吉祥寺福音集会


小川泰徳兄

(吉祥寺福音集会メッセージ、1994/07/03)

引用聖句:エレミヤ書33章3節
3わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。

こんにちは。久し振りに吉祥寺の集会に来させてもらいました。
すでにみなさま、祈り会等でお聞きになっているかと思いますけども、実は三月の終わりの頃からちょっと体調を崩しまして、その現象というのはまず一番大きく最初に出てきたのは肉体的な現象。それから次にみぞおちの辺りの痛み。それから本格的にですね、痛みが間断なくというか絶え間なく来だしたのは、五月の初めの頃ということでした。
尋常じゃないぞ、何かあるぞということは、やはり自分でもわかりましたし、家族にもそういうふうに言ってたわけですけども、まさにそれが的中致しまして、正式な診断書の病名は膵臓腫瘍ということで、検査のために五月の二十七日に入院しまして、ありとあらゆる検査を六月の二十三日までやりました。
そして退院して、一週間毎に病院へ行って点滴による治療をやって、そして後は家にいるか、よほど体調が良ければデスクワークくらい出来ますけども、現在に至るまでの経緯はそういうことでございまして、体重は今理想的な体重で62キロ。ちょうど10kg痩せました。でも理想的な体重です。

幸いなことに熱がないんで、したがってだるくもないし、ただ食欲がちょっとないから、一定、61kgから62Kgのところで今の株価のようにいかないんですけど、低め安定でそのまま今現状を維持してるという状況です。
今日、せっかくのベック兄のメッセージ。あまり時間をとらないでというつもりでいたんですが、ベック兄、なんか夕べお電話いただきまして、体調良ければ来て一人でも多くの人に祈ってもらうために司会をしてくれないかという話がありまして、今朝から色々見てましたら本当に主の守りがあって、それがわかる状態で主の守りをいただきました。そして無事にと言いますか、ここへ出て来ているというのは今までの、今日までのと言いますか、今日現在の状況でございます。

それからもう一つは、非常にぼくの家族、それからまた兄弟姉妹色んなすべての状況を通しても、今日ここに至るまでの間まったく守られているという、後でちょっとご説明申し上げますけども、少なくとも十二時ぐらいまでには終わる予定で少し証しをしなさいということなので、時間をいただきたいと思います。
もう一つ、今非常に幸いなことは、前は仕事のことを考えてたときには、夜眠れなかったことがあったんですね。しかし今はぐっすり眠れるということ。この病気になってから、ホントに夜眠れないってことはまず無くって、痛くて目が覚めるっていうのもあんまりないんですが、鎮痛剤で調整してますから、でもそれ以外は本当にっすり寝れると。
これも非常に幸いなことだなあというふうで、ますますの主の恵みというか、あわれみというものを感じている状況でございます。

今回本当に、この病気を通して与えられた恵み、これの大きさというものに本当に、ほとほとと言いますか、驚いているというのが現状でして、本当に気取ってそう言うのでもなく、本当にそういう状況が淡々として与えられている、主のあわれみ、恵みっていうのはいかに大きいかということを、またまた改めて教えられたということではないかと思いま
す。

で、少し項目別に申し上げてみますと、病気を通して与えられた恵みの最も大きかったこと、この病気を通して最も与えられた恵みの大きいなことは何だったかということは、本当にいかに多くの兄弟姉妹が、本当の愛をもって祈っていてくださるか。いかにひとりひとりの兄弟姉妹のこと、普段はまったく目につかないような方でも、愛のある励まし・手紙・祈り、毎日のように何通もお手紙くださってるというのは、表に現われる状況ですけれども、そうでなくっていかにこの人は、その陰で祈ってくださっているかということを直にと言いますか、これほど強く感じたことはありません。

