王バシャというのと、ユダの王アサ、それともうひとつ、ダマスコに住むアラムの王ベン・ハダデのもとにと書いてありますが、この三つ巴になったときに、バシャ王を牽制するためにアラムの王に拠り頼むんですね。
神に祈ること、神にゆだねることをしないで、アラムの王に拠り頼んだんですね。この、予見者と書いてありますが、このアサ王に忠告しに来るわけですね。

歴代誌第II、16:9-10
9主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。」
10すると、アサはこの予見者に対して怒りを発し、彼に足かせをかけた。このことで、彼に対し激しい怒りをいだいたからである。アサはこのとき、民のうちのある者を踏みにじった。

あと、結論があるんですね、

歴代誌第II、16:11-12
11見よ。アサの業績は、最初から最後まで、ユダとイスラエルの王たちの書にまさしくしるされている。
12それから、アサはその治世の第三十九年に、

神の忠告をもってきた予見者に対して足かせをかけた、その報いとして、

歴代誌第II、16:12-13
12両足とも病気にかかった。彼の病は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた。
13アサは、彼の先祖たちとともに眠った。すなわち、その治世の第四十一年に死んだ。

とありますね。最後の最後に、本当に人生の99.9%まで完璧に来たアサ王でさえ、ちょっとしたサタンのつぶやき、ささやき、自分の身の回りに、目に見えることを置いたために、そのものに目をうばわれたときに、99.9%まで来ててもほんの二年間、たった二年間のときに本当につまらないことで主の恵みからはずれてしまうということがあるということが、ここでもわかると思いますね。

私たちはこのときに、きっとアサ王は祈ることを忘れてたんだろうと思うんですね。だから私たちの、じゃあゆだねるっていうことは、非常に難しいのか、大変なのか、こんなんだったらクリスチャンなんて大変だなと、苦しくって、苦しくってしょうがないと思っちゃいますよね。
しかし決してぼくはそうじゃない。そんなに難しく、頭で考えると、聖書を見てくとそういうふうに思います。でも簡単なんですね。主は忍耐してくださる。私たちのことを全部知ってくださっているんですね。
さっきあったように、朝ごとに私たちのために思いをはせてくださる。そのことだけを忘れなければ、必然的にと言いますか、自然に感謝の祈り、お願いの祈りじゃなくって感謝の祈りができると、その感謝の祈りができる間は、決して主から離れることはないんです。
お願いの祈りしてるときは、危ないです。

祈りができないときはもちろん危ない。お願い、お願い、お願い。だから私たちは主にゆだねてるか、主の側にいるかの吟味の一番いいのが、自分の祈りを祈った後考えてみることですね。今なんて祈ったんだろうと。
そしたら、お願いの祈りばっかりだった、それはゆだねていることにならない。ゆだねてる祈りは感謝の祈りである。「主はいつも覚えていてくださることを感謝します。今日も一日、あわれんでくださって、恵んでくださって、導いてくださるから感謝します。」
もちろん、今日一日をよろしく導いてくださいっていうそういう要求の祈りっていうか、それも構わないんですね。しかしそれよりも大切なこと、ゆだねるということであれば、やはり今日一日、必ず主は導いてくださるから感謝します。その祈りが最もわかりやすいって言いますかね、へりくだりとゆだね、ゆだね、へりくだり。

へりくだりの結果の祈りが感謝。そしてゆだねたということの証しは感謝の祈りができた。それを毎日続けていけたら素晴らしいと思います。そこまでにします。




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