で、それと同時に今までメッセージの当番とか、そういったことでかなり色んな所へ行かせてもらって、それなりのすごい恵みをいただいてたわけですけども、やはりそういうメ
ッセージの当番に行くについても、ある意味では傲慢っていうか、わがままだったなっていうことを自分が示されたということです。
それはどういうことかというと、やはり肉体的に疲れてまいりますと、11時、12時と金曜日まで仕事をして、土・日メッセージ当番に行って、帰って来るのは11時、12時ということになりますと、「あ〜、明日会社かー」、というような、やっぱり正直なつぶやきだったんですね。
でも家内と話をするときに、「やっぱり行って良かったよ、そして今日も病院に見舞いに行ってあげれて良かったよ。すごく喜んでくれてね。」っていうのが、家へ帰って来てからする会話だったんですね。
でもその「行ってあげて良かったよ。」というのは、すごい傲慢だったということがよくわかりました。なぜかというと、これだけ私がそんなことをしてさしあげたと、さしあげたっていうのが傲慢なんですけども、させていただいて、恵みをもらって来た人とは関係ない人が、必死に祈ってくださり、必死に励ましてくださり、本当にそのことが、自分がいかにわがままだったかということを知らされた。これがまず、主からいただいた一つの大きな恵みです。

それからもう一つは、これは私的なことですけれども、おそらくぼくは悪いもんだろうということは自分で何となく感じてたもんですから、もしお医者さんから「あなたは癌です。」言われたときに、相当うろたえるだろうなあと、そう思ってました。そしてそれは何故かと言うとですね、ぼくは27〜28でしたっけね、その頃にお医者さんに行って心電図をとってもらって、「心筋に障害がありますね。」って言われただけで、へたりこんじゃった覚えがあるんですね。
それからすると、今回お医者さんから、スキャナーで撮った結果「腫瘍らしきものがありますね。」と言われたときも、本当にまったくの動揺がなく受け取れたんですね。これは、本当に不思議なことでした。ぼくのもってる性格、肉の感覚からしても、本当にその場で動けなくなっても、貧血を起こしても不思議でなかったのが、まったくそういうことがなく、ついて来てくれてた女房に、「アウトだったよ。」という、そういう会話で済ませていただくことが出来たっていうのは、本当に主がなさらなければ絶対に出来なかったこと。
だからみなさんも安心してください。もしそういう状態になっても、必ず主は支えてくれます。貧血を起こしてぶっ倒れることはありません。それはなぜならば、主がなしてくださるからだと思います。

それからもう一つは、同じようなことなんですが、主治医の先生には本当に一生懸命やっていただきました。そして全部終わりました。
血管造影から、MRI、CT、エコー、ありとあらゆる検査を全部終わって、説明するときに家内に呼んで説明なさったんですね。で、そのときに家内は、「いいですから、私と、お父さんと、家族全部の前でお願いします。」、と先生に言ったんですね。
先生はそのまま受け止めてくださいました。あるいは同じ病院にお勤めの兄弟が言ってくださってたかもしれません。そのまんま次の日に、夜ですね、病室で呼びに来てくれたんですね。そのときに、兄弟姉妹やそれからもちろん私の家族で、それらの人が全部いたんですが、「先生、みんな入っていいですか。」って言ったら、「あっどうぞ。」って言ってくれたんですね。
おそらく家族以外の人に「入っていい。」、言ってですね、その人たちを全部集めて「あなたは癌です。」って言ったことはおそらくなかったんじゃないだろうかと思うんですね。

そういうことまでしてくれて、それで先生に、「私たちは、全部仰ってください。ここにいる人も含めてすべて。支障がないといいますか、まったく問題ありませんので、どうか、本当のことを全部仰ってください。」、ということで、「分かりました。」っていうことで先生も、人数と、顔で関係なく本当に丁寧に説明してくださいました。
それも非常に静かな、そして感謝な時だったと思います。

それからもう一つ、これも自分の信仰の問題だとは思います。しかしそうは言っても、ぼく自身も信仰は決して強いとも思ってませんでしたし、事実そんなに強くありませんでした。
十七日にベック兄が来てくださいました。その時にもお話したんですけども、やはり、「腫瘍だ。」、「癌だ。」と言われたときに、何を一番先に祈ったか。やはりぼくも人の子といいますか、まだこの地上につながれておりますので、「主よ。できることなら、もう少し家族といたい。」という祈りでした。
で、二つ目にやはり、病気は罪の結果だというメッセージをぼくが実はやるつもりで作ったメッセージがありましたので、そのことを思い出しまして「主よ。どうか、まだ主に申し上げてない罪があるならば、まだ私が気が付いてない罪があるならば、どうか赦してください。」という祈り。しかしその祈りも長く続きませんでした。
そして最後に落ち着いた祈り、今も続けてしてる祈りは何か。それは、「この病気、私自身の病気を通して、私を通して、家族を通して、そしてあらゆる所で祈ってくださっている兄弟姉妹ひとりひとりの上に、どうか主の栄光だけが現われるような形を見せてください。」そういう祈りが出来るようになりました。

で、そういう祈りが出来るようになりますと、やはり今度は自分のことではなくて、本当に格好いいことかもしれません、ぼくよりももっと辛い思いをしてる人がいるということがわかりました。
で、名古屋の姉妹のご主人が今から一年半か、二年前、やはり癌で召されたんです。そのときに年恰好も同じくらいでしたし、行って見舞ったり、そして彼は結局、死を受け入れて召されたんですが、その姉妹この間電話してたら、「小川さんはまだいいよ。」って言うんですね。「家族と一緒でしょ。でも私は一人よ。」、で、状況はおそらく私と同じなんですね。
今自宅で通院を合わせて療養しているという形なんですけど、しかしこういう状況になって、本当に勉強してみるとよくわかりますが、夜、闇の中で、暗やみの中で一人で苦しいとき、痛いとき、不安があるときに一人でいるっていうのは、本当に並大抵のことじゃないと思うんですね。本当にそのことも示されました。
で、必死になって祈るようになれました。というか、祈ることを主は教えてくださいました。

本当に何を祈ってても、先ほどのように罪の問題を祈ってても、家族の問題を祈ってても、それは決して満たされるもんではないし、そして虚しいとまではいかないにしても本当に空を掴むような祈りであります。
しかし本当に、「主よ。どうか、この結果があなたの栄光が現われるように。一人でも多くの人にあなたの栄光が示されますように。」、と祈るときの、その平安とはまったく違うということがよくわかりました。

そんなことで、今は家族を含めて普段と変わらない生活をさせてもらってます。子ども二人。それから家内。
一番心配なのはホントは家内なんですね。あの痩せ細った体でいつまでもつかなと、むしろぼくの方が心配するくらいで。でも、それも主に守られてまったく日々の生活を、今までと同じように出来て幸いなことです。

で、最後に、重ねてここでお礼申し上げると同時に、みなさまの続いてのお祈りをお願いしたいと思います。ベック兄の「絶えず祈れ」にありました、そこで二つ印象に残ってることがあるんです。
一つは、主と私たちの関係さえ上手くいっていれば、何を祈ってもいいよということ。それからもう一つ、イエスさまは祈り、例えばききたくない祈りと書いてあったか、そこまで書いてあったかどうかよく分かりませんけども、例えばちょっとオーバーになるかもしれません、たとえききたくない祈りがあっても、もうあちらからもこちらからも、わんわんわんわん祈られたら、うるさくてしょうがないでしょう。そうすると聞かざるを得ないでしょうという、そういう箇所がありました。
まさにそれが祈りの、何て言うんですかね、祈りの大切さ、祈りの有効性、まったく欲のないといいますか、無心の祈りの主に届く届き方と言いますか、こういったことも合わせて主からいただいた恵みはまだまだこれからも増し加わっていくと思うんですね。

本当に今、自然に主と対峙出来るというか、自然に主と対話が出来るというか、そういう静かなときをいただいてます。そして毎日のように手紙をくれる方とか、それから祈っていてくれる方、電話をくれる方、本当に感謝です。何とお礼を言っていいかわからない。言葉では言い表わせない愛を感じさせてもらったということ。
これに勝る大きな主の愛はないと思います。今日の11時ですか、そんなことで現況に至る証しと申しますか、少しご報告させてもらって、重ねて私のことも合わせてですね、一人でも多くの病んでる人、苦しんでる人のためにも、合わせての祈りをしていただきたい。そのことを切にお願いして、終わりにさせていただきます。




